今、素数に関する本を書いているので、素数についての資料を集めている。とりわけ、解析数論の本とゼータ関数に関する日本語の本は、片っ端から取り寄せている。今回は、その中から、小山信也『素数からゼータへ、そしてカオスへ』日本評論社を紹介しよう。
その前に、最近観たアニメの感想をいくつか。
前回(「魔法少女まどか☆マギカ」に打ちのめされた - hiroyukikojimaの日記)にエントリーした通り、『魔法少女まどか☆マギカ』の虜になったせいで、このところ、アニメづいてしまっている。いや、本当はそうじゃなくて、昨年、大学のホームルーム系の授業で、学生から『この素晴らしい世界に祝福を!』を勧められて、ちょっと観たらはまってしまったことが直接のきっかけだったのだ(恥ずかし)。このアニメでは、とにかく、爆裂魔法の使い手のめぐみんが爆裂にかわいい。
で、最近観たのは、新海監督の『言の葉の庭』と、新房監督の『化物語』だ。
『言の葉の庭』は、なかなか雰囲気のある作品だった。高校生と年上の女性との淡い恋の物語。ぼくも、高校生の頃は、年上の女性に憧れる傾向があったので、(年下に行くと、まずい性癖になっちまうが)、この感じはとても共感できる。また、ほのかに漂うフェテシズムもそそられる(やばい)。ぼくとしては、『秒速5センチメートル』よりも、この作品のほうが好みだった。『秒速5センチメートル』→『言の葉の庭』→『君の名は。』と時系列で並べてみれば、どんどん完成度が高くなり、『君の名は。』で大ヒットを手にするのは、とても納得できる。
『化物語』は、『魔法少女まどか☆マギカ』の監督ということでレンタルしてみた。いやあ、これもまた、斬新なアニメで、とんでもなく面白い。
とにかく、主人公の阿良々木くんと戦場ヶ原さんの会話がめちゃくちゃ面白い。とりわけ、戦場ヶ原さんのツンデレなキャラにそそられる。こんな女子高生がいたら、墜ちてしまってもいい(笑)。プチエロなところも夜中に酒呑みながら観るには適している。なにより、アニメの作画と展開があまりに斬新で飽きない。迷子の小学生の八九寺ちゃんの回には、とにかくぶっとんだ。こんなすごい作品があったなんて全く知らなかった。
さて、小山信也『素数からゼータへ、そしてカオスへ』日本評論社に戻ろう。
この本を全部を読解することは、少なくともアマチュア数学愛好家には無理であろう。ぼくも、半分くらいしか読解できず、歯がたたない部分が多い。ただ、読解できる部分については、非常に得がたい内容なので、半分、あるいは3分の1しか読解できなくても手に入れる価値が十分ある本なのである。
何が「得がたい」かというと、数学者が定理や法則をどのように見つけ、どのようにアプローチするか、という点について「腹を割った話」をしてくれている点だ。喩えてみれば、それは、プロ棋士による将棋の実況中継に近いものである。
プロ棋士の勝負において、単なる観戦者が欲しいのは、「棋士が、なぜ、何のために、その手を指したか」ということだ。でも、だからと言って、複雑に分岐するその後の予想手順をつぶさに知りたいわけではない。そんなものを知っても、自分に指せるわけではないし、理解するつもりもない。ぼくに至っては、将棋を指す予定さえない。観戦者が知りたいのは、その手の背後にある茫洋とした発想・思想・主張なのである。できれば、それを(将棋固有の言語ではなく)「普通の言葉」にして欲しいのである。
数学の本を読むときも、ぼくは将棋の実況解説なようなものを望んでしまう。別に数学の研究をしようと思わないし、論文を書くわけではないので、緻密な証明や、デリケートな部分の注意なんていらないのだ。そんなことを知ったって、自分の仕事には役立たないし、時間の無駄だからだ。ぼくが知りたいのは、数学者がその定理を見つけたときの、その背後にある茫洋とした発想・思想・主張なのである。
そういう意味で、本書は、随所でそういう記述にチャレンジしてくれていて、とても溜飲が下がる。
とりわけ、「第5章 ラマヌジャンのL関数」と「第9章 高校生のための素数定理」が得がたい読書体験をさせてくれる章だ。
「第5章 ラマヌジャンのL関数」では、ラマヌジャン予想をラマヌジャンがどうやって発見したか、それを読者に追体験させてくれる。ラマヌジャン予想とは、「ラマヌジャンのτ関数」について、ラマヌジャンが立てた予想のことである。
ラマヌジャンのτ関数は次のように作られる。qを変数として、次のような無限次の多項式を作る。すなわち、まず、qを持ってくる。それに(1−q)の24乗を掛ける。次に、(1−qの2乗)の24乗((1−q^2)^24)を掛ける。さらに、(1−qの3乗)の24乗を掛ける。以下同様にして、(1−qのk乗)の24乗を次々と掛ける。このようにできたqの無限次の多項式を展開整理したときの、qのn乗の係数をτ(n)と記し、この自然数nに関するτ(n)がラマヌジャンのτ関数である。
ラマヌジャンは、このラマヌジャンのτ関数について、次のような5つの予想をたてた。
予想1:τ(n)は乗法的。すなわち、互いに素なmとnについて、τ(mn)=τ(m)τ(n)。
予想2:素数pに対し、τ(pのj+1乗)=τ(p)τ(pのj乗)−(pの11乗)τ(pのj−1乗)
予想3:τ(n)を使って作ったL関数(τ(n)/(nのs乗)、の全自然数nについての和)がpのs乗について2次のオイラー積を持つ
予想4:素数pに対して、|τ(p)|<2×(pの11/2乗)
予想5:ラマヌジャンのL関数に対して、リーマン予想が成立する
ぼくは、このラマヌジャン予想については、もちろん本で読んで知っていたが、知ったときに次のような素朴な疑問を持った。
疑問1:なんで24乗なの? 疑問2:なんで乗法的を見つけたの? 疑問3:なんでオイラー積に結びつけようとしたの?疑問4:予想2の式にどうやって気がついたの?疑問5:オイラー積表示はなぜ2次なの? 疑問6:予想4の不等式はいったい何の意味があるの?
その上で、どうしてラマヌジャンがこんな奇妙な予想を立てたのかは皆目見当がつかず、要するに、ラマヌジャンが人間離れしたとんでもない発想力の持ち主だからなのだろう、と考えるしかなかった。でも、本書では、この発想が「超能力的」のたぐいでない、ということを教えてくれた。ぼくの疑問たちに回答を与えてくれたのである。数学者にとっては、当たり前にことだから、誰も書かなかったのかもしれないが、アマチュア愛好家には全くあたり前じゃなかった。それは「棋士と観戦者との隔たり」へのアナロジーと言っていい。
小山さんは、まず、疑問2に答える。τ(n)の乗法性は、小さいnについてちょっと数値計算してみれば、わりあい簡単に予想のつくことだった。そして、疑問3につなげる。数列が乗法性を持てば、L関数を作るとオイラー積表示が出ることは経験的にわかることだそうだ。だから、ラマヌジャンがL関数を作ったのも自然な流れと言えるのだ。疑問4の回答も、そんなことか、という肩すかしな感じであった。ちょっと数値計算をしてみれば、案外簡単に予想のつくことだったのだ。ぼくだって、人生のかかった入試かなんかで、この性質を探せと出題されたら、時間を十分かければ見つけられたかもしれない。
圧巻は、疑問5への回答である。数値計算から発見的に見つかる予想1と予想2を用いて、自然にオイラー積の計算を実行してみれば、そんなに苦悶せずとも2次のオイラー積に到達とすることを見せてくれる。その際、重要なのは、τ(n)では完全乗法性(互いに素の条件なしに、予想1の式が成り立つこと)が成り立たず、代わりに予想2が成り立つことだ。予想2は、ある意味では、τ(n)が完全乗法性からズレを持っていることを意味しており、そのズレが2次のオイラー積となって体現される、ということなのである。
そして、小山さんは、予想4と予想5が表裏の関係にある、ということを示して見せる。それは、2次方程式の解の公式で理解できることなので、別に苦痛はない。こう言われてみると、予想4の不等式は非常に自然なものと見えてくる。非常に自然であるからこそ、その神秘に打たれる、とも言えるのだけど。
このように懇切丁寧に、ラマヌジャンの試行錯誤を解剖してくれただけに、疑問1への回答には痺れる。引用しよう。
初めてこの関数(5.4)を見た人は、なぜラマヌジャンがいきなりこんな形の関数を考えたのか、見当がつかないだろう。その背後にはオイラーによる五角数定理など、保型形式の嚆矢となった研究があったわけだが、それだけで、ラマヌジャンが(5.4)を深く研究し新たなL関数の族の発見に至ったことが説明がつくとは思わない。(中略)。そうした発展は、一人の天才がいなければ、その後十数年、数百年たっても決してなされることはない。
小山さんは、ここまでラマヌジャンの発想を解剖し、自然な道筋であることを示しながらも、このτ(n)自体の発見には、異端的な、降臨的な、「奇跡」という評価を下している。
本書には、このような「数学者の頭の中や心の中の解剖」が満載である。「第9章 高校生のための素数定理」では、リーマンゼータ関数について、発散級数の和や、解析接続や、リーマンの素数公式や、素数定理などを、相当にかみ砕いて説明している。正直なところ、「高校生のための」と言ってもこれがわかる高校生なんかいない(か、あるいは、将来数学者が約束された高校生だけ)と思われるが、(笑)、でも、複素解析を勉強したことがある人には目からウロコの解説になっている。とりわけ、留数定理が非常に直観的に解説されていて、「そんな簡単なことだったのか」と明かりが灯ることだろう。
本書は、最初に述べた通り、数学愛好家には歯が立たない部分の多い本だが、まるまる読もうせず、読めるところだけひもとけば得るものの多い本である。俗な数学者の「ほら、明快に証明できたでしょ」という難解な専門書とは違って、「それは何をやっていること?」「どうして、そうするの?」「それはどこから来るの?」に極力答えようとした画期的な本だと言える。