先日、望月新一教授によるabc予想解決が、論文として正式に学術誌にアクセプトされたことが、朝日新聞一面で大々的に報道された。数学の結果がこれほど大きな紙面で報じられたのは今回が初めてような気がする。(記憶では、フェルマー予想のときも、ポアンカレ予想のときもこんなでなかったような)。とにかく、今年の数学界最大のイベントであったと思う。ぼく自身も、望月教授がネット上に論文をアップロードして騒ぎになった2012年にエントリーしているので(abc予想が解決された? - hiroyukikojimaの日記)、この予想の解説についてはそちらで読んでほしい。あるいは、黒川信重さんの本の紹介(ABC予想入門 - hiroyukikojimaの日記)のほうでも。
abc予想がおまけとして(系として)得られる宇宙際タイヒミュラー理論(IUT)は、聞くところによると、新しい数学言語を作り上げた、と言えるぐらいに斬新な方法論らしい。従来の数学の言語だけで書かれていないため、どんなに優れた数学者でも、その知的アドバンスを利用することができず、いちから考えなければならず、それで先端数学者さえも理解することを躊躇したので、審査に5年もかかってしまったのだという。
以前に、加藤文元さんと黒川信重さんとトークイベントをしたとき(黒川信重さん、加藤文元さんとトークイベントをしてきました! - hiroyukikojimaの日記参照のこと)、加藤さんがIUTのことを少しだけ説明してくださった。加藤さんは、IUTの構築過程で望月教授といっしょにセミナーをした方なので、相当に詳しいのである。加藤さんの説明によると、IUTのアイデアを従来の数学の中で素朴に展開しようとすると、ラッセルのパラドクス(集合Xが集合Xを要素に持つ、とすることで矛盾が生じる)のような矛盾が生じてしまうため、それを避けるために新しい数学言語を構築した、というようなことだった。このことは、加藤さんのニコ生の講演で、もっと詳しくもっとわかりやすく説明されているので、そちらで観てほしい。この講演は、素人にもわかるすばらしい講演だ。朝日新聞にしても、週刊新潮の報道にしても、どうして加藤さんに取材しないのか、全くナゾだ。記者の人は、もっとネットにアクセスして、SNSから取材すべき対象をリサーチすべきなんじゃないかと思う。記者がこんなにズレ遅れてしまうと、新聞なんて誰も読まなくなるぞ。
abc予想解決で、今後の数学の方法論が変わってしまうかもしれない。つまり、1個の未解決問題を証明するために、1個の新奇な数学言語の構築がなされる的な。言い換えると、定理と言語が一対一対応するような。そんな事態になったら、超大変だ。多くの数学学徒は、一生に1個の定理しか理解できなくなっちゃうからだ。まあ、「ユークリッドの第5公理の証明不可能性」を示すために、非ユークリッド幾何(クラインモデル)が作り上げられたり、「5次方程式が、四則と根号で解けない」ことを示すのに、群論が創造されたことなどを、「新しい数学言語の創造」だと見なすなら、それほど危惧することでもないかもしれない。
IUTみたいな理論に直面するとき大事なのは、「その数学の背後にある思想や哲学はどんなものか」なのだと思う。数学の素人であっても、そういう視点に触れるのは楽しいことだ。加藤さんのニコ生の講演は、まさにそういう観点からなされていて感動する。
ぼくが今年読んだ数学書の中で、数学そのものはよく理解できないけど「その数学の背後にある思想や哲学はどんなものか」だけはびしびし伝わってくるもので、一番だったのが、加藤五郎『コホモロジーのこころ』岩波オンデマンドだった。
- 作者: 加藤五郎
- 出版社/メーカー: 岩波書店
- 発売日: 2015/11/10
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この本は、カテゴリーとコホモロジーについて解説している。カテゴリーは、代数幾何で構築された概念で、数学の構造を非常に抽象化して扱うものだ。この本で加藤五郎氏は「カテゴリーはコホモロジー代数のため、コホモロジー代数はオイラー、ガウス、リーマンの考えたことを実らすような数学(すなわち、代数幾何や代数解析)のため」と言っている。この本の斬新さは、「どきどき説明があまりに文学的になる」という点にある。例えば、次のようなものだ。
(1.1.1)におけるYでのコホモロジー(1.1.2)とは、Yの中で他人に影響を与えない部分Ker gで、その中の、他人から影響を受ける部分を捨ててしまえということです。もっといってしまうならYの神髄とでもいうか、Yの本質をYでのコホモロジーというのです。たとえば、Yがたった一人でくらしてた場合を考えてみてください。人は見かけによらないといいますが、Yそのものは見かけでYのほんとうの姿はそのコホモロジーということになりましょうか。
(コホモロジーを理解してなければ)数学的には何を言っているか全くわからないけど、言葉として何を言っているかはよくわかる。「見えているかりそめの姿)」と「本性」とを区別するのはどうするのか、ということを主張しているのだと読み取れる。もちろん、数学の概念をきちんと得たいなら、これは役に立たない。けれど、数学の精密な概念は二の次だが、雰囲気だけわかりたい、「ココロ」をわかりたいなら、むしろこう言ってもらったほうが直で胸に届くのである。序文にはこんなことが書かれている。いわく、
コホモロジーの始まりは、もう一度いいますと混沌とした存在の中で
aとbは似ている⇔aとbには共通なものがある
⇔どうでもいいところを無視すると
aとbは本質的には同じだ
と分類して構造が生まれ、もう少し目を大きく開けると・・・・・・,
楽浪の比良山風に海吹けば
釣りする海女の袂かへる見ゆ (万葉集, 巻九・一七一五)
という景色が見えてくることです。
もう、ここまで来ると何を言っているかさっぱりわからないが、加藤五郎氏が、コホモロジーの中に「数学的厳密さとは別種のなにか」を見ていることはわかる。こういうことは、数学の才能があって、数学を数学のまま厳密に受け入れられる人には邪魔で蛇足に他ならないだろう。しかし、ぼくと同じような、数学の厳密さには青息吐息になるが、数学の神髄を知りたい・味わいたい人たち、にはこのうえないご馳走になると思う。
全く根拠はないけど、望月教授のIUTも、この本のような「斬新な言語認識」の延長上にあるんじゃないかな、とそんなふうに思っている次第だ。
それでは、皆様、良いお年を。また、来年、このブログでお会いしましょう。