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素数についての本が刊行されました!

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 ぼくの新著『世界は素数でできている』角川新書が、ネット書店にも入荷され、リアル書店でも並んだようなので、もう一押し、販促をかけることとしよう。

前回のエントリー(もうすぐ、素数についての本が刊行されます! - hiroyukikojimaの日記)では目次をさらしたので、今回は序文をさらすことにする。以下である。

   『世界は素数でできている』 はじめに

 

 皆さんは、「素数」をご存じでしょうか?

 2、3、5、7、11、13、・・・と並んでいる数です。

 素数とは、「割り切れない」数です。どのくらい割り切れないかというと、1と自分自身以外では割り切れないのです。だから、ある意味では、うとましい数です。例えば、37個のチョコがあるとしましょう。このチョコを同数で分け合うためには、37人で1個ずつ分け合うか、あるいは、1人で全部食べるしかありません。37が素数だからです。まったく融通がききません。チョコの個数が36個であれば、たくさんの柔軟性が生まれます。2人でも3人でも4人でも6人でも、あるいは12人でも18人でも等分に分け合うことができるからです。

 また、素数は、「ままならない」数でもあります。素数たちは、整数の中で、非常に不規則に分布しています。どのくらい不規則かというと、数学者が2千年以上も研究しながら、いまだにその法則を捉えきることができないくらい不規則です。天才数学者も手に負えないぐらい「ままならない」のが素数なのです。

 だから素数は、「わくわくする」数です。数学者は言うまでもなく、一般の人をも惹きつける魅力を持っています。素数にハマる人が後を絶ちません。かくいう筆者もまた、素数にハマっている素数マニアの一人です。

 本書は、そんな素数について、総合的に解説した本です。本書の特徴を箇条書きにすると、次のようになります。素数に敬意を払って、素数で番号を振ってあります。決して、誤字・脱字ではないので勘違いしないでくださいね。

2. 素数のよもやま話をたっぷり盛り込んである

3. 素数の歴史を網羅している

5. 素数にハマった数学者の人生模様を描き出している

7. 素数とネット社会を結びつけるRSA暗号について、詳しく解説している

11. 素数と物理の関係にも触れている

13. 素数の未解決の予想について、最新の進展を投入している

17. 最難関の未解決問題リーマン予想について、わかりやすい解説をしている

19. 素数をめぐる最先端の数学に入門できる

そう、これ一冊で、素数のすべて(というと言い過ぎなら、ほとんど)がわかってしまうというわけです。まことリーゾナブルな新書と言えましょう。

 今、このまえがきを立ち読みされているあなた。あなたも是非、本書で、めくるめく素数の世界を探索してください。そうすればあなたも、明日から素数マニアの仲間入りです!

 上記の箇条書きでおおよそ、本書の特徴は網羅できているのだが、もう少しだけ補足をしよう。

本書で苦心したのは、「素数の法則をただそのまま紹介する」というタイプの本から、もう一歩踏み込む、ということだ。

ぼくが数学の啓蒙書を読むとき、いつも抱いたのは、次のような気持ちだ。すなわち、ある数学的な定理を紹介され、「ほうほう、これは大変面白い、不思議だ」と思ったあとに必ず、「どうして、こんなことが成り立つんだろう、どういう理屈だろう」という好奇心がわくのである。しかし、多くの啓蒙書はこういう好奇心には答えてくれない。

それはある意味、仕方ないことである。多くの数学の名定理は、証明が複雑で長いか、あるいは、非常に高度な概念を使うから、とても啓蒙書では紹介できないのだ。

でも、ぼくがこのとき欲しかったのは、「完全な証明」ではない。「完全な証明」を読むのは、労力の負担が大きく、大変な苦痛を強いられる。また、高度な概念を習得するには、とんでもない修行が必要で、(その道のプロを目指すのでなければ)そんな意欲は沸いてこない。知りたいの「完全な証明」ではなく、「それを成り立たせる秘訣のようなもの」「おおざっぱだけど本質にあたるもの」なのだ。

そこで本書では、紹介する素数の法則たちについて、できる限り、「それを成り立たせる秘訣のようなもの」「おおざっぱだけど本質にあたるもの」を記載することを試みた。それなら、プロの数学者でないぼくにも可能だ。

例えば、双子素数予想ゴールドバッハ予想については、「ブルンの篩」のおおざっぱな仕組みを書いた。最新の素因数分解法である、ポラードのp−1法、数体ふるい法、AKSアルゴリズムは、その原理を紹介した。また、「x以下の素数の個数は、近似的にx/log xに等しい」という「素数定理」に対しては、リーマン・ゼータ関数とチェビシェフ第2関数を使ったおおざっぱな証明の手筋を提示した。さらには、「フェルマーの小定理」「オイラーの定理」は、有限体を経由する証明を書いた。また、双子素数予想とか、奇数の完全数など、最近に進展があった予想については、論文にあたって、そこからの引用を試みた。こんなふうに、少年期・青年期の自分ならきっと知りたいと思ったに違いないことについては、それを記載する努力をしたのである。だから、ぼくと同じタイプに違いないこのブログの読者にも、必ず貢献できると思う。

 とにかく、本書は、ぼくの素数愛が炸裂した本となっている。是非とも、手にとっていただきたい本だ。


弱いゴールドバッハ予想が解決されていたらしい

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 素数の本を出した。『世界は素数でできている』角川新書という本だ。その本の販促は、前回(素数についての本が刊行されました! - hiroyukikojimaの日記)と前々回(もうすぐ、素数についての本が刊行されます! - hiroyukikojimaの日記)に行った。今回も、基本的には販促活動なのだけど(しつこい、って怒らんといて)、読者に新しい情報を提供しよう。

 素数に関する予想で有名なものの一つに「ゴールドバッハ予想」というのがある。それは「4以上のすべての偶数は、素数2個の和である」という予想だ。これは、実は、ゴールドバッハが予想したものではない。ゴールドバッハは、「6以上のすべての整数は、3個の素数の和である」と予想して、それを1742年にオイラーに送った。オイラーは、返事に、これと同値な予想「4以上のすべての偶数は、素数2個の和である」を返したので、本当はオイラー予想と呼ばれるべきなのだ(どうして同値かは簡単なエクササイズだけど、示せない人は拙著を読んでね)。

 それはともかく、ゴールドバッハ予想自体は、いまだに未解決である。そして、ここに「弱いゴールドバッハ予想」というのがある。それは、「7以上のすべての奇数は3個の素数の和である」という予想だ。なぜ「弱い」と命名されているか、というと、「ゴールドバッハ予想」から「弱いゴールドバッハ予想」は導かれるからである。つまり、「ゴールドバッハ予想」が解決されれば、「弱いゴールドバッハ」はおまけとして(系として)解決されることとなるからだ。このことの証明もとても初等的である(できない場合、拙著を読もう・・・笑)。

 さて、「弱いゴールドバッハ予想」に関して、拙著にはこう記述した。

弱いゴールドバッハ予想については、数学者ヴィノグラードフが1937年に、「十分大きい奇数は3個の奇素数の和である」ことを証明しました。さらに、1956年にボロシチンという人が、「十分大きい」を「3の(3の15乗)乗より大きい」と具体化することに成功しました。したがって、あとは、「3の(3の15乗)乗」以下の奇数について確認するだけなので、弱いゴールドバッハ予想のほうは本質的には解決していると考えられます。

これ自体は間違ってないのだけれど、拙著を献本した黒川信重先生から、「本質的には」という表現が不要になった、ということを教えていただいた(ありがとうございました!)。すなわち、「弱いゴールドバッハ予想」は、どうも完全解決したらしいのである

 その論文は、まだ査読は済んでいないようだけど、英語版のwikipediaから論文にリンクがはられているので、欲しい人はダウンロードできる。ぼくもそこからダウンロードした。

 解決論文を書いたのは、Helfgottという数学者だ。解決は、次の二つによって完成されている。第一は、10の27乗以上の奇数については、予想が正しいことを証明すること(こっちが重要な帰結である)。つまり、ヴィノグラードフとボロシチンの結果の改良である。第二は、8.875×(10の30乗)以下の奇数については、Helfgottともう一人Plattとで、コンピューター計算で確認済みであること。この二つによって、(論文が本当に正しいなら)、予想が完全解決されたことになる。

 では、第一のアプローチでは、いったいどういう方法論を使ったのか。

Helfgottは、フォン・マンゴルト関数Λ(n)を使っている。フォン・マンゴルト関数とは、素数を分析する上で非常に本質的な関数で、拙著『世界は素数でできている』にも何度も出て来る。拙著では、「x以下の素数の個数は、x÷log xで近似できる」という素数定理を、「チェビシェフ第2関数」を使って証明する概要を書いた。そのチェビシェフ第2関数も、フォン・マンゴルト関数で作られるのである。

フォン・マンゴルト関数とは、nが素数pのべき乗のときは、Λ(n)=log pを返し、そうでないときはΛ(n)=0を返す関数だ。Helfgottは、与えられた奇数Nに対し、足してNになる3整数x, y, zの全組み合わせに対して、Λ(x)Λ(y)Λ(z)を加え合わせた総和を評価する。実数の集合を整数の集合で割った商集合を台として、その総和を積分表現する。商集合は、0以上1以下の区間の始点と終点をつないで円のようにしたものなので、Circle Method(円理論)と呼んでいる。この円を二つの弧にわける。「大きな篩」という「篩法」を用いて、積分を評価し、第一の弧での積分値が正であることと、第二の弧でのそれも正であることと両方を示す。Λ(x)Λ(y)Λ(z)の総和が正であること示せれば、Nが「素数のべき乗」3つの和で表されることは明らかだが、たぶん、うまく評価すれば、その中に素数3個の和があることが示せるのだろう。

 しかし、本論の計算はすさまじくて、とても、片手間に追うことができない。だれか、「ざっくりした本質」の解説をしてくれないかなあ、と待望する。

さて、ダメ推しで申し訳ないが、フォン・マンゴルト関数(から作るチェビシェフ第2関数)の使い方のあれこれは、拙著

に、かなり簡明に解説してあるので、是非とも、この本で身近なものとして欲しいぞ。

これだけだと、息苦しいエントリーになってしまうので、少しだけ近況をば。

ここ数ヶ月は、ずっとアニメ「物語シリーズ」を観ておった。そして、つい先日に放映された「終わり物語」も含め、全部を見終えた。いやあ、面白かった(ときどきつまらんのもあったが)。とにかく、全キャラがよく描けている。キャラ萌えをしたのは(この年になって)初めてのことだ。始まった「打ち上げ花火」も非常に楽しみである。岩井俊二さんの元作品も観たしね(あの作品の奧菜恵が神そのもの)。なるべく早いうちに観に行くつもり。

それと、音楽では相変わらず、Aimerにはまり続けている。ベスト盤「blanc」「Noir」も、今までの全アルバムを持っているのに購入してもうた。しかし、損はしなかった。おまけ曲が4曲入ってるのだけど、それが全部すばらしいからだ。普通のミュージシャンは、最初に先鋭的な曲を作って、売れるにしたがって聴きやすいポップな(大衆受け狙いの)曲に変わっていく。でも、Aimerは、その逆を行っているように見える。デビューの頃は、(いい曲だけど)比較的聴きやすい曲を歌ってて、でもアルバムを経るごとにだんだん先鋭的な曲になってきてるように思う。いいぞいいぞ。

Aimerのライブをどうしても観たくて、応募したけど、第一抽選にも第二次抽選にもはずれた。でも、やけっぱちで、一般売り出しの日に電話でトライしたら、なんと、手には入ってしまった(最後列の立ち見だけどね)。あと、10日で、彼女の歌が生で聴ける。めっちゃ楽しみであ〜る。翌日に、茨城県の数学の先生方への講演があって、ライブ後にとことん飲めないのが残念だが。

みんな、こういう理系の大学教員のこと、どう思う?

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[追記:8/21] いつになく話題になったようなので、少し補足する。ぼくの本からの引用で、前回は省略した部分を、書き加える。どのくらい親切に書いているかを知ってもらえば、こやつの「信じられなさ」が浮き立つと思う。(それに拙著の販促にもなると思うし)。

あと、ぼくが最も問題にしているのは、このメール文からわかるように、この教員が、自分がわからないことを理解する努力を怠ること。こういう人は入試の採点で、きっと、大変なことをやらかす。2次試験の記述問題は、通常、2人以上で行うと思うけど、もう一人の採点者が読み間違えた採点をこの教員はそのままスルーする可能性が高い(理解できないことを、掘り下げる努力を怠るから)。

今日、とある大学教員から、拙著『世界は素数でできている』角川新書に対して、質問とも批判ともつかないメールがきた。

もちろん、知らない人だし、面識もない。

この人、国立大学の教員のようだ。しかも、専門は物理のようだ。

なりすましもありうるかもしれないが、メールアドレスのアットマークのあとに、ドメインとして大学名が入っているし、アットマークの前は名字そのものだから、ハッキングされたのでなければ、本人だろう。

あまりに唖然としたので、文面を晒すことにする。その人が文句をつけてきたのは、「素数が無限にある」という証明の部分だ。ぼくの記述のすべてを引用すると長くなるので、ポイントになるところだけを引用する。

『世界は素数でできている』(35-37ページ)

ピタゴラスによる証明は、「素数が無限個ある」ことばかりではなく、「どうやって無限個の素数を見つけるのか」も与えられるので、非常に優れた証明方法でした。

 まず、最初の素数2があります。

次に、2+1を計算します。これは3で、2とは異なる素数です。

その次は、今得られている2個の素数、2と3、を掛け合わせて1を加えます。2×3+1=7ができます。大事なことは、この数が、掛け合わせた2でも3でも割り切れないことです。なぜなら、2×3は2の倍数でかつ3の倍数ですから、1を加えると2の倍数からずれ、3の倍数からもずれます。したがって、この7は、実際に割り算しなくても、2でも3でも割り切れない、とわかるわけです。ということは、7の約数には2、3以外の新しい素数が含まれるはずです。つまり、2とも3とも異なる新しい素数が見つかります。実際、7自身がその新しい素数にあたります。

もう一歩進みましょう。今、見つかった三つの素数、2と3と7を掛け合わせて1を加えます。2×3×7+1=43ができます。2と3と7の積に1を加えているので、この43は2の倍数とも3の倍数とも7の倍数ともずれています。ですから、43の約数には、2、3、7以外の素数が含まれるはずです。それが43自身です。これで、4個の素数、2と3と7と43が見つかりました。

もう一回だけやってみます。今までに求められた4個の素数、2と3と7と43を掛け合わせて1を加えましょう。

2×3×7×43+1=1807

今までと同じ議論から、この1807の約数には2、3、7、43以外の素数が含まれます。この場合は、これまでと異なり、1807は素数ではありません。2、3、・・・で順に割っていくと、13で初めて割り切れることがわかり、素数13が見つかります。今までに求められている4個の素数とは異なる新しい素数13となります。

この手続きを継続すれば、いくらでも新しい素数が見つかることは明らかでしょう。このシステムをきちんと書くと次のようになります。

(i)素数2からスタートする。

(ii)既に見つかっている素数をすべて掛け、1を加え、できた数の約数のうち、1より大きい最小の約数を求める。それが新しい素数を与える。

(iii)新しく見つかった素数をリストに加え、(ii)に進む。

この前には、このアルゴリズムを具体的に5回やってみせて、素数2, 3, 7, 43, 13を導出して見せている。

さて、これに関して、そやつのクレームは次だ。メールからそのままコピペする。

先ほど少し苦労したのは、ピタゴラスの素数は無限にあるという定理の部分です。

知られている素数の全部の積をとって1を加えるわけですが、結果が奇数ならそれ自身が

新たな素数になる気はしますが、実はそうでもないことが例として示してあります。

これ自体、不思議ですね。

それ以上に、結果が偶数になることはないのでしょうか?裏紙を使って少し計算すれば

何か分かりそうですが、新書の読書でそこまではしたくない気もします。暗算で

理解できないと電車での読書等には向かない気もします。仮に偶数になった場合、

2で割った後、最小の約数が既存の素数とかぶらないかどうかは自明ではないように

思います。

もう一度言うよ、これ、国立大学の理系の教員だよ。しかも、専門は物理だよ。

こやつ、2に自然数を掛けて1を足すと偶数になることがある、って言ってるよ。でも、計算してみる気はないんだって。そして、その程度の計算も新書には向かないんだって。そして、こやつは、2×自然数が暗算でできないんだって。そもそも、このアルゴリズムにどうして奇数・偶数が関係するわけ?そんな数学力で、ほんとに物理やれてんの?

しかもだな、仮に偶数が出てきたとして、なぜ1より大きい最小の約数2をスルーするんですかね?アルゴリズムでは、2を素数に加えて、次に進むってのがわかんないのかな。そんで、既存の素数を全部掛けて1を足すと、その中の既存の素数を約数に持つことがないのが、「自明ではないように思います。」なんだって。まあ、この点は、一般の読者には少し不親切かもしれないが(2と3を掛けて1を足すと2の倍数からも3の倍数からもずれることは、前段階の具体例のところで説明して、直観的にわかってもらうようにしたのだ)。こういうやつの「自明」っていったいどのレベルをいうんでしょうか。

ハッキリ言って、小学生低学年程度の知性だと思う。ダメおしにもう一度言うよ。こやつ、国立大学の物理の教員なんだよ。

こういう教員が、2次試験の物理や数学の答案をちゃんと採点できるのか、ものすごく心配になる。そして、こういう教員の研究室に入る学生も不憫に思う。公共の利益のためには、大学名と教員名を晒したほうがいいのかもしれないけど、今回のエントリーではやめておく(次回のエントリーでさらす可能性はある。その前に 友人の物理学者たちから評判とか業績とか聞いてみるつもり)。

何より腹が立つのは、こやつが、なんでメールを出してきたか、その意味がわからないこと。自分で計算する気はない。じっくり考える気はない。参考文献にあたって調べる気もない。そういう最低限の努力もしないで、思いつきで面識もない著者にメールを出して、批判したり腐したりする。これで、研究者の資格ありますか? 教育者と言えるんですかね?

この本が、国立大学の理系の教員にも読みこなせないとわかって、正直、頭を抱えている。まあ、こやつが例外的に○○な物理学者だと考えるほうがいいのだろう。ぼくの友人の物理学者は、みんな、とんでもなく数学ができる。実際、量子物理についての記述は、親友の物理学者・加藤岳生くんに査読してもらった。彼は、ぼくの数倍、数学が出来る人だ。声を大にして言いたいが、ちゃんとした国語力と、人をばかにしないで、理解しようと努力する態度があれば、ちゃんと読めると思う。わからなくて、でもどうしてもわかりたいところがあったら、参考文献にあたって追加的に勉強すればよいと思う。そのために、かなり綿密な参考文献をつけてある。

アニメ映画『打ち上げ花火』を観てきますた

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 今日は、アニメ映画『打ち上げ花火 下から見るか?横から見るか?』を観てきた。

観に行った理由は、昨年からアニメづいてしまっていて、特に今年に入ってから、『魔法少女まどか☆マギカ』に打ちのめされ(「魔法少女まどか☆マギカ」に打ちのめされた - hiroyukikojimaの日記)、その影響から、製作会社シャフトのアニメを次々と観て、「物語シリーズ」にたどりつき(将棋の実況解説のような数学書 - hiroyukikojimaの日記とか、確率・統計は、マーケティングに使えるらしいぞ - hiroyukikojimaの日記とか)、つい先日、(つい最近、放映された「終わり物語」を含めて)全作品を見終えた。ちょうど、「物語シリーズ」のファンになったところで、岩井俊二監督の傑作『打ち上げ花火 下から見るか?横から見るか?』のアニメ版が作られる、と知ったのは、あまりに衝撃だった。なぜなら、この作品は、ぼくが相当に衝撃を受けた物語だからだった。

打ち上げ花火、下から見るか?横から見るか? [DVD]

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感想をしたためるが、多少のネタバレを含むので、それを踏まえて読んで欲しい。まあ、「何がネタバレになるのか」というのは、「何を事前に知りたくないのか」に依存するので、人によって違うだろう。たぶん、たいしたネタバレにはならない気がするのだが、用心のため、一応前もって言っておく。

 このアニメ版は、成功作なのか、失敗作なのか。名作か駄作か。

そこかしこで議論されてて、いろいろ言われてるみたいだけど、これについてぼくには何も結論できない。ぼく自身の個人的な意見もない。なぜなら、岩井俊二監督の原作(実写版)をリアルタイムで観てしまっているので、その影響が大きく、公平中立な判断ができないからだ。

原作が衝撃的すぎて、善し悪しとかいう水準にないんだよね。あんな物語をテレビ向けに作ったというだけでもう、とんでもない作品だと思う。

とにかく、このアニメ版を観ている間ずっと、「ああ、ここは原作だとああだったな」「なるほど、こういうふうにしたのか」と、どうしても原作をかぶせてしまう。勝手に頭が原作方向に自動修正してしまう。そういう意味では、映画を二本観たぐらいの充実感となった。

でも、アニメ版を観て、逆に原作について今頃気がついたことがあった。それは、「ああ、この作品は、ある意味でエロを表現していたんだ」ということだ。このことを悟ったぼくは、原作を観て、24年経過した今になって、原作についてのざっくりとした結論に到達した。すなわち、岩井版「打ち上げ花火 下から見るか?横から見るか?」とは、「少女の秘めるほのかなエロス」+「スタンド・バイ・ミー的冒険譚」、だったのだ、ということだ。(「スタンド・バイ・ミー」は、スティーブン・キング原作の名作映画)

宣伝を観ればわかる通り、物語は二つの幹から構成されている。第一は、美少女・なずなと主人公・典道の逃避行。第二は、「花火は横から見ると平たいのか」を検証するために、灯台に向かう同級生の少年たちの冒険譚。美少女・なずなは、他の同級生に比べて成熟しており、ある種の妖艶さを秘めている。他方、同級生の男子たちは、まだまだ子どもで、女の子よりも友達のほうが大事、ばかげた検証のためにとんでもない行動を実行してしまう。その二重性がこの物語の魅力なのだったのだ。

そういう視点から見ると、今回のアニメ版は、「少女の秘めるほのかなエロス」に完全な焦点を当て、「スタンド・バイ・ミー的冒険譚」のほうは、かなり縮小させた観がある。ぼくは、原作を観たとき、この両方の側面にノックアウトされたことに、今になって気がついた。だから、アニメ版では、後者の側面が縮小していることに多少のとまどいがあり、しかし、心の片側では、前者の側面が全開となっていることにカタルシスをもらった、という二重性のある感慨を得た顛末となったのである。

 なぜ、「少女の秘めるほのかなエロス」というテーマに急に気がついたのか。

それは、今回のアニメ版で、主人公・なずなの絵に、「物語シリーズ」の戦場ヶ原ひたぎの絵が抜擢されているからだ。CMでこの絵柄を観たとき、ぼくは正直驚いた。戦場ヶ原ひたぎは、キャラとしては、妖艶でエロ全開の女子高生だ。なぜ、戦場ヶ原の絵?、というのが疑問だった。でも、作品を観てはっきりわかった。原作の子役・奧菜恵さんに対抗するには、戦場ヶ原ぐらい持ってこないとダメなのだ。そのくらい、当時の奧菜恵さんは、「神」だったのだよ。当時の奧菜さんは、ぼくの美少女録の中で、いまだにベスト3に入る凄さである。

そう、今、実写版を作っても、奧菜さんを凌駕できる子役は存在しないだろう。なずなの声優をやっている広瀬すずちゃんが、もっと若い頃に抜擢されても、奧菜さんを超えることは不可能だったと思う。それは広瀬すずちゃんの美しさの問題ではなく、なずなという身体性を具現化できるのは、古今含め、奧菜さんだけだからなのだ。それは、岩井俊二さんがきっと、奧菜さんに当て書きした物語に他ならないからだ。そういう意味では、原作を凌駕するには、アニメでやるしかなかった。そして、戦場ヶ原ひたぎぐらいの絵を持ってくるしかなかったのだと思う(書いてて、自分が、とんでもないバカに思えてきてる。笑)。

そういう意味で、このアニメ版には、完全な必然性がある。

なぜ、小学生ではなく、中学生にしたのか。なぜ、なずなの家庭を描写したのか。なぜ、「少女の秘めるほのかなエロス」に完全な焦点を当て、「スタンド・バイ・ミー的冒険譚」のほうは、かなり縮小させたのか。なぜ、単なる「もう一つの時間分岐」ではなく、「時間のやり直し系」にしたのか。

逆に、岩井原作をそのままアニメ化したら、超駄作になっただろう。なぜなら、あれは実写であることに必然性がある。奧菜恵さんの身体性が必要である。そして、実写にしか与えられない感動を備えているからだ。

今回のアニメ版は、そういう意味では、実写では絶対できない、いろんな仕掛けを持っている。そうでなければいけない。そして、それはかなりの程度成功していると思う。そう、戦場ヶ原ひたぎを活かすには、ああいう物語でなければならない必然性があるのだ。

褒めすぎてしまったので、最後にちょっとだけ残念だった点を付け加えておく。それは、あまりに「ヒットさせよう」という下心が強すぎて、盛りすぎになってしまった点。例えば、「君の名は。」を意識しすぎ。また、ジブリっぽい部分なんていらなかった。物語の展開に必然性を持たせるため、原作の最高のシーン(最後のなずなのプールのシーン)を変えてしまった点など。(あのシーンで、同じ曲を使ってくれたのは、もう涙だった。あの曲じゃないとダメなんだよ!)。

ぼくは、シャフトの作品がすごく好きなので、『まど☆マギ』ぐらいに、もっと炸裂した世界観に観客を巻き込む作画をやってもよかったんではないか(というか、そうして欲しかった)と思う。

でも、総合的に言えば、すばらしい作品で、多くの人に観てもらいたい。そして、原作を知らない若者がどういう感想を抱くのかを知りたいので、どんどん感想をアップロードして欲しい。

Aimerのライブは、誠実さと斬新さの同居する奇蹟のライブだった

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一昨日、女性ボーカリストAimer(Aimer Official Web Site)のライブに行ってきた。

Aimerは、ぼくが現在、もっともはまっているアーティストだ。(「魔法少女まどか☆マギカ」に打ちのめされた - hiroyukikojimaの日記とか、弱いゴールドバッハ予想が解決されていたらしい - hiroyukikojimaの日記とかにエントリーした)。最近では、Aimerのアルバム(と、ときどきTricotのアルバム)しか聴かなくなってる。

BEST SELECTION “blanc

BEST SELECTION “blanc"(初回生産限定盤A)(Blu-ray Disc付)

BEST SELECTION “noir

BEST SELECTION “noir"(初回生産限定盤A)(Blu-ray Disc付)

一昨日のライブでは、武道館を1万3千人のファンが埋めていた。これは普通のキャパより多いはず。というのも、ステージをアリーナ中央に作り、360度すべての方角の客席に客を入れたからだ。ぼくは、追加で売り出された最後列の立ち見席で観た。立ち見でステージが見えるのか、みんな立ったらどうなるのか、と心配だったけど、なんということか!アンコール以外は、すべての客が着席のまま聴いていた。きっとこれは彼女のライブの決まりなのだろう。いまどき、珍しいしきたりだと思う。なので、アンコール以外は、完全にステージを肉眼で見ることができ、大満足だった。

 いやあ、とんでもなくすごい、奇蹟のライブだった。こんなすごいライブに当たることは滅多にない。武道館のライブは、YUIの公演を超えるものはもうない(遂に、YUIのライブに行ってきた。 - hiroyukikojimaの日記参照)、と信じていたけど、そんなことはなかった。ぼくの中では、完全に凌駕してしまった。

今回のライブは、最近リリースされたベスト盤、「Blanc」と「Noir」を記念してのものだ。前者は、主にバラード的な静の曲を集めたアルバムで、後者は激し目の動なる曲を集めたアルバム。そして、ライブは、前半はBlancから後半はNoirから選曲された。そればかりではなく、BlancとNoirに合わせて、前半と後半を完全に異なるコンセプトで構成したのだ。例えば、前半のドレスは白、後半のドレスは黒。あるいは、前半はバックバンドは座って演奏、後半は立って演奏、というように。舞台の使い方も、ライティングも切り分けてあった。本当に完璧な演出だと思う。とりわけ、後半の最初の曲の「us」のところの芸術的ライティングには鳥肌がたった。インターバルの効果音とそこからつながる「us」の演奏のみごとさが、ライティングと相まって、観客の頭の中のBlancからNoirへの切り替えが完璧化される。本当によく考えられた構成だと思う。

ぼくは、ライブというのは、「アーティストに会いに行くもの」「アーティストと交友しに行くもの」と思っている。だから、アーティストの気持ちとか息づかいとか人柄とかを感じたい、というのが一番大きい。そういう意味では、Aimerという人の今がどんなで、何を感じ、どこに向かおうとしているのかがわかり、来れてよかったと思った。

 こんな周到な演出にもかかわらず、ぼくがぐっと来てしまったのは、Aimerの歌に対する真摯さとライブに対する誠実さだった。台湾、韓国、香港を含む20数カ所でパブリック・ビューイングが開催されるほどの人気のライブでありながら、いっさいの奢りも高慢さも感じられない。完璧とも言える、そして、希有な個性の歌唱力を駆使し、懸命に、切々と歌う。どの方角の観客にも気を配り、MCでは誠実に自分の気持ちを話す。舞台演出のアーティスティックと、ギャップと言えばギャップなんだけど、でも、それをコミにして、Aimerという人の人となりを感じさせるステージングだった。

 彼女は、MCの中で、「武道館は通過点の一つと考えるようにしている」というような趣旨のことを言いながら、でも、終わりに近づくに従って、だんだん何かがこみ上げてくる様子になり、アンコール最後の曲「六等星の夜」では感極まってしまったようだった。それを観て、「ああ、やっぱり、武道館は特別な箱なんだなあ」と感慨深く、彼女を心の中で祝福した。

帰りにアーティストグッズをいくつか購入した。その中の一つに、スマホケースがある。実はぼくは、まだガラケーを使っている。しかし、Aimerのスマホケースを買ったのが縁で、スマホに切り替えようと思っている。もちろん、ケースを使うために。。。

 最後に自分のことを付け足すのは気が引けるけど、是非、言わせて欲しい。

拙著『世界は素数でできてる』角川新書が、増刷になった!ぱちぱちぱち。刊行3週間での増刷は、ぼくの本の中で優等生だ。買ってくださった皆さん、角川の編集・営業に感謝します。ありがとう。そして、まだ未読の皆さんには、これからでもよろしくです!

マリオ・リヴィオ『神は数学者か?』の解説を書きました!

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 つい最近、文庫化が刊行された、マリオ・リヴィオ『神は数学者か? 数学の不可思議な歴史』ハヤカワ・ノンフィクション文庫の解説を書いた。

本の巻末の解説を書くのって、思いの外難しい。解説から先に読む読者もいるから、ネタバレはできないし、でも、解説を読んで買うかどうか決める人もいるので、この本がいかに面白い本かをアピールしなければならない、という二律背反に直面するからだ。でも、だからこそ、ライターの力量が試される仕事と言える。ネタバレなしに、いかにその口上で本をレジまで持っていかせるか。ここはプロの腕の見せ所である。

 ところで、このエントリーだが、ここで本の内容を紹介しようとすれば、当然、解説文と重複が起きることになる。それは、ぼくの解説文目当てで本を買う人(まあ、そんな人、数えるほどしかいないと思うけど)に水を差すことになってしまう。なので、今回は、本の内容を詳しくは紹介しないことにする。

 この本のタイトル「神は数学者か」は、端的に、この本の内容を表現している。これは、「数学の不条理な有効性」を述べたものだ。要するに、数学という単なる形式的な記号操作が、あまりに宇宙の法則たちにぴったり当てはまり、物質の性質を説明できてしまう、ということだ。これはいったいどういうことなのか、ということについて、いろいろな方角から議論する本なのである。

 この本を読んでいて思い出したのは、以前に、物理学者の田崎晴明さん、加藤岳生さんと、雑誌『現代思想』2010年9月号で対談したときのことだ。対談のテーマは、「自然からの出題にいかに答えるかー数学的思考と物理的思考」というものだった。この対談については、水がどうして凍るのかは、まだ物理で解けていない - hiroyukikojimaの日記にエントリーしてあるので、そちらで読んでほしい。そのときのエントリーには引用しなかった部分を今回は本書の関連として紹介しようと思う。次の田崎さんの発言だ。

私が特に面白いと思うのは、回転群のSO(3)とSU(2)の話です。SO(3)というのはわれわれの三次元空間での回転を記述する群です。こういうところにあるものを普通にグルグルと回転させたらどうなるかを記述する数学です。そのSO(3)の数学を一生懸命研究していた人たちが、それを複素表現したほうが計算が便利だと気づいて、SU(2)という新しい計算を発見します。SU(2)はSO(3)にとても似ているのだけど、SO(3)よりだいたい二倍くらい大きい。そして、SU(2)を調べると、360度回しても元に戻らなくて、もう一回転させて720度回すとようやく元に戻るというような変態なものが現れてしまうのです。もちろん、当時の数学者たちは数学的な計算の途中で変態なものが出てきたとしか思わなかっただろうし、それが正常な考えなわけです。ところが20世紀になって、スピン角運動量といういうものが発見されてしまう。そのスピンというものは、驚くべきことに、SU(2)で記述されるような不思議な回転だったのです。つまり、ある種のスピンは360度回転させても微妙に元には戻らなくて、720度回転させるとようやく元に戻るという性質を持っている。これは実験でも確かめられたことです。「神様」は本当に数学が好きなのかと思ってしまうようなエピソードじゃないですか

これは、まさしく、本書のテーマである、「数学の不条理な有効性」の証拠の一つだろうと思える。

 でも、一方で田崎さんはこうも言っている。

ただし、物理学者が使っている数学が全て必然的だというとウソになりますね、特に現在進行中の研究は数学を無理矢理使ってハズレのものも物凄く多いですから。

こういうところは、著者の天体物理学者・リヴィオ氏と田崎さんの感覚の温度差に思える。リヴィオ氏は、「数学は発見か発明か」という問いかけを論じているが、物理学に対して数学が有効性を持ってない場面についてはほとんど記述していない。(生物学などには有効でない場面があることには触れている)。

 いずれにせよ、本書は、「数学が、私たちの宇宙(この世界)に、なぜこうも当てはまりがいいか」を、実例から理解し、そういう哲学的な思索をするには抜群に面白い本である。是非とも手にとってみてほしい。

高校生の倫社・政経や、大学生の演習本にお勧めの本

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今回は、久しぶりに文系の本をお勧めしようと思う。最近は、数学書ばかり紹介してたけど、思い出してみると、ぼくの本業は経済学だからね(笑)。

お勧めするのは、4人の気鋭の学者の共著『大人のための社会科』有斐閣だ。著者は、井手英策さん、宇野重規さん、坂井豊貴さん、松沢裕作さん。

 序文を読むと、この本のコンセプトは、「日本社会の将来を語り合うための共通の理解、土台のようなものを提案する」ということだそうだ。いわく、

思想的な立場にとらわれず、この魅力的な日本社会、それ自体に関心をもってもらえるよう、日本社会の「いま」と「これから」を見通すための材料、共通の知的プラットホームを提供しようと、私たちが積みあげてきた「知性」をすべてのみなさんにひらこうと考えました。思い切っていえば、経済、政治、社会をめぐるさまざまな出来事を、できるだけわかりやすい言葉で、できるだけ多様な視点で説き明かし、最後に未来への一つの方向性を示したい、そんな想いを込めて、この『大人のための社会科』を書き上げたのでした。

 実際、この本は、このコンセプトに成功していると思う。「大人のため」と銘打っているけど、ぼくはむしろ、高校生の副教材や大学生の輪読の教材として使って欲しい本だと思う。大学の少人数授業では、学生にどんな本を読ませるかに、とりわけ苦労する。良い教材が持つべき特質は、

(1) 平均以下の成績の、学習意欲の乏しい学生にも読みこなせること

(2) 複雑な数式、錯綜したロジック、情緒的な煽りではない、すっきりした議論を展開していること

(3) 古典的な問題意識での、埃のかぶった内容ではなく、現在的な問題意識を備えていること

(4) 著者の個人的な思想・信条を開陳し、押しつけるものではなく、学術的に広く認められたバックボーンを持つこと

であろう。しかし、言うはやすしで、この4つの性質を備えている本は滅多にない。本書は、(まだ、一部しか読んでいないので、読んだ部分については)、この4つの性質を備え持った本なのである。

 以下、この本の一部を紹介するけど、それはすべて坂井豊貴さんの書いた章である。その理由は簡単で、まだ坂井さんの書いた3つの章しか読んでいないのだ(スンマセン)。

 ぼくは、坂井さんを、現在の経済学者の中で最も、専門外の人々へ経済学の成果を伝える力を持っている人だと思っている。専門のことを専門的に芳醇に伝えられる優れた経済学者はたくさんいる。でも、専門のことを、専門的だと思わせない雰囲気で、ほとんど専門知識を持たない人々に伝える力量を持っているのは、坂井さんがぶっちぎりだと思っているのだ。

 坂井さんのプレゼンを初めて目撃したのは、たしか10年くらい前の日本経済学会だったと思う。坂井さんは、ご自身の論文の報告でも、他の研究者の論文の討論でも、非常にシャープで、とても魅力的なプレゼンを繰り広げた。あまりに魅力的に語るので、ぼくはその後に、当該の論文をダウンロードしてしまったぐらいだ。一本の論文の内容を15分程度で要約して、オーディエンスに本質を伝えるには、二つの才能が必要だ。第一は、その内容を的確に掌握する才能。第二は、その本質や急所を聴衆がわかる言葉で魅力的に伝える才能だ。坂井さんは、両方の才能を余りあるぐらいに持った逸材なのである。(坂井さんについては、以前にも、古風な経済学の講義から脱出するために - hiroyukikojimaの日記とか、理系の高校生に読んでほしい社会的選択理論 - hiroyukikojimaの日記)とかにエントリーしている)

 以下、坂井さんの書いた1章、4章、7章について、簡単に紹介する。ただし、販売を妨害しないように、ネタ的なところだけをちょっとずつ紹介するに留める。

 第1章は、「GDPー「社会のよさ」とは何だろうか」と題された解説である。GDPとは国内総生産のことで、要するに、その国がここ一年に新たに生産した財・サービスを金銭的に集計した値だ。したがって、GDPは、その国の豊かさの指標として使われる。経済学部では、必ず教わる必須アイテムである。

 しかし、GDPは「国の豊かさ」、すなわち、「社会のよさ」を本当に表すのか、という問題は、近年、よく議論にのぼることだ。坂井さんは、この点を、「ネガティブな消費」という概念を軸に、噛んで含めるように丁寧に解説していく。その上で、「GDPの代替基準」をいくつか紹介する。もちろん、それは、学術論文での検証を備える基準たちだ。途中で『ドラゴンボール』のエピソードなどが出て来て度肝を抜かれたが、こういうところは若くてお茶目な坂井さんならでは、である。この章の論説は、最後に「数値の目的化」というところに向かう。「GDPの数値を増やすことが、政府の自己目的化してしまう」という問題だ。現在の日本でもこの問題は深刻だと思う。そんな中、非常に面白い研究が紹介されている。ここだけ引用しよう。

GDPの高い国は、夜間の照明が質量ともに増し、ライトアップが強くなる傾向があります。だから人工衛星から地球を観察し、夜間の明るさを計測して、適切な統計処理を施すと、それなりの精確性でGDPを推計できます(Henderson, Storeygard and Weil 2012)

興味深い話だが、ここから坂井さんが何を言おうとしているかは、読んでのお楽しみ。

 4章では、坂井さんは、「多数決ー私たちのことを私たちで決める」と題して、選挙制度のことを解説している。この論点は、坂井さんがここのところ、何冊も本を出してきたものなので、目新しくなはないだろう。でも、高校生・大学生にも十分読みこなせるように、すっきりさわやかに、話題を厳選して書かれているからお勧めだ。とりわけ、日本ではまもなく衆院選が実施される。個人的には、今回の選挙は、錯綜・迷走の度合いが激しく、少なくない国民が暗澹たる気分になっていると思う。そうした中、この章を読むのは、タイムリーなことである。

 中心的な話題は、多数決(一人だけへの投票)が「票割れ」という深刻な問題を抱えていることだ。「票割れ」は、泡沫候補のせいで、勝つべき候補者が敗れる現象をいう。「票割れ」が、どんな形で民意を損なうかについて、アメリカの大統領選だけではなく、日本の過去の選挙での具体例も挙げられており、実に興味深い。

 ぼくが、目から鱗だったのは、「オストロゴルスキーの逆理」という選挙のパラドクスだ。これは、政党AとBについて、(原発とか、財政とか、外交とか)個別の政策別に投票すれば、どれでもB党が勝利するのに、全政策をまとめた上で投票するとA党が勝ってしまう、という目も当てられない現象なのだ。非常に簡単な具体例でわかるので、高校生でも普通の大学生でも理解できる。是非、読んでみて欲しい。

 第7章では、坂井さんは、「公正ー等しく扱われること」を論じている。公正の問題は、経済学において、重要でありながら、鬼門でもある。経済学が信奉する「スーパー合理性」には屈服しない概念だからだ。逆に言うと、経済学が単なる陳腐な応用数学に陥らないために大事にしなければならない概念だと思える。坂井さんは、古代バビロニアのタルムード問題を導入に選んでいる。「一枚の布に、二人の男が所有権を主張しており、一方はすべて自分のもの、と主張し、もう一方は、半分は自分のもの、と主張している」場合、どのように分配すれば公正か、という問題である。答えはシンプルだが、本書を参照してほしい。

 そして、後半では、「最後通牒ゲーム」の経済実験の結果について解説している。これは、プレーヤーAが10万円の金額のうちいくらをBに渡す、と提案し、Bがその分配額を承諾するか拒否するかを答えるゲームだ。Bが承諾すれば、Bは提案額を受け取り、Aは残り金額を受け取ることができる。Bが拒否すれば、両者とも受け取り額はゼロとなる。この最後通牒ゲームのゲーム理論における「解」は、「Aが微少額、例えば、10円を提案し、Bがそれを受け入れる」というものである(部分ゲーム完全均衡)。しかし、実験してみると、そうはならず、かなり公平に近い額が提案され承諾される。坂井さんは、このことを軸に、公正の問題を論じている。

実は、この実験は「行動経済学」という分野におけるものだ。今月に、行動経済学の業績からノーベル経済学賞を受賞したリチャード・セイラ−の本にも書かれている研究である。そういう意味で、この坂井さんの論説は、ノーベル経済学賞の予言的な役割も果たしたと言える。

 とにかく、この三章は、非常にわかりやすい具体例を、きちんとした学術論文から引っ張ってきて、それを礎に現状の日本についての問題提起をしている。しかも、読んでいてすごく面白い、という非常によく書けた解説なのである。是非、高校生向けや、大学生向けの副読本として使ってほしい。もちろん、社会人が読んでも十分に勉強になる本であることは言うまでもない。

数学の青写真をステキに語った本

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 今回は、いつものように黒川信重先生の本の紹介をエントリーしよう。紹介するのは、『絶対数学の世界』青土社である。

この本のセールスポイントを、ざっくりとまとめると、

(1) 縦書きである。

(2) 数論の歴史がわかる

(3) あまり知られていない数学者の伝記がわかる

(4) 数学者がどんなふうに青写真を描くのか、を垣間見れる。

本書は、青土社の月刊誌『現代思想』に掲載された論考をまとめたものである。だから縦書きなのは当然なのだ。でも、黒川先生にとって、初めての縦書きの本ではないか、と思う。

 横道にそれるが、和書は今でも縦書きが主流だ。これは本当に解せないことである。ウェブ上のホームページでも、メールでも、会社の書類でも、みんな横書きだ。だから、私たちは横書きを読むことに慣れている。なのに、書籍と新聞は頑なに縦書きをやめない。理系の本でなくとも、横書きにしてしかるべきだと思うのだが、編集者はとてもそれを嫌がるのだ。なので、理系の本を縦書きで書かざる得ないことが多く、ぼくは相当に苦労している。数式を導入するのに強い制限がかかるからだ。結局、図版で入れるしかなくなるのである。近著では、拙著『世界は素数でできている』角川新書が縦書きだが、書くのに相当苦労した。

 本筋に戻ろう。

ぼくは、本書に収められた黒川先生の論考を、雑誌掲載時に読んでいた。でも、今だから告白すると、当時はあまり意味がわからなかった。しかし、本書を読んでみると、ぼくはかなり内容がわかるようになっていた。その理由には、第一に、黒川先生との対談本を二冊も刊行したこと、第二に、さきほどの拙著『世界は素数でできている』角川新書を書くために、相当に現代の数論を勉強したこと、が挙げられる。

なので、皆さんも、本書を読む前に、次の三冊に目を通しておくことをお勧めしたい。一冊目は、黒川先生ご自身の本『ラマヌジャン探検』(ラマヌジャンの正当な評価がわかる本 - hiroyukikojimaの日記で紹介している)、二冊目は『ガロアとガロア理論』のおまけについている辻さんの解説(おまけ目当てで買うべきガロア本 - hiroyukikojimaの日記で紹介している)である。この二冊がおおざっぱに頭に入っているだけで、本書の理解が劇的に変わると思う。三冊目は、販促として拙著『世界は素数でできている』を忍び込ませるが、もちろん嘘偽りではなく、本書の理解の助けになることはなる(素数についての本が刊行されました! - hiroyukikojimaの日記で紹介している)。

本書は、全体としては、黒川先生がリーマン予想解決のための武器として提出した「絶対数学」に関する解説の本となっている。リーマン予想とは、リーマン・ゼータ関数の虚の零点が一直線を成して並ぶ、という予想で、提出されてから150年以上経過した今も未解決の難問だ。

絶対数学は、かなりな分量が構築済みだから、架空の理論ではない。しかし、まだその成果は未知で、特にリーマン予想の解決には至っていない。だから、ここに書かれているのは、絶対数学に対する黒川先生の青写真であり、数学者としての夢想である。

こういう数学書って、あるようでない。普通の数学書は、完成されている理論を厳密に提供するものだ。他方、本書は、定番の数学が厳密な形で提示されることは全くない。代わりに、黒川先生の現代の数論に対する評価と、それを踏まえて、未来の数論像に対する青写真が、喩え話を主軸に語られるのである。例えば、次のような感じだ。

たとえば、数学を離れて、植物の研究をしていると想像してみよう。もっと極端に言えば、地球に来訪者が来たとし、巨大木を見たとしよう。すると、そのような大木が「生きて」いることがわかったとしても、どうしてそんな大きなものが立っていられるのか、ましては何故「生きて」いられるのか、と考えてもなかなか本当のところはわからないだろう。それは、地下に隠れて見えない「根」があるからだ。

今までの数学も、同じような状況だったと考えられる。「根」にあたる「一元体」を見のがしてきた(存在に気づかないできた)のだ。ゼータの話では、どうしても理解の及ばない根本的難しさを感ずることが多いのであるが、それこそ「根」を忘れてしまったからだ。

次のガロア理論に関する喩え話にも、なるほど、とうならされる。

一本の大木が野原に立っているとする。葉がふさふさと繁って、木の実もたくさんなっているように見える、この木をゆすって木の実を落として取ったりすることがガロア理論である。(中略)

ところで、木をゆすることによって、クリの実が落ちてきたとすれば、木の種類までわかってしまうということにもなる。もちろん、クリを焼いておいしいご馳走にもありつける。

 さて、絶対ガロア理論とは、すると、何を指すのだろうか。それは、木を根こそぎゆらしてみよう、というものだ。いままで見えてこなかったことが見えてくることだろう。ガロア理論は大きな収穫をもたらす理論であったことは確かだが、そうは言っても、木の喩えで言えば、地上の幹をゆらしていたものだった。それには、限界がある。後で述べるように、ゼータ関数の根(零点)を問題にする数学最大の難問リーマン予想の解決には、そのような生半可なゆらし方ではまったく不充分なので、根からゆらさねばならないのである。

数学はながいあいだ根を忘れていたのである。

普通の数学書は、そこで説明されている数学そのものを応用することにしか使えない。しかし、本書は、黒川先生という数学者が、未解決問題を解く道筋を見出すための「哲学」のようなものを提示している。だから、数学以外のさまざまな分野にもヒントを与えるものである。例えば、ぼくの専門のミクロ経済学にも、何かの示唆がなされているように感じる。

 本書のもう一つの売りは、珍しい数学者の伝記が書かれていることだ。列挙すると、高木貞治、谷山豊、佐藤幹夫、ラングランズだ。高木貞治は類体論を確立した人、谷山豊は谷山予想を提出した人で、その解決がフェルマー予想の解決をもたらした。佐藤幹夫は佐藤超関数で有名だが、佐藤テイト予想も重要な予想であり、つい最近テイラーらによって解決されて話題になった。ラングランズは、ラングランズ予想の提出者だ。伝記と言っても、人となりを紹介するのではなく、あくまで論文をベースにして、数学的業績とその歴史的意義について語っているのである。

中でも、ラングランズの紹介は、非常に参考になる。ラングランズ予想というのは、谷山予想を含む壮大な予想だ。黒川先生の記述を引くなら、類体論という可換群拡大の数論を、非可換群拡大の数論に拡張するもの、ということである。絶対ガロア群のn次元表現全体とGL(n)の保型表現の全体を対応させること、とも言える。このラングランズ予想は、現在の数論の最も重要な標的でありながら、ラングランズがどういう人で何をしたかは、一般レベルではほとんど知られていない。本書では、ラングランズの論文を取り上げながら、ラングランズ予想の意義と困難さを詳しく説明している。

本書は、決して「わかりやすい」本ではない。でも、「わかろうとする」のではなく、「感じよう」とするなら、いろいろ得られる本だと思う。「わかる」ことは辛い作業だけど、「感じる」ことは自分のレベルに応じてできるのでそんなに辛さはない。もう一度言うけど、数学の青写真を見せてくれる本なんて、そうそうないよ。


小野善康『消費低迷と日本経済』は、賛否にかかわらず読んで欲しい本

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 小野善康『消費低迷と日本経済』朝日新書が刊行されたので、満を持して、紹介したい。

「満を持して」とは、どういう意味か、というと、この本の企画にぼくが多少の関わりを持っているということ。あとがきに書かれているが、ぼくがぼくの担当編集者さんに小野さんの理論を紹介したことがきっかけで、この本の企画が誕生したからだ。ぼくは、この編集者さんと過去に『数学的思考の技術』ベスト新書を作った。この本には、宇沢先生の思想とともに、小野さんの理論も紹介している。この新書を作って以来、編集者さんとはことあるごとに小野さんの理論について話をしてきた。とりわけ、小野さんが朝日新聞大阪版で「ミダス王の誘惑」という連載を開始したときは、「絶対に読むべき」と伝えた。それを受けて、編集者さんは、「ミダス王の誘惑」をベースに新書化する企画を立ててくれたのだ。

「ミダス王の誘惑」は、マクロ経済学の知見に関する画期的な連載なので、大阪版ではなく全国版で連載すべきものだと思っていた。そういう判断をしなかった朝日新聞は、とてももったいない過失をおかしたと思う。そういう意味で、朝日新書から本書が刊行されたのは、本当に良かった。ちなみに、「ミダス王」とは、ギリシャ神話に出て来る王で、神ディオニュソスから望みのものを与えると言われて、触れたものをすべて金に変える能力を授かった。はじめは喜んだが、食べ物も飲み物も触れるたびに黄金に変わり、食べることができなくなり、おおいに困って元に戻してもらった、という逸話である。国民が金銭欲にはまったために経済が低迷する社会の象徴として、小野さんがタイトルに使ったのだ。小野さんの理論を一言で表現する優れた記事タイトルだと思う。

 本書『消費低迷と日本経済』について、とくに強調したい点が二つある。

第一は、小野さんにしては珍しく、実証データを基軸に主張を展開している、という点。小野さんは、理論家なので、これまではほとんどデータを示してこなかった。実は、ぼくは以前、ワークショップで同席した著名で業績の高いマクロ経済学者と小野理論について議論させていただいたことがあり、そのとき、その学者さんは、「小野さんの理論を高く評価しているが、小野さんはもっとデータに関心を持つべきだ」と仰った。ぼくも、そうしてくれればもっと多くの人たちに小野さんの理論が認められるのに、と感じた。そういう意味で、本書はその待望に答えるものとなった。本書では、「これでもか」というほどたくさんのデータが提示されている。これを見れば、小野さんがデータ音痴なのではなく、実はちゃんとデータによっても自己の理論を検証しているのだ、とわかるだろう。

第二は、本書が小野善康による『一般理論』になった、という点。小野さんと研究会をしたときの懇親会で、ぼくは小野さんに「21世紀の『一般理論』になる本に仕立てて欲しい」とお願いした。そのとき、小野さんは、「それは『貨幣経済の動学理論〜ケインズの復権』でやった」と答えてくださった。確かに、理論書としてはそうだと思う。でも、ケインズ『一般理論』は、理論書であるとともに、新しい経済学を啓蒙するパンフレットでもあった。そういう捉え方をするなら、『貨幣経済の動学理論〜ケインズの復権』は、一般の人には敷居が高すぎる。小野さんの啓蒙パンフレットとしての「一般理論」は、本書『消費低迷と日本経済』なのだと思う。

 本書は、一言で言えば、「普通の人が思っている経済の常識をことごとく覆す本」だ。だから、人によっては、「トンデモ」と評価することだろう。実際、素人と見受けられる方々が、ツイッターで、小野さんの主張を「トンデモ」呼ばわりしているのをよく見かける。そういう人たちは、たぶん、自分の印象や先入観をして「常識」と捉えているのだと思う。正直、ぼくはそういう人たちのことは気にならない。きちんと勉強をして、自分の先入観や印象を検証しようとしない人は、説得しようがないからだ。実際、「アインシュタインの特殊相対性理論は間違っている」などと、アインシュタインを「トンデモ」呼ばわりする人が今も散見される。そういう人たちの主張を見ると、きちんと特殊相対性理論を理解していない。さらには、「物理理論が正しいとはどういうことか」という科学的方法論についての理解もない。そういう人たちがいるのは仕方ないし、学問側からは放っておくしかないと思う。理論は、専門家たちの議論と検証によって正否を決め、正しいとなったら、学者たちが総力をあげて社会に広めていくべきなのだ。

 小野さんの理論は「常識を覆す」ような内容を多々持っている。褒めすぎかもしれないけど、「時間が歪んだり、物質の長さが縮んだりする」特殊相対性理論に比肩しうる経済理論だとぼくは感じている。個人的すぎる感想だが、小野さんの理論を理解したときの興奮は、特殊相対性理論がわかったときに匹敵するものだった。小野さんの理論は、消費選択に関する方程式(ρ+π=v'(m)/u'(c))と貨幣効用に関する極限法則(lim v'(m)>0)の2式だけから成る。前者は、ケインズとラムゼーが発見し、シドラウスキーが(宇沢先生の指導の下で)発展させた方程式で、別に小野さんの独創ではない。後者の式も、単なる効用関数に関する仮定であり、新奇なものではない。この二つを組み合わせるだけで、「常識を覆す」帰結が次々出てくる、というのは、特殊相対性理論と似ているとぼくには思える。特殊相対性理論は、「相対性原理」「光速度不変の原理」だけからさまざまな「常識を覆す」帰結を導くからだ(特殊相対性理論の簡単な説明では、例えば、拙著『世界は2乗でできている』参照のこと)。念のため付け加えると、本書では、小野さんは一切理論に触れていないので、普通の経済本として読める。

もちろん、経済学の理論として広く認められていないこの段階では、「常識を覆す新理論」である可能性と、「いずれ忘れ去られてしまう理論」である可能性とどちらもあると思う。ぼくも、絶対に正しいという確信は持ってない。それは十分な時間をかけた検証によって、いずれはっきりすることだろう。ただし、「広く認められていない」と言っても、「トンデモ呼ばわり」する素人の人の判断は、無知な言いがかりに過ぎないことは言っておきたい。小野さんの理論は最初、IERという一流のジャーナルに公刊され、その後の継承論文もJERなどちゃんと査読のあるジャーナルに掲載されているからだ。

さらに付け加えると、最近は、欧米のマクロ経済学の研究者で、小野さんの理論とほぼ同内容の論文を書いている人が何人か出てきた。例えば、その中の二人に、Emmanuel SaezとPascal Michaillatがいる。彼らは、超一流のジャーナルAERやQJEにたくさん公刊を持っているような優れた学者たちだ。じわじわではあるが、小野さんと同じ発想を持つ経済学者が現れ始めている、ということであり、素人が印象だけでバカにできるようなレベルではないのである。

 では、本書は、どんなふうに「常識を覆している」のであろうか。最も大事なことは、小野さんが成熟社会と呼ぶ「需要不足の社会」では、私たちの経済に関する印象論がすべてがあべこべとなる、ということだ。いくつか列挙すると、

*企業が効率化をすると、かえって不況を悪化させる。

*地震、水害などの供給ショックはあまり深刻化しないが、リーマン・ショックのような需要ショックは深刻化する。

*所得が低いから消費できないのではなく、貯蓄意欲が高く消費意欲が低いから所得が低迷し、貯蓄できない。

*増税は(税収を正しく使うなら)景気を冷やさない。減税には景気刺激効果はない。

*金融緩和政策は効かない。

*脱原発コストは負担にならない。むしろ、景気刺激効果さえある。

*外国人観光客が増えても、輸出企業が儲かっても、景気回復にはつながらない。

これらを読んだら多くの人は、「そんなバカな」と思うことだろう。ぼくも、経済学を勉強していなければ、そう思ったに違いない。でも、小野さんの理論を理解すると、これら「常識を覆す」帰結はすべて正当だと感じられてくる。本書では、それがデータの方角から説得されるようになっている。賛否は人それぞれだろうし、納得できない人も多かろう。そういう人たちでも本書は読む価値があると思う。本書のデータを見た上で、小野さんの理論を勉強するなり、自分の反論を再整備して磨き直すなり、したらいいと思う。

 ただ一つ残念なのは、本書が衆院選前に刊行されなかったことだ。なぜなら、本書は、アベノミクスに対する強烈な批判の書であるからだ。その点について、最も重要で衝撃的な事実だと思われる一点だけ引用して、紹介を終えよう(91ページから93ページ)。

経済成長もインフレも起こらないなかで、政府が強調するアベノミクスの成果とは、株価の上昇と雇用の拡大、特に女性の就業者数の拡大である。

このうち、株価はバブル特有の乱高下を繰り返すだけで実体がないが、就業者数の拡大や失業率の低下は実体経済の指標であり、本当であれば非常に望ましい。

 しかし、中身を吟味すると、とても成果とは言えない厳しい現実が見えてくる。グラフ3-7は、男女合計および男女別の就業者数の動きを、実質GDPの推移とともに示している。(中略)。

 このグラフから、アベノミクス以前の就業者数の変化は、リーマン・ショックによる男性就業者の大幅減少によるものであり、安倍政権発足直後の13年以降は男性就業者は伸びず、もっぱら女性の就業者増が総就業者の増加を支えていることがわかる。同時に注目すべきは、この間、実質GDPが横ばいという点である。

 これは何を意味するか。

 安倍首相は繰り返し女性の活躍を訴えており、確かに女性の就業が増えている。しかし、GDPが増えないまま、女性の就業者数だけが増えているということは、以前と変わらない総量の仕事を男女で分け合っていることを意味する。そのため一人あたりの生産性は低下しているはずだ。このことは賃金が下がっていることからも、裏付けられる。

小野さんは、現在の失業率の低さや求人倍率の高さを、アベノミクスの成果ではなく団塊世代の退職による人口動態の帰結と判断している。上記の女性の就業の事実は、さらに深刻な実体を指摘したものなのだ。

高就業率・不況均衡の可能性?

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 ぼくのゼミでは、ゼミライブというのを毎年開催していることは以前にエントリーした(例えば、諦めなければ夢はかなう。望んだ形ではないかもしれないけど。 - hiroyukikojimaの日記など)。今年も、今月に7回目を実施した。現役のゼミ生とともに、卒業5年以内のゼミOBが、全世代にわたって、数人ずつは参加してくれた。本当に、教員冥利につきる。

OB/OGたちと久しぶりに会って、近況を聴いて驚いた。ほとんどすべてのOB/OGが、会社を、辞めたか、転職したか、辞めたがっていた。その理由を聞くと、ほぼすべて、待遇に対する不満である。給料が安い、ボーナスも最低、サービス残業の嵐、ちょっと上くらいの先輩がいろいろ押しつける。しかも、かなり上の先輩の給料を聞くと、ぜんぜん給料が上がらないことが判明。これじゃ、辞めたくなるのは当たり前だ。もちろん、勤めてる会社によるけど、新卒がもう半分くらい辞めてしまったところもけっこうある。

 なぜ、こんなことが起きているんだろうか。

現在の日本は、数字的には低失業率、高求人倍率になっている。普通の経済理論で言えば、こういうときは、賃金上昇を伴うインフレが生じるはずだろう。けれども、賃金も物価も上がらず、人手不足ばかりが話題になっている。名付けるなら、「高就業率・不況均衡」という感じだ。これは、常識的な経済学から言えば、矛盾した表現である。経済学において、好況と言えば、「完全雇用均衡」のことだ。完全雇用に近い就業状態を「不況」と呼ぶのは、定義的に間違っている。でも、そういうことが今の日本ではありうるのかもしれない、とそんな認識になった。

 そこで思い出したのが、前回(小野善康『消費低迷と日本経済』は、賛否にかかわらず読んで欲しい本 - hiroyukikojimaの日記)にエントリーした小野善康『消費低迷と日本経済』朝日新書である。その中に、現在の低失業率のからくりを書いた部分がある、前回のエントリーを読んでもらえば済むことだが、読者の労力を削減するため、もう一度引用しよう。

経済成長もインフレも起こらないなかで、政府が強調するアベノミクスの成果とは、株価の上昇と雇用の拡大、特に女性の就業者数の拡大である。

このうち、株価はバブル特有の乱高下を繰り返すだけで実体がないが、就業者数の拡大や失業率の低下は実体経済の指標であり、本当であれば非常に望ましい。

 しかし、中身を吟味すると、とても成果とは言えない厳しい現実が見えてくる。グラフ3-7は、男女合計および男女別の就業者数の動きを、実質GDPの推移とともに示している。(中略)。

 このグラフから、アベノミクス以前の就業者数の変化は、リーマン・ショックによる男性就業者の大幅減少によるものであり、安倍政権発足直後の13年以降は男性就業者は伸びず、もっぱら女性の就業者増が総就業者の増加を支えていることがわかる。同時に注目すべきは、この間、実質GDPが横ばいという点である。

 これは何を意味するか。

 安倍首相は繰り返し女性の活躍を訴えており、確かに女性の就業が増えている。しかし、GDPが増えないまま、女性の就業者数だけが増えているということは、以前と変わらない総量の仕事を男女で分け合っていることを意味する。そのため一人あたりの生産性は低下しているはずだ。このことは賃金が下がっていることからも、裏付けられる。

小野さんの推論を、わかりやすい喩え話でなぞれば次のようだ(単なるシミュレートであって、実際のデータを言っているわけではないことに注意)。すなわち、一人の定年退職者の仕事を男女二人で分割して就業する。当然、仕事量は半分ずつになり、給料も半分かそれ未満になる(余った分は企業の内部留保)。この場合、生産量は一定だから、GDPは増えない。総所得も横ばいだが、一人当たり平均所得は半分になる。しかし、就業者は増え、失業率は下がり、求人倍率は高くなる。

この推論を新卒の就業に当てはめれば、ゼミのOBたちが遭遇している不幸が説明できる気がしてきたのだ。すなわち、一人の定年退職者の仕事を、新卒二人で分割する。仕事量は半分、給料は半分、しかし就職率は高騰する。仕事量が半分なのに、サービス残業がはびこるのは、新卒はスキルがないにもかかわらず、まともな指導もないから、あっぷあっぷになり、その上、同様に低賃金の先輩が仕事を新入社員に押しつけるからなんだろう。

このように考えると、現代の悲劇を論理的に説明できる気がする。

ここで勘のいい人、あるいは、スタンダードな経済学を学んだ人は、こういう鋭い疑問を抱くことだろう。すなわち、一人が定年退職して二人が就業した場合、減る仕事量は1単位、増える仕事量は2単位だから、1単位分だけ総生産が増加するんじゃないの、と。しかし、そういうあり方は、通常の新古典派的な均衡(ワルラス均衡)だ。言い換えると、「供給が需要を決める」世界観なんだね。

ここに、小野さんの理論の真骨頂がある。小野さんのモデルでは、「(消費)需要が供給を決める」ことが論証されている(数学的には完全に論理矛盾なくシミュレートされている)。だから、消費量が始めから一定と決まっていれば、就業者の増加は所得の減少をもたらすだけになってしまうのだ。

 もちろん、今のロジックは、かなり雑な面がある。なぜなら、不況なら普通は就いている正社員が仕事を辞める行為は自滅行為かもしれない。次の仕事に就くのが大変だからだ。したがって、新卒がすぐに辞めるのは、転職が容易だからと考えるべきである。通常の経済理論では、転職が容易というのは好況下にあることを意味している。

 しかし、これにも多少の反論を加えることは可能だ。新卒が1年程度で辞めた場合、そこにはスキルの定着はほとんどないだろう。スキルがないまま転職する人たち全体を見れば、ただ、互いに職場をぐるぐる取り替えているだけであり、生産力の意味では全体としてなんら蓄積がなされない。マクロで見れば、生産力は一定であり、不況均衡を固定するだけであろう。

 仮に、現状がぼくのいう「高就業率・不況均衡」だとしても、それがいわゆる不況均衡よりはマシ、という考え方はあるかもしれない。失業というのは、ある種、「人格の否定」として機能し、人の心を荒ませる。高失業は、自殺を増やし、犯罪を増やし、最悪の場合、戦争の原因にさえなる。だから、それに比べれば、マシという見解はありうると思う。ただし、そのためには、保育所の不足とか、若者の疲弊とか、将来的な国民のスキルの蓄積不足とか、別の問題に注目し、対処する必要が出て来るだろう。

 もちろん、今の日本は、好況(完全雇用均衡)への過渡的状態であり、これから、賃金が上がり、物価が上がり、消費が増え、総生産が増える、そういう可能性を否定する材料をぼくは持っていない。そうであれば、通常の経済学で説明できることであり、ぼくの直観がはずれたことになる。もちろん、日本国民にとってはめでたい話となる。

abc予想解決と数学の進化

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 先日、望月新一教授によるabc予想解決が、論文として正式に学術誌にアクセプトされたことが、朝日新聞一面で大々的に報道された。数学の結果がこれほど大きな紙面で報じられたのは今回が初めてような気がする。(記憶では、フェルマー予想のときも、ポアンカレ予想のときもこんなでなかったような)。とにかく、今年の数学界最大のイベントであったと思う。ぼく自身も、望月教授がネット上に論文をアップロードして騒ぎになった2012年にエントリーしているので(abc予想が解決された? - hiroyukikojimaの日記)、この予想の解説についてはそちらで読んでほしい。あるいは、黒川信重さんの本の紹介(ABC予想入門 - hiroyukikojimaの日記)のほうでも。

 abc予想がおまけとして(系として)得られる宇宙際タイヒミュラー理論(IUT)は、聞くところによると、新しい数学言語を作り上げた、と言えるぐらいに斬新な方法論らしい。従来の数学の言語だけで書かれていないため、どんなに優れた数学者でも、その知的アドバンスを利用することができず、いちから考えなければならず、それで先端数学者さえも理解することを躊躇したので、審査に5年もかかってしまったのだという。

以前に、加藤文元さんと黒川信重さんとトークイベントをしたとき(黒川信重さん、加藤文元さんとトークイベントをしてきました! - hiroyukikojimaの日記参照のこと)、加藤さんがIUTのことを少しだけ説明してくださった。加藤さんは、IUTの構築過程で望月教授といっしょにセミナーをした方なので、相当に詳しいのである。加藤さんの説明によると、IUTのアイデアを従来の数学の中で素朴に展開しようとすると、ラッセルのパラドクス(集合Xが集合Xを要素に持つ、とすることで矛盾が生じる)のような矛盾が生じてしまうため、それを避けるために新しい数学言語を構築した、というようなことだった。このことは、加藤さんのニコ生の講演で、もっと詳しくもっとわかりやすく説明されているので、そちらで観てほしい。この講演は、素人にもわかるすばらしい講演だ。朝日新聞にしても、週刊新潮の報道にしても、どうして加藤さんに取材しないのか、全くナゾだ。記者の人は、もっとネットにアクセスして、SNSから取材すべき対象をリサーチすべきなんじゃないかと思う。記者がこんなにズレ遅れてしまうと、新聞なんて誰も読まなくなるぞ。

 abc予想解決で、今後の数学の方法論が変わってしまうかもしれない。つまり、1個の未解決問題を証明するために、1個の新奇な数学言語の構築がなされる的な。言い換えると、定理と言語が一対一対応するような。そんな事態になったら、超大変だ。多くの数学学徒は、一生に1個の定理しか理解できなくなっちゃうからだ。まあ、「ユークリッドの第5公理の証明不可能性」を示すために、非ユークリッド幾何(クラインモデル)が作り上げられたり、「5次方程式が、四則と根号で解けない」ことを示すのに、群論が創造されたことなどを、「新しい数学言語の創造」だと見なすなら、それほど危惧することでもないかもしれない。

 IUTみたいな理論に直面するとき大事なのは、「その数学の背後にある思想や哲学はどんなものか」なのだと思う。数学の素人であっても、そういう視点に触れるのは楽しいことだ。加藤さんのニコ生の講演は、まさにそういう観点からなされていて感動する。

ぼくが今年読んだ数学書の中で、数学そのものはよく理解できないけど「その数学の背後にある思想や哲学はどんなものか」だけはびしびし伝わってくるもので、一番だったのが、加藤五郎『コホモロジーのこころ』岩波オンデマンドだった。

コホモロジーのこころ (岩波オンデマンドブックス)

コホモロジーのこころ (岩波オンデマンドブックス)

この本は、カテゴリーとコホモロジーについて解説している。カテゴリーは、代数幾何で構築された概念で、数学の構造を非常に抽象化して扱うものだ。この本で加藤五郎氏は「カテゴリーはコホモロジー代数のため、コホモロジー代数はオイラー、ガウス、リーマンの考えたことを実らすような数学(すなわち、代数幾何や代数解析)のため」と言っている。この本の斬新さは、「どきどき説明があまりに文学的になる」という点にある。例えば、次のようなものだ。

(1.1.1)におけるYでのコホモロジー(1.1.2)とは、Yの中で他人に影響を与えない部分Ker gで、その中の、他人から影響を受ける部分を捨ててしまえということです。もっといってしまうならYの神髄とでもいうか、Yの本質をYでのコホモロジーというのです。たとえば、Yがたった一人でくらしてた場合を考えてみてください。人は見かけによらないといいますが、Yそのものは見かけでYのほんとうの姿はそのコホモロジーということになりましょうか。

(コホモロジーを理解してなければ)数学的には何を言っているか全くわからないけど、言葉として何を言っているかはよくわかる。「見えているかりそめの姿)」と「本性」とを区別するのはどうするのか、ということを主張しているのだと読み取れる。もちろん、数学の概念をきちんと得たいなら、これは役に立たない。けれど、数学の精密な概念は二の次だが、雰囲気だけわかりたい、「ココロ」をわかりたいなら、むしろこう言ってもらったほうが直で胸に届くのである。序文にはこんなことが書かれている。いわく、

 コホモロジーの始まりは、もう一度いいますと混沌とした存在の中で

 aとbは似ている⇔aとbには共通なものがある

        ⇔どうでもいいところを無視すると

         aとbは本質的には同じだ

と分類して構造が生まれ、もう少し目を大きく開けると・・・・・・,

楽浪の比良山風に海吹けば

  釣りする海女の袂かへる見ゆ  (万葉集, 巻九・一七一五)

という景色が見えてくることです。

もう、ここまで来ると何を言っているかさっぱりわからないが、加藤五郎氏が、コホモロジーの中に「数学的厳密さとは別種のなにか」を見ていることはわかる。こういうことは、数学の才能があって、数学を数学のまま厳密に受け入れられる人には邪魔で蛇足に他ならないだろう。しかし、ぼくと同じような、数学の厳密さには青息吐息になるが、数学の神髄を知りたい・味わいたい人たち、にはこのうえないご馳走になると思う。

全く根拠はないけど、望月教授のIUTも、この本のような「斬新な言語認識」の延長上にあるんじゃないかな、とそんなふうに思っている次第だ。

それでは、皆様、良いお年を。また、来年、このブログでお会いしましょう。

中級者にとって最高の数論の教科書

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 今回は、数論の教科書を紹介しようと思う。入門段階の人、初級の人にはかなり難しいかもしれないが、ある程度、専門の数学をかじったことのある人には最高の教科書になると思う。それは、雪江明彦『整数論』1, 2, 3日本評論社だ。見てわかるように、三巻組の本で、1巻目は「初等整数論からp進数へ」、2巻目は「代数的整数論の基礎」、3巻目は「解析的整数論への誘い」となっている。

この本は、拙著『世界は素数でできている』角川新書を書くときに、非常に参考にした本である。とりわけ、「素数判定法」に関する部分ですごくお世話になった。

 この教科書の利点は、次の4点にまとめることができる。

(1) 群論、環と加群、体とガロア理論、フーリエ級数など、現代の数論を勉強するのに欠かせない道具がきちんと説明されていて、(かなりな程度)self-containedな教科書になっている。

(2) 証明をほとんど省略せず、しかも、導入している証明が、専門家でない学習者にとって、おそらく最もわかりやすいベストなものである。

(3) 現代数学にとって本質的である、「集合と写像の系列」を使った記述を心掛け、その感覚を伝えようとしている。

(4) 普通の数論の本ではあまり触れられていない、20世紀以降の素数判定法について、詳しく書かれている。

以下、それぞれの点について、細かく説明する。

 まず、(1)について。数論は、(黒川信重さんの言葉を借りれば)「応用数学」なので、たくさんの道具が、それこそ何から何まで使われる。普通の数論の教科書では、それらは「他の本で勉強してね」という体裁になっている。でも、この本では、それらの多くを準備している。利用する道具も、同じ著者によって解説してもらうほうがいいに決まっている。そういう意味で、この本はとても親切なのだ。とりわけ環論は、通常の環論の本で勉強すると、それこそとんでもなく広く深いので、たいていの人はうんざりしてしまう。でも、この本では、この本を読むのに必要な分の環論だけなので、読み通すことが可能となっている。

ただ、(1)について一つ残念な点を言えば、複素解析(複素数の関数の微分積分)の説明が省略されていることだ。この分野のハードルも非専門家の我々には十分に高いものなので、著者の説明を導入して欲しかった。

 次に、(2)について。定理の証明というのは、おおまかに言うと、「短くエレガントだが、抽象的で、定理の本質が見えづらいもの」と「多少長くて、泥臭いが、具体的で、定理の本質の部分が見えるもの」とがあると思う。本書では、極力、後者が選ばれている印象がある。とても頭が良い読者には、じれったいかもしれないが、(ぼくを含む)頭の回転がたいして速くない読者にはこの方針はありがたい。

 となると、(3)は(2)と相反するように見えるかもしれない。現代数学は、集合を写像でつないだ「系列」を使って展開される。本書では、かなり初歩の段階から、そのような記述法を試みている。例えば、

命題6.3.3 環Aが環Bの部分環でP⊂Bが素イデアルなら、P⋂AもAの素イデアルである。

のような、愚直に定義を試せば証明できるような命題にまで、「系列」を使った証明を与えている。すなわち、A→B→B/Pという自然な「系列」を使って,準同型定理を使って証明している(B/Pが整域になるのがポイント)。それは、たぶん、読者に、このような「系列」的手法に早く馴染んで欲しいという「親切心」からであろう。ぼくもまだ、あまりこの感覚には慣れていないが、この感覚を身につけることは「数学的に遠出をする」には不可欠なことなのだということはわかっている。大昔に、数学科に進学した頃、すごく簡単な演習問題をこのような「系列」で解いて、先生に褒められた同級生がいて、ぼくはやっかみ半分に「なんだよ、こいつ」と思ったことがあった(笑)。でも、このような感覚は大事なのだ、と今ではわかる。そういう意味で、この本はわざと、初歩からこういう「系列」的手法を導入する書き方をしているのだと思う。

 この本がぼくがとって、最も役に立ったのは、(4)の点である。

拙著『世界は素数でできている』では、素数判定法(与えられた整数が素数かどうかを判定する方法)をいくつか紹介している。その中で、最も現代的な方法としての「数体ふるい法」と「AKSアルゴリズム」を投入できたのは、この本のおかげなのだ。

 「数体ふるい法」というのは、代数体の素イデアル分解を使って素因数分解をする方法で、ポラードという数学者が1988年に開発したものだ。この手法の具体的な成果として、1990年に10番目のフェルマー数(2の(2の9乗)乗+1)が素因数分解され、素数でないことが確認されたことが挙げられる。

 他方、「AKSアルゴリズム」とは、2002年のインド工科大学のアグラワル、カヤル、サクセナという3人の数学者が発表したアルゴリズム。基本原理は、「pが素数ならば、p元体の世界において、xを変数とする多項式に対して、(x+a)のp乗=(xのp乗)+a、が成り立つ」という性質を用いるもの。定数aをいろいろ動かした上で、多項式の割り算を使って、等式の可否を判定する。このアルゴリズムが(指数時間的ではなく)多項式時間的であることが証明されており、そういう意味では待望の判定法なのだ。

 どちらの判定法も、簡単なわかりやすい説明は拙著『世界は素数でできている』で読んでほしい。そして、証明も含めて、きちんと理解したい人は、本書、雪江明彦『整数論』1, 2, 3日本評論社を手にしたらいいと思う。(理解するのは相当ヘビーだけど)。

「ヤマトナデシコ」とモジュラー形式と

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今回は、最近観たテレビドラマ「ヤマトナデシコ」のことを書こうと思う。その前に、宣伝を一つ。

『現代思想』青土社の3月増刊号「現代を生きるための映像ガイド」が刊行されたんだけど、それにぼくも映画批評を寄稿してる。

これには、編集者さんから「現在を知るために必見と思われる映像作品を紹介して論じて欲しい」と依頼されて寄稿した。悩みに悩んだ末に、映画は、『ギルバート・グレイプ』を選んだ。キューブリックの映画とか、スピルバーグの映画とか、クローネンバーグのホラー映画とか、書きたいものはいろいろあったけど、きっと他の専門的な識者が取り上げるだろうと思って避けたんだ。でも、刷り上がりを見てみると、みんなが同じように考えたのか、取り上げられた映画がみんなマニアックになっていて、笑ってしまった。もっと、スタンダードな映画の批評集にすべきじゃなかったんだろうか。

ぼくの批評のタイトルは、『ギルバート・グレイプ』が変えた「障害」への考え方、だ。この映画では、少年の頃のレオナルド・ディカプリオが知的障害のある少年の役を演じていて、それが白眉なんだけど、それと絡めて映画「くちびるに歌を」も批評した。この映画は、中田永一氏(実は、推理作家の乙一氏)のラノベ作品の映像化なんだけど、明らかに『ギルバート・グレイプ』へのトリビュートになっているので。(この二つの映画については、前に映画『くちびるに歌を』は日本版「ギルバートグレイプ」 - hiroyukikojimaの日記にエントリーしてる)。さらには、これらの映画を題材にして、経済学者としての立場から、「障害」に関する松井彰彦・東大教授のゲーム論的アプローチを紹介した(この理論については、関係性の社会思想へ - hiroyukikojimaの日記とか障害を問い直す - hiroyukikojimaの日記とかにエントリーしている)。

 さて、『現代思想』の販促はこれくらいにして、テレビドラマ「ヤマトナデシコ」について書くとしよう。このドラマは、親しい二人の友人から、別個に、執拗に勧められた(強制された、と言ったほうが正しい)ので、仕方なく、笑、観てみたのだ。

でも、とても面白いドラマだったので、観てみてよかったと思う。これは、バブル期を彷彿させるCA(ドラマでは、スッチーと呼ばれているが)の婚活ドラマだ。当時に旬で結婚前の二人の女優、松嶋菜々子さんと矢田亜希子さんが主演している。男優は堤真一さんが、数学に挫折した魚屋を演じている。堤さんは、このあと、映画『容疑者xの献身』でも挫折数学者を演じているので、はまり役ということができるだろう(『容疑者xの献身』については、数学の道が閉ざされるとき - hiroyukikojimaの日記にエントリーしてる)。

 「ヤマトナデシコ」には、ところどころに数学についてのネタが登場する。それが、ぼくには妙にツボでうるうるなってしまった。これについては、「やまとなでしこ」の数学というサイトで詳しく説明されている。でも、このサイトは完全なネタバレになっているので、これを読む前に是非、ドラマそのものを観ることをお勧めする。

 堤さんが演じる数学者・中原欧介が数学について語る中で、最も好きだったのは、第二話に出てくる次の台詞だ(先ほどの「やまとなでしこ」の数学から引用している)。

…人が素朴に考えたりやってみたりした事は、どれもみな、ようするに、 楕円方程式とモジュラー形式を分類してどちらも同じ数だけあることを示す事だ、 とワイルスは言っています。しかし、問題は楕円方程式もモジュラー形式も無限 に存在するという事で…

2000年に放映のドラマなので、ワイルズによるフェルマー予想解決が取り上げられているのは、とてもタイムリーだと絶賛したい。しかも、楕円曲線とモジュラー形式が対応している、というのは、現在も数論の中心的標的となっているラングランズ予想そのものだから、実に勘のいいネタを選んだと思う。あと、第10話にサイバーグ・ウィッテン理論というのが出てきて(どうもトポロジーの理論らしい)、これにも興味津々になった。

 このドラマを観てから、モジュラー形式と楕円曲線がどんな理屈で対応するのか、猛然と気になってきてしまった。この対応がどんなものかは、黒川信重さんの『ラマヌジャン探検』で理解していた(ラマヌジャンの正当な評価がわかる本 - hiroyukikojimaの日記で詳しく書いた)んだけど、どうしても証明を知りたくなって、次の本をダウンロードしてもうた。

この本は、ウィキペディアで関係事項を調べたときに参考文献に挙げられていたものだった。ほぼまる一日かけて、「定義」だけをがんがん斜め読みした。(だから、ぜんぜん内容は理解してない)。でも、そうしてみると、この本は真面目に読めばけっこうなんとかなるような本の気がした。楕円曲線とモジュラー形式が対応することの「アイヒラーと志村の関係式」について、ちゃんとした証明が書かれており、やってることはぼんやりとはわかった。ヘッケ作用素と呼ばれる「関数の変換方法」があって、それがフロベニウス写像と呼ばれる写像(素数乗する写像)の和にうまく縮約する、ということが使われるみたいだ。要するに、関数をかき混ぜたり、楕円曲線の点をかき混ぜたりするときに生じる、ある種の群構造を調べると、全く別の世界の存在物に見えるモジュラー形式と楕円曲線を結びつけることができる、みたいな感じなんじゃないかな(違ってたらごめん)。

 さて、「ヤマトナデシコ」に戻ると、登場人物の女性でのぼくの好みの順序は、[人妻の真理子さん(森口瑤子さんが演じてる)>矢田亜希子演じる若葉ちゃん>松嶋菜々子演じる桜子さん]、という具合になる。とりわけ、欧介に恋心を抱きながらも別の夫を選んだ真理子さんの秘めたる心はなんとなくわかる。この三人の中で、欧介を射止めるのが桜子である理由は、最終回で説得されるようになっている。要するに、欧介が数学にのめりこむことにどう向き合えるか、ということで、この女性三人は区別されるんだね。

 最終回近くなって、欧介の数学での師匠にあたる黒河教授というのが出て来る。これはひょっとして、黒川信重さんのことで、数学の監修も黒川さんがしたのではないか、と思って、ご本人に問い合わせたところ、「監修はしてません」との回答だった。それで、ネットで検索をかけてみたら、数学監修について「シナリオの中園さんの友達の予備校講師」と書いている人がいた。それが本当だとすれば、その人は数学を相当ちゃんと勉強していた人だと思う。

AimerのライブをNHKホールで観てきました

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 女性ボーカリストAimer(エメと発音する)のライブを、NHKホールで観てきました。

前回のライブの感想はAimerのライブは、誠実さと斬新さの同居する奇蹟のライブだった - hiroyukikojimaの日記にエントリーし、それがいかに奇蹟の演奏だったかを書いたが、今回も、まんま奇蹟のライブだった。

前回は、武道館に360度回転するステージを作り、あらゆる方向に向かって歌うことができるようにしたが、今回はNHKホールなのでもちろん、観客は正面だけから観ることができる。その分、やはり、武道館公演よりも今回のほうが親近感のわくステージングだった。

曲目は、武道館公演とほとんどかぶらないように選曲されており、それでも遜色がないくらいすばらしいセトリだったので、彼女の楽曲がいかに名曲揃いか思い知らされる。季節がら、冬や雪や雨などにまつわる曲が中心とされていて、季節感を堪能できる曲たちだった。中でも、雨にまつわる新曲「Ref:rain」はすばらしかった。これは、最新のCDのメイン曲だ。

このシングルには4曲収録されており、ぼく自身は、前掲のメイン曲とセルフカバー「After Rain」が気に入っている。このセルフカバーは、アレンジが違うだけでこうも違う格好良さが出るものか、と驚かされた。

Aimerのライブでは、毎回、そのトーンコントロールのすごさに圧倒される。たぶん、同じ曲を同じように歌っても、他の人ではこういうふうにはならないだろう。それは、ボーカルというのが、単に旋律をなぞるだけのものではなく、声質、強弱、発音、ビブラートなど総合的な表現テクニックの所産だということを思い知らせるものだ。

彼女のライブでは、特にトーンコントロールが困難な曲の前に、彼女はいったんステージから去って少し休憩をとる演出になっている。だから、彼女がステージから消えた次の曲は(衣装を着替えることも含めて)非常に期待大となる。今回は、「冬のダイヤモンド」「us」の前にステージから消えた。そして、どちらの曲も、あまりにすばらしい演奏となった。特に前者は、アルバムでは静かなナンバーとなっていたが、ライブで聴くと情感たっぷりの切ない切ない曲であり、うるうるなってしまった。後者は、彼女の最高のナンバーの一つであり、武道館のときと同じく、すごく工夫されたアーティスティックなライティングで感涙むせんだ。

 武道館での奇蹟のライブは、ブルーレイとなって発売されている。

この映像作品は、武道館のライブを一曲もカットせず、MCも、アンコールの拍手の時間も完全収録しているコンプリート版であるから、Aimerに関心のある人は絶対観るべきだと思う。これは、もう、家宝級のブルーレイだ。アンコールの最後の曲「六等星の夜」のとき、彼女にしては珍しく、感極まって少し歌を崩してしまっている。オーバーダビングで修正することもできるのに、そのまま収録している。これは、このライブを完全な記録として残そうという、彼女とスタッフの意気込みを意味するだろう。

 実は武道館ライブでは、ファンの間で、Twitterにおいて多少の騒動があった。この「六等星の夜」で一部のファンがペンライトを灯したり、スマホを点灯させたりした行為に対して、従来からのファンが批判をしたことだった。ぼくは知らなかったが、彼女のライブではファンマナーとしてそういうことはしないルールらしい。

実際、「六等星の夜」という曲は、肉眼で見える最も暗い星に自分を喩えて、それを見つけ出してくれるファン(彼氏?)に感謝をする、という体裁の歌詞の曲だ。だから、武道館ライブでは真っ暗なステージの中で歌い始め、最後には上空から淡い光の星たちが降り注ぐ演出となっていた。そういう演出がなされている中でのペンライトやスマホライトは、確かに、演出を著しく損なうものとなったと思う。実際、今回のNHKホールの入り口には、ペンライト禁止の注意書きがなされていたのが、その証拠なのだろう。でも、「六等星の夜」のときに、彼女を照らし出してあげたい、というファンたちがいることも理解できないわけではない。どちらも、ファン心理としてありうるものだと思った。

現代思想の316冊

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 今週に刊行される『現代思想』の特集『現代思想の316冊 ブックガイド2018』青土社に寄稿したので、宣伝のエントリーをしたい。

この特集は、若い読者をターゲットとしたブックガイド。哲学、人類学、社会学から、精神医学まで、まあ、言ってみれば、思想寄りのブックガイドとなっている。理学系分野は、統計学、数学、生物学の3分野だ。

そして、なんと! ぼくは数学分野のブックガイドをを書いている。

経済学じゃないんだな。経済学者なのに、経済学じゃないんだな。笑。経済学は別の人(塚本恭章さん)が執筆している。数学なんだな、数学者じゃないのに。笑。ちょっと残念でもあり、ちょっと誇らしくもある。

 今回の執筆はかなり難しかった。編集者のご要望は、「今日的な状況と、入門〜応用向けの必読書」ということで、教科書ではなく、お話本でもない本を紹介しなくてはならない。いったいどうしたものか、と途方に暮れた。

 それで思いついたのが、おおまかには4つの分類をして紹介をすればいいんじゃないか、ということ。次の4分類だ。

(1) どんな数学を勉強するのにも、どんな数理科学を勉強するにも、知っておくべき基礎→微積分、線形代数

(2) 現代の数学の問題意識とシンクロするために知っておくべき分野→ミレニアム問題

(3) 最先端の数学をつまみ食いするための道具→群とガロア理論、トポロジー、数論

(4) 「数学とは何か」を哲学的に鳥瞰するためのMRI装置→数理論理学、数学基礎論

このような分類から、以下のような本を紹介・推薦した。(自著も2冊入ってますが、ご愛嬌ということで。だって、他に良書がないんだもん)。

(1) 微積分、線形代数

微積分→堀川穎二『新しい解析入門コース』(日本評論社)

線形代数→小島寛之『ゼロから学ぶ線形代数』(講談社)

(2) ミレニアム問題

リーマン予想→黒川信重『リーマン予想の探求』(技術評論社)

バーチ・スィンナートン=ダイヤー予想(BSD予想)→Chahal『数論講義 数と楕円曲線』(織田進・訳、共立出版)

P≠NP問題→野崎昭弘『「P≠NP」問題』(講談社ブルーバックス)

(3) 群とガロア理論、トポロジー、数論

群とガロア理論→

(i)P・デュピュイ『ガロアとガロア理論』(東京図書)のおまけとしてついている、第2部の辻雄『ガロア理論とその後の現代数学』

(ii)久賀道郎『ガロアの夢〜群論と微分方程式』(日本評論社)

トポロジー→瀬山士郎『トポロジー・柔らかい幾何学』日本評論社

数論→加藤和也・黒川信重・斉藤毅『数論 1・2』(岩波書店)

(4) 数理論理学、数学基礎論

数理論理学・数学基礎論→

(i)前原昭二『記号論理学入門』(日本評論社)

(ii)小島寛之『証明と論理に強くなる』(技術評論社)

これらの分野がなんであるか、なぜこれらの分野を選らんだのか、どうしてこれらの本を推薦するのか、については、『現代思想』の特集『現代思想の316冊 ブックガイド2018』青土社のぼくの文章で読んでほしい。


WEBRONZAのレギュラー筆者になりました

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 今月から、朝日新聞社のWEBRONZAのレギュラー筆者に就任した。二ヶ月おきぐらいに投稿するとのこと。

すでに、二回論考を投稿したので、リンクをはっておく。購読している人は是非、読んでほしい。

3月の投稿

高校数学での統計学必修化は間違っている - 小島寛之|WEBRONZA - 朝日新聞社の言論サイト

4月の投稿

アベノミクスの目玉、異次元緩和政策の問題点 - 小島寛之|WEBRONZA - 朝日新聞社の言論サイト

 

これだけでは何なので、少し近況も書いておこう。

現在は、次に刊行する本を執筆している。タイトルは未定だけど、ビットコインとブロックチェーン(分散型台帳)に関する本だ。

ビットコインというのはネット上のお金のことで、最近では連日、世間を賑わしている。ビットコインという技術は、Satoshi Nakamotoという匿名の人物がアップロードした論文によって発明されたものだ。コピペなどによる偽造や、二重支払いなどの不正な取引が、ほとんど不可能なように工夫されている。それを可能にしたのが、ブロックチェーンという技術なのである。ブロックチェーンは、数理暗号という数学的な技術と、演算量証明という経済学的な技術(動機付け)によって成立している。やられてみると、実に見事な工夫である。

ブロックチェーンのポイントは、中央集権的な権威とか、権力とかが不要なことだ。取引や信用の付与を分散的に可能にするのである。その巧みな仕組みから、ビットコインなどの暗号通貨以外にも応用することができる。匿名の掲示板とか、音楽配信とか、自家発電で作った電気の販売とか、選挙の投票などだ。きっと、あと十年くらいのうちに、とんでもない変化を社会にもたらすことになるだろう。

 ビットコインのことを執筆するにあたって、とても役に立った本を紹介しよう。ケネス・S・ロゴフ『現金の呪い』日経BP社だ。

著者のロゴフは、マクロ経済学の重鎮で、業績の高い学者である。本書では、「紙幣を廃止すべし」という実に過激な主張をしている。なぜかというと、紙幣、特に高額紙幣は地下経済で悪用されているだけだから、ということなのだ。

本書は、貨幣の歴史の本としても読める。また、紙幣がどんな経済の中で流通しているかもデータ的にわかる。シニョレッジ(通貨発行益)がいったい何かということも理解できる。さらには、マイナス金利政策やインフレ目標の意味を知るのにもよい。

その上で、デジタル通貨、すなわち、ビットコインなどの暗号通貨についても先見の明を発揮している。暗号通貨こそ、紙幣の廃止に最も有力なツールだからだ。でも、残念ながら、ロゴフはそう考えていない。その部分を少し引用しよう。

分散型台帳技術が保証する先端的なセキュリティや暗号通貨に埋め込まれて天才的なアルゴリズムは、掛け値なしにすばらしい。それは十分に認めるが、ビットコインを始めとする暗号通貨が近い将来ドルに取って代わると考えるのは、単純すぎる。通貨革命を起こそうとした人々が過去千年間で学んだのは、このゲームで恒久的に政府を打ち負かすのはまず無理だ、ということである。というのもこれは、政府が勝つまでルールを変えられるようなゲームだからだ。こと通貨に関する限り、民間部門が政府よりうまくやる方法を考え出した場合、政府は最終的には完全に状況を理解し、最後は自分たちが勝つようにルールを決める。もし暗号通貨技術はもう止められないとわかったら、勝者(たとえば、ビットコイン3.0)は結局、政府が管理する「ベンコイン」(ベンジャミン・フランクリンにちなんだ私の命名である)の露払いで終わるだろう。(345ページ)

ロゴフはこのように、政府権力による圧力によって、暗号通貨が支配下に置かれる、と考えている。しかし、それでは、そもそもブロックチェーンの持つ分散管理システムが意味をなさない。この点については、ロゴフは予想の誤謬をおかしている、とぼくは思う。

いずれにしても本書は、とても読みやすく、刺激的で、得るものが多い本だ。読んで損はないと思う。

宇沢先生の理論のシンポジウムを土木学会が行います!

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 宇沢弘文先生の社会的共通資本の理論に関するシンポジウムを、土木学会が実施する。タイトルは、「宇沢弘文の社会的共通資本を再考する」だ。

シンポジウム「宇沢弘文の社会的共通資本を再考する」

日時:平成30年5月28日(月) 13:00−17:00

場所:土木学会講堂(新宿区四谷1丁目外濠公園内)

定員:120名

参加費:無料

ぼくも登壇するので、来場可能なかたは、是非いらしていただきたい。

案内のHPは↓。申し込みもこのHPからできる。

シンポジウム|土木計画学研究委員会

 以下、趣旨をHPから引用する。

宇沢弘文氏(1928-2014)は、数学者、経済学者として様々な分野で影響を与えてきた。特に、土木分野においては、「自動車の社会的費用」、「地球温暖化の経済学」、そして「社会的共通資本」の著作はその時代の政策研究、論議に大きな影響を与えた。

このシンポジウムでは、「宇沢弘文の研究」の第一人者の帝京大学の小島寛之教授を迎え、宇沢弘文の思想と理論について解説していただく。また、藤井聡教授、小池淳司教授から公共政策論、土木計画論の立場から社会的共通資本に関連する話題を提供していただく。

さらに、基調講演、話題提供を受けて、全体討議をすることにより、「宇沢弘文の社会的共通資本」を再考するものである。

「宇沢弘文の研究」の第一人者と言われるのは、嬉しくもあるけど、分不相応で恐縮してしまう。だって、宇沢先生のお弟子さんで、高名な経済学者はたくさんいるから。でも、宇沢先生の新古典派としての仕事ではなく、こと「社会的共通資本の理論」を、相当に読み込んで、さらには、先生自身からも直接指導を受けた中で現役の理論系経済学者なのは、ひょっとするとぼくだけかもしれないから、そういう意味では、「宇沢弘文の研究」の第一人者と言われてもそんなに嘘ではないかもしれない。

基調講演をすることになっているのだけれど、時間をたっぷりいただいているので、先生の新古典派の仕事も紹介した上で、先生がどのように経済思想を変遷されていったかを浮き彫りにしたいと思っている。さらには、ぼくが語れる限界内でだけれど、「社会的共通資本の理論」を現代の中でどう再考し、どう発展させるべきかも主張してみたいと思っている。

宇沢先生は、『自動車の社会的費用』というすごい本を書いて、当時の自動車業界や道路行政と鋭く対峙した。時代は変わり、土木学会が、先生の理論に学術的関心を寄せている、ということは感慨深いことであるし、学者の世界というのは捨てたものではないな、と思う。

是非、できるだけたくさんの人に聴きにきていただきたい。

映画『ペンタゴン・ペーパーズ』を観てきますた!

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 ゴールデン・ウィークに、観たかった映画『ペンタゴン・ペーパーズ』を家族で観てきた。これは、スピルバーグが監督したハリウッド映画で、1971年アメリカに起きた大事件を描いたものだ。それは、ベトナム戦争の真実について、その秘匿されている情報を、ある男がコピーして持ち出して、ニューヨーク・タイムズとワシントン・ポストにリークした。それが報道されたことで、国民がベトナム戦争の真実を知るところとなり、世論が大きく変わって、戦争終結に結びついた、その顛末を描いた映画だ。

 観たかった理由は二つある。

第一は、宇沢先生に市民講座で教わっていた頃、ベトナム戦争とその当時のアメリカの雰囲気を教わったことがあり、非常に興味を持っていたこと。第二は、書類をコピーして持ち出しリークした人が、経済学者ダニエル・エルスバーグという人で、ぼくの研究の始祖にあたる人だから、ということ。以下、順を追って説明する。

 その前に、前回(宇沢先生の理論のシンポジウムを土木学会が行います! - hiroyukikojimaの日記)にも宣伝した、宇沢先生の理論に関する土木学会のシンポジウム(ぼくも登壇する)について、もう一度宣伝をしておきたい。残席が僅かになっているので、もしいらっしゃるのなら、早めにお申し込みを。

シンポジウム「宇沢弘文の社会的共通資本を再考する」

日時:平成30年5月28日(月) 13:00−17:00

場所:土木学会講堂(新宿区四谷1丁目外濠公園内)

定員:120名

参加費:無料

案内のHPは↓。申し込みもこのHPからできる。

シンポジウム|土木計画学研究委員会

 さて、この映画の主役は三人いる。第一は、国防長官ロバート・マクナマラ、第二は、リークする経済学者ダニエル・エルスバーグ、第三は、ワシントンポストの経営者キャサリン・グラハムだ。

 ロバート・マクナマラについては、宇沢先生に相当詳しく、その人となりを聞いた。それは宇沢先生の著作にも詳しく書かれている(例えば、『宇沢弘文傑作論文全ファイル』東洋経済新報社)。少し引用しよう。

ケネディ、ジョンソン両大統領のもとでヴェトナム戦争を計画し、実行していったこれらの知的エリートとでも言うべき人々が、じつはいかに知性の乏しい、人間的に貧しい人々であったか、ということをハルバーシタムは繰り返し述べている。とくに、ロバート・マクナマラ元国防長官にかんする叙述は詳細にわたっている。彼が一見すぐれた能力をもつようにみえながら、ヴェトナムにおける歴史的な流れを理解することができず、軍事的介入をエスカレートしていった過程を見事に描き出しているが、最後に「要するに、彼は馬鹿であった(After all, he was a fool.)という言葉で結んでいるのは、きわめて印象的である。(中略)。

 とくに多くの経済学者が、ロバート・マクナマラ氏が長官であった国防省に入って、戦争計画に直接関与することになり、新古典派経済学の考え方にもとづいてさまざまな政策が立案され、実行に移されていった。マクナマラ氏はもともとハーバード大学で経営学を講じた学者でもあったが、その効率主義にもとづく考え方は、新古典派経済学の理論的展開とも調和するものであった。ヴェトナム解放戦線の兵士を一人殺すのにどれだけの費用が必要となるか、という、いわゆる「キル・レシオ」(殺戮比率)という概念が導入され、「キル・レシオ」を最小化するためにどのような資源配分のパターンを国防政策のなかでとったらよいか、という議論が堂々と行われた。

 その結果、もっとも多いときには年間600億ドルという巨額な資金がヴェトナム戦争の直接軍事費として支出されるという状況のもとでも、増税をおこなうことなく、またインフレーションをお惹き起こすこともなく、ヴェトナム戦争を遂行し、国土を破壊し、人民を殺戮することを効率的におこなってきた、というのが、マクナマラ長官が上院外交委員会の証言でつよく主張したことであった。

この文章には、宇沢先生の怒りと、新古典派経済学への失望が読み取れる。宇沢先生が新古典派的な手法に愛想尽かしたのは、このあたりに原因があるのではないか、と憶測している。

 映画に出て来るマクナマラは、見た目には非常に常識人に見える。しかし、そこはかとない狂気が秘められているように見える。つまり、ある種のサイコパスとして描かれていた。

 一方、ダニエル・エルスバーグは、この文章にあるように、マクナマラの配下になりながら、マクナマラの人となりに大きく反感を持ち、ベトナム戦争の現実が秘匿されている事実に怒りと絶望を持ち、機密書類の持ち出しという犯罪を実行した。つまり、アメリカの経済学者は、宇沢先生のいうような狡猾で心のない人ばかりではなく、エルスバーグのような人もいる、ということがすごいのだ。

 ちなみに、エルスバーグは、その後、2003年3月のブッシュ政権によるイラク侵攻のときも、政府を痛烈に批判し、「アメリカ政府は核兵器を使用しかねない危険性をはらんでいる」と全世界に警告を発し、開戦後にホワイトハウス前で開かれたイラク攻撃の抗議集会に参加して逮捕された(拙著『確率的発想法』NHKブックス参照のこと)。

 そのエルスバーグは、実は、ぼくの研究の始祖・発祥にあたるのは奇遇だ。もちろん、エルスバーグに惚れて研究を始めたわけではなく、偶然にすぎない。でも、何か、運命のようなものを感じないわけではない。

 エルスバーグの博士論文は、確率的意思決定に関するものだ。当時は、経済学、統計学、ゲーム理論、意思決定理論では、「主観的確率による期待効用」という概念が広く用いられていた。これは、人々が「効用の確率的期待値」を基準に行動を決定する、という考え方だ。しかし、エルスバーグは、簡単な実験によって、人々がそのような基準を使っていないことを指摘した(この点も拙著拙著『確率的発想法』NHKブックス参照のこと)。それ以来、「非期待効用理論」と呼ばれる方法論や、「ナイト的不確実性理論」と呼ばれる方法論の研究が進められるようになったのである。ちなみに、ぼくは後者の研究者であり、6本の公刊論文はすべてエルスバーグの研究に関連するものなのだ。

 だから、映画で役者が演じるとはいえ、エルスバーグがどんな感じの人なのかにはとても興味があった。そして、映画に出て来るエルスバーグは、めちゃめちゃカッコよかった。自分の研究が誇らしくなった(笑)。

 第三の(しかし、真の)主人公キャサリン・グラハムは、名優メリル・ストリープが演じている。この女性は、ワシントンポストの経営者だった夫が死んだので、経営者の座についたにすぎない女性だった。にもかかわらず、この事件の中で、普通の主婦から、気骨のある新聞経営者へと変貌を遂げていく。これは、ストリープの演技力の賜だ。この人が演じてこそのものだった。アメリカの新聞界にはこういう人物が生まれる土壌がある、ということがすばらしい。

 ストリープと言えば、名作『ディア・ハンター』が二作目の出演で出世作となっている。この映画は、ベトナム戦争に関するもので、あまりにすばらしい映画なのだ。いずれ紹介をエントリーしたいと思う。

 『ペンタゴン・ペーパーズ』が、現在の日本で公開されたのは意義深い。数枚の書類が世の中を転換させる、ということは起こりうるのだ。大統領を失墜させる、ということはありうるのだ。しかし、それには国民の、不正と虚偽を許さない魂と気骨が不可欠なのだ。

 ハリウッドは、こんな映画を作りうることが本当に尊敬できることだと思う。スピルバーグのような監督がいて、それを支えるスタッフとオーナーがいて、それを支える観客がいる。そういう意味で、アメリカはまだまだ捨てたものではない。映画はアメリカ人向けに作られているため、ほとんど解説をしないで、ものすごいスピードで進むので、若い人は少し事件をネットで調べてから行ったほうがいいと思う。大学生の息子も面白かったと言ってたので、きっと若い人が観ても楽しめ、感動できると思う。

 

阪大のシンポジウムで登壇します

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 先日、土木学会のシンポジウムに登壇し、基調講演を行った。今度は、阪大社研主催のシンポジウムで登壇するので、宣伝したい。以下。

日時: 2018年7月2日(月)午後7時〜8時30分 (開場/受付開始 午後6時から)

場所: 大阪大学中之島センター10階 佐治敬三メモリアルホール

 

講演 [30分]:「消費低迷と日本経済」

小野 善康 大阪大学社会経済研究所特任教授

 

討論 [60分]:「日本経済をどう見るか」

原 真人 朝日新聞社編集委員

小島 寛之 帝京大学経済学部経済学科教授

小野 善康 大阪大学社会経済研究所特任教授

詳しい内容は、下記のホームページから。

http://www.osaka-u.ac.jp/ja/news/seminar/2018/07/7786

小野さんと、朝日新聞の原さんと、ぼくという取り合わせなので、何が主張されることかは自ずとわかるだろう。そう、きっと、

リフレ政策は失敗したのだ!

という主張が展開されることになるんだろう。(まだ、打ち合わせしてないので、実際はどんな話題が展開されるのかはわからない)。関西方面のかた、是非とも、ご参集くだされ。

さて、土木学会に参加した感想を簡単に述べておこう。

土木学会の側から、京都大学の藤井聡教授と神戸大学の小池敦教授が宇沢先生の理論について報告を行った。どちらも、宇沢先生の社会的共通資本の理論について、よく理解されておられたが、とりわけ、小池教授の研究報告は興味深いものだった。sympathyとempathyとの違いに注目したり、コストvsベネフィットに対するカルドア・ヒックス基準を持ち出し、新しい視点、宇沢先生的な解釈を導入したり、非常に斬新にしてディープな研究だった。

土木学会は、『自動車の社会的費用』を書いた宇沢先生にとって、敵地そのものかと思っていたが、驚くべきことに、そこに先生の理論が芽吹いていたのだ。むしろ、経済学会よりも宇沢先生の理論が定着していると言っても過言ではないのは皮肉なことだった。

 もう一つ驚いたのは、小野善康さんの経済政策がかなり議論の俎上に載ったことだった。土木学会は、まあ、公共事業と縁が深いから当然と言えば当然だけど、小野さんの理論がじわじわと普及していることは嬉しいことである。

というわけで、次回は7月に、小野さんが主役のシンポジウムがあるのでよろしくね、ということで。

オイラーはやっぱりとんでもなくスゴイとわかる本

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 今回は、黒川信重さんの新作を紹介しよう。『オイラーとリーマンのゼータ関数』日本評論社だ。「ゼータの現在」というシリーズ本の2冊目の本だ。

この本はゼータ関数についての解説書で、もちろん数学書としてはけっこう高度な内容だ。しかし、読み方を工夫する、つまり、注目する視点を変えると、非常に面白く、かつ、深い感慨が得られる本なのだ。視点は、少なくとも次の二点がある。

(1) オイラーのゼータ関数に関する業績を、オイラーの年齢順に並べてある点

(2) 最新の数論の方法論である絶対ゼータ関数(F1理論)をオイラーが既に議論していたことを明らかにしている点

どちらにも共通しているのは、オイラーはやっぱりとんでもなくスゴイ、ってことだ。ちなみに、ぼくがこのところずっとはまっているアニメ「化物語」シリーズ(例えば、確率・統計は、マーケティングに使えるらしいぞ - hiroyukikojimaの日記にエントリーしている)には、老倉育(おいくらそだち)という少女キャラが出てくるが、このキャラは数学好きが特徴で、明らかにオイラーを彷彿とさせるのである。オイラーはアニメで少女に憑依するぐらいスゴイのだ(笑)。まあ、本書を読む前に、老倉育ファンのぼくが書いたゼータ関数と素数の入門書『世界は素数でできている』角川新書を読んでおくことを強くお勧めする。

 視点(1)で書かれた本は、あるようであんまりないんじゃないかと思う。年齢順に、オイラーの発見を見ていくと、オイラーの天才ぶりが浮き立つ。まず、26歳で、オイラー定数と呼ばれるγ=0.577・・・を発見している。これは、1の逆数、2の逆数、・・・、nの逆数の和から、log nを引いた値のnを無限大に飛ばしたときの極限だ。さらに、γをゼータ関数の値の級数で表すことも証明している。オイラー数がゼータ関数で表現できること、そして、それを若いオイラーが発見していたことは全く知らなかったので、これには思わずうなってしまった。

次に、28歳のときに、例の平方数の逆数和であるζ(2)の値が、(円周率の2乗)/6であることを求めている。さらに、正の偶数のときのゼータの値、ζ(4)、ζ(6)、ζ(8)、・・・も求めている。すべて円周率が現れる。

さらに、30歳のとき、ゼータ関数に関するオイラー積を発見している。これは、ゼータ関数の値が全素数で表現できる、という公式だ。その上で、素数の逆数和が無限大であることも証明している。

そして、32歳と42歳のときに、関数等式を見つけている。関数等式とは、ゼータ関数の値が1/2に関してある種の対称性を持っている、ということを示す公式である。

次なる年齢は、61歳まで20年ほどジャンプする。この年のオイラーは、ゼータ関数を積分で表示する式を発見している。リーマンはこの式を土台にして、解析接続という方法を開発した。解析接続とは、(sの実部)>1でしか通常の意味では収束しないゼータ関数を全複素数に拡張する重要な方法論だ。

この次は、65歳である。ここでオイラーは、s=3におけるゼータの値ζ(3)を表現する式を求めている。ζ(2)を求めてから、この値にアプローチするまで37年の経過しているのは感慨深い。ζ(3)を表現する式は非常に面白い式(log(sinx)なんて出て来る)なので、是非とも本書で鑑賞してみてほしい。

そのあと、3年後の68歳で、オイラーは、交代和形式のゼータ関数(L関数)を研究している。

このように時系列(年齢系列)で見ると、オイラーが、非常に執念深く、繰り返しゼータ関数にアタックしていることがわかり感動する。そればかりではなく、70歳近くなったオイラーがまだ精力的にゼータ関数に挑んでいる姿には勇気がもらえる。ぼくも今年、還暦を迎えるが、まだまだ研究にアタックすべきなんだ、と気持ちを新たにした。

 しかし、本書の真の驚きは、(2)の点だ。

本書では、黒川さんがリーマン予想を解決するために提案した絶対ゼータ関数(F1理論)を第2章で概説し、引き続く第3章で、オイラーが既にこの絶対ゼータ関数を研究していた、という驚異的な事実を打ち出している。

絶対ゼータ関数をここで詳しく述べるのはぼくの能力を超えるので、本書を読んでほしい。あるいは、ぼくと黒川さんの共著『21世紀の新しい数学』技術評論社を先に読むと良いだろう。この共著は、基本的に対談本なので、他の解説書よりは読みやすいと思う。

本書によれば、絶対ゼータ関数は絶対保型形式から定義する、という方向が定着したそうだ。絶対保型形式f(x)とは、xを1/xに置き換えたf(1/x)がほとんど元と変わらないような関数をいう。このf(x)を使ってある種の積分操作を行って関数Z_f(w, s)を作り、これをwで偏微分してexpすると、絶対ゼータ関数ζ_f(s)が得られるそうである。さらに、コンヌとコンサニは、この絶対ゼータ関数が、もっと簡単な積分計算で得られることを示している。f(x)をlogxで割って、xのべき乗を書けて積分し、expする計算である。実はこの計算をオイラーは既に見つけていた、というのだ。

 オイラーは、67歳〜69歳にいくつかの論文を書き、絶対ゼータ関数に肉薄している。オイラーが67歳に発見した積分結果は、先ほどのコンヌとコンサニの絶対ゼータ関数に含まれるものなのである。さらに、68歳で証明した結果はとても面白い。最初のほうで説明したオイラー定数γの積分表示を手に入れている。1/(1−x)と1/logxの和を0から1まで積分するとγになる、というのである。この証明での計算を黒川さんは「絶対ゼータ関数の計算である」と断言している。黒川さんがこの見方を提示するまでは、誰もが「単なる定積分の計算」と眺めていた、と黒川さんは言う。この発見を黒川さんが研究集会で述べたとき、コンヌも、カルティエも、ラフォルグもみんなが驚いた、とのことだ。

 このように、本書は、いくつもの驚きと感動をもらえる本になっている。数学を理解する力がそんなになくとも、数式を見るのが鬱陶しくても、この本は飛ばし飛ばし読んでいくだけで、わくわくしてきて、どきどきしてきて、興奮できること請け合いだ。

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