来週、京都のお寺で、宇沢先生の思想についてのレクチャーをする。具体的には、
『宇沢弘文を読む』
日時:2月17日(月) 17:00~19:00
場所:法然院
詳しくは、以下のサイトから↓
関西方面に居住の方は、是非、ふるってご参加ください。
宇沢先生の制度学派としての仕事「社会的共通資本の理論」については、先生のお弟子さんの一部が、継続して研究を進展させておられる。一方で、宇沢先生には、東大での教え子がものすごくたくさんおり、しかも、皆さんとても優秀で業績の高い方々であるのに、そのほとんどの方は「社会的共通資本の理論」に興味を示さず、貢献もしていない。その現状を打破すべく、宇沢先生のお嬢さんである占部まりさんが、(医師という職業を持ちながらも)、宇沢先生の思想を広め、深める活動をしておられる。今回のレクチャーも、お嬢さんが企画したものだ。
宇沢先生の弟子筋学者のほとんどの方が、先生の理論・思想に興味を持っていないのは、ぼくには、「悲しい」というより、とても「不思議」なことなのだ。
「社会的共通資本の理論」はそんなに魅力のない考え方なのだろうか。そんなに荒唐無稽な思想なのだろうか。
ぼくには全くそうは思えない。プロの経済学者となり、主流の経済学の研究をかなりな水準で理解できた今でも、その思いは同じだ。主流派の(新古典派的な)経済学の理論が、先生の理論・思想に比べて、突出して優れていて、段違いに「真実である」ようには全く思えない。
もちろん、主流の経済学は、数理モデルを使って構築する、というルールを決めたことで、「勝ち負け」を判定しやすくなり、「競争」に適するようになったのは事実だろう。将棋や囲碁のように、「競う」方法が明確になり、序列(ランキング)をつけやすくなった。そういう構造を作れば、「組織的秩序」を生み出しやすい。優れた知的能力を持った人々は競うのが大好きだから、そういう構造・秩序は動学的に安定的(進化ゲーム理論で言うところの、進化的な安定)であろう。
でも、経済学って、そういう学問でいいんだろうか?
ぼくはそういう素朴な疑問をぬぐえない。経済学は、「科学」であって欲しい、のと同時に、「思想」でもあって欲しい、というのがぼくの切なる願いなのだ。だから、単なる「数学的遊戯」に陥って欲しくない。
「社会的共通資本の理論」に対して、理論として曖昧過ぎる、という批判があるのもわかる。(そりゃ、主流派のようなルールの明確さがないからね)。あるいは、「単なる公共財の理論に毛の生えたもの」という評価もわかる。(公共財の理論も、非常に手厚く研究されているからね)。現在のぼくには、そういう批判・評価に抗する材料も成果もない。
ただそれでも、この理論・思想に中に、「空虚ではない何かの存在」を感じるのだ。
最初は、一般市民として宇沢先生に市民講座でレクチャーを受けて、この思想に素人の熱狂をしたのに過ぎなかった。その後、大学院で主流派の経済学の手ほどきを受け、主流派の経済学(ミクロ経済学やマクロ経済学や社会選択理論やゲーム理論など)の数理科学的なみごとさを理解した。そうした上で、というかそれだからこそやっぱり、主流派の経済学に欠けているものがあるという感触に至った。「欠けているもの」というより「届かないもの」と表現したほうがいいかもしれない。それは、喩えてみれば、力学方程式を足し算して行っても統計力学に到達しない、みたいな「届かなさ」だ。これについては、前のエントリー、
経済学で最も大事だと思うこと - hiroyukikojima’s blog
を参照して欲しい。宇沢先生もたぶん、同じことを感じて、新しい方法論を模索したのだと思う。その「届かないもの」にたち向かうには、「社会的共通資本の理論」のような制度学派の方法論を取り入れるしかないような気がするからだ。
そんなわけで、ぼくは先生のお嬢さんに協力しつつ、それをムチにして、バネにして、宇沢先生の思想の進展に自分を鼓舞しようとしている。今回の法然院のレクチャーをお引き受けしたのも、自分の研究活動推進の一環なのだ。
そんなわけなので、時間に余裕のある、関西方面在住のかたは(もちろん、日本のどこのかたでも)、是非、聴きにきてほしい。