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リーマンについての鼎談と、NHKの番組でのイギリス数学者の発言のこと

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 久しぶりの、そして、今年初めてのエントリー。このブログには、月に最低2回はエントリーをしたいと思ってるんだけど、1月は期末試験やらセンター試験やらでなかなか余裕がなかった。まだ、期末試験の採点の最中だけど、やっとエントリーする時間ができた。今年もできる限り、近況をエントリーしたいと思うので、ご愛読のほどよろしく。

 もう原稿の校正も済んだし、出版社からの告知もなされてるみたいだから書いてしまってもいいと思うんだけど、『現代思想』青土社の増刊号で、数学者リーマンの特集号が2月に刊行される予定だ。今年は、リーマン没後150年、生誕190年という年にあたり、その記念の特集である。記事の一つとして、年末に黒川信重先生と加藤文元先生とぼくとで、リーマンについての鼎談を行った。黒川先生は、いうまでもなく、リーマン予想の専門家として、加藤先生は代数幾何の専門家として、それぞれの立場からのリーマン観を語ってくださった。リーマンについて門外漢であるぼくとしては、非常に楽しく、また、ためになるお話を伺うことができて、クリスマスシーズンに幸せな気分に浸ることができた。前回、このブログの続・続・堀川先生とキングクリムゾンの頃 - hiroyukikojimaの日記というエントリーで、リーマン面の勉強をしている話を書いたけど、実は、この鼎談のための予習だったのだ。

ちなみに、黒川先生のリーマン予想についての新著『絶対ゼータ関数論』岩波書店が、来週あたりに刊行されるらしい。また、加藤先生には、リーマン面の発展分野としての仕事として、次の本がある。

リジッド幾何学入門 (岩波数学叢書)

リジッド幾何学入門 (岩波数学叢書)

この本は、ぼくの鼎談のために購入して、チャレンジしてみたけど、全く歯が立たなかった。でも、鼎談の中でずうずうしく質問してみたら、非常にわかりやすく説明してくださり、「そういう研究なのか」という外観は理解することができた。詳しくは、増刊号を読んでいただきたい。

実は、『現代思想』増刊号の刊行日である2月19日に、黒川先生と加藤先生の書店でのトークショーが予定されている。ぼくは、大学の業務があって、それは何時に終わるかわからないため参加表明をできないのだけど、間に合えば駆けつけて飛び入りするつもりである。予定がはっきりしたら、このブログで告知する。

 関係ないようで、少し関係のある与太話を一つ。

昨年の12月24日の深夜にNHK総合で「世界入りにくい居酒屋 イギリス エジンバラ」という番組をやっていたので、なんとなく、つれあいと見ていた。番組ではスコットランドのエジンバラのパブが取材されていた。見てしまった理由は、スコッチとかアイラとかのウイスキーが紹介されており、アイラ好きのぼくとしては興味津々だったのが一つ。もう一つは、ナレーターが元AKBの篠田麻里子さんで、ぼくは彼女の熱狂的なファンであったことだった。

その番組では、面白いことに、パブにエジンバラ大学の4人の数学者(か数理物理学者)が居合わせた。そこで、スタッフがインタビューした。専門は、代数幾何とか非可換幾何とか言ってた。撮影スタッフが日本人だとわかると、一人の数学者が「日本で一番有名な数学者は」とスタッフに質問した。スタッフが「わかりません」と答えると、彼は三人の名前を挙げた。テロップには、「森毅、広中平祐、志村五郎」と翻訳が表示された。(ぼくは、まじめに見てたわけではないので、英語は聞き取らなかった)。そして、「日本は数学が強いよね」と彼は言った。

そのとき、ぼくは何かの違和感を感じたのだけど、そのときは自分の中で違和感の正体が明確にはならなかった。数日たった頃に、違和感の正体がわかった。それは「なぜ、森毅なんだ?」というものだった。もちろん、森毅さんも、数学者ではあるし、日本では有名だし、名前が挙がってもいけないわけではない。でも、あとの二人が、広中平祐と志村五郎だということ、それから、その数学者が代数幾何とか非可換幾何の専門家だということを考え合わせると、やはり違和感が否めない。第一は、広中平祐と志村五郎が海外で著名なことは明らかなこと、前者はフィールズ賞受賞者だし、後者はフェルマー予想の解決に貢献した谷山・志村予想に名を刻む数学者だ。そして、第二は、二人とも代数幾何、数論幾何の専門家であること。そう考えると、「森毅」のトッピングというのは、なんか奇妙な感じがしたのだ。それで、「ひょっとしたら、森毅ではなく、森重文と言ったのではないのか?」という閃きがやってきた。森重文さんなら、フィールズ賞受賞者だし、代数幾何の学者だから。

そんなことをつれあいに話したら、数学者ファンのつれあいは、なんと! NHKにメールで「あの場面では、その数学者は英語でなんと言っているのか」という質問を出してしまった。そうしたら、さすがNHK。三日ほどで返事をくれたとのこと(こういうサービスがあるなら、受信料の払い甲斐があるというものだ)。返答は、「We have Mori and just have Hironaka and Shimura as well」と言っている、とのことだった。ほ〜ら、名字しか言ってない。フルネームにしたのは、きっとスタッフなのだ。そして、ググったかなんかして、「森毅」だと思ったのだろう。もちろん、放映されていない場面で、その数学者にフルネームで訊ねた可能性もないではない。でも、非常に高確率で、彼が言ったのは「森重文」なのだと思う。

まあ、だからなんだってことはないんだけど、ちょっと面白い一件だったので、書いてみたってことっすね。


また、最大の素数が更新された!

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 また、最大の素数の記録が更新された。朝日新聞の1月24日の記事によると、2233万ケタの素数が発見され、確認された、とのことである。2013年に更新されたあとの3年ぶりの更新となる。いやあ、めでたいめでたい(何がめでたいのかは、うまく言えないが、とにかくめでたい)。

 発見したのは、アメリカのセントラルミズーリ大学のカーチス・クーパー教授とのことだ。これだけ巨大な数だから、一台のコンピューターでは確認できない。世界中のコンピューターをつなげて、並行処理によって確認した、ということらしい。そういうプロジェクトGIMPSというのがあるのだそうだ。

 このような巨大な素数は、すべて「メルセンヌ素数」と呼ばれるものである。これは、2のべき乗から1を引いたタイプの数の中で素数になるものをいう。小さいほうから、少し列挙してみよう。2の2乗引く1は3で、これが最初のメルセンヌ素数。次のは、2の3乗引く1で7。三番目は、2の5乗引く1で31である。

 メルセンヌ素数は、最初のうちは、このように頻繁に出てくるけれど、すぐに非常に稀な数になる。wikipedia(メルセンヌ数 - Wikipedia)によれば、今回見つかったのが49番目、ということである。まず、「べき」に当たる数は素数でなければならない。実際、先ほどあげた、最初の3つでも、「べき」はそれぞれ、2, 3, 5でみな素数となっている。この事実は高校で習う因数分解公式の簡単な応用問題だから、知らなかった人は考えてみてほしい。もっと直観的にわかる証明を述べるなら、メルセンス素数を2進法で書くと1を並べた数に必ずなる、という事実が役立つ。実際、2進表示すると、3→11、7→111、31→11111となっている。1の個数は「べき」と一致する。べきnが2以上の約数aを持つ場合、1をn個並べた2進数は1をa個並べた2進数で割りきれるので(実際、10進法と同じく、縦の割り算を実行すればすぐわかる)、これは素数にはなれないのである。

ちなみに、2のべき乗引く1が素数かどうか判定しやすいことの一つの理由は、この2進表示の簡単さが計算機で扱いやすいことにあるとのことだ。実際、普通の巨大な数を素因数分解することは、計算機でも手に負えない問題で、それがRSA暗号(パスワードに利用されている暗号化の方法)の安全性の根拠となっている。このあたりの話は、拙著『世界を読みとく数学入門』角川ソフィア文庫に詳しく書いたので、是非、読んでみてほしい。

2のべき乗引く1が素数かどうか判定しやすいことのもう一つの理由は、「小さな素数から順々に割っていく」という愚直な方法とは異なる、巧いテスト方法があるからである。それは、2乗を使って逐次計算していくリュカ数列というのを使ったリュカテストと呼ばれる判定方法だ。リュカテストは、先ほどのwikipediaのページに書いてあるから、そちらで読んでいただきたい。ぼくが、中学生の頃に読んだ素数の本では、「ルカステスト」と書かれていたように記憶してる。Lucasを英語読みしていたのではないか、と思われる。

 素数が無限に存在することはよく知られている。ギリシャ時代にユークリッドが既にみごとな証明を発見していた。また、オイラーによる発散無限和(ζ(1)=自然数の逆数和)を使った証明も有名である。さらに、オイラーは、「素数の逆数の総和」、すなわち、1/2+1/3+1/5+1/7+・・・が無限大に発散することも発見しており、これも素数が無限にあることの別証となっている。ところが、現在、巨大な素数を発見するには、メルセンヌ素数を見つけるしか手立てがなく、にもかかわらず、「メルセンヌ素数が無限に存在する」というのは、単なる予想にすぎないのである。もしも有限個しかないなら、巨大な素数を見つけるこのアプローチは、いずれ無意味な仕事と化してしまう。

 リーマン予想の研究者である黒川信重先生とぼくとの対談で作られた名著(笑)に、『リーマン予想は解決するのか? 絶対数学の戦略』青土社がある。

リーマン予想は解決するのか?_絶対数学の戦略

リーマン予想は解決するのか?_絶対数学の戦略

本書には、黒川先生による「数論の予想解決・予言表」というすばらしいものがついているので、それを一部引用してみよう。これは、数論の課題の解決と科学・技術の発明時期とを対応されたものである。黒川先生のユーモアぎりぎりの(たぶん)まじめな予言である。

    数論の課題                 科学・技術・SFの開発発明

○合同ゼータに対する行列式表示とリーマン予想 

(1965、グロタンディーク;1974、ドリーニュ)      コンピューター・ネットワーク

○ガロア表現変換群 (1980、メーザー)      ネットワーク・ウィルス(感染)

○有限数体上のすべてのゼータの行列表示とリーマン予想    タイムマシン

○一般ガロア表現のアルチン予想               テレポーテーション

○マース波動形式に対するラマヌジャン予想と佐藤テイト予想      ワープ航法

○双子素数無限個                       半重力装置

○メルセンヌ素数無限個                  反重力装置

○フェルマー素数無限個                  負エネルギー装置

という塩梅である。この予言表によれば、メルセンヌ素数が無限個あることの解決は、双子素数よりもあとで、反重力装置が発明される頃となっている(双子素数については、またまた双子素数の研究が進んだようだ。 - hiroyukikojimaの日記のエントリーを参照のこと)。それはいったい、具体的にはいつ頃なのだろうか?それについては、黒川先生とぼくの対談本の第二弾である『21世紀の新しい数学 絶対数学』技術評論社にある。

この本で黒川先生が予言しているのは、メルセンヌ素数が無限個存在することが証明されるのは2500年頃、ということだ。上の対応で言えば、この年は反重力装置が発明される年でもある。気が遠くなるほど先のことであることは疑いない。

黒川先生は、なぜ、双子素数やメルセンヌ素数についての解決をそんなに遠い先と考えているのか。そのおおまかな直観は、やはり、『21世紀の新しい数学 絶対数学』技術評論社の中で述べられている。それは、冒頭に書いたことと関係ある。冒頭に書いた通り、素数が無限個あることのオイラーの証明は、ゼータ関数という発散無限和に立脚している。そして、さらには、それから素数の逆数和が発散することが示される(素数が有限個だったら逆数和も有限になる)。双子素数については、その逆数和が有限であることが既に証明されている。したがって、オイラーの方法は少なくとも同じ形では通用しないとわかる。メルセンヌ素数については、(2のべき乗の逆数和は有限だから)、その逆数和が有限であることは、高校生にでもわかる。したがって、同様に、オイラーの方法は直接には使えない。そこで、黒川先生は、「現在見つかっていない新たなゼータを見つけることが不可欠だろう」と考え、それに5世紀にも及ぶ歳月を見込んでいる、というわけなのだ。

黒川先生の予言が当たっているなら、ぼくがこの世にいなくなってからの、途方もない時間が流れたあとの世界、ということになる。再生医学が発達して、5世紀後に一瞬だけ目を覚ますことができたら、「メルセンヌ素数はいくつまで見つかっていますか? 無限個あると証明されましたか?」と真っ先に聞きたいものだ。後者の答えがYESだったら、きっと、新しいゼータが活躍していることだろう。

素数の個数が、自然対数(log)で表せるのはなぜか

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今回も、前回に引き続いて、素数のことについて書こうと思う(前回のエントリーは、また、最大の素数が更新された! - hiroyukikojimaの日記)。

 最近、素数に興味を持っているのには、二つの理由がある。

第一は、受験雑誌『高校への数学』東京出版に、新年度の4月号からの連載で、素数について書こうと思っていること。実はこの雑誌での連載は、今年で30年になる。ちょうど区切りの年となるので、ぼくの中学生の頃の初心に戻って、素数について語ってみようと思っている次第。

第二の理由は、今月刊行される『現代思想増刊 リーマン特集』青土社のための鼎談を年末に行ったこと(リーマンについての鼎談と、NHKの番組でのイギリス数学者の発言のこと - hiroyukikojimaの日記参照)。そこで、黒川信重先生からリーマン予想についてのお話を伺って、がぜん、素数についての興味がかき立てられたのだ。

素数の話を書く前に、このリーマン特集に関するイベントの告知をしておこう。

【現代思想リーマン特集】発売記念トークイベント

〜リーマンへの「現代思想」からの挑戦状

〜 黒川信重先生×加藤文元先生

(場所) 書泉グランデ(神保町) 7Fイベントスペース

(日時) 2月19日(金曜日) 19:00〜20:30

詳しくは、【現代思想リーマン特集】発売記念トークイベント ?リーマンへの「現代思想」からの挑戦状? 黒川信重先生×加藤文元先生 - 書泉/東京・秋葉原にアクセスせよ。

このイベントの見所は、黒川先生から「リーマン予想解決までのカウントダウン」が聴ける(であろう)こと、それから、「加藤先生のイケメンぶり」を堪能できること(ほんとにイケメンだよ)。少なくとも、それだけでも、参加する価値があると断言できる! ぼくもこのイベントには参加予定なのだが、不運なことに、この日、大学の業務があって、開始時間に間に合わない可能性があり、それで「飛び入り」という扱いにしていただいた。また、その大学業務は、終了時間に不確実性があるため、ひょっとするとイベントの終了時間までに駆けつけられない可能性も微少量だけあるため、ものすごく不運だと「飛び入り」さえできないこともありうることをお断りしておきたい。なにはともあれ、書泉グランデで、このブログの読者の何人かとお会いできれば幸いである。

 さて、素数の話に戻ろう。

黒川先生は、本当に人格者で、お会いするたびに心が高揚する。数学科に在籍したときは、教員たちは、意地悪で傲慢で人の気持ちを解さない人がほとんどだった。数学の才能のある学生にはフレンドリーだが、そうでない学生には、人格を傷つけるような言動を平気でする。なので、才能のなかったぼくには、全く良い思い出が残っていない。それに比べて、黒川先生の他人と接するときの気配りや心遣いは、本当に、そういう数学者たちとは別次元で、お会いするたびに元気付けられる。

今回も、鼎談の最後のほうで黒川先生が、唐突に、「ところで私からむしろ小島さんに伺いたいのですが、リーマン予想は昔から確率論に深く結びついています」と発言された。ぼくは虚を突かれてしどろもどろになってしまったのだけど、あとで落ち着いて考えてみると、黒川先生はぼくを「確率の専門家」として扱ってくださって、それでこういう問題提起をしてくださったのだろうと推測できた。ぼく自身は、数学者でない、ということを強調するため、昔から「数学エッセイスト」と名乗っている。だから、数学者とこういう対談・鼎談をする際には、常に、「聞き手役」に徹することにしている。そんな中、黒川先生がぼくを「確率論」の研究者と見なしてくださったのは、光栄であり、そういう心遣いに胸が熱くなるものがあった。

そんな一件があって、ぼくは、中学生のときに入手した素数の本のことを急に思い出して、久しぶりに読んでみたくなった。それは、数学者ボレルの書いた『素数』という本だ。ボレルは、測度論とかルベーグ積分論での「ボレル集合」に名を残す、フランスの著名な数学者。この本は、クセジュ文庫というフランスの文庫を白水社が文庫化したもので、翻訳は芹沢正三先生だ。ぼくは、この本は、中学1年か2年の頃に買ったと思う。同じ、クセジュ文庫のイタール『整数論』と一緒に買った記憶がある。当時は、素人が読める数論の本はほとんどなく、この二冊は数学に目覚めたばかりの中学生には非常に貴重な本だった。(二冊とも今は絶版にように思うので、興味ある人は図書館にあたるといいと思う。)

ぼくは、当時はイタールの『整数論』ばかりを読んで、この『素数』のほうはあまり熱心にひもとかなかった。イタールの本は古典的な数論(フェルマーの研究成果周辺)だったのに対し、ボレルの本は、割と現代的なものだったからだ。とりわけ、ボレル『素数』では、素数の分布を確率論からアプローチしていて、当時、確率のことに全く関心のなかったぼくにはピントのはずれたアプローチに思えた。だから、長い間、本棚の中に放置していた。ところが、今回、黒川先生からの、先ほどの「リーマン予想は確率論と親和的」という問いかけを受けて、「そういえば」と急にこの本のことを思い出し、精読してみる気になったのだ。そうしたら・・・この本が、めっちゃ面白くためになる、とわかったのだ。人生、どこでどう転ぶか(起きあがるか)わからんものだ。還暦近くなって、この本に舞い戻るとは想像もしなかった。

 とりわけ、最後に「ノートII 素数の分布法則について」として書かれている内容は、驚愕であった。それは、いわゆる「素数定理」の直観的な導出となっているからだ。「素数定理」というのは、「(a以上b以下の素数の個数)は(b−a)/log bで近似できる」という定理である。ここで、「近似できる」というのは、「数値が近い」というだけでなく、「bまたはa,b両方を大きくしていくと、比の極限が1になる」という極限法則をも含めている。ボレルのこのノートは、この「素数定理」の完全な証明ではない。あたりまえだ、この証明は通常はゼータ関数の零点の評価から得られるが、それは非常に高度なものである。一方、ゼータ関数を使わない初等的な証明をセルバーグが与えているそうだが、それも素人に読みこなせるものではない。ボレルは、「この定理が成り立つ、おおまかな直観的な根拠」を与えているのである。それは、「組み合わせ数(コンビネーション)の大きさの評価」と「組み合わせ数(コンビネーション)の数論的評価」と「確率論的な直観」とを組み合わせたものとなっている。

導出のアイデアは、「自然数mに対し、2m個からm個を選ぶ組み合わせ数2mCm」を操作することにある。ご存じのように、組み合わせ数2mCmは、(2m)!÷m!÷m!と計算される。受験問題で、このような組み合わせ数を計算した経験のある人はよくわかると思うが、この割り算は、分母分子がみごとに約分されて、整数になってしまう。その約分の仕組みをよく観測すると、素数定理にたどりつく、というのだから、実に面白い。実は、この発想は、素数に関するベルトラン&チェビシェフの定理「n以上2n以下の区間には必ず素数が存在する」にも用いられる。なかなか、有能な計算なのだ(ベルトラン&チェビシェフの定理については、いずれ書くつもり)。

 ボレルによる「素数定理の直観的導出」の全体像は、『素数』で読んでもらうことにして、ここではおおざっぱな解説だけを書く。(っていうか、きちんと全部を書くのは、ブログでは無理)。

今、m=8、2m=16として考えてみよう。「16個から8個を選ぶ組み合わせ数」16C8は、(1から16までの積)÷(1から8までの積)÷(1から8までの積)で計算される。このとき、どの素数が約分され、どの素数が約分されないかを考える。結論を先にいうと、「16をpで割って商が偶数となる素数p」は約分されて消え、「16をpで割って商が奇数となる素数p」は約分されないで残る、のである。

実際、素数7は16を割ると商が2(偶数)となる。これは、(1から16までの積)には、素数7は2回現れることを意味する。他方、(1から8までの積)には7は1回現れるので、(1から16までの積)÷(1から8までの積)÷(1から8までの積)の計算では、分子の2個の7は、分母の2個の7でちょうど約分されてしまい、商の素因子には現れない。

次に、素数5について考えよう。素数5は16を割ると商が3(奇数)となる。これは、(1から16までの積)には、素数5は3回現れることを意味する。他方、(1から8までの積)には5は1回現れるので、(1から16までの積)÷(1から8までの積)÷(1から8までの積)の計算では、分子の3個の5のうち、2個は分母に表れる2個の5で約分されるので、1個だけが商の素因子として残ることになる。

このように、2mまでの素数pのうち、組み合わせ数の素因子として残るものと残らないものとが、2mをpで割った商の偶奇によって選り分けられることとなる。今の例、(1から16までの積)÷(1から8までの積)÷(1から8までの積)では、生き残る素数は、3、5、11、13である。ここで、一つ重要な注意がある。例えば、素数3は、(1から16までの積)に9という数の中に2個分現れている。このような場合は、今の議論は通用しない(例えば、2は実際には生き残るし、3も1個でなく2個生き残る)。しかし、素数定理のような「漸近的な評価」の場合では、このような数は「誤差」として無視してしまえる。2mまでにpの2乗以上が含まれるような素数は、非常に少ない(ルート以下のオーダー)なので、評価に含めないのである。このように考えると、約分されずに生き残る素数は、16/2<p≦16/1または、16/4<p≦16/3または、16/6<p≦16/5、・・・に属す素数ということになる。以降、この区間の長さの合計をLと記す。

以上の議論によって、2mCmは(割った商が奇数となる素数の積)とおおよそ等しいことがわかる。m=8の例では、16C8〜3×5×11×13と近似できるわけなのだ。

ここで、2mCmの大きさがおおよそ(2の2m乗)の水準であることに注目する。これは、組み合わせ数というのが、(x+y)の2m乗を展開したときの係数に表れ、それらの係数は中央が非常に大きく支配的になり、ど真ん中の係数が2mCmであり、他方、xに1を、yに1を代入した(1+1)の2m乗がこれらの組み合わせ数の総和であることから把握できるだろう。したがって、

(2の2m乗)〜(割った商が奇数となる素数の積)

という評価が得られる。ここで、この式の両辺の(自然)対数を取る。すると、

2m×log 2=Σlog p    (ただし、和は、2mを割って商が奇数になる素数pにわたる)

という式が得られる。ここで、対数に関するテーラー級数展開を参考にすると、「右辺の素数pたちが含まれる区間の総和L」がぴったり、左辺2m×log2と等しくなる、という奇跡のような結果が得られる(先ほどのm=8の場合の区間たちについて、その長さの総和Lを考えてみればわかる)。したがって、2mを割って商が奇数になる素数pたちに関して、

Σlog p=(pたちが含まれる区間の長さL)

という等式が得られる。ここで、素数の分布がランダムである、という直観を手前勝手に投入する。そして、今の「2mまでの区間の中から、飛び飛びにピックアップしたいくつかの区間(長さの和がL)において、そこに存在する素数」について成り立った等式を、「普遍的に成り立つだろう」と推論してしまうのである。すなわち、

(a以上b以下の素数pについてのlog pの総和)=「a以上b以下の区間の長さ」=(b−a)

という式を導出するのである。ここで、左辺の和に現れるlogで表される項たちの平均値をlog nと書けば、この等式は、

(a以上b以下の素数の個数)×log n=(b−a)

を得て、それによって、(a以上b以下の素数p)=(b−a)/log nが導出される。ここで、nをbと置けば、冒頭の式となる。

以上のボレルの導出は、あまりに乱暴であり、途中に数学では許されない論理飛躍が含まれる。しかし、逆に、完璧だけど長くて難解な証明を読破したのでは得られない、「なんでそうなるの?」という、定理が成り立つ本性のような部分をわしづかみにできる、という御利益がある。ぼくはプロの数学者ではないので憶測にすぎないけど、数学者って、こんなふうな「わしずかみ」から、定理とその証明のヒントを掴んでいるんじゃないか、と思う。(今回も長くなって、面目ない。もっと、短く書けると思ったんだけどな・・・)。

黒川信重さん、加藤文元さんとトークイベントをしてきました!

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 先週の金曜日、2月18日に、神保町の書泉グランデにて、トークイベントに参加した。

前回(素数の個数が、自然対数(log)で表せるのはなぜか - hiroyukikojimaの日記)に告知した通り、東工大の数学者である黒川信重先生加藤文元先生のトークに飛び入りという形で登壇した。これは、雑誌『現代思想』増刊号の「リーマン」の刊行記念に企画されたイベントだ。この本では、ぼくは、黒川先生と加藤先生との鼎談「リーマンの数学=哲学」に参加しており、さらには、原稿「リーマン予想まであと10歩」を収録している。

この本については、(まだ、ほとんど読んでないし、笑)、いずれ宣伝するとして、今回はトーク・イベントについてだけ報告することとしよう。

マニアックな数学のトークショーにもかかわらず、たくさんの方に来場いただき、椅子が置けなくなるほどの満員盛況で、とても嬉しかった。来場していただいた方、本当にありがとうございます。前回のエントリーで書いた通り、ぼくは大学の業務が入っていて、間に合うかどうかはっきりしなかったため、「飛び入りかも」という告知にしていただいていた。当日は、10分ぐらいの遅刻で到着することができ、ほぼすべてのトークに参加することができた。

トークは、リーマン予想のリーマン直筆論文の黒川先生による紹介から始まり、加藤先生がリーマンの研究に影響を与えたヘルバルトという哲学者の哲学の話へと展開し、その後、リーマンの業績、現代数学への影響、リーマン予想攻略の現在などをたどっていった。

ぼく自身は、実は『現代思想』での鼎談の時点で、加藤先生の二冊の著作には目を通して行ったのだけれど、最も重要な著作『物語 数学の歴史〜正しさへの挑戦』中公新書の存在を知らなかった。加藤先生のリーマン論はこの本が詳しく、事前に読んでいればもっと質問したいことがあったと後で気づいたのであった。だから、トークに飛び入りしたら、この本からたくさん質問をしようと準備していたのである。

物語 数学の歴史―正しさへの挑戦 (中公新書)

物語 数学の歴史―正しさへの挑戦 (中公新書)

この本は、とてもすばらしい数学史についての著作だ。前半の、古代数学・中世数学についても、独自の視点から展開されていて参考になるが、圧巻は後半の近現代の数学史である。とりわけリーマンの業績を深く洞察した第10章は、数学研究者、数学ファン、どちらも必読の、みごとな数学論だと思う。加藤先生は、リーマン数学の影響を「真にパラダイムシフト的革命性がある」とまで言ってのけている。それはどういうことか。

加藤先生は、リーマンの業績の最もすごいところを、「空間そのものの創造」だと考えている。リーマン以前では、平面上の曲線、というような、いわば「空間の一部」を研究対象としていた。ところが、リーマンは、空間そのものを研究対象とするようになったのである。複素関数を扱うリーマン面や、計量から空間にアプローチするリーマン幾何が典型的なものである。とりわけリーマン幾何は、その後、アインシュタインの重力場理論として結実し、つい先日の重力波の検出などにもつながってくる、タイムリーなものだ。このようなリーマンの思想について、加藤先生は、この本の中で次のように記述している。

リーマンが言明したことを、非常に大まかに述べると、

・函数の概念(代数函数体)

・面の概念(コンパクトリーマン面)

・形の概念(非特異射影曲線)

の三つの概念が、一つに統合されるということである。

これをもって筆者は、一次元代数幾何学の三位一体と呼んでいる。本来、出自もそれを扱う感性も違う三つのものが、一つの姿に統一されるわけだ。そして、ヘルバルトの言う「実体」として、より強固な存在感を持つことになる。

ぼくは、リーマンについて、このように論じている研究を知らない。そういう意味で、加藤先生のリーマン論は非常に新鮮にして、また、驚きに満ちたものだった。本書には、アーベル、ガロアの方程式論、パスカル、ポンスレの射影幾何学、ロバチェフスキー、ボヤイの非ユークリッド幾何、谷山・志村、ワイルズのフェルマーの最終定理など、非常にポピュラーな数学史を網羅しながらも、読み終えてみると、それらのアイテムはすべて、リーマンを中心に語られているように思われてくるから、実に味わい深い。

 ぼくは、トークの中で加藤先生にどうしても語っていただきたい題材があった。それは、京都大学の望月新一氏がabc予想にアプローチした研究のことだった。実は、雑誌鼎談のあと、加藤先生についてネットで検索をかけているときに、望月氏がアップロードした報告書(→no titleからDLできる)を発見した。この報告書の冒頭で望月氏は次のように加藤先生に謝辞を述べている。

2005年7月〜2011年3月の間、加藤氏が京都大学数学教室の准教授をしておられた頃、3週間に1回(=3〜4時間程)、2人で行ったIUTeichのセミナーがありました。当時、IUTeichはまだ発展途上の段階にあったわけですが、ご多忙の合間を縫って延々と喋りたがる私のお相手をしてくださった加藤氏に大変感謝致しております。

ここで、IUTeich、というのは、「宇宙際タイヒミュラー理論」という望月氏の生み出した理論のこと。abc予想は、この理論によって解決された、とされている。(abc予想については、abc予想が解決された? - hiroyukikojimaの日記とか、ABC予想入門 - hiroyukikojimaの日記などを参照のこと)。望月氏が、この理論をネット上にアップロードして世間が騒然となったとき、ぼくはAERAの取材を受けてコメントをしたので、この理論のことがずっと気になっていた。加藤先生が、この理論の構築過程に貢献されていた、というのは、ぼくにとって吉報そのものだった。渡りに船とはこのことで、ぼくはトークの中で、加藤先生からこの話を引き出したいと思ったのだ。

意を決して、この話題を振ってみると、加藤先生は、嫌な顔一つせず、誠実にIUTeichについて、ご存じのことを説明してくださった。すべてをここで書いてしまうと、トークイベントにわざわざ来場してくださったお客様の利益を損ねてしまうので、少しだけ紹介するに留める。

加藤先生によれば、望月氏と加藤先生のセミナーは、数学技術的側面というよりは、IUTeichの哲学的な側面についての議論であったそうだ。どうして、哲学的な議論が必要か、というと、IUTeichを既存の数学にはめ込もうとすると矛盾を孕んでしまうため、既存の数学の様式を超えた、新しい枠組みが必要になったからだという。そして、望月氏は、そういう全く新しい数学の手法を一から構築し、IUTeichを生み出したのだそうなのだ。そのような雰囲気は、確かに、先ほどの報告書の中の次のような田口雄一郎氏の言葉の引用からも感じられる。

つまみ食いして手っ取り早く理解しようとすると10年経っても理解できないが、しっかり前から順番に読むと半年で理解できる

この報告書を読み、加藤先生の理解を聞いてみると、望月氏が頑なにマスコミの取材を断っていることの真意がわかるような気がした。IUTeichは、既存の数学では捉えられない、全く新しい斬新な(それでいて数学的には無矛盾な)理論であるから、「つまみ食い」的、あるいは、「要するにこういうこと」的、お手軽なまとめの報道になじまない、ということなのだろう。

マクロ経済学の新時代への教科書

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 このところ、ずっと数学方面の話題ばかりエントリーしていたので、今回は久しぶりに経済学の書籍を紹介しようと思う。

紹介する本は、マクロ経済学の初級の教科書で、柴田章久・宇南山卓『マクロ経済学の第一歩』有斐閣だ。

マクロ経済学の第一歩 (有斐閣ストゥディア)

マクロ経済学の第一歩 (有斐閣ストゥディア)

著者たちとは、二人とも面識があるので、公平中立的な立場からの書評にはならないことを予め、お断りしておく。宇南山さんとは、大学院にほぼ同じ時期に在籍していて、同じセミナーで勉強した経験がある。また、柴田さんは、ぼくの論文の共著者である岡山大学の浅野さんを共著者としてたくさん論文をパブリッシュされており、その縁で、一年に一度ほど京都大学にお邪魔して、マクロ経済学について教えていただいている関係である。

ぼくは、(数学とは反対に)経済学のついては、啓蒙書はほとんど読まない。啓蒙書を読む時間があったら論文を読む時間に充てるべきだと思っているからだ。ただ、教科書は別。大学では、ミクロ経済学、マクロ経済学、ゲーム理論を教えているので、講義の組み立てを考えるのと、講義でのネタ探しのために、いろいろな教科書に目を通す。

残念ながら、ミクロでもマクロでも、良い教科書、「使える」教科書に当たることが滅多にない。だいたい通り一遍の書き方をしており、説明や計算を丁寧に解説する工夫はあっても、題材や組み立てから抜本的に考えている教科書は皆無に等しい。みんな、先人の書いた、古くさい組み立てを踏襲している。

そんななか、この柴田章久・宇南山卓『マクロ経済学の第一歩』有斐閣は、入門的ながらなかなか革新的、と思えたマクロ経済学の教科書だった。

章立ては、「マクロ経済学とは何か」→「GDPとは何か」→「経済成長と技術の役割」→「消費の決定」→「投資の決定」→「労働市場と失業」→「所得分配と格差」→「再分配政策」→「政府支出の役割」→「少子高齢化と財政」→「開放経済」、のようになっている。人によっては、平凡な並べ方に見えるかも知れないが、ぼくはそう思わない。少なくとも、最も有名なマンキューの教科書や、その他、よく採用されていそうな教科書などとはぜんぜん違う組み立て方をしていると思う。中身に書いてあることは、さらに格調が違うように感じる。

この本のぼくの印象を端的にまとめると、こうだ。

1. ケインズ理論(IS・LM分析)から、巧妙な距離を取っている。

2. 解説の足場として、現代の日本が直面している経済問題が意識されている。

3. 最新のマクロ理論や、きちんとした実証データを基礎としている。

4. 読んでいて、わくわくする。

こんなことはどの教科書でも同じじゃないか、と言うかもしれないが、四つとも揃っている教科書は滅多にない。

まず、第一の点がぼくにとって非常に貴重だ。ケインズ理論は、きちんとわかった人が、現実のマクロ経済現象を理解する上で、ベンチマークとして使うには便利なものである。でも、初学者が「基礎原理」として学ぶべきものではないと思う。実際、マクロの講義の最初の数年間は、ケインズ理論を教えたのだけれど、いろいろな点で「自分が嘘を言っている、整合性のとれないことをあたかも原理のように述べている」という罪悪感を持った。それで今では、この理論を講義することをきっぱり止めてしまった。この理論について同じ印象を持っている経済学の講師もおられるのではないか、と思う。

第二の点は、初学者にとって大切である。マクロ経済学は、ミクロ経済学のように「経済現象の数学化」を目的とするものではなく、あくまで生の、現実の、経済現象を解明することを目的とする分野である。だから、フォーカスは、あくまで現実の、生の、経済問題に設定しなければならない。「今を理解する」ことをテーマにすべきである。とりわけ、将来に学者になるのではなく、ビジネスパーソンに旅立つ学生たちがマクロ経済学を学ぶことの意義は、ここにあると言って良い。それでぼくは、マクロ経済学の講義では、本書のような視点でトピックスを選んでいる。

そうは言っても、ただの時事談義に陥ってしまっては、「経済学」を名乗る資格はない。経済学と題するには、「原理的」でなければならないし、「整合的体系性」や「数理性」を備えていなければならない。現代のマクロ経済学は、ケインズ理論の不備を解明し、修正し、新しい理論的枠組みを獲得しつつある。だから、そういう最新の研究成果が、初学者の教育にも活かされるべきだ。それが、お金を払って講義を受ける学生さんたちへの最低限の誠意だと思う。そういう点でも、本書はある程度の達成度を成し遂げている。

第四の点は、どんな教科書にもセールスポイントになることは言うまでも無いないだろう。

 本書では、ところどころに、「おっ」と思うことがさりげなく書いてある。例えば、第1章に次のような一節がある。

経済学を学んでいくとすぐわかることですが、ある経済問題を分析する際に、必ずしも誰もが合意しているモデルが一つだけあるというわけではありません。同じ経済問題に対して、まったく異なったモデルが併存しており、それぞれが論理的な一貫性を持っているという場合もあるのです。この原因は、モデルを構築する際の、現実経済のなかで何が本質的に重要であり、何を切り捨ててよいかという判断において、経済学者の間に違いがあるためです。このような場合には、それぞれのモデルから得られる結論も異なりますので、現実のデータとモデルから得られる結論を照らし合わせることによって、より現実的説得力の高いモデルが選択されていくことになります。

こういう文章を教科書に書くことは、できるようでできないと思う。教条的に何かひとつだけの「原理」を信じている人、自分で経済モデルの論文を書いて投稿した経験のない人は、こういうことに気がつかないし、大事だとも感じないだろう。著者たちが業績の優れた経済学者だから、こういうことをさらっと書けるのである。

 第3章は、ソロータイプの経済成長理論の解説になっている。ソローモデルは微分方程式で記述されたもので、現代のマクロ理論の基礎を築いている理論の一つ。ぼくの講義では、微分方程式なしにこれを教えているが、本章でも、微分方程式なしに、簡潔に解説してあって、最もぼくのやりたいことに近い。マクロ経済学の初学者が、到達点として触れるべきモデルはこれだと確信しているし、本書での解説の仕方は的を射ていると思う。マクロ経済学とは、動学であり、だから、どんなに簡単なものであれ、動学モデルを一つ見ておくことこそが「入門」なのだと思う。(ちなみに、個人的見解だが、ケインズ理論は動学じゃないと思う)。

 本書では、ところどころに、実証的な研究成果も取り入れられていて、講義のネタとして使える。挙げるときりが無いので、一つだけ挙げよう。

ダロン・アセモグル教授らによるかつて植民地であった国々を対象とした研究では、独立後の経済パフォーマンスが大きく異なっている理由は、植民地時代の支配体制の違いにあるという興味ある結論が得られています。その議論の骨子は以下のようなものです。ヨーロッパ人が移住できる環境の植民地では、ヨーロッパ人は自分たちにとって有益な政治体制や法制度を構築し、私的所有権を保護しました。これらの植民地は、現在のアメリカ、カナダ、オーストラリアなどです。それに対し、ヨーロッパ人の居住できない植民地では、数少ない管理者によって統治できる体制を構築し、植民地を搾取してしまいました。現在の、アフリカや中央アメリカの国々がその典型例です。これらの植民地では、当然、私的所有権も確立されているといえない状況でした。(以下略)

これは、政治や法制度が、技術水準に影響もたらすことを示唆するデータとして用いられている。これをもって著者たちは、「内生的成長理論」と呼ばれる分野での技術進歩の役割を説明している。他にも、消費の章の冒頭に紹介されている、「宝くじの当せん金の使い道」のデータなども面白いネタである。これは、「ライフサイクル・恒常所得仮説」という消費行動の理解に重要な仮説の検証に使われている。

 「やらせ感」を払拭するために、気に入らない点をふたつほど挙げておこう。一つは、たくさんの経済セクションを章別に解説していながら、それらを組み合わせて、マクロモデルを作っていないところ。これでは、マクロ経済現象というのが、複数のセクションの兼ね合いによって引き起こされていることを理解することができない。でもまあ、200ページ程度の薄い教科書にそれを望むのは無茶であろう。

第二は、「政府支出の役割」のところで、IS・LM理論の「45度線分析」、いわゆる乗数理論を解説しているところ。乗数理論は、どう考えても理論的におかしい、(少なくとも1を超える乗数は)実証的にも理論的にも否定されていると思う。思い切って、これを棄却すべきだったのではないか。まあ、公務員試験とか経済学検定などに相変わらず出題されていることへの対応なのだとすれば、仕方ない妥協だと思える。それは、著者たちが、この章の終わりにリカードの中立命題を解説した上で、45度線モデルから予測されるものはそれほど大きくない、と評価していることから推察できる。

ぼくが、ケインズ理論を講義することを放棄したのは、この理論が予算制約を満たさないことにある。それで、解説していて気持ち悪くて仕方なくなったのだ。静学モデルなら静学の、動学モデルなら動学の、予算制約を無視することは、数学でゼロでの割り算を許すのに匹敵する。それを許せば、どんな不可思議な魔法もパラドクスも可能になる。

 そういう気に入らない点はあるのだけど、そんなことが取るに足らないほど、良く書けていて、コンテンポラリーで、わくわく読める教科書であることは間違いない。大学で経済学を講義している人、マクロ経済学の講義を受けていて、「くっそ詰まんない」と感じている学生さんは、一度本書を手にとってみてほしい。

スティグリッツ氏の講演を聴いてきた

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昨日、宇沢弘文教授メモリアル・シンポジウム「人間と地球のための経済 ― 経済学は救いとなるか?」が、国連大学で開催されたのに行ってきた。(人間と地球のための経済 ― 経済学は救いとなるか? - 国連大学参照)。主催は、宇沢先生の思想の普及を目標とする非営利団体・宇沢国際学館。

シンポジウムは、宇沢先生のご子息・宇沢達さんによる宇沢先生の業績と思想の紹介、ノーベル経済学賞受賞者ジョセフ・スティグリッツ氏による講演(1時間)、宇沢先生のお弟子さんである松下和夫氏による宇沢先生の環境問題へのアプローチの紹介、スティグリッツ氏・宇沢達さん・松下和夫氏をパネリストとする討論、というプログラムとなっていた。

ここでは、スティグリッツ氏の講演についてだけ感想を書くことにする。

 とは言っても、氏の講演内容をきちんと把握できているわけじゃないことを前もって弁解しておきたい。なぜなら、英語が苦手なぼくは同時通訳で聴いたからだ。同時通訳の人は、とても優れた翻訳をしてたけど、経済学の専門用語をときどき訳し損なってたので、同時通訳が氏のニュアンスを100パーセント伝え切れているとは言えない。しかも、パワポのスライドの転換が速すぎたので、ちゃんと理解しないうちに次から次へと進んで行ってしまった。今思えば、デジカメで撮っておけばよかったと後悔している。備えが悪すぎた。

いやあ、同時通訳を聴くのは楽でいいんだけど、二つの難点があることがわかった。第一は、言葉が日本語でスライドが英語だと、頭の中がパニックになること。第二は、ジョークで聴衆が先に笑ってしまうので、遅れて笑うのがめっちゃ悔しいこと。それはさておき。

 スティグリッツ氏の講演の大部分は、宇沢先生に関する思い出と、二酸化炭素削減に関する国際協定のことだった。これについては、当エントリーでは触れないことにしたい。後者について知りたい人は、飯田香織さんのブログ(【スティグリッツのロールモデル】 : 飯田香織ブログ 担々麺とアジサイとちょっと経済)が参考になると思う。

ただ、この環境問題に関する氏の考えを聞くと、「宇沢先生のアメリカにおける正統的な後継者は、スティグリッツさんなんだなあ」という思いが強くなった。先生には、アカロフとかボウルズとか、アメリカにはたくさんの教え子がいる。しかも、多くは優秀な経済学者たちだ。でも、宇沢先生の帰国後の(非新古典派的な)方向性まで含めて継承している経済学者はいないように思っていた。今回の講演を聴いて、スティグリッツ氏がその人なんだ、という確信に至った。十数年前、環境問題に関する市民運動の集会の帰りに宇沢先生を電車でお送りした際、先生はスティグリッツ氏のノーベル賞受賞を心から喜んでいらした。「彼は、正義感の強い人でね」と手放しで褒めてらしたことを今でも思い出す。

実は、スティグリッツ氏のちょっと前の著作を読んで、氏のシャープさが影を潜めてしまった、どうしちゃったんだろう、と心配していた。でも、今回の講演を聴いてそんなことはない、と印象が覆った。きっと、氏は今、新しい経済学の方法論の構築に向かっているのだと思う。そういう意味で、行ってよかったと思った。

二酸化炭素削減以外の経済学的な議論の中で、興味深かったことを一つだけメモしておこう。それは、「選好の内生化」という話だった。これもきちんと聞き取れたわけでなく、スライドも写メってこなかったので、あくまでぼくが一聴した印象にすぎない。

経済学では、基本的に、「選好(preference)」という概念を使って、人間の経済行動を表現する。「選好」とは、「人の好み」を順序集合(要素の間に順序関係が定義された集合)で表現したものである。ようするに、行動たちの選択肢の間に、不等号と同じように、「順序」を入れるのである。普通は、効用関数というものを導入して、選好順位関係を関数値の大小関係で表す。

このような選好は、通常、経済環境から独立していて、個人の中に予めしっかりと根付いて変化しないもの、と仮定されている。

スティグリッツ氏は、選好自体が環境によって変化する、という風に考えようと提案している。経済環境が、選好によって選択されていくというのが従来の考え方だけど、氏は、選好が経済環境によって変化していくこともある、ということを言っている(ように思えた)。

その例として、たぶんジョークだと思うけど、氏は二つの例を挙げている。

第一は、「経済学を学んだ人は、経済合理性を意識した行動をするようになる」という例。これは、確か、どこかで実証研究が発表されていたような気がする。第二は、「銀行業に従事すると、どんどん銀行家的な嗜好を持つようになる」という例。これは、実証研究があるのか、氏のギャグ(皮肉)なのか、わからない。信憑性のほどはわからないが、氏は要するに、環境によって、人の選好(嗜好)は変わる、ということがいいたいのだ。それはつまり、今は絶望的に思える環境改善についても、未来にもそうであるとは限らない、なぜなら、人間の選好は変化するから、ということを主張するものなんだ、と思う。

実は、このことは、ぼくが宇沢先生の社会的共通資本の理論について考えたときにたどり着いた一つの理論的可能性なのだ。実際、拙著『確率的発想法』NHKブックスの中の自前の理論「論理的選好」の中で解説している。スティグリッツ氏が似たような方向性で思想を生み出そうしているのは、(レベルの差はともかくとして)、嬉しいことである。

 氏の話の中で、他の面白かった発言をいくつか書き留めておこう。

まず、昨日・今日、ニュースや新聞を賑わしている消費税増税の先送りの提言。これについては、今日の報道ステーションでの氏のインタビューでも言っていたが、増税を止めろという主張ではなく、財源は他で作れ、という提言である。氏は、炭素税や相続税など、環境改善や不平等是正に効果を持つ税を使うべき、というのである。税の戦略的利用ということだ。

それから、TPP反対については、次のようなことを言っていた。すなわち、「貿易の利益を否定しているわけではない」ということ。問題なのは、「すべてが取り払われると、何かの障害が生じたときに、それに対処をしようとすると他国から提訴される、ということになるのが良くない」ということらしい。これは質疑応答の中で言われたことで、細かく説明はされていなかったので、以下はぼくの解釈に過ぎない。例えば、EUで今、経済の動揺が起きている背景には、ユーロ圏では、単独での金融政策が難しい、ということがある。各国には、個別の事情があっても、政策はグローバルに行わなければならない。それはさまざまな問題を解決困難にする。それに似たことかな、と思う。

最後は、個人的に受けたジョーク。氏は、トランプ氏の躍進について、「もしも万が一、大惨事が起きて、トランプ氏が大統領になったとしたら、今のトランプ氏よりは少しマシになるだろう。なぜなら、ちゃんとしたブレインがつくだろうから」と言った。「大惨事が起きて」は同時通訳なので、本当はなんと言ったか知らないけど、爆笑してしまった。

アメリカの大きな問題として、アメリカ人の90パーセント以上の人の所得が80年代のまま伸びていないこと、そして、学歴の低い層の貧困が非常に深刻なことを挙げていた。

確率的発想法~数学を日常に活かす

確率的発想法~数学を日常に活かす

テレ東ドラマ『電子の標的2』に協力をしました

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 昨日、テレビ東京系で放映された水曜ミステリー9『電子の標的2』に、数学監修という立場で、協力した。

水曜ミステリー9:テレビ東京

f:id:hiroyukikojima:20160324200610j:image

これは、サスペンススタイルのミステリー物の2時間ドラマ。去年に放映された『電子の標的』の続編にあたる作品。

本当は、事前に告知して、このブログの読者さんたちには是非、観てもらいたかったんだけど、事前にスタッフさんから放映日の連絡がなかったから、それができなかった(いまだにない)。連絡がないのは、ぼくが関与した部分がカットされたから、という可能性もあったから、テレビのcmで放映日を知ったけど、告知はしなかった。実際には、ぼくが関与した部分はちゃんと撮影されていたし、エンディングのスタッフ・ロールには、ぼくの名前が「数学監修」としてクレジットされていた。テレ朝『相棒』に協力したとき(ぼくが監修した「相棒」は来週放送予定! - hiroyukikojimaの日記とかドラマ「相棒」シーズン12の第2話「殺人の定理」 - hiroyukikojimaの日記参照)では、ちゃんと事前に放映日の連絡をもらえたのにな、全く残念だ。

 さて、ぼくがどういう数学監修をやったか、ということについては、実はあまり詳しくは語れない。なぜかというと、物語のプロット上、重要なことに関連している部分があるからだ。(ご覧になったかたは、ああ、あれか、とピンと来ると思う)。録画しておいて、これからご覧になる人もおられるだろうし、再放送を楽しみに待つ人もおられるだろうから、ネタバレをしてその興味をそぐことは忍びない。

なので、当たり障りのない部分だけについてだけ書き留めておく。

今回、ぼくの依頼された仕事は、数学の問題と答えを20題分!、用意することだ。それも、できれば、「素数に関する問題」。そのうち、1題の除く19題は、数学科とは別分野の大学生たちが、自力でなんとかかんとか解けるレベルのもの。そして、1題だけ、簡単には解けない超難問。これらの問題は、研究室の掲示板に貼り付ける形で、全部が映っていた。ぼくはワープロで解答を書いたけど、学生さんたちが解いた、という設定になっているので、手書きの解答になっていた。スタッフさんたちが手分けして書き写したんだと思う。ご苦労様。

いやあ、素数に関する問題と答えを20題も用意するのは、正直、大変な仕事だった。難しくていいならいくらでもあるけど、数学科以外の理系の大学生が解けるとなると、そんなにはストックがない。全部を素数ジャンルにするのは無理だったので、6題は素数じゃない数論の問題で許してもらった。それでも、14題は素数ジャンルにしたので、我ながら、素数マニアだなあ、と思う。笑。

いろいろ、集めているさなか、タイムリーにも、親友の数学者から面白い問題を出題されたので、渡りに船、とばかり投入した。次のような問題である。

nを2以上の整数とする。このとき、nの最小の素因数は、(2のn乗)−1の最小の素因数より小さいことを証明せよ。

アイデアが閃きさえすれば、簡単に証明できるので、強者はチャレンジしてみてほしい(但し、数論の初歩的定理の知識は必要)。実際、ぼくは、10日ほどこねくり回したあげく、無理だ、と諦めようとしたときに、急にとっかかりを掴んで、うまく解決できた。解答は、たぶん、『電子の標的2』の当該のシーンを静止画面にして、よ〜く観れば、映ってるかもしれないので、それを解読していただければ、と思う(まじか)。

最も苦労したのは、もちろん、1題だけの超難問。ドラマの中で、問題[205]と設定されているものだ。これは、監督さんから、「解答の形式」の指定、という無茶な注文があったので、非常に苦労した。あまり多くを語れないので、ワンポイントだけヒントを書き留めておくが、問題[205]の解答は、数学者ラマヌジャンの発見した公式である。

 このドラマの数学監修を引き受けたのは、シナリオに興味を持ったからではない。実は、シナリオは、ほんのわずか数カ所しか見せてもらっていない。それでも引き受けたのは、キャストの中に、面識のある人がいたからだ。それは、手塚とおるさん(写真の後ろ側、一番右)。昔、演劇をよく観ていた頃、偶然、劇作家の坂手洋二さん(劇団・燐光群を主催)と知り合いになり、何度か一緒に飲んだ経験がある。とりわけ、坂手さんのお芝居を観たあと、打ち上げに参加させていただいた。そんな中の一回だけ、出演者だった手塚さんとご一緒させていただいたことがあった。坂手さんは、手塚さんにぼくのことを、「数学の人」と紹介してくださった。でも、歓談は、たった10分のことだった。今でも覚えているが、急に手塚さんの携帯電話に呼び出しがあり、それは劇作家の野田秀樹さんから呼び出しで、手塚さんはすぐに店を移ってしまったのだ。

でも、10分とはいえ、面識のある手塚さんがキャストだということで、ぼくはこの仕事を引き受けることにした。結果的に、引き受けてよかったと思う。仕上がったドラマは、とても迫力があるスリリングなサスペンスになっており、こういうドラマに数分間とは言え、自分の造形物が映し出され、スタッフロールに自分の名前がクレジットされるのは誇らしいことだからだ。

 転んでもタダでは起きないぼくとしては、今回やった作業を別のところでも活用することにした。それは、連載を持っている受験雑誌『高校への数学』東京出版で、今回作成した20問の問題を使い回すことだ。笑。それで、今刊行されている4月号から、「素数の魅力」と題して、一年間の連載を書くことにしたのだ。興味あるかたは、そちらの連載のほうも、ご贔屓にしてくだされ。

高校への数学 2016年 04 月号 [雑誌]

高校への数学 2016年 04 月号 [雑誌]

スティグリッツの思想

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 前々回に、スティグリッツの講演を聴いてきた話を書いた(スティグリッツ氏の講演を聴いてきた - hiroyukikojimaの日記参照のこと)。それは、故・宇沢弘文先生のメモリアル・シンポジュウムでの講演だった。ぼくは、以前に、スティグリッツの『世界を不幸にしたグローバリズムの正体』徳間書店を読んで、「スティグリッツの論文に感じるシャープさが全く見られない、ぼけちゃったんじゃあるまいか」と、残念な気持ちと心配な気持ちが勃興し、その後のスティグリッツの著作を追ってこなかった。

 でも、今回のメモリアル・シンポジュウムを聴いて、そんなことはない、と悟った。そればかりではなく、「スティグリッツこそが宇沢先生のアメリカでの生粋の後継者なんだ」と気づかされた。宇沢先生の日本のお弟子さんたちは、新古典派時代の先生の業績を受け継ぐ人と、制度学派としての先生の思想を受け継ぐ人に完全に分断されてしまい、その両方を継承する人はいないように思う。先生は、その両方を、同じ意志とビジョンを持って研究されていたので、これはとても残念なことに思っていた。それに対し、スティグリッツはまさに、新古典派の道具を縦横無尽に使いこなしながら、制度学派的な信条を展開させる、というまことに宇沢先生の生き写しのような学者になっておられ、とても眩しく頼もしい。

 そこで、この機に、スティグリッツの新しい著作を二冊を読んでみた。一冊は、2015年の『世界に分断と対立をまき散らす経済の罠』徳間書店で、もう一冊は今年2月に刊行されたばかりの『これから始まる「新しい世界経済」の教科書』徳間書店だ。

前者は、『ヴァニティ・フェア』誌や『ニューヨーク・タイムズ』紙等に連載したコラムなどで構成されている。後者は、ルーズベルト研究所の報告書を基にして作られた本だ。内容に重複の多い前者より、後者のほうがシャープで読みやすいが、後者には前者が前提になっている部分もあり、両方読むことで相補いあえるようになっていることを付記しておきたい。

 以下、二冊の本をひとまとめにして、スティグリッツの思想を読みといていく。

 1. スティグリッツは、新古典派から制度学派に宗派を変えた。

今回、ぼくが最も驚いたのは、この点だった。新古典派とは、現代の経済学の理論的な土台であり、どの大学でも、経済理論と言えば、基本的に新古典派の方法論を教えている。いわゆる、ミクロ経済学・マクロ経済学と言えば、新古典派の理論だと思っていい。これは、経済主体を変数で表し、それらの経済行動の目的を、利潤最大化や効用最大化として関数設定し、それらを実現する状態を均衡として解くものだ。

他方、制度学派というのは、経済社会の営みを、それを統制する「制度」のあり方から捉え、市民のより良い暮らしを実現する「制度」がいかなるものであるかを論じる学派である。主に、社会学的な、文化論的な、あるいはフィールドワーク的な方法論に依拠する。宇沢先生は、ミルやヴェブレンにその創始を見ているようだ。新古典派の方法論でめざましい業績をあげ、ノーベル経済学賞までもらったスティグリッツが、制度学派に宗派変えをした、というのは驚くべきことだ。実際、次のように言っている。

 要するに、従来の経済手法も、制度派の経済手法も、これまでに起こった事態にある程度の説明を与えているが、構造的な要素の焦点をあてた後者の理論が、徐々に説得力を持ちはじめているのである。

スティグリッツは、制度学派は、「ルールの重要性」「権力の重要性」という、ふたつの単純な観察にもとづいている、と述べている。とは言っても、その根拠は、新古典派的手法によって提示された「情報の非対称性と不完全性」や「行動経済学」や「制度分析」などに求めていることで、現代の主流派経済学への一定の敬意を払っており、むしろ、主流派経済学に憎しみとも言えるような感情をあらわにしていた宇沢先生とはかなり違うようにも思える。

 2. スティグリッツは格差を問題にするが、ピケティの議論には与しない。

スティグリッツが、現代の経済社会、とりわけアメリカ経済において問題としているのは、「所得格差」だ。1パーセントの大金持ちが、経済成長の大部分を懐に収め、残る99パーセントの国民の所得がほとんど伸びていないことに怒りを爆発させている。日本でも話題になったピケティ『21世紀の資本』も、格差に関する問題提起だけど、スティグリッツはピケティの説明「r>g、すなわち、資本収益が経済全体の成長より大きい」には与していない。

スティグリッツは、ピケティが証拠して挙げているデータの問題点を次のように指摘している。

富の増加の多くは、生産的な価値上昇の反映ではなく、固定資産の価値上昇に起因する。最もあきらかで広範囲におよぶ例は、不動産価値の大幅な上昇だ。もし不動産価値が、実際的な改良ではなく土地の価格上昇だけのおかげであがるのなら、それは生産性の高い経済にはつながらない。労働者は雇われず、賃金は払われず、投資は行われないからだ。

要するに、資本所有者の取り分が大きく見えるのは、資本の価格評価にバブルが含まれるからだということなのだ。

 3. スティグリッツは、格差の真因を金融関係者の不当利益に見ている。

ちなみに、「不当利益」は、ぼくの造語である。スティグリッツは、「レント」と呼んでいる。「レント」についてのスティグリッツの説明を引用しよう。

`地代'(レント)という言葉は、もともと所有地の一部を使用させる対価のことだった(今もその意味は残っている)。それは所有の効能からもたらされる利潤であり、実際の行動や生産が創り出す利潤ではない。たとえば、労働者が労働の対価として受け取る`賃金'とは、正反対の概念だ。やがて`レント'は独占利益−独占状態を管理するだけで転がり込んでくる収入−をも意味するようになり、さらには、所有権から生じる利得にまで定義が拡大された。

スティグリッツは、金融関係者のレントが、格差の源泉である、と説く。それは、金融関係者が、ロビー活動などによって、自分たちに好都合な金融制度に誘導し、それによって膨大な利得を得ている、というわけだ。実際、金融商品が値上がりすればそれらの大部分は自分たちの収益となり、暴落が起これば税金で補填してもらえるわけだから、「必勝の賭場」だと言えよう。スティグリッツは、このようなレント・シーキングを、現代アメリカ経済の癌だと批判しているのである。

 4.スティグリッツがTPPに反対なのは、「自由市場」が不当利益の温床になると考えるから。

TPPについては、メモリアル・シンポジュウムで、スティグリッツが聴衆の質問に答えて、ちょっとだけ議論をしたが、今ひとつを何を言っているか不明だった(スティグリッツ氏の講演を聴いてきた - hiroyukikojimaの日記参照のこと)。しかし、著作を読んでみて、だいぶ、その言わんとすることがつかめてきた。例えば、次のような言説だ。

このような状況にもかかわらず、経済学者を含め、TPPのような協定を熱心に支持する人は多い。擁護の基盤となっているのは、すでに正体が見破られた`えせ経済学'だ。`えせ'がいまだにはびこる主因は、富裕層の利益に合致するからである。

 経済学は成立した当初、自由貿易は教義の中心を占めていた。理論によれば、経済が勝者と敗者を生み出しても、勝者が敗者に補償を行うため、自由貿易は(自由化が進めな進むほど)`ウィン=ウィン'となる。残念ながら、この結論は、数多くの想定にもとづいており、想定の多くは単純に間違っている。

ようするに、「自由」貿易が全体に利益をもたらす、という理論の背景には、「市場の完全性」がある。しかし、「市場の不完全性」を前提とするスティグリッツは、むしろ、逆さまの見方をしている。「自由」貿易がもたらすのは、激しく抜け目ないレント・シーキングであり、不当利益だということだ。

  5. スティグリッツは、格差是正に税制度の戦略的利用を提唱している。

このような格差問題と、その真因とを指摘した上で、スティグリッツは、格差是正と、持続可能な環境を提唱する。二酸化炭素削減は、その一つの政策目標となる。このあたりでは、宇沢先生の思想と完全に一致し、そういう意味で、先生の完璧な後継者だと言えると思う。そういう世界を実現するため、スティグリッツは、さまざまな税制度の戦略的利用を提言している。税を、単なる政府の財源と見なすのではなく、経済活動を正しく導くための戦略装置と考えるのである。例えば、炭素税は、二酸化炭素排出を削減させ、環境維持に貢献するだろう。金融取引税(トービン税)は、過剰な金融肥大化とバブルを防ぎ、金融レントを減じる効果があるだろう。さらには、キャピタルゲイン税は、換金化部分ではなく、値上がり部分そのものに課税することを主張する。金融レントを市民に還元することを目的としている。また、相続税も格差是正に大きな有効性があるだろう。

  6. 金融緩和についての議論が、ブレまくっていて、よくわからない。

1.から5.までのスティグリッツの主張には、諸手を挙げて賛成できるし、溜飲下がる。ただ、一点だけ、首をかしげる議論がある。それは、「金融緩和の是非」に関するものだ。この二冊の著作の随所で、中央銀行の金融政策について論じている。メモリアル・シンポジュウムでも、少し触れた。しかし、論じる場所場所で、言っていることが一貫しておらず、ブレている。ある場所では、金融緩和の有効性を説いている。例えば、「中央銀行は、インフレを過剰に恐れすぎで、そのため緩和を早期に解消し、それで失敗をおかす」というように言う。他方で、「金曜緩和にはあまり効果が期待できない」ともいう。また、あるところでは、「金融緩和がバブルを生み出し、金融関係者の巨大なレントの温床になった」とも言う。いったい、評価しているのか否定してるのか、どっちなんだ!

ただ、刊行年の順に読み、メモリアル・シンポジュウムを聞き、先日の政府公聴会での発言を見ると、「徐々に金融緩和否定派に傾きつつある」ようにほのかに感じる。もしそうだとすれば、その原因は、アメリカではある程度成功したように見える金融緩和が、日本では失敗してしまった(というのが言い過ぎなら、あまり成果が出ていない)ように見えるからではないだろうか。

とにかく、いつも何かの数理モデルを念頭に発言しているスティグリッツが、こと金融緩和についてだけは、確たるモデルをもとに議論しているように見えないのは残念だ。何かの数理モデルを望遠鏡にして経済の運行を見ない限り、政策が成功しても失敗しても、経済学者がそれから科学的に得るものは何もなく、単なる宗教の信心・不信心の振り分けに終わってしまうからだ。

 以上、スティグリッツの最近の著作から、氏の思想をまとめてみた。とにかく嬉しいのは、スティグリッツのような天才が、宇沢先生の思想の後継者になりつつあることだ。宇沢先生の業績は、単なる古典として回顧的に讃えたり、過去の遺物として葬りさったりするべきものではなく、21世紀の世界を良い方向に変えるかもしれない生きた思想として、発展させていくべきものだと思うからだ。


等差数列の中の素数からラングランズ予想へ

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もう、すいぶん前、1年以上前に、黒川信重『ガロア表現と表現論』日本評論社の一部を紹介した(ガロアの定理の短めの証明が読める本 - hiroyukikojimaの日記)。このときは、「ガロアの基本定理」、すなわち、「代数拡大体の中間体と、その自己同型群の部分群が1対1対応する」という定理の、非常に短く、わかりやすい証明がこの本に載っているよ、ということを書いた。それで、この本に載っている他の定理のことも近いうちに書く、と予告してたんだけど、なんと! それから、1年以上も歳月が流れてしまった。

 前々回のエントリー(テレ東ドラマ『電子の標的2』に協力をしました - hiroyukikojimaの日記)で触れたように、今ぼくは、雑誌『高校への数学』東京出版に「素数の魅力」という連載を持っていて、そのため、素数について、いろいろと調べ直している。そこで、「ディリクレの算術級数定理」について、どう紹介しようか、と思案して、この黒川先生の本を読み直してみたのである。そんなわけで、このブログにも、小手調べとしてエントリーしてみようと思い立った次第。

 この本の第1章には、「ガロアの基本定理」の最短にして簡明な証明が解説されており、それはガロアの定理の短めの証明が読める本 - hiroyukikojimaの日記のエントリーで紹介した。また、第2章には、「有限アーベル群の基本定理」「ディリクレの算術級数定理」の証明が解説されている。今回は、これについて紹介しようと思う。

 群というのは、1. 結合法則が成り立つ演算を持ち、2. 演算しても変化しない単位元eを持ち、3. 演算すると単位元eになる逆元を持つ、ような代数構造を言う。これらに加えて、4. 交換法則が成り立つ、を要請したものがアーベル群である。「有限アーベル群の基本定理」というのは、有限なアーベル群が、どんな構造をしているかを明らかにする定理。簡単にいれば、nで割った余り算の足し算代数であるZ/(n)たちの和で書け、しかも登場するnたちを小さい順に並べると、約数・倍数関係の列になる、というもの。この定理を拡張して「有限生成アーベル群の基本定理」としたもの(有限生成なので、要素の個数は無限個も可能となる)は、線形代数で重要な定理である「ジョルダン標準形」の証明に使われる。でも、これがまた、わかりずらく、何をやっているかイメージが湧かない証明なのである。それに対して、黒川先生の証明は、(有限部分だけだけど)、非常にわかりやすく、本質がよく伝わり、そのうえ2ページ程度で済んでしまう優れものだ。ジョルダン標準形の証明で挫折した経験のある人は読んでみることをお勧めする。

 「ディリクレの算術級数定理」の証明も、非常にわかりやすく書かれている。この定理は、「初項と公差が互いに素な等差数列の中には、素数が無限個ある」というみごとな定理である。例えば、3n+1型素数も3n+2型素数も無限個あるし、4n+1型素数も4n+3型素数も無限個ある、などなどとなる。これらの中の一部(例えば、3n+2型素数とか4n+3型素数とか)は、ユークリッドが「素数は無限にある」を証明した手法を真似れば、簡単に証明できる。しかし、他はそう簡単ではない。しかも、an+b型(a,bは互いに素)すべてとなるといったいどうやればいいのか想像もつかないだろう。ディリクレは、ゼータ関数の仲間であるL関数を使って、それを証明したわけなのだ。本書には、その証明がたった3ページでまとめられている。 

 ここでは、この定理の証明を、4n+1型素数と4n+3型素数を例にして説明しよう。ポイントは、「どちらの型の素数も、逆数にして加え合わせる無限大になる」を示すことである。有限個しか存在しないなら、こうはならない。そのために、まず、次のようなオイラー積を考える

[{1−χ(p)(pのs乗の逆数)}の逆数]をすべての奇素数pにわたって掛け合わせたもの ・・・(1)式

ここでχ(p)は、次の2種類を考える。第一は、すべての奇素数pに対して、χ(p)=1とするもの。第二は、4n+1型素数pに対してχ(p)=1、4n+3型素数pに対してχ(p)=−1とするものである。この二つのχはディリクレ指標と呼ばれるものだ。

この(1)式のlogをとって、積を和に変え、さらに対数関数のテイラー展開を適用する。

そして、各pについて、1×(−s)乗の部分と、(2以上)×(−s)乗の部分とに分けると、

log(1)式=(1×(−s)乗の部分)+((2以上)×(−s)乗の部分)

と書ける。第2項が有限値に収束することは高校数学の範囲でわかる。したがって、第1項だけに注目し、

log(1)式=(χ(p)(pのs乗の逆数)の奇素数pをわたる和)+(有限値) ・・・(2)式

という風になる。この(2)式のディリクレ指標χ(p)を第一の場合と第二の場合についてそれぞれ作り、その二通りを合計して2で割ると、4n+1型素数の部分だけが取り出される。これは、4n+3型素数pに対しては、(第一のχに対する(2)式)における係数は+1で、(第二のχに対する(2)式)における係数は−1であることから、打ち消しが起きるからである。

(pのs乗の逆数)の4n+1型素数pをわたる和=(1/2)×[(第一のχに対する(2)式)+(第二のχに対する(2)式)] ・・・(3)式

一方、(第一のχに対する(2)式)は、sを小さくしながら1に近づける(s↓1)と無限大に発散する。これは(1)式が通常のオイラー積から素数2を取り除いたものとなっており、s↓1のとき、全奇数の逆数和に近づくからである。それで、「4n+1型素数の逆数和が無限大となる」ことがわかるのである。これは「4n+1型素数を取り出す」計算だったが、(2)式のディリクレ指標χ(p)を第一の場合と第二の場合についてそれぞれ作り、前者から後者を引き算して2で割ると、4n+3型素数のほうが取り出され、同じ評価法が適用できる。

 ざっくりまとめると、「オイラー積を作るときにディリクレ指標χを掛けておくと、型の異なる素数の係数が異なるようにできる」ということと、「それらのディリクレ指標に適切な集計をほどこすと一つの型だけを取り出すことができる」ということがポイントだ。どんなan+b型素数についてもこれが可能なら、この証明を一般化できる。そして、これは可能なのである。

1からaまでの整数で、aと互いに素なものを集合とすると、それらは掛け算についての群(Z/(n))^{×}を作る。この群から複素数への写像で、乗法を保つ(χ(xy)=χ(x)χ(y))ものをディリクレ指標と呼び、これを用いればよいのである。こうして、「初項と公差が互いに素な等差数列の中には、素数が無限個ある」ということがいっぺんに、そして明快に証明される。

 さて、黒川先生は、この「ディリクレの算術級数定理」を、今話題の「ラングランズ予想」の入り口として用意しているのである。黒川先生の本によれば、「ラングランズ予想」とは、「ガロア群の表現と保型表現が双対の関係にある」というものらしい。先ほどのディリクレ指標χは、乗法群(Z/(n))^{×}の双対なのである。

 この本を読むと、ガロア表現と、保型形式と、それをゼータ関数で結びつける、ということが現代数論の大きなテーマ、夢なんだな、と理解できる。古典的な数学の未解決問題が、個別具体的なのに対し、現代の未解決問題は、普遍的統一的である、というのがよくわかる。そして、前者がパズル的な興味の範疇のものであるのに対し、後者は哲学的な興味の範疇にある、というように感じる。

 直接は関係しないけど、ガロア理論の簡単な入門書なら、ぼくの次の本が役に立つと思う(宣伝、宣伝)。

天才ガロアの発想力 ?対称性と群が明かす方程式の秘密? (tanQブックス)

天才ガロアの発想力 ?対称性と群が明かす方程式の秘密? (tanQブックス)

メルセンヌ素数とリュカ=レーマー判定法と、そしてペル方程式と

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 「最大の素数が更新された」という報道が今年の1月24日の朝日新聞朝刊でなされたことは、当ブログでも、また、最大の素数が更新された! - hiroyukikojimaの日記でエントリーした。これは2233万ケタという巨大な素数で、アメリカのセントラルミズーリ大学のカーチス・クーパー教授が、世界中のコンピューター約800台のボランティアを利用して発見したものだ。

 発見された素数は、メルセンヌ素数というタイプの素数である。メルセンヌ素数とは、(2のk乗−1)という計算で表される素数。kが素数でないなら、(2のk乗−1)が素数にならないことは簡単にわかるので、kとしては素数だけ試せばよい。今回のものは、(2の74,207,281乗−1)となっており、49番目のメルセンス素数で、当然、74,207,281は素数である。メルセンス素数が発見されることは、偶数の完全数(6=1+2+3のように、自分自身を除く約数の和が自分自身と一致する数)が発見されることと同じである。したがって、49個目の偶数の完全数が見つかったことになる。ちなみに、奇数の完全数はまだ一つもみつかっていないし、「存在しない」と予想されているが、それも証明されていない。

 「任意の」大きな整数が素数かどうかを判定する実用的な判定法は、現在のところない。しかし、メルセンヌ数(2のk乗−1)に対しては、実用的な判定法がある。それが、リュカ=レーマー判定法である。これは、19世紀の数学者リュカが発見した判定法を、20世紀の数学者レーマーが改良したものだ。

 リュカ=レーマー判定法のやり方は簡単である。まず、リュカ=レーマー数列というのを、次のように作る。すなわち、4からスタートし、得られた数を2乗して2を引いて次の数を作るのである。

4→4×4−2=14→14×14−2=194→194×194−2=37634→・・・

というふうに進んでいく。このn項目をS(n)と書くとき、リュカ=レーマー判定法とは、

奇素数pについて、(2のp乗−1)がS(p−1)を割り切るとき、また、そのときに限り、(2のp乗−1)は素数である

というものである。例えば、k=5のときのメルセンヌ数(2の5乗−1)は31だが、S(4)=37634は確かに31で割り切れる(おみごと、おみごと)。リュカ=レーマー数列は、正直に計算すると、すぐに巨大な数になるが、判定したい(2のp乗−1)で割った余りで数列を計算(mod計算)していけばいいので、オーバーフローしなくて済むのである。

 雑誌『高校への数学』で素数についての連載をしていることもあって、このたび、このリュカ=レーマー判定法のレーマーによる証明をまじめに読んでみた。読んだのは、和田秀男『数の世界 整数論への道』岩波書店だ。

その証明は、理解できてみると、めちゃめちゃ面白いものだった。

なんということでしょう! 最も重要な役割を果たすのは、いわゆる、「ペル方程式」なのである。

ペル方程式というのは、「(xの2乗)−a(yの2乗)=±1」の整数解を求める問題のことで、数論の研究の中でも歴史の古いものだ。本当は「フェルマー方程式」と呼ばれるべきなのに、誤ってペル方程式と定着してしまったものである。ペル方程式について、詳しくは、拙著『世界は2乗でできている』ブルーバックスを参照してほしい。

証明に使うペル方程式は、a=3のケース、すなわち、「(xの2乗)−3(yの2乗)=1(☆)」である。

この方程式(☆)の整数解は、次のようにして、実にユニークな方法で得られる。すなわち、無理数α=2+√3に対して、(αのn乗)を展開整理し、(αのn乗)=x(n)+y(n)√3と表したとき、x=x(n), y=y(n)が、ペル方程式(☆)の整数解となるのである。しかも、この方法で、すべての整数解が得られる。

面白いのは、この2つの数列x(n)とy(n)が、三角関数(cosとsin)と類似した、「加法定理」「倍角公式」を持つことなのだ。次のような公式である。

(加法定理)

x(n±m)=x(n)x(m)±3y(n)y(m)

y(n±m)=±x(n)y(m)+x(m)y(n)

(倍角公式)

x(2n)=2(x(n)の2乗)−1

y(2n)=2x(n)y(n)

これらの公式を上手に利用すると、いろいろな面白い関係が得られる。まず、

リュカ=レーマー数S(k+1)=2・x(2のk乗)

という関係式がポイントである。

また、3より大きい任意の素数qに対して、

y((q+1)/2)・y((q−1)/2)はqの倍数

が、証明を完成するためのかなめの事実となる。

証明の手法は、典型的な技の組み合わせであり、大学受験の数学問題よりは難しいけれど、数学オリンピック程度のものなので、がんばれば高校生にも理解できる。とりわけ、「2項係数の素因数を評価する」とか、「ある性質を満たす整数が、その性質を満たす最小の整数の倍数となる」という互除法的な発想とか、有名テクニックのオンパレードとなっていて、楽しく、また、随所でうならされる。

こうしてみると、数論の定理というのが、さまざまなアイテムのリンクで成立していて、みごとだなあ、と感心させられる。

 和田秀男『数の世界 整数論への道』は、ものすごい名著だと思うのだけど、現在は版切れのようで残念だ。こんなわかりやすくて、self-containedで、すべての証明を付けている数論の本はほかにないと思う。和田氏が、計算機数学の専門家である、ということが、この本のわかりやすさ・面白さと関係あるのではないか、と推測している。最後の章で「すべての素数を表す19変数37次多項式」についての「マチアセビッチの定理」を取り上げ、証明も含めた完全な解説を行っているのが圧巻である。なんと、この定理にも、本質的に「ペル方程式」が活かされているのである。拍手喝采。

数学は遠きにありて想うもの

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 実は、また、数学者たちと鼎談をすることになり、そのお題のために、リーマン面・層・コホモロジー群・スキームの勉強を再開した。

 リーマン面というのは、ごく小さい部分だけを局所的に見ると「複素平面」と同一視できるような空間のこと。逆に言うと、複素平面の原点付近の円をたくさん貼り合わせて作り出せる空間のことだ。例えば、リーマン球面は、二枚の円をお椀のように丸めて反対向きにはめ込んで球形にしたリーマン面の一種である。ドーナツ型(トーラス)も円を湿布薬のようにぺたぺたと貼っていけば作れるからリーマン面だ。

 リーマン面・コホモロジー群は、小木曽啓示『代数曲線論』朝倉書店で勉強している。この本は以前にも、続・続・堀川先生とキングクリムゾンの頃 - hiroyukikojimaの日記のエントリーで紹介したが、もう一度最初から読み直した。ちなみにこの本は、「代数曲線」と題するより、「リーマン面」と題するべき本だということを書き添えておこう。

講座 数学の考え方〈18〉代数曲線論

講座 数学の考え方〈18〉代数曲線論

 実は、前に読んだときは、「知りたいことと関係が希薄そうで、めんどくさそうな部分」をはしょって読んでいた。具体的には、第3章「リーマン面の微分形式」をまるまる飛ばし、そのために第4章の「いろいろなリーマン面」が部分的に読めなくなり、そこも飛ばした。でも今回は、前回飛ばしたところを含め、順を追ってきちんと読んだ。そして、最初からそうすべきだったことに気づき、安易なはしょりをしたことを猛省した。

 多くの数学書は、メインディッシュに対する最短経路で書かれているわけではなく、余計なことがいろいろ書いてある。もちろん著者は、「それが重要である」ないし「知っていたほうが良い」という親心から導入しているのだろう。でも、その「刺身のつま」のせいで、たいていの読者が理解の辛さから脱落することになってしまうことに著者は気を遣うべきだと思う。だから、ぼくはいつからか、そういう「刺身のつま」を箸でよけて読むようになった。

 一方、小木曽啓示『代数曲線論』には、そういう「刺身のつま」がほとんどなかった。導入されているすべてのアイテムは、メインディッシュをより良く吸収するために必要不可欠のアイテムだったのだ。

 たとえば、第3章「リーマン面の微分形式」は、「」という数学概念を豊かにイメージするために重要だった。「層」というのは、単純に言えば、リーマン面上の複素関数を思い浮かべればいい。リーマン面は局所的には複素平面の小さい円と同じだから、そこで定義された複素関数のことだ。「層」というのは、「局所で0と一致すれば全体で0、局所的な関数族は貼り合わせて全体の関数にできる」という性質を持つ空間のこと。正則な複素関数は、この性質を備えている。

ただ、それだけをイメージしていると「層」ってそれしかないのかなあ、と貧弱な感覚しか得られない。「層」は、複素線形空間だから、他の例も頭の引き出しに入れておかないと、その不変量であるコホモロジー群を理解するときに、高すぎる障壁に突き当たることになる。以前にぼくが突き当たって挫折を余儀なくされたのはその障壁だった。

 本書は、少なくとも「リーマン・ロッホの定理」に到達するまでには(まだ、そこまでしか読んでいない)、無駄なことが一切書いていない。すべてが用意周到に準備されている。それはそれはみごとなものだ。抽象的な概念を具体的に理解するために(たぶん)最もわかりやすい具体例や解説が前もって投入されているのである。

 今回は、ほとんど飛ばしなしに読んだので、「層」「コホモロジー群」「リーマン・ロッホの定理」は理解できた(と思う)。とりわけ、コホモロジー群(チェック・コホモロジー)が、いったい何を表現しようとしているのか、とか、完全系列というのがどう使われるのか、とかを、目が覚めるぐらいに納得することができた。完全系列については、数学科に在籍したときに、「いったい、こりゃ何者なんだ、何の役に立つんだ」と悩ましかったものだった。それが克服できたのは、清々しい。

 本書でのリーマン・ロッホの定理の証明には、完全系列の威力がめっちゃ発揮される。リーマン・ロッホの定理とは、簡単に説明するのは難しいが、層のコホモロジー群に関して、オイラー標数(例えば、[点の数]−[線の数]+[面の数])のような交代和の公式が成立することを主張するものだ。

完全系列というのは、いくつかの線形空間(とか環とか),・・・A, B, C,・・・,と、その間の線形写像(準同型写像),・・・,f, g,・・・の間の関係である 、[・・・→A→(f)→B→(g)→C→・・・]、に関して、(AからBへのfによる像)=(Cの零元{0}のgによるBへの逆像)という等式(要するに、Im(f)=Ker(g))がすべてに対して成り立っているものを言う。線形代数の基本的な定理として、空間Bを(Cの零元{0}のgによるBへの逆像)で割った商空間は、(BからCへのgによる像)と同じ空間になると見なせるから、(Bの次元)=(BからCへのgによる像の次元)+(Cの零元{0}のgによるBへの逆像)である。したがって、さっきの完全系列の定義から、(AからBへのfによる像の次元)=(Cの零元{0}のgによるBへの逆像の次元)が成り立つので、置き換えれば、(Bの次元)=(AからBへのfによる像の次元)+(BからCへのgによる像の次元)という等式(dim B=dimIm(f)+dimIm(g)))が成り立つとわかる。この事実から、[・・・+(Aの次元)−(Bの次元)+(Cの次元)−・・・]という交代和を作ると、打ち消し合いが起きる。だから、系列の最初と最後が空間{ 0 }であれば、交代和は0とわかる。リーマン・ロッホの定理は、この(次元の交代和)=0、を用いてみごとに証明されるのである。

 この定理について、著者の小木曽さんは、次のように書いている。

リーマン・ロッホの定理は次元そのものに関する定理ではなく次元の交代和に関する定理である。オイラー数も交代和だった。日常生活においては和を考えることはあっても交代和を考えることは皆無に近い。それとは対照的に、何故だかよくわからないが、数学では交代和を考えてみると簡明になるということがしばしば起こるようである。

こういう数学者の個人的な数学観のようなものを書いてくれると、本当に楽しくなる。数学者も人間なのだから、定理を見つめた個人的な印象や感慨や感動というのはあるはずで、それを知ることで、読者も数学を人間的で生臭いものとして身近に感じることができるのである。この小木曽さんの言葉を読んだぼくは、「そういえば、行列式の展開定理も交代和だよな」などと記憶が蘇った。ひょっとして、同じアイデアの証明が可能なのだろうか??

 著者の小木曽さんは、昔、ある場所でご一緒したことがあり、何度かお茶を飲んだり、ご飯を食べたりした。そんなある日に、ぼくが、非常に簡単な高校数学レベルの問題を考え出して、それをお見せしたところ、子供のような輝く表情で「それは面白いですねえ、よくできた問題ですねえ」と感嘆してくださった。そのとき、ぼくは、「こんなに優秀な数学者のタマゴが、この程度のことでも、興味津々で楽しい顔をするものなのだ」と感動したことをよく覚えている。そういう小木曽さんの純粋さ、人柄の優れたところ、好奇心溢れるところ、が本書にはよく現れていると思う。

 ただ、やはり、本書を読んでいて、「辛くなかった」と言えば嘘になる。しんどかった。こんなにも工夫して手取り足取り記述してもらってさえ、抽象的な概念を理解するのは「楽しい」より「辛い」のほうが先に立った。こういう抽象物を、何の摩擦もなくイメージ化でき、そうする作業がウハウハと楽しく、真綿のように吸収できる人でないと、数学者にはなれないのだろう、と痛みを持って実感した。そういう意味ではぼくは数学者にはなれない、ということを思い知った。

 その証拠に、「コンパクトリーマン面の正則関数の1次元コホモロジー群の次元が有限である」という基本定理の証明は、読むのをいったんペンディングしている。とんでもなく長い証明で、また、膨大な道具立て(ヒルベルト空間など)が必要だからだ。こういうのを、数学者たちはウハウハと垂涎で読めるのだろうが、ぼくにはため息が出てしまう。こういうところが、数学者に向いているかどうかの踏み絵となるのだろう。

 ぼくは、経済学と数学と両方を勉強している。でも、この二つのぼくの中での位置付け・あり方はけっこう異なる。数学は恋い焦がれるほど好きだが、経済学はそうでもない(同業者のみなさん、すいません)。数学には狂おしいほど惹かれるが、経済学はそうでもない(笑い)。それだから、数学にはじれったく短絡的になり、地道な努力が無理で、性急に結果を求めてしまう。一方、経済学のほうでは、冷静で地道な努力ができ、じわじわと距離を狭めることができる。どんな業種であっても、飯を食うプロに自分がなれるかどうかは、「愛のあり方」に依拠するのではないか、と思う。例えば、狂おしいほど音楽が好きな人はむしろプロのミュージシャンには向かないだろう。そうではなく、どんな音楽にもクールに興味を持てて、冷静に分析でき、結果を急がず地道な努力が苦でなく、自分の心と一定程度の距離をおける人がプロ・ミュージシャンになれるのではないだろうか。

さらに言うなら、「プロ」になることが幸せとは限らない。本当に幸せなのは「ファン」のほうなのではあるまいか。

 こう考えると、「ぼくが数学者になれなかったのは、必然だったし、むしろ、そのほうが良かったのだ」と今は素直に思える。「数学は遠きにありて思うもの」。心底好きなことは、職業にならないほうがいい。成果もレベルも問われない、そんなに幸せなことはない。それが、今、ぼくの胸中に育つ大きな感慨なのだ。この境地にたどりつくのに、30年もの歳月を費やしてしまったが。。。

 

久々に音楽のレビューを書く

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 このところ、数学関係のエントリーが続いたので、閑話休題、久々に音楽のレビューを書くことにする。

先週、ジャズのライブに行った。ギタリストのマイク・スターンのバンドに、ゲストとしてギタリストの渡辺香津美が加わったライブだった。

いやあ、めっちゃすごいライブであった。とりわけ、ドラマーのデニス・チェンバースがみごとだった。デニス・チェンバースは、すごい昔から知ってたので、すげ〜年寄りのドラマーだと思い込んでたけど、実はそんなでもなかった。ぼくと同じくらいの年齢だった。

マイク・スターンは、ぼくが大学生の頃、マイルス・ディビスのアルバム『ザ・マン・ウィズ・ザ・ホーン』でデビューした天才ギタリスト。ぼくは、このアルバムでマイルスが大好きになったけど、ジャズ通の友人は、「マイルスは、ロックに魂を売った。これはもうジャズじゃない」などと批判していた記憶がある。その批判の中心は、スターンのギターを導入したことにあったんだと思う。ぼく自身は、スターンのギタープレイに痺れまくり、「こんなすごいギターを弾ける若者がいるのか」とぶっとんだものだった。

渡辺香津美のギタープレイを初めて観たのは、74年か75年だと思う。高校のブラスバンドの同級生が、「すっげ〜才能の若いギタリストが出たから、一緒に聴きに行こう」というので、ついて行った。あてにならない記憶では、銀座のヤマハのイベント・スペースだったと思う。客は10人くらいしかおらず、みんな床に直に座って、クッションに肘をついてごろごろしながら寛いで聴いた。なんと贅沢な経験をしたことか。デビューほどない渡辺香津美は、若造そのものだったけど、すでにものすごい速いリフを弾きまくっていた。

渡辺香津美に次に注目したのは、中学時代の友人でギター野郎だったやつが、デビュー間もないYMOのライブ音源を持ってきたときで、それに渡辺香津美がギタリストとして加わってた。YMOの曲に、彼のギターが加わると、かっこよさが数倍になった。アルバムが出るのを待ち焦がれたけど、YMOのライブ盤が正式に発売されたときには、ギターの部分がカットされていて残念だった。(すごく後になって、アルバム『フェイカー・ホリック』では再収録された。これは、死ぬほどカッコイイ演奏だぜよ)。

 マイク・スターンのライブは、青山のブルー・ノート東京で行われた。ブルー・ノートは、初めて行ったのだけど、すごく環境のいいライブスペースだった。座って観られるし、お酒を飲んだり、おつまみを食べたりできるし、どの席からでも良く見える。音もすごく良い。やっぱり、大人はこういう環境でライブを楽しみたいものだ。最近、よく行っているライブは、若者が中心のバンドのものなので、「立ちっぱなし・見えない・暴れる」で、ほんと落ち着いて曲を楽しめない。

 これだけじゃ、物足りないので、最近購入したCDのレビューも付け加えるとしよう。買った順で。

まず、最初は、赤い公園のニュー・アルバム『純情ランドセル』

赤い公園は、ここ数年で、最も回数多くライブに通ったバンドである(六本木で赤い公園を観てきた。 - hiroyukikojimaの日記とかスタジオコーストで赤い公園のライブを観てきますた - hiroyukikojimaの日記などを参照のこと)。若い女子4人のバンドだけど、ほんとに斬新にして多彩な曲を作るので、すばらしい。それは、作曲の津野さんが、ものすごくイマジネーションの豊富な人で、さらにはたぶん、とてもよく音楽を勉強しているからできることなんだと思う。今回のアルバムも、非常に多様なジャンルの曲から成っていて、とても楽しい。パンクっぽい曲もあるし、ハードロックもあるし、なんと!ディスコサウンドっぽいのまである。とりわけ、「ショート・ホープ」という曲がサプライズ。これはジャズ・ファンクなフレーバーの曲になってる。ここでの津野さんのギターには、「こういう風に弾けるんだ」とびっくり。歌詞では、「14」のものが、瑞々しい。彼女たちは、まだ、中学生の頃の感覚を失ってないんだね。

貶められたくないし

陰口はたたく

怒られたくないし

良い子にもなれやしない

だってさ。もちろん、シングル・カットされた「Canvas」と「KOIKI」は、赤い公園節でありながら、非常に優れたポップスとなっていて、名曲だと思う。佐藤さんの明るいけど切ない声質がよく映える曲だ。

二枚目は、Tricotのニュー・アルバム『KABUKU EP』だ。

KABUKU EP

KABUKU EP

このTricotも、ここ数年、相当回数ライブに通っているバンドだ(赤坂ブリッツで、Tricotのワンマンライブを観てきた。 - hiroyukikojimaの日記とか渋谷でトリコのライブを観てきますた - hiroyukikojimaの日記とか参照のこと)。女子三人から成るユニットで、変態変拍子の曲調を本領としている。本人たちは、売れ線のJポップをやってるつもりなんだろうけど、ぼくはプログレ・パンクのジャンルに分類してる(すいません、Tricotの皆さん)。

このアルバムは、5曲から成るハーフ版。面白いのは、1曲はアカペラで、残りの4曲はすべてドラマーが異なっているというところ。4人のドラマーは、オーディションで公募したとか。

今回のアルバムは、とにかく、とにかく、すっげ〜、の一言。リズムがとんでもなく格好良くて、なのに、ボーカルラインがエモくて泣ける。よくこんな曲たちを作れたもんだと思う。

前作のアルバム『AND』は、良いことは良いんだけど、なんというか、変拍子にこだわりすぎで、デビュー当時に持っていたエモーショナルな感じが少しだけ薄くなった感があった。対して、今回のアルバムは、初心に回帰した、いや、もっとパワーアップしたエモーションがあって、すばらしい。

このバンドは、日本語の特性をうまく利用して、非常に自然な歌詞で変拍子を実現している。一聴するだけでは、変拍子だと気づかないくらい自然なボーカルラインになっている。ぼくは、ゼミ生とのバンドで、彼らの曲「爆裂パニエさん」のリード・ギターを弾いた経験があるが、この曲のみごとな歌詞の構成には舌を巻いたものだった。(途中で、ギターだけが一定リズムで弾いて、ドラムとベースのリズムがずれていくクリムゾンチックな場面があるんだけど、結局、ベースとドラムに巻き込まれてしまった。クリムゾンマニアとして情けなか)。

このバンドの本領は、リズムの切れ味とボーカルの切なさのトッピングにある。そういう意味で、今回のアルバムでは、3曲目「あ〜あ」と4曲目「プラスティック」にノックアウトされた。とくに、「あ〜あ」の歌詞は、「仕事がくだらなくなって、嘘の寿退社で会社辞めちゃうOL」の話。この突拍子もない歌詞に、すんごい変拍子が乗ってるのは、のけぞるしかない。4曲目「プラスティック」は、とにかく、YUUMIさんのドラムがかっちょいい。

三枚目は、相対性理論のニュー・アルバム『天声ジングル』

天声ジングル

天声ジングル

いやあ、タイトルが、毎度のことながら、あまりにすばらしい。こんな語呂合わせ、どうやって考えるんだろう。

まあ、とにかく、このバンドは、やくしまるえつこの声に尽きる。これは神声だよ、ほんと。この声を保てば、おばあちゃんになっても、青春の歌を歌えると思うぞ。

1曲目「天地創造SOS」の第一声からもう、ノックアウトされちゃう。2曲目「ケルベロス」では、やくしまるさんのアニメ声で「ワンワン」とか言われると、もう、胸の奥の方がくすぐられてたまんないっす。その上、この2曲は、演奏が今までになくハード。とりわけ、ベースラインがすごいと思う。

歌詞も、いつもながら、ぐっと来るものが満載だ。例えば、7曲目「夏至」は秀逸。

13才 夢を見る 14才 闇を知る

15才 恋に溺れては 暑く暑く焦らす夏が来る

 

18才 桜散る 19才 向こう見ず

20才 大人になれずに 暑く暑く茹だる夏が来る

こんな歌詞、書けそうで、絶対書けないと思う。

 さて、来週は、赤い公園とTricotのライブに行く。すばらしい、すんごい演奏、聴かせてね、期待してるぞ。でも、よりによって、なんで同じ週にするかなあ、体力的に不安。相対性理論の武道館公演は、大学で期末テストの真っ最中で忙しく、どうするか思案中。

P≠NP問題がざっくり理解できる本

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 最近、野崎昭弘『「P≠NP」問題』ブルーバックスを読んだので、レビューをエントリーしようと思う。

そもそも、この本を読もうと思ったのは、ある雑誌の企画で「数学の未解決問題」について、ある数学者と討論をすることになっていたのがきっかけだった。ミレニアム問題のいくつかが話題にのぼりそうなので、P≠NP問題についても少し知識を補充しておこうと思ったのだ。

でも、アマゾンのレビューで酷評されているのを読んで、いくぶん躊躇した。それで、少し時間が空いたけど、本屋で立ち読みしてみて、その場で購入した。少なくともぼくには、アマゾンのレビューはミス・ディレクションにすぎないものだとわかった。買って帰って、速攻で読了したが、ぼくの要求にかなった本であった。アマゾンのレビュー欄は、まあ、フリーミアムを利用してサイトに顧客を誘導するための、単なる「釣り」にすぎないコーナーだろう。あそこに労力をかけてdisりを書く精神が理解できない。正直、ご苦労なこったと思う。でも、そろそろ、せめてwikipedia程度の「信憑性チェック」にあたる何かを導入したほうがいいのではないか、と思う。まあ、多くのまともな読者は、アマゾンのレビューは信用しないと思うけど。レビューがひどいので、今回は、楽天のほうにリンクを貼っておく。

アマゾンのレビュアーは、本書がなかなか「P≠NP問題」の本論に入らないことにご不満だったようだ。確かに、「コンピュータとは何ものか」から始まって、全体の半分にあたる100ページぐらいまでコンピュータの歴史とか構造の話をしている。レビュアーは、このことに憤慨している。

ぼくも、このあたりは、斜め読みをしてしまった。知っていることが多く、先を急ぎたかったからだ。でもそれは、単に、ぼくが以前にそういうことを読書した経験があるからにすぎず、「不要だから」ではない。P≠NP問題のキモを理解するのは、やはり、コンピュータの仕組み、例えば、2進法とか計算方式とかチューリングマシンとかを知っているべきだし、また、その歴史を知ることも無駄ではないと思う。本書はそういう派生的な知識を含んでいるが、そうでない本は、息苦しく、素人には楽しみのない苦しいだけの登山道となってしまう。

 野崎さんの名著『不完全性定理』ちくま学芸文庫も、実は、同じ形式をとっていた。数理論理学におけるゲーデルの不完全性定理を解説する本でありながら、全体の半分は、ギリシャ数学の話とか公理系の話とか集合論の話をしている。でも、読了したぼくは、この本で最も重要なのはこの部分なのだ、という感想を持った。ぼくの個人的な感覚にすぎないが、ゲーデルの不完全性定理を素人が理解するために大事なのは、ゲーデル数でもメタ化でも対角線論法でもない、それは「証明するとはどういうことか」「証明の形式化とは何のことなのか」ということだと思うのだ。それを曖昧なままにしておいては、いつまでたっても、不完全性定理のキモを掴むことはできないのではないか、と思う。このことは、専門家には到底想像がつかないだろう。専門家にとって、「証明するとはどういうことか」「証明の形式化とは何のことなのか」ということは、空気のような存在になってしまっているからだ。

ぼくは、野崎さんの『不完全性定理』以前に、何冊かのゲーデル本、例えば、ホフスタッター『ゲーデル・エッシャー・バッハ』などを読んだけれど、不完全性定理のキモがわかった気がしていなかった。だから、何冊も手にすることになったのだ。野崎さんの本を読んで、何がわかっていないのかがわかった。それがまさに、「証明するとはどういうことか」「証明の形式化とは何のことなのか」だった。これがつかめてしまうと、後半になってやっと出てくる、不完全性定理の証明の要約が、あまりにピンときてしまったのだ。もちろん、専門家のようにわかっているわけではない。当たり前だ。数理論理で飯を食っているわけではないので、そんな「完全理解」にさく時間も金も必然性もない。欲しいのは「キモの把握」なのだ。それには、野崎さんの表現で十分だった。この手応えは、その後、数冊の不完全性定理の専門書を読破した現在でも、変わることはない。

 数学の啓蒙書のモットーとすべきは次の四点だと考える。

1.ざっくりとした本質を、誤解を恐れず、日常の言語で示す

2.ベンチマークとなる具体例の投入

3.登山道の道しるべを示す

4.動機付ける

だから、ごちゃごちゃといろんな知識を披露する、とか、読者が挫折するような証明を子細に書く、とか、面白くもない最新の専門的結果を入れる、とかは逆効果で、モットーに反することなのだ。

本書は、ちゃんとこの4つのモットーを叶えている。

第一に、P≠NP問題のPとNPの違いを、ざっくりと、そして、日常表現で表してる。Pは「多項式時間で判定できる問題」を表すのだけど、NPのほうは理解がやっかいで、それは以下のように説明している。

(#1)非決定論的な選択を許す

(#2)計算量は最も良い場合で数える

(#3)答えがNOの場合は、無視してよい

この3つのインチキを許すアルゴリズムで、多項式時間で解けるもの

何冊かの解説書でNPのことを読んだけれど、この説明がもっとも膝を打つものだった。

2.における本書での「ベンチマーク」は、ハミルトン路だ。ハミルトン路とは、点を線で結んだグラフにおいて、すべての点を1回ずつだけ通って出発点に戻るような経路のこと。どんなグラフではそれが可能で、どんなグラフだと不可能なのかを決定するのが、「ハミルトンの問題」である。未解決問題を身近にするには、このような歴史的に有名な問題をベンチマークにするのが得策だと思う。

本書では、このハミルトン路を、NP問題のベンチマークとして、再三説明している。もちろん、どんな計算理論の本にも登場するが、本書ほど丁寧にハミルトン路を説明している本は、少なくともぼくは読んだことがない。本書を読めば、ハミルトン路を見つけるのがなんでやっかいなのかがよくわかる。オイラー路(一筆書き)との違いもよくわかる。ハミルトン路を徹底的にベンチマークとするので、「NP完全」という概念がすんなりと理解できる。

3.の登山道の道しるべも、本書にはちゃんと導入されている。「道しるべ」とは、登山道そのものではない。「もしも登山をするつもりなら、最初にこの道しるべを探し、次にこの道しるべを目指し、とそういうふうに登ればいいのでは?」という示唆を与えてくれることだ。本書を読んだぼくは、「仮に次に何かに進むとするなら」、何を理解すればいいのかがはっきりわかった。NP完全な問題とは、それを決定すれば、NPに属する問題のクラスを完全に決定できてしまう問題のことである。つまり、クラスを代表する問題で、「それだけを分析すればいい」というものだ。例えば、ハミルトン路がそれにあたる。本書によれば、論理式の充足可能性問題(与えられた論理式を真とするような真偽値の割り当てがあるか?)がNPのクラスに属し、しかもP≠NP問題が「充足可能性問題はPに属すか」に帰着されることをクックという人が示したそうだ。つまり、次につまみ食いすべきは、このクックの定理であろうことがわかった。もちろん、つまむかつままないかは、読者の勝手である。このように、本書には、「もう少し精密にP≠NP問題を理解する」ための道しるべが所々におかれているのである。

そして、4.の動機付けについても、本書は十分であると思う。啓蒙書は、読者を「次の啓蒙書に手を出してみよう」とか「専門書を買うだけ買ってみるか」と思わせれば、それだけで成功だ。動機付けとはそういうことである。ぼくは、実際に、本書で動機付けられた。実は、ずいぶん前に、シプサー『計算理論の基礎 1, 2, 3』共立出版を買って本棚に置いてあったが、手つかずのままだった。今回は、野崎さんの本に動機付けられ、この本の3巻を取り出し眺めてみた。そこにはクックの定理の証明が載っており、それを斜め読みして、証明のキモだけは理解することができた。もちろん、精緻に理解したわけではない。当たり前だ。ぼくは専門家ではないので、そんなことをするのは時間と労力の無駄である。趣味と好奇心で、ざっくりと知りたいだけなのである。大事なのは、野崎さんの本を読まなければ、決して、この本を本棚から取り出すことはなく、そして、クックの定理の証明を目にすることもなかった、ということなのだ。

 野崎昭弘『「P≠NP」問題』には、他にも興味深いことがいろいろ書いてあった。例えば、「素数判定」に関して、ルートnまでの素数で割ってみる、というアルゴリズムは指数時間的になってしまうけれど、2002年にインドの3人の数学者によってAKSアルゴリズムというのが発見され、多項式時間で判定できるとわかり、Pのクラスの属する問題だとわかったことがそれだ。ただし、サイズの11次多項式であり、実用的ではないとのことだ。実はぼくは、このAKSアルゴリズムは論文を持っていて、以前にテレビドラマ『相棒』の監修をしたとき、利用した経験がある(この監修については、ドラマ「相棒」シーズン12の第2話「殺人の定理」 - hiroyukikojimaの日記を参照のこと)。利用したときには、「そういう判定法があるんだなあ」と思っただけで、それがP≠NP問題と関係するなどと思っていなかった。

中でも非常に興味深かったのは、最後に「余談」として書いてある、次のゲーム。

1. 最初にある自然数N>1を決める。

2.2人で先手・後手を決め、交互に1つずつ「Nの約数」を言う。

3.どちらかがすでに言った数の約数は、もう言うことができない。

4.他に言う数がなくなり、"N"と言ったほうが負け

このゲームは、先手必勝であることが「それほど難しくなく証明できる」という。しかし、一般的で明快な先手必勝アルゴリズムはまだわかってないとのこと。野崎さんは、これを、「存在する」ことと「具体的に求める」ことのギャップの例として、紹介している。ぼくは、大学の講義でゲーム理論を教えている関係上、こういう面白いゲームの例には非常に興味がある。ちょっと考えてみたけど、今のところ、その「それほど難しくない証明」がわかっていない。「具体的なアルゴリズム」を与えずに「存在」を証明するのだから、きっと「超越的な証明」なのだろう。ウェブで検索してみたんだけど、それらしいものが見つからなかった。誰か知ってたら、教えて欲しい。

 というわけで、P≠NP問題について、前記の4点を備え持った啓蒙書をお探しなら、はい、損はさせません。是非、野崎さんの本を読んでごらんなさい。

有名定理にも、短くて、わかりやすい証明が必要なのだ

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 今回は、芳沢光雄さんの名著『群論入門』ブルーバックスを紹介しようと思う。

この本は、ずいぶん前に入手したのだけど、読んだ期間が飛び飛びだったので、なかなか紹介のチャンスがこなかった。でも、すばらしい本なので、やっと紹介できて嬉しい。

この本は、タイトルの通り、芳沢先生が「群論」について、非常に初等的な講義をした本である。

群論というのは、19世紀の数学者ガロアが「5次以上の方程式には、四則計算とべき根だけで記述できる解の公式がない」ということを証明するときに開発した技法である。基本的には、n個のモノを並べ替える「置換」に、「合成」を演算とする代数計算を導入したものである。ガロアは、n次方程式のn個の解を入れ替える「置換」を代数的に分析することで、前記の定理を証明したわけだ。

群論の発祥は、方程式なんだけど、群という数学的対象があまりに豊かな果実を秘めていたため、20世紀以降は代数方程式に限らず、あらゆる数学の基礎となり、いわば、数学の主役の座を勝ち取った。本書は、そんな群論の初等的な性質を非常にわかりやすく解説した本なのだ。

 この本の特徴を一言で言えば、「群に関する有名定理に対して、とても短く、そしてわかりやすい証明を与えた」ということ。それは、例えば、次の定理たちである。

1. 任意の置換は、いくつかの互換だけの合成で表せる。

2. 置換を一つ決めたとき、その置換を互換の合成で表す方法は複数通りあるが、合成する互換の個数が偶数か奇数かは決まっている。

3. 交代群(偶数個の互換からなる置換の成す群)は、置換全体のちょうど半分の要素から成る。

4. n≧5のとき、n次交代群は単純群(自分自身と{e}以外に正規部分群を持たない群)である。

これらの定理は、群論では有名定理であり、必ずどの本にも出ている。そればかりではなく、群を利用する数学分野の教科書でも、ほぼ確実に証明が載っている定理たちである。

例えば、1.と2.は、線形代数の教科書にはたいてい載っている。それは、この定理が、行列式を定義するときに必須だからである。行列式は、成分の積に±1を掛けて足し合わせる計算をするのだけど、その際に(+1)を掛けるか、(−1)を掛けるかは、互換の個数の偶奇で決まるのである。また、3.と4.は、さきほど出て来たガロアの定理「5次以上の方程式には、四則計算とべき根だけで記述できる解の公式がない」の本質となる定理である。

でも、多くの教科書や数学書では、これらの定理の証明は、非常にわかりずらく、イメージを掴みづらく、読むのに辟易となってしまう。群論以外の教科書では、それはあまりに深刻だ。本当に知りたいこと(行列式の理論とか、ガロアの定理とか)に早くたどりつきたいのに、これらの群の定理の理解に手間取って、じれったくなってしまうからだ。そうなるのは、多くの教科書や専門書に載ってるこれらの定理の証明が、「古典的でよく知られた証明」であって、決して、エレガントな証明ではないからである。

そのため、ぼくは、拙著『ゼロから学ぶ線形代数』講談社を書いたときは、2.の定理の証明を導入することを諦めた。拙著『天才ガロアの発想法』技術評論社では、4.の定理の証明を入れることを諦めた。芳沢さんのこの本での証明を知っていれば、導入のしようがあったかもしれない、と思い、少し努力が足りなかったと後悔している(でも、それらがなくても、良い本なので、未読の人は読んでみてね。笑)。

 多くの数学者は、こういうことに無頓着だ。自分はずいぶん前に既に理解してしまっている定理たちだから、「アタリマエ」の存在になっていて、わざわざ明快に証明しようとする気にならないのであろう。でも、これから学ぶ人のためには、できるだけ理解の労力を引き下げ、できるだけ直観に訴える証明を与えることは大事な貢献であることは言うまでもない。

 芳沢さんの『群論入門』には、そういう努力の結晶が盛りだくさんである。それは、芳沢先生が、単なる職業的・数学者の一人である、というだけではなく、これまで「数学教育」へもたくさん貢献してきた数学者だからできたことなのだ。

 例えば、1.の証明は、「望むあみだくじを作る方法」を与えることによって証明している。実はぼくは、結果を決めたあみだくじを簡単に作る方法をこの本で初めて知った。作り方も証明もとても簡単である。

次に2.では、まず「恒等置換を互換で表すと、偶数個の合成になる」を証明する。それは、恒等置換であるまま互換の個数を2個ずつ減らす操作から証明する。一般の置換を互換の合成で表す個数の偶奇については、恒等置換のケースに帰着させてしまうのである。

そして4.については、交代群の正規部分群Nについて、「Nが長さ3の巡回置換を含めば、交代群になってしまうこと」を証明し、そのあと、「Nが単位元e以外の置換を含めば、必ず長さ3の巡回置換を含む」ことを証明する。場合分けは少し面倒だけど、非常に明快な証明の手順となっている。

 この本は、置換群の初等的な応用もいろいろ書かれていて、ものすごく教育的でものすごく啓蒙的な本となっている。

例えば、偶置換・奇置換の応用として、「15ゲーム」が解説されている。これは、誰もが一度はやったことがあるであろう、正方形のケースに15個の小正方形が配置されており、1から15までの数字が打たれている玩具。一つだけ空いた空白を利用して、小正方形を移動させて並べ替えて、1から15を整列させるゲームである。この「15ゲーム」を紹介した数学書は少し見受けられるけど、「駐車場移動ゲーム」というのは、ぼくは全く知らなかった。これは14台の自動車を、駐車場の空白を利用して移動させて、番号順に整列させるゲームだ。子供や学生にやらせるには適度で楽しいゲームだと思う。どちらも、置換の群論で解決することができる。

 さらには、最後の章で解説されている「ラテン方陣問題」は、非常に興味を喚起されるものだった。それは、数学者オイラーが1779年に出した次の問題に由来する。

ここに第1連隊から第6連隊まで6個の連隊がある。各連隊から1級士官、・・・、6級士官それぞれ1人ずつ選出し、合計36人集める。これら36人を配置できる6行6列の正方形の場所に、次の条件(*)を満たすように配置することは不可能ではないか。

(*)出身連隊だけに注目すると、行と列各々の並びには各連隊から1人ずつ出ている。また階級だけに注目しても、行と列各々の並びには1級から6級まで1人ずつ出ている。

これは、「ラテン方陣」についての一つの特殊性質(直交性)を要請するものである。このオイラーの予想が正しいことが証明されたのは、なんと1900年になってやっとであったそうだ。また、n×n方陣についての部分的な解決は1960年になって発見されたが、いまだに完全解決には至っていない未解決の問題とのことである。なんか、わくわくするよね。

 数学者の中には、定理の証明は一つ与えれば十分である、と考える人もいるようだ。でも、有名定理に対する、初等的な、あるいは、コストの低い証明の発見は、教育的な意味でも、啓蒙的な意味でも、そして、学問的な意味でさえも、大事なことであると思う。本職の経済学のことになって恐縮だが、経済学で非常に重要な定理に「ワルラス均衡の存在定理」がある。これには、「ブラウワーの不動点定理」が使われる。この不動点定理の代表的な証明法は、本質的にホモロジー群(巻き数)を使うのもの(背理法による)だ。しかし、離散数学の分野で、初等的な証明法が発見されている。それは「スペルナーの補題」というのを利用するもので、ものすごくわかりやすい、コストの低い証明である。そればかりでなく、スカーフという天才的な数理経済学者が、この「スペルナーの補題」を拡張して、ワルラス均衡を具体的に見つけ出すアルゴリズムについての成果を得ている。これは、ホモロジー群(巻き数)を使った「超越的な」証明では不可能なことであろう。

この世で観られる最高の音楽〜Tricot

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先月と今月に、Tricotのライブに行ってきた。

先月は赤坂ブリッツのワンマン、今夜は代官山ユニットで対バンライブ。今夜のライブは、イギリスで活動する日本人バンドBo ningenとの対バンだった。どちらも最高の演奏だった。Tricotのライブは、おおよそ、この世で観れる最高の音楽だと思う

Tricotは、女子3人からなるバンド。ドラムはサポートで、おおよそ、女子ドラマーの山口さんが叩いてるけど、ときどき別の人も叩く。彼女たちの音楽のジャンルは、エモに分類されるのかもしれないけど、とにかくこの変態変拍子の音楽は、ぼくは絶対に「プログレ」に分類する。実際、いくつかの曲は、キング・クリムゾンへのリスペクトが感じられる(思い過ごしだと言われると反論できないけど)。このブログでも何回も紹介しているので、今回はわざわざリンクは貼らないことする。

赤坂ブリッツのワンマンは、それこそ、驚天動地の演奏だった。ここ数年で観たすべてのライブの中で一番の鳥肌ものだったと断言できる。実は、ずいぶん前に1Fスタンディングのチケットを手に入れていたんだけど、ソールドアウトしたため、急遽当日に2Fの椅子席を開放したことを知り、1Fのチケットを捨てて、2F当日券を購入した。大人はお金があるからこういうことができるんだね。

んで、2Fで座って、じっくりと観たライブのすごさと言ったら。とにかく、グルーブ感が半端ない。いつ、こんなにかっこいい演奏が完成したんだろう。ドラム、ベース、ギターのスリリングなシンクロの仕方がめちゃめちゃ素晴らしい。

ブリッツでのライブの見所は、ドラマーが5人も登場したこと。最新のEP盤は、4人のドラマーをゲストに迎えて、1曲ずつ叩いている。そのすべてのドラマーが登場して、各自の曲で叩いたのである。みんな、すごくかっこいいドラミングで、「ああ、今回の楽曲は観てもかっこいいドラムを作曲したんだな」とわかった。とりわけ、YUUMIさん(Flipの女性ドラマー)のドラムを観れたのが嬉しかった。

そして、アンコールでは、ドラマー5人全員での演奏という、もうこういうのはクリムゾンでしかやらないよ、ってな演奏が驚いた。(去年のクリムゾンだって、たかがトリプルドラムだったからね。爆)。こんな贅沢なライブは滅多に観れない。

今日の代官山ユニットのライブは、対バンだったので、前半の約1時間の演奏。ドラマーは、若い男子で、EPの中のどれかを叩いている子だと思う。あの若さであの腕前はすげえ。

今日のライブは、これまでに観たTricotのライブでは最も空いていて、とても見やすかった。こんな近くで観たのも初めてだ。とりわけ、モッシュとかダイブとかなかったので、身の危険を感じずに安心して観られた。演奏は、ブリッツに匹敵するすばらしさで、とりわけ木田モティフォさんのギターのソリッドさには痺れた。こんなギタリスト、女性ではかつていなかったと思う。(ナンバーガールの人がその一人だけど、アグレッシブさが異なる)。

今日のライブには、業界人がいっぱいいた感じがする。とりわけ、最前列で観てた女子の集団は、YUUMIさんとBimbamboom(山口さんの別ユニット)の人ではなかろうか(人違いかもしれないけど)。Bimbamboomのギタリストさんには、赤坂ブリッツで手売りしてたCDを買った際に、サインをしてもらったのだ。

とにかく、最前列のYUUMIさんと思われる人は、ひときわ目立つ美人で、(YUUMIさんでなくても美人ならかまわんとばかり)どうしても近くで見たくなって、じりじりと前のほうに行ったら、彼女が少し後退してきたので、隣で並んで観るはめになり、動揺してしまった、その一曲は頭に残っておらん(もったいな)。

 せっかくだから、Tricotのかっこいい一曲にリンクを貼っておこう(PVは、何をやっちょるんだ君ら、という感じだけど)。

https://www.youtube.com/watch?v=h0Q_y54F070 (Tricot ポークジンジャー)

 ついでに、Tricotネタをもう一つ。

Tricotのボーカリストの中嶋イッキュウさんが、ついこないだ、ソロデビューをした。7月8日の夜中に、Ustreamでなんか放送をするというので、仮眠をとってから、夜中の3時半に起きて観てみたのだけど、その動画は、単にイッキュウさんが新宿から中野へ夜の街を徘徊してるだけのもので、「なんじゃこりゃ」。でも、どことなく心地良いので、1時間もある徘徊映像を最後まで観てもうた。ところが、翌日の真夜中に、イッキュウさんのソロPVが公開されたのだ。それは、まさに夜中に観た徘徊動画にソロ曲をのせたものだった。それが、なんだか、めっちゃ泣ける曲。リンクを貼ろう。これはPVも良いよ。

http://www.ikkyunakajima.com/ (ikkyu nakajima〜sweet sweat sweets)

実は、ぼくは、中嶋さんの「死」とか「別れ」をイメージさせた曲がすごく好きなのだ。とりわけ、デビューアルバムに入ってる「42°C」は、何度聴いても泣いてしまう。

 最後に、Bimbamboomのことの紹介しておこう。

 このバンドは、さっきも書いた通り、Tricotのサポートドラマーの山口さんがリーダーで作った女子だけのファンクバンド。赤坂ブリッツの物販で、メンバーが手売りしてたんで、(かわいかったから)思わず買ってもうた。サインもしてもらってほくほくだった。一聴した感想は、「うわ〜、なつかしい。でもかっちょいい」。いまどき、こんな音楽をやろうとする志しは絶賛する。せっかくだからリンクを貼るね。

https://www.youtube.com/watch?v=MjU-i5VdYw8 (Bimbamboom〜HushHush)

これを聴いたとき、大昔、高校生の頃に聴いたハービーハンコックの「カメレオン」を思い出した。っていうか、山口さん、これカバーしてよ(って、読んでるわきゃないか)。

https://www.youtube.com/watch?v=3m3qOD-hhrQ (Head Hunters | Herbie Hancock | 1973)

 とにかくね、Tricotの音楽は、この世で観れる最高の音楽なんだよ。もしも来世がないなら、ゾンビになっても聴きたいのだ


今日は、新代田でTricotを観てきた。

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 前回(この世で観られる最高の音楽〜Tricot - hiroyukikojimaの日記)に続いて、今回もTricotのライブ・レポートのエントリーをしよう。

今日は、新代田フィーバーで、Tricotの演奏を観てきた。

本当は行く予定ではなかった。実際、期末テストを昨日で終えて、今日は採点に集中しなけりゃならなかった。しかも、さまざまなストレスから胃を痛めていて、今日の今日、かかりつけの医者に行って、胃薬を処方してもらった。そんな日にライブに行くなんて、向こう見ずにもほどがある。

でも、Twitterで、Tricotのメンバーたちが、今日のライブを告知するたびに、行きたい→行かなきゃ→行くのが使命だ、と取り憑かれたようになった。夜になったら、もう、いてもたてもおられず、結局行ってしまったのだ。当日券があるとの予想の下で。まあ、一番大きいのは、新代田というところが、家から電車で数駅の近くにある、ということが大きかったんだけど。

新代田フィーバーは、初めて行ったのだけど、思ったより小さなライブハウスで、混んでいなければなかなかなフィールドだろう。実際、前にTricotを下北沢Queで観たとき(下北沢でトリコ(Tricot)を観てきた。 - hiroyukikojimaの日記)ほどには混んでおらず、しかもダイブもモッシュもなかったので、落ち着いて聴くことができたので良かった。

まず、演奏の感想。

先日に、代官山ユニットで観たとき(この世で観られる最高の音楽〜Tricot - hiroyukikojimaの日記)と、前半の曲は同じだったけど、後半が全く違っていた。とりわけ、新曲をやってくれたのは感動した。新曲のお披露目に立ち会えるなんて、冥利に尽きるぞ。それから、「プラスティック」をやってくれたんだけど、YUUMIさんでないドラマーで聴くのは初めてで、それも新鮮だった。それより何より、大好きなバラード系の曲「食卓」をやってくれたんで、泣きそうになった。ぼくは、アルバム『AND』では、ほんとにこの曲が好きなんだよねえ。この曲の、木田モティホさんのギターのハーモニクスがほんとすばらしいんだよねぇ。ハーモニクスはギターの花。今日は、近かったので、この曲は2カポであることがわかった。ハーモニクスをやりやすいように、2カポなんだろうか。

次に、メンバーについての感想。

イッキュウさんは、いつもとメイクが違うのか、それとも箱の小ささのゆえか、とても美人に見えた(実際、美人なんだろうが)。木田さんは、相変わらずのギターのかっこよさに痺れた。くどいけど、「食卓」のハーモニクスね。せっかくの美人なんだから、もっと、美人を強調する見た目にしたらいいのに、動きは野人でいいから。ヒロミさんは、ほとんど見えなかった。これが、ステージが低い小さい箱の難点なんだよねえ。でも、前回のライブでは、客席に降りてくれて、ぼくらが囲む場所で弾いてくれたからよしとしよう。個人的な感想なんだけど、このごろのTricotの演奏がアグレッシブかつシャープなのは、ヒロミさんのベースによるところが大きいと思う。ドラマーは、代官山のときと同じ、若い男の子だった。山口さんもいいけど、この子も良いね。

 そんでもって、今日の収穫は、新作のTシャツを買ったことと、ずっと欲しかったアーティストブック『爆女』を買えたこと。いや、今、この本のリンクを貼ろうとして、楽天ブックスとアマゾン両方で、「爆女」と検索してみたんだけど、エッチなものしか引っかからないぞ、なんでやねん。この本には、DVDがついていることが、買ってみてわかった。それはUstreamで前に配信した、アルバム『AND』からのスタジオライブ。ドラマーが5人も出演する、超贅沢なライブだ。今観てみたけど、すばらしかったあ。木田さんがちゃ〜んと美人メイクしてて、感動。笑。

 今日のライブを観たおかげで、「胃痛なんかに負けるもんか」という活力が沸いた。ライブはいいね。特に、Tricotのライブは。

どうせ、Tricotのメンバーがこのブログを読んでる確率は、1000に3つぐらいだと思うけど、1000が3読んでいる可能性に賭けて、書いてみよう。

彼女たちが、新しいテーマを探してるなら、万が一、探しているなら、イタリアの昔のロックバンドAREA(アレア)を聴いてみてよ。例えば、以下。

https://www.youtube.com/watch?v=SAr1tI_-gp8(アレア ライブ)

アレアが20世紀に目指していたことを、この21世紀に実現できるとすれば、それはTricotじゃないかな、と思える。もちろん、いろいろなコンセプトを変形した上での話だけど。リズムの転換と、それと、アグレッシブさね。Tricotならできる。

当時の、いわゆる、ユーロ・プログレには、PFMとか、オザンナとか、ニュートロルスとか、いろいろいて、どれもすばらしいバンドだけど、「革新的」という意味では、このアレアが唯一無二、孤高の存在だったと思う。とりわけ、ボーカルのディメトリオ・スタトスはすごすぎる(なんで若死にしたかなあ)。聞いた話では、歌詞は「共産党への勧誘」で、このバンドのせいで、多くの若者が党員になったらしいけど、イタリア語のわからないぼくには、真偽のほどは定かではない。

実は、ぼくがまともに観た最初のライブは、高校生のときに観たイタリアのプログレバンドのPFM(プレミヤータ・フォーネリア・マルコーニ)なんだよね。このバンドは、キング・クリムゾンの詩人ピート・シンフィールドがプロデュースしたため、日本でも流行ったのだ。ずいぶんあとになって、このバンドのイタリア盤を入手したけど、英語盤よりイタリア語盤のほうがずっと良い。

 話が大きく逸れたが、要するに、今日もTricotの演奏がすばらしかった、そういうこと。

10を聞いても1しかわからない人のためのゼータ関数入門

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 8月がこんなに忙しい年は初めてで、今まで、全くブログを更新する余裕がなかった。

今回は、更新できない間に、ちょこまか読んだ数学書、小山信也『素数とゼータ関数』共立出版紹介をしよう。

ぼくが、中学生のための受験雑誌『高校への数学』東京出版で素数についての連載をしていることは、何度か書いた。その参考のために、本書を読むことにしたのだ。しかし、単なる参考を超えて、この本はとてもすばらしい本であった。

何がすばらしいか、と言えば、本書はゼータ関数のことを、本当に丁寧に、至れり尽くせりで解説していることである。

数学書の多くは、「1を聞いて10を知る」人に向けてかかれている。極力、最短距離で、最短の労力で、しかもエレガントな方法で定理を導いている。こういう本は、専門家や、将来数学者になる数学少年や、めっちゃ頭のいい人にはこの上なく適切な本だろう。しかし、ぼくを含む、凡庸な、頭の良くない人間には、全くもって挫折感を植え付けられるだけの本なのである。本書は、そういう本と真逆で、ぼくや多くの凡庸な数学ファン、「10を聞いても1しかわからない」人々へ向けて、「痒いところに手の届く記述」で書かれた、超親切な本なのだ。

 とは言っても、本書を完全に理解するにはそれなりの数学知識が必要である。大学1、2年程度の解析学の知識、それと、複素解析の知識が不可欠だろう。でも、読み方次第では、そういう知識がなくてもなんとかなるかもしれない。この本には何段階かの読み方があると思うからだ。

[深さ1の読み方]:数式は斜め読みするだけで、日本語の部分を中心に読む。

[深さ2の読み方]:数式については、それが何を意味する式かだけ読解し、煩わしいところは飛ばし、主に日本語を読む。

[深さ3の読み方]:数式をちくいち検証しながら、じっくり綿密に解読する。

どの段階を選ぶかは、読者のニーズと知識段階に依拠すると思う。どの段階を選んでも、有意義な読書となることは請け合いである。ちなみにぼく自身は、[深さ2の読み方]をした。以下、各[深さ]をお勧めするレビューを与える。

 [深さ1の読み方の勧め]

本書は、単に定理を与えるだけではなく、それがどんな含意を持っているか、があちこちに書いてある。それらは、ゼータ関数のファンになるのに十分なほど魅力的である。ゼータ関数は、解析学のたくさんの技術がそれこそ「総合商社的」に利用される。本書は、それをただ場当たり的に出してくるのではなく、「その技術を使う必然性は何か」「その技術がどのように効いてくるか」を言葉で説明してくれる。これらの記述を読むと、ゼータ関数というのは数学者の英知の結晶であるなあ、と強く胸が打たれる。

 [深さ2の読み方の勧め]

本書の売りは、ゼータ関数の基本的性質を、省略せずに、しかもできるだけ初等的に証明していることだ。それはもう、至れり尽くせり、痒いところに手がとどくようである。

ゼータ関数ζ(s)とは、ご存じの通り、「(nのs乗の逆数)をすべての自然数nにわたって足し合わせたもの」(Σ(1/n^s))である。ここで、定義域sは複素数全体だが、あとで解説するように、複素数s全部に対してこの無限和で定義されているわけではない、という点が大事だ。

本書ではまず、実部Re(s)が1より大きいsに対して、前記の無限和が広義一様に絶対収束することを丁寧に証明している。基本的だが押さえておきたいことだ。

次に、この領域(実部Re(s)>1)では、ゼータ関数ζ(s)がオイラー積表示「{1−(pのs乗の逆数)}の逆数をすべての素数pにわたって掛け合わせたもの」(Π1/(1−p^(−s)))と一致することを丁寧に証明する。大事なのは、このことだけで、この領域ではζ(s)が0とならないことが同時にわかってしまう、という指摘である。なぜなら、無限積は収束する場合は0とならないからなのだ。このことは、素人には意外な事実であろう。そして、ζ(s)がこの領域では0とならないことは、ゼータ関数の零点を追求するリーマン予想にとっては、とても重要な事実である。

次なる段階として、「(nのs乗の逆数)をすべての自然数nにわたって足し合わせたもの」は、実部Re(s)が1より小さいsに対しては発散することが丁寧に証明される。ゼータ関数ζ(s)はこの領域でも有限値となっているので、多くのアマチュアはここでつまづく。つまり、愚直に無限和を実行すると、発散してしまうわけだから、ゼータ関数ζ(s)はこの領域では「(nのs乗の逆数)をすべての自然数nにわたって足し合わせたもの」ではない、とわかる。こんな大事なことをちゃんと書いている本は少ない。それもそのはず、実部Re(s)<1なる複素数sに対して、くだんの無限和が発散することの証明はそんなに簡単ではないのである。この点について、著者は次のような直感的理由を与えている。

nの増大に伴い絶対値は減少して0に近づき、偏角の絶対値は対数のオーダーで増大していく。したがって、nが自然数全体を動いたときの複素数(1/n^s)の列が、らせん状に原点に向かって収束することは先ほどと同様であり、このような点列の和が収束するかどうかを判定するのは難しい。少なくとも各項が0に収束する上に、らせん状に動くことによってそれらの和には相当な打ち消しあいが起きていると推察されるからである

このような記述は、定理の証明の困難さを示すだけでなく、級数の様子を視覚的に教えてくれる意義を持っている。本書にはこういう記述が満載なのである。実際、この証明は、コーシー列の収束を利用する泥臭いものなのだ。

さらには、細かいことにも、次の提示されるのは、実部Re(s)=1なる複素数sに対してである。sが実部が1で、1とは異なる複素数の場合も発散するのだけど、その証明もそんなに簡単ではない。

そうやって、無限和について丁寧に検討したあと、今度は無限積(Π1/(1−p^(−s)))に対して、丁寧にその収束を検討していく。ここにもさまざまな解析的なテクニックが現れる。

そうした懇切丁寧な検討のあとで、いよいよ、「解析接続」について解説が行われる。すなわち、実部が1より大きい領域で定義された「(nのs乗の逆数)をすべての自然数nにわたって足し合わせたもの」が実部1にもはみだして解析的に拡張でき、実部が1から0の領域にもはみだして拡張でき、という具合に順次拡張できていくのである。このような丁寧な解説を読めば、ゼータ関数というものが、一つの式で素朴に定義されるものではなく、解析的な性質を維持しながら複素平面全体にじわじわとさながら水のように浸透していくものだと直感できるようになる。

 最後に、[深さ3の読み方の勧め]を簡単の書いておく。(まあ、この読み方ができる人がこのブログを読んでると思えないので)。

本書は、おそらく、素数定理「x以下の素数の個数π(x)はx/log xに近づく」をゼータ関数から証明する、最もわかりやすい本ではないか、と思う。しかも、ゼータ関数の零点がどのように素数定理の証明に関わり、そして、それがリーマン予想とどういう関係にあるかも、明快に理解できる。ここまでたどり着けば、自分が素数に関して「進化形ポケモン」になったと自覚できるだろう。

深さ3の読み方として、本書は、大学1,2年で教わる解析学の技術のオンパレードであり、その知識のまとめとして利用する、というのがある。ざっと列挙すると、複素数の対数、留数、マクローリン展開、フーリエ変換、オイラー・マクローリンの集計法、無限積、ガンマ関数、ウォリスの公式、スターリングの公式、ポワッソン和、アーベルの総和法、などなどだ。これらの基本的な定理や技術が、有機的に結びついて使われるので、スポーツでいうところの「ただただ辛いフットワーク」でない「真剣試合の楽しさ」に匹敵する感覚を得ることができるだろう。

 昔、黒川信重先生と雑談していたとき、黒川先生が「ゼータを中心素材にして、高校数学・大学数学の教科書を再編集したい」ということをおっしゃっていた。そのときは、面白い冗談だな、程度に感じただけだったのだけど、本書を読むにつけ、そういう教科書があったらステキだ、と思うようになった。というか、本書がその先駆けなんじゃないか、とさえ思う。

 ちなみに、ゼータ関数の「入門の入門」には、拙著『世界は2乗でできている』ブルーバックスをどうぞ(笑)。

 

シン・ゴジラ観てきた。シン・ゴジラ観るべし

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 先週、映画『シン・ゴジラ』観てきますた。

みんな、『シン・ゴジラ』、すぐに観たほうがいいと思う。だってさ、君は来週に不慮の事故かなんかで、死んじゃうかもしれないんだよ。そうしたら、『シン・ゴジラ』観ないまま、人生が終わるんだよ。それってめっちゃもったいないことだと思う。

 ここでは、『シン・ゴジラ』については、ほとんどネタバレをしないで書くつもり。でも、何をしてネタバレと言うかは難しい。真のネタバレ・ゼロとは、情報量ゼロということで、それでは書く意味がない。細心の注意を払って書くけど、それでもネタバレになったらごめんなさい。(でも、そんなにネタバレが嫌なら、もっと早く観ろってことでしょ)。

 ぼくは先週まで、『シン・ゴジラ』を映画館で観るつもりはなかった。気が向いたらDVDで、ぐらいのつもりだった。

その理由の第一は、ゴジラ映画は「卒業した」という気分でいたこと。第二は、総監督の庵野氏の『エヴァンゲリオン』を、第一話でついていけなくなって挫折したあと、なんとなくそっち方面を避けてきたこと。第三は、ぼくがtwitterでフォローしているある人が、どういうつもりか『シン・ゴジラ』の結末をネタバレ・ツィートし、結末を知ってしまったこと。

 じゃあ、なのに、どうして観たのか。それは、親しい経済学者が、わざわざメールをくれて、(半ば強制とも言える感じで、笑)「観るべし」と勧めてくれたからだった。

 その経済学者さんは、「なぜ観るべきか」をきちんと説明してくれた。それはある意味、ネタバレである。でも、その「なぜ観るべきか」を聞かなければ、決してこの映画を観ることはなかったと思う。つまり、ネタバレには、良いネタバレと悪いネタバレがあり、しかも、それは個人個人で異なる、ということだと思う。観てみて、くだんのフォローの人物が、なぜ結末をネタバレ・ツィートしたのかも推測できた。その人にとっては、結末は重要ではなかったのだろう。そして、結末を知るとみんなが観たくなる、と考えたのだろう。でも、やはり、それは悪いネタバレだと思う。もっとうまい書き方があったはずだ、と思う。

 経済学者さんの強い推奨から、我々は家族で観に行った。みんな連れて行ってよかった。その後、ここ数日、家族でずっと『シン・ゴジラ』の話に花を咲かせている。各人の発見をみんなで共有して、楽しんでいる。できれば、家族で、あるいは、友人みんなで一緒に観るべきだと思う。

 ここで終わってしまうと物足りないので、以下、ぼくの過去のゴジラ映画体験を書こうと思う。こちらには、多少のネタバレが含まれることを前もってお断りしておく。

 たぶん、最初に観たのは、『三大怪獣 地球最大の決戦』(1964年、モスラ、キングギドラ)か、あるいは、『怪獣大戦争』(1965年、ラドン、キングギドラ)だったと思う。前者は、リバイバルを観たか、テレビで観たのかもしれない。しかし、この二つの作品が、非常に鮮烈な記憶として残っている。

 次に観たのは、忘れもしない、『ゴジラ・エビラ・モスラ 南海の決闘』(1966年)。これは、映画館で観た記憶がはっきりある。確か当時は、小学校の校門前に、映画の割引券を配る人が来て、それをもらった子供たちは、封切り日の朝いちに、映画館前に列をなして並んで映画を観たものだった。この映画については、妹を連れていくように命じられ、幼少の妹が、怖くて途中で泣き出したので、クライマックスのところでロビーに連れ出さなくてならず、フラストレーションが残ったことが苦い記憶で残っている。

 そのあと、『ゴジラ対キングコング』(1962年)を観た。これは、公民館かなんかに子供を集めて、無料で見せてもらった記憶がある。この映画は、アリ対猪木のようなフラストレーションの残る作品だった。まあ、実際、怪獣界のアリと猪木だからしょうがないだろう。

 それから後はよく覚えていないが、『怪獣島の決戦 ゴジラの息子』(1967年)あたりが、子供として映画館で観たゴジラシリーズの最後だった気がする。この作品を観て、「もういいかな」というお腹いっぱい感が来たのを覚えている。その後は、テレビの「ウルトラ・シリーズ」に興味が移っていった。

 その後、『ゴジラ対ヘドラ』も、『ゴジラ対ビオランテ』も観たけど、正直、何で観たのかさえ思い出せない。

そんな中、最も鮮烈な記憶が残ったのは、『ゴジラ対メカゴジラ』を名画座で観たときだった。記憶は定かではないが、30代のはじめだったように思う。実は、『ゴジラ対メカゴジラ』を観に行ったのではなく、名作の誉れが高かった『地球防衛軍』(1957年)を観に行ったのであった。これは、ぼくが生まれる前の作品なのでリアルタイムで観られたわけがない。伝説の名作とされていたので、いつか観たいと思っていたら、名画座で二本立てでかかると聞いて、つれあいと満を持して観に行ったのである。

 劇場で椅子に座ってから、何か妙な感じ、というか、胸騒ぎを覚えた。通常の映画と観客の雰囲気と様子が違うのである。映画が始まって、すぐに、その予感は正しかったことがわかった。キャストが流れると、いちいち拍手喝采になる。そして、監督名が出ると、あちこちから、「よ、円谷!!」とかけ声がかかる。さながら、歌舞伎である。それからは、映画中、名場面のたびに拍手や、爆笑や、「お〜」という感嘆が一斉に起こる。観客たちは、この作品を秒単位で覚え込んでいるのである。「こ、こういうファンが、たくさんいるのか」とかなり動揺した。間違って異次元空間に紛れ込んでしまった感触であった。でも、そういうノリノリの中では、上手に映画に巻き込まれてしまう。『地球防衛軍』はともかく、『ゴジラ対メカゴジラ』さえも、名作だったような偽の記憶が作られることになった。

諦めなければ夢はかなう。望んだ形ではないかもしれないけど。

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今回のエントリーは、親しいミュージシャンの売り込みだ。その娘は、ぼくの元ゼミ生。今は、CDデビューをして、プロのミュージシャンとして活動している。ライブハウスを回ったり、路上ライブをしている。

 名前は、卯月沙羅さん。ピアノの弾き語りをしている。youtubeにいくつかあがっているので、リンクを張っておく。

 https://www.youtube.com/watch?v=vv8M1ygLT4A

とか、

 https://www.youtube.com/watch?v=uD2Nhr4o5Ps

とか。女性ヴォーカルとか、ピアノの弾き語りとか好きだったら、是非、このエントリーを読みながら、BGMにかけてあげてほしい。そして、ライブハウスや路上ライブに赴いて、CDを買ってあげてほしい(twitterは卯月 沙羅@jackal_neesan )。

 前に、このブログで何度か書いたと思うのだけど、ぼくには、中学生時代に抱いた大きな夢が三つあった。第一は、数学者になること。第二は、小説を刊行すること。第三は、ギターをステージで弾くこと。

ある意味では、どの夢も、一つとしてかなわなかったけど、別の意味では、すべての夢が叶うことになった。

まず、一番最後に叶った夢から書こう。もちろん、卯月沙羅さんと関係するから。それは、ステージでギターを弾く、という夢だった。

これだけはきっと叶わないだろうな、と諦めていた。だって、50歳を通り越したら、バンドでギターを弾くチャンスなんて、原理的にありえないからだ。でも、意外なところからチャンスがやってきた。5年前のことだ。ぼくは、当時のゼミ生と飲むたびに、「ステージでギターを弾くのが夢なんだよね」と酔っ払って戯れ言を言っていた。そうしたら、ゼミ生が突如、バンドを組んで、「先生、ライブをやりましょう」と提案してくれた。その中の一人が、卯月沙羅さんだった。冗談か、と思っていたら、本当にライブハウスを押さえて、どんどん計画が進んでいった。ゼミ生バンドで12曲ぐらいの演奏をした。ヴォーカルは、ゼミ生が一曲ずつ代わる代わる歌った。ぼくはそのうちの三曲で、リズムギターを弾いた。バンプ・オブ・チキンを二曲と、ハイドの「グラマラスディ」。今思えば、そんなに難しい曲じゃなかったけど、ギター初心者のぼくにとっては難関だった。相当な時間をかけて練習した。「先生のリズム、ところどころおかしいから」と呼び出されて、教室で特訓を受けたのもいい思い出となった。だって、教室でエレキを弾くなんて、学生じゃないとできないからね。

ステージでギターを弾いた時間は至福の時だった。でも、無我夢中で、自分が何をしてたのか、ほとんど覚えていない。

翌年から、我がゼミでは、ゼミライブが恒例行事となった。

二年目は、ぼくはギタボを担当した。ピローズやミッシェル・ガン・エレファントの曲を歌った。ギタボは、あまりに負担が大きすぎて、ライブが終わった翌日は、廃人のように眠り続けたものだった。

次の年からは、ぼくがエルレガーデンの曲をギタボするのが恒例となっている。たぶん、今年も一曲はエルレの曲を演奏するだろう。彼らの曲は、そんなに難しくないけど、めちゃくちゃかっこいいのだ。

その5年間のゼミライブ、すべてに出演してくれているのが、卯月沙羅さんなのである。去年は、ぼくのチャレンジングな演奏tricotの「爆裂パニエさん」でヴォーカルをとってくれた。すばらしいボーカルだった。(今年は、彼女はもうプロなので、さすがに誘う勇気はでない。相対性理論をやりたかったんだけどな)。

 「夢」というのは、どかん、と大きく叶うものではなく、世間的にはささやかに、本人的には舞い上がるように叶うものだ。今年のはじめに、卯月沙羅さんの「夢」が実現した。それはCDを出す、ということ。本人にとっては、大事件だったと思う。だから、ぼくはレコ初ライブには是非行ってあげなければ、と思った。世の中はともかく、彼女にとっては、人生の中で、とてもとても大事なセレモニーだからだ。ぼくは、そういうことを身にしみてわかっていた。だから、いろいろな用事がある中で、とにかく、レコ初ライブにおもむいた。彼女は、ぼくのささやかな(でも大きな)夢を叶えたくれた一人だから、ぼくも彼女にどうにか報いなければならない。

 人にとってはささいなことでも、本人にとっては、とてもとても重要なステップというのは存在する。

ぼくに、まず、それが訪れたのは、最初の単行本『数学迷宮』(今は、『無限を読みとく数学入門』角川ソフィア文庫として刊行されている)を刊行したときだった。当時のぼくは、数学者の道を諦め、塾の先生で生業をたてており、「一生、これで終わるんだろう」と諦念の境地にいた頃だった。そんなときに、何の業績もないぼくに、出版の話が舞い込んだんだから、盛り上がらないわけがない。ぼくは、一年以上の歳月をかけて、何度ものスクラップ・アンド・ビルドを繰り返して、その本を書いた。刊行されたときは、行ける限りの書店を回って、我が本の並ぶ姿を見て回ったものだった。人にとってはささやかなことでも、ぼくにとっては、人生の大事件だったのだ。

 その頃、宇沢先生と出会い、経済学に目覚めた。そして、意を決して、経済学部の大学院を受験した。合格発表に自分の番号を見たときは、本当に躍り上がりたいぐらいに嬉しかった。普通の大学生にとっては、たいしたことではないだろう。大学院拡充の始まった頃なので、受験すればどこかには合格しやすい環境にあった。でも、数学者になりたくてなりたくて、その道が閉ざされたぼくには、人生の大事件だったのだ。

 そのあとの大事件と言えば、日本経済学会で、修論を報告したときだたった。ぼくを除く、すべての院生にとっては、当たり前の、普通の通過儀礼に過ぎないだろう。でも、ぼくには全く意味が違っていた。いったん、学者の道を諦め、自分の夢に決別をし、だからと言って、次なる野望も持てないで暮らしていたぼくには、単なる「学会発表」が全く「単なる」じゃなかったのだ。通常では小さなステップかもしれないけど、ぼくには「偉大なる一歩」だったのだ。あのときは、ある著名学者に、カウンターのような質問を受けて、ぼこぼこにされたんだけど、ぼくにとってはそんなことはどうでもいいことだった。ぼくがたくさんの学者たちの前にたって、自分の研究を考えを報告している、それだけで大事件、それだけで十分だった。それで至福だったのだ。

 人生、って、そういう風になっているんじゃないかな、ってこの頃思う。人にとってはどうでも良いこと、金にも名誉にもならないステップが、本人にとっては、この上ない、何にも変えられないステップだということはままあるのだ。人生というのは、そうい微少だけど「偉大なる」ステップの積み上げなのだ。他人の評価なんて二の次、大事なのは自分の心なのだ。何を望み、何が大事で、何を譲りたくないか。それがすべてなんだと思う。

 だから、卯月沙羅さんにはがんばってほしいと思う。他人から見たら小さいけど、自分にとっては「偉大な」ステップを積み重ねて、自分なりの夢に到達してほしいのだ。ぼくは、そういう人を応援する。そういう人がゼミ生にいることを誇りにしている。たとえ、彼女が世間的に成功しようがしまいが。

ぼくの統計の本が、オーディオブックになりました!

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 ぼくの書いた統計学の教科書『完全独習 統計学入門』ダイヤモンド社が、オーディオブックになった。

せっかくだから、リンクを貼ろう。

完全独習 統計学入門のオーディオブック情報 - 聴ける本【FeBe(フィービー)】

オーディオブックというのは、本の内容を音声にしたもの。ぼくは、主に視覚障害の方々のためのツールかと思っていたけど、そうでもないらしい。車で移動中に本を読みたい人とか、電車の中で耳から本を聴きたい人とか、さまざまな需要があるとのこと。

でも、パラリンピック開催中でもあるし、視覚障害の方々向けという方向で、書こうと思う。

ぼくの本ではたぶん、二冊目だと思う。

最初にオーディオブックになったのは、90年代のぼくの単行本デビュー作『数学迷宮』(現在は、角川ソフィア文庫から『無限を読みとく数学教室』として刊行されている)だったと思う。ただ、商業ベースのものではなく、ボランティア的な音声化だったように記憶している(曖昧なんだけど)。そのときは、なんだかとても嬉しかったことを覚えている。なぜか、というと、この本は、4章を4つの文体で書きわけて、DJスタイルにする、という画期的な試みをしたからだ。だから、「聴いて」もらえるのなら、それにこしたことはなかったからだ(今刊行されている角川文庫バージョンでは、編集者の意向で、そういう小細工はやめることになった)。

それを思うと、今回の『完全独習 統計学入門』ダイヤモンド社のオーディオブック化には、少し「ハテナ感」があった。なぜなら、この本は、通常の統計学の教科書だし、図も(普通の教科書より)ふんだんに入っているからだ。

でも、よくよく考えてみると、この本を音声化するのは、なるほどとなった。なぜなら、この本は、ぼくの講義をそのまま「音声のように」書籍に落としたものだからなのだ。思い出してみれば、ぼくは、この本を書いたとき、「極力、リアルな講義を生のままで再現してみたい」という野望を持っていた。なぜなら、この本の内容は、大学で学生の表情を見ながら、彼らがうなずくような繊細な言葉を選んで展開した講義だからだ。それで、グラフも式も極力、言葉に置き換えて、文章の中で二重に表現している。きっと、「音声で聴く」とよりリアルになるんじゃないか、と思うのだ。

心配だったのは、この本が(通常の統計学の教科書に比べても)大量の図版を投入していることだった。視覚障害者の方々は、オーディオブックで図版があるとき、どうするんだろう、と気になった。そこで、特別支援学校の指導員をしている友人に尋ねてみた。その人は、盲学校の指導員の経験もある。その人がいうには、オーディオブックには図版の音声による説明もついている、そして、生来の視覚障害の方々は、小さい頃から、「図を言葉で理解する」訓練を受けているのだそうだ。だから、図版についてもなんとかなるのだそうだ。「そうなのか」とびっくりした。

そこで、ぼくは、その人に、「点字化のほうが良いのではないか」と尋ねてみた。「音声」というのは、時間経過をリアルタイムで必要とするコンテンツだ。他方、文字情報は、個人の速度で進むことができる。だから、点字のほうがより良いように思えたのだ。その人の説明によると、点字はその性質上、同じ本を翻訳しても、2倍3倍の分量になってしまって、決して効率的とは言えないのだそうだ。「そうだったんだ」とちょっとびっくりした。

 今回は、これで終わってもいいんだけど、これじゃあまりに個人的で、読者を利する点が少なすぎるだろうから、別の本も紹介しよう。前からいつか紹介したい、と思っていた本、新井紀子『ほんとうにいいの?デジタル教科書』岩波ブックレットだ。

この本は、2012年刊行、もうずいぶん経過してしまった。数理論理学者の新井紀子さんが、総務省のデジタル教科書推進について、さまざまな検討をしている本である。デジタル教科書というのは、パソコンやタブレットを基幹とした教材のことである。

新井さんは、この本の中で、多様な方向性から「デジタル教科書」について、その功罪を予測している。その主要な部分には、当然、「障害者に対して」ということが入ってくる。例えば、次のように主張する。

デジタル教科書は、弱視や自閉症等の障害のある子どもたちにとっては、大きなメリットはある。一方で、デジタル教科書は新たな学習障害を生む可能性もあることに注意が必要である。「デジタル教科書を必要とする子どもたちにデジタル教科書を」という主張は正しいが、「すべての子どもにデジタル教科書を」という主張は正しいとは言えない。

実際、液晶画面などに適応力が悪く、かえって認識を損なう「障害」が存在するそうなのである。障害は多様であり、どんなコンテンツにも障害は存在すると考えるほうが無難である。

 また、新井さんは、人工知能の研究者でありながら、旧態依然としたコンテンツに対しても、むげには否定しない。例えば、デジタルベースと紙ベースのコンテンツを比べて、前者の優位性が多くあることを指摘しながらも、後者にも無視できない効能があることを提示している。例えば、次のよう。

読者の多くは、複数の資料を広げて一覧できる状態で相互参照しつつ学んだ経験があるだろう。もし、机がA4サイズしかなく、教科書と教材を「重ねて」置かなければならなかったとしたら、非常な不便を感じるのではないだろうか。(中略)。

なぜ、上下に重なった状態でバラバラに見るのと、一覧で見ることができるのとで違いが生じるのだろうか。それは、私たちの脳がそもそもそのようにできているからだろう。つまり、「同じ視野の中に同時に入る物事の間にはなんらかの関連性がある」、そう思うことが動物だった時代から、私たちの脳にとって外部世界を解釈する自然な方法なのではないだろうか。

鋭い観察眼を基礎とした実に哲学的な議論だと思う。本書は、こういうみごとな「哲学」の連続なのである。

 とは言え、先ほどの特別支援学校の先生によれば、デジタル機材の発達は、障害のある子どもたちの生活を激変させたのは間違いないことだそうだ。視覚障害のある子どもたちは、ウエブの文章を音声で聴くことができる。弱視の子どもたちは、自分たちに適切な大きさにウエブの文字を拡大して読むことができる。聴覚障害の子どもは、youtubeの(誰かが勝手に付けた)字幕付きの画面でさまざまな動画を楽しむことができる。自分の言葉をスマホで音声に変換することができる。もちろん、新井さんの指摘するように、デジタル機材は新しい障害を生みだすだろう。でも、それを用心しながら、「すべての人」ではなく、「困っている人」に向けて利用すれば、世界は劇的に変わるだろう。

 他方で、アナログコンテンツも捨てたものではない、と思う。その指導員さんの話では、視覚障害者の子どもの多くが、幼少期にそろばんを習って、それで計算を覚えるのだそうだ。ぼくも、小学生のときに長い間そろばんを習い、どうにか暗算2級まで取得した。そのおかげで、50代になった今も、簡単な計算はぼくにとって、指先でのそろばんの玉の感触に変換される。これはとても不思議なことである。そろばんとは、「触覚による計算」に他ならないのである。そろばんには、そんな意義があると初めて認識させられた。

 世界が豊かになる、ということに、ある何かが決定的な優位性を持つのではなく、それぞれがそれぞれのありかたで意義を発揮するのだと思う。ぼくらはそれを見極め、有効に利用すればいいのだ。

 

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