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数学の未解決問題は、今と昔でどう違うか

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 今回のエントリーは、雑誌『現代思想』青土社の増刊号『未解決問題集』について。これは、現代における数学界の未解決問題について、特集を組んだものだ。

 ぼくは、この特集に、数論の黒川信重先生と代数幾何の加藤文元先生と一緒に「数学(者)にとって未解決問題とは何か」という鼎談で参加した。

 少し内幕をばらすと、実はこの鼎談の話が来たとき、ぼくは正直断ろうと思ったのだ。だって、古典的な未解決問題ならともかく、現代の未解決問題なんて、ぼくにはさっぱりわからないし、司会役をするだけと言っても、黒川さんや加藤さんから読者にとって有意義な話を引き出せる能力なんてないからだ。でも、黒川先生にはいつもお世話になっているし、編集者の熱意にほだされたのもあって、迷いに迷って引き受けることにした。

 危惧していた通り、ぼくは一般のアマチュア読者に対して有意義な話をうまく引き出すことができなかった感がある。もちろん、黒川さんも加藤さんも、「天空からできるだけ降りてくるように」懇切丁寧に話してくれていた。それはもう、普通の専門家にはできないようなかみ砕きかただと思う。でも、ぼくがもっと、(専門家的に、というのではなく)、非専門家として現代の未解決問題の内容に通じていれば、読者の痒いところに手が届くような話題を引き出すことができたんじゃないか、と思えて仕方なかった。。

 鼎談の予習のために、それなりの努力はした。それでわかったのは、古典的な未解決問題と現代の未解決問題には、位相的な断絶がある、ということ。すなわち、古典的な未解決問題というのが「孤立的・単発的」であるのに対し、現代の未解決問題というのは「普遍的・統一的」だ、ということだ。

 例えば、フェルマー予想(解決された今では、ワイルズの定理)は、「指数nが3以上のとき、aのn乗とbのn乗の和がcのn乗となる、自然数a, b, cは存在しない」というものだった。要するにこれは、ある方程式に自然数解があるか、ないか、という単発的な問題だ。また、未解決のゴールドバッハ予想「4以上の偶数は素数2個の和で表せる」というのも、単独的で孤立した問題だと言えよう。それに対して、現代の未解決問題というのは、「一般に〜ということが成り立つであろう」という、「普遍性」「統一性」を要求するものとなっている。あるいは、一見異なる対象について、「〜と〜は普遍的に一致するだろう」という形式になっている、と言ってもいい。例えば、バーチ・スィンナートンダイヤー予想は、楕円曲線の有理点に上手に加法を定義すると、(交換法則や結合法則を満たす)加法群になるんだけど、1点を無限に加えていって元に戻らない点が本質的に何点あるか(階数)と、楕円曲線から作られるゼータ関数をs=1のところでテーラー展開したときの最初の指数(位数)が一般に一致する、というものだ。また、ラングランズ予想は、「ガロア表現のL関数と保型表現のL関数は等しいだろう」というような、それこそ茫洋とした広大な普遍性の追求になっている。

 黒川さんの話を聞いていると、「古典的未解決問題」から「現代的未解決問題」への仲立ちをしたものが、「リーマン予想」だったように思われてくる。リーマン予想とは、ご存じの通り、「整数のべき乗の逆数和で定義され、複素数全体に解析接続されるゼータ関数の虚の零点は、実部=1/2という直線上に並ぶ」というもの。これだけ見ると「孤立的・単発的」問題に見えるけれど、その後に、ゼータ関数が有限体上や楕円曲線上などに拡張され、そこでもみごとな性質を持つことが発見されたことで、「普遍的・統一的」な未解決問題を生み出すことになって行ったのだ。解決されたヴェイユ予想やラマヌジャン予想や谷山予想、未解決なラングランズ予想はそういう延長線上に位置している、と言える。

 ぼくの感想を言うと、古典的な未解決問題というのは「パズル的でわくわくする問題」で、現代の未解決問題というのは、「人間の数的思考の奥底に横たわる思想的深淵を垣間見せてくれる問題」という感じ。どちらも好きだけど、後者はあまりに抽象的で、味わう資格を取得するのにあまりに険しい道のりが待っているのが辛い。

 本書には、たくさんの数学者がそれぞれに未解決問題(だったもの、も含む)を解説している。列挙すれば、「バーチ・スィンナートンダイヤー予想」「深リーマン予想」「P≠NP予想」「ホッジ予想」「コンセビッチ・ザギエ予想」「連続体仮説」「フェルマー予想」「ポアンカレ予想」など。

 全部をざ〜っと読んでみると、(編集上そうなった、と言えるかもしれないが)、共通キィワードとして「コホモロジー」というのがあると思う。コホモロジーというのは、空間に対して定義される不変量で、まあ、多くの人がわかる言葉で言えば、局所的に対応する線形空間のようなものである。この不変量を開発したことで、現代数学は、(例えば、素数の集合や有限体のような)抽象的な対象を幾何的な空間として扱って、その素性を「計算によって」暴くことが可能となった。

 そういう意味で、コホモロジーは点在する未解決問題を渡り歩くための足場岩になるんだけど、これがまた、きちんと勉強しようとすると、あまりにごつごつしてて、敷居が高いのである(例えば、数学は遠きにありて想うもの - hiroyukikojimaの日記を参照のこと)。だれか、コホモロジーを新書かブルーバックスレベルぐらいで、わかりやすく解説してくれんものか。(誰もしないなら、いずれぼくがやっちゃるわい。何年かかるかわからんが。笑。拙著『数学は世界をこう見る』PHP新書を読めば、ちょっとはこのあたりの雰囲気がわかるとは思う。)。

 「数学(者)にとって未解決問題とは何か」は、どの記事も面白いので、ここでは特に一つを紹介することはしない。是非、一家に一冊、職場に二冊。最後に、田口雄一郎氏の記事の中に出てくる「優れた問題の特徴」を引用するにとどめよう。いわく、

優れた問題は美しい。

優れた問題は容易に解けない。

優れた問題は発展を促す。

優れた問題は広い範囲に関わる。

優れた問題は人々を幸せにする(不幸にもする)。

あなたも、是非、本書を読んで、幸せに(不幸に?)なってくらはいな。


21世紀の数学原論

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 今回は、黒川信重先生の新著『絶対数学原論』現代数学社を紹介しよう。

 その前に、全く関係ないけど、映画『君の名は。』の感想を述べたい。前に、シン・ゴジラ観てきた。シン・ゴジラ観るべし - hiroyukikojimaの日記において、映画『シン・ゴジラ』を絶賛推奨した。その後、大学で顔見知りの学生たちに最近観た映画を問うてみたら、『シン・ゴジラ』より『君の名は。』のほうが圧倒的に多かった。それで、とても気になってしまって、結局、奥さんを連れて観に行ってしまったのだ。

 はい、それで感想。いやあ、『君の名は。』、めっちゃすばらしかった!おっちゃん、感動しました!

 いや、信頼できる知り合いに、「自分はそれほどでもなかった」という感想を言った人もおるんよ。それで、多少の覚悟はして行ったんよ。でも、ぼくはすごく良いと思った。もちろん、ストーリー(シナリオ)は、破綻しまくっていて、突っ込みどころ満載。細部が気になる人はダメかもしれない。でも、そんなことを帳消しにするほどの感動的なプロットなんだね。

 『シン・ゴジラ』も『君の名は。』も、結局のところ、3.11をモチーフとしている。そこは同じ。でも、決定的に違うのは、『シン・ゴジラ』がシニカルに絶望的な世界観を描いているのに対して、『君の名は。』は、一抹の希望の光を描いている、ということ。作品論、文学論から言えば、前者のほうが圧倒的に優れている、と言うかもしれない。でも、今の若い人たちに必要なのは、後者なのだと思う。一抹の希望の光なんだと思う。なぜなら、今どきの若者は、生まれてからずっと、閉塞感と絶望感と不安感の中で生き続けてきているから。それも自覚できないほどに、当たり前のことになっているから。だから、彼らが『君の名は。』に飛びつくのはわかるし、それでいいし、むしろ推奨したい。ぼくが観にいった映画館も、中高生でいっぱいだった。こんなにたくさんの中高生と映画館で出会ったのは、初めてだと思う。奥さんによれば、終映後、トイレでたくさんの女子が泣いていた、という。そうだろうそうだろう。

 さて、黒川先生の本に戻ろう。

この本は、黒川先生が、21世紀の『数学原論』を目論んで執筆した本だ。専門外の我々には、非常に難しく感じる本だけど、「難しい」とか「さっぱりわからん」とかを超越して、「何かとてつもない息吹」を感じさせる本なのである。「ひょっとすると、我々は、とんでもないものの誕生に立ち会っているのではないか」と。

 Chapter 1.を読めば、それはすぐに伝わってくる。黒川先生は、「三大原論」として、次のものを挙げる。

 数学史上の有名な『原論』としては年代順に

(1) ユークリッド『原論』紀元前300年

(2) ブルバキ『数学原論』1939年から

(3) グロタンディーク『代数幾何学原論』1960年代

という3つが挙げられます。

と言って、この「三大原論」を詳しく解説する。ぼく自身は、と言えば、「ユークリッド原論」は、中高生の頃に、敬意を持ち、図書館で一部を読んだ経験がある。それに対して、「ブルバキ原論」は、大学の数学科のとき、「戦わなければいけない敵」という認識を持ち、結局、敵前逃亡した。こいつは、数学に「げんなりさ」を感じた初めての存在だった。そして、「代数幾何学原論」は、存在は知っていたが、遠くの遠くの蜃気楼と思っていたものだった。このように、自分の中での存在感が異なるので、これらをひとくくりに、「原論」と呼ぶことには抵抗がある。とりわけ、「ブルバキ原論」には、憎しみのような感情さえあり、20年以上も前に『数学セミナー』の巻頭エッセイを持ったときは、これを念頭に数学批判のようなものを繰り広げ、一部の専門家から苦情が来てしまう顛末となった。つまり、ぼくにとっては、

ユークリッド原論→尊敬、 ブルバキ原論→宿敵(目障り)、 代数幾何学原論→未知未踏

という感じだったのだ。それを、20世紀までの「原論」と捉える黒川先生の括りには、驚きと感慨が満ち溢れた。

でも、ここ数年、数学を勉強した経験によれば、この黒川先生の「原論」論は、目から鱗である。そうなんだ、紀元前に書かれた「ユークリッド原論」から、次の原論(ブルバキ原論)が書かれるまでに二千年以上もの歳月が必要だった。そして、それは、すぐあとにグロタンディークによって刷新された。これは考えようによってはすごいことだと思う。そればかりではなく、黒川先生は、「ユークリッド原論」の不備についても次のように厳しく指摘している。

一方、ユークリッド『原論』の記述には決定的な欠陥があります。それは、上記の定理群のような人類にとって記憶すべき快挙に対して、誰が発見したのかという経緯に関して故意に触れないという点です。その結果、ユークリッドの『原論』はユークリッドが独自に発見した定理と証明から成っている、というような有り得ない誤解を後生に残す状態になっています

その証拠として、黒川先生は、第12巻・命題10として導出されている円錐の体積の公式が、ずっと前にデモクリトスが発見したものであることを挙げている。また、それが判明したのが、1906年にイスタンブールの僧院で見つかったアルキメデス『方法』の写しであることの記述も非常に面白い。

 実は、黒川先生の特徴として、「数学者の業績を発表年で精緻に記憶している」というのを挙げることができる。ぼくは、黒川先生と何度も対談しているので、その記憶力の凄さを何度も目撃している。これは、ある種の「芸当」と言ってもいいくらいだ。そして、黒川先生がそのような超絶的な記憶力を磨き保持し続ける努力を怠らないのは、数学者の業績に対する敬意から来ていると思われる。

 このように、20世紀までの三つの『原論』を評価した上で、黒川先生は、ご自分が提唱された「絶対数学F1」の解説に進んで行く。それを(わからないなりに)読む進めて行くと、「これが21世紀の数学原論なのか!」というドキドキ感がわき上がっていく。

「原論」とは、その時代の数学を総合的に統一するものだ。「ユークリッド原論」は、それまでの数学、例えば、ピタゴラス学派の幾何学と数論、それとバビロニアの幾何学をターレスが総合したもの、それらを集積し統合したものだ。「ブルバキ原論」は、カントール・デデキントの集合論を基礎としてヒルベルトが作り上げた形式主義的数学の土台の上に19世紀までの数学を統合したものと言えるだろう。さらには、「グロタンディークの代数幾何学原論」は、(加減乗を備えた代数系)環を位相空間化する、全く新しい幾何学を構築したものと言える。そういう視点から言えば、本書『絶対数学原論』は、1×1=1だけを基礎に据えた「和のなくなった世界」、モノイド(単圏)という構造を打ち出す、21世紀の原論、ということなのである。

 本書はさすが「原論」というだけあって、「絶対線形代数」「絶対極限」「絶対・三角・ゼータ」「絶対オイラー積」「絶対保型形式」など、あらゆる数学の分野が順次解説される。つまり、1×1=1から出発する、すべての数学が水面の輪のように広がっていくのである。背景には、「カテゴリー」というグロタンディーク流の概念があるように読める。

 ぼく自身は、これを読んで、3割も理解できなかったけれど、その「魂」だけはわかった。それは「ユークリッド原論」で出会った中高生のときのドキドキ感と似ており、「ブルバキ原論」に対する忌避感を払拭するに十分なものであり、「代数幾何学原論」にチャレンジしてみたい、と今更の野心を与えるに十分な動機付けである。まさに、閉塞し絶望し諦めていた「おじさん」に、「一抹の希望の光」を与えてくれる本である。

ドラマ『地味にスゴイ!』は、派手に面白い!

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 今期のドラマでは、日テレの『地味にスゴイ!校閲ガール 河野悦子』が、めちゃめちゃ面白い。とりわけ、自分が出版にかかわってきただけに、笑えるところ、身につまされるところが満載である。

 主役の河野悦子を演じている石原さとみさんが、もうサイコーである。演技がこれまでの殻を突き抜けて、すごい境地に至った感じがする。個人的には、『シン・ゴジラ』での賛否渦巻いた演技が好きだったから、この経験を経て頭抜けたのかな、と思う(『シン・ゴジラ』のぼくの感想は、シン・ゴジラ観てきた。シン・ゴジラ観るべし - hiroyukikojimaの日記にて)。さとみちゃんの作品で観た最も古いものは、『包帯クラブ』だけど、そのときに比べると(見た目が)別人だと思う(『包帯クラブ』は、観てなければ絶対観るべきだと思う。ぼくの感想は、青春は、今も昔も、痛々しくて美しい - hiroyukikojimaの日記にて)。

でも、今回、さとみちゃんに負けず劣らずすばらしいのが、ばっさー(本田翼)ちゃんの演技だ。ばっさーは、缶コーヒーのCMで惚れて以降、めちゃくちゃ好物の女優なのだけど、今回もいいキャラを演じている。彼女は、サプリ・ロボとか、ゲームキャラとか、非人間キャラを演じるとぼくのツボ。とりわけ、『ヴァンパイア・ヘブン』での大政絢ちゃんとの吸血鬼ものはすばらしかった。一方、『恋仲』では、痛々しい恋愛模様も演じられるようになり、成長著しい。今回も、ばっさーの新しい側面を観ることができて、大満足である。

 さて、このドラマを観ると、これまでの、本作りでのトラブルや、校閲さんとの戦いが思い出されて、身につまされる

ドラマでも「表紙でのミス」というトラブルが描かれていたが、ぼくもその経験がある。ぼくの最初の本、『解法のスーパーテクニック』東京出版を刊行したときだった。これは、受験雑誌『高校への数学』東京出版での2年分の連載を書籍化したもので、中学生向けの受験参考書である。

この本が刷り上がったとき、表紙にぼくの名前がなかった。背中には印字されているんだけど、表紙には全くない。つまり、著者が誰だかわからないようになっていた。それで、営業担当者に聞いてみたら、「デザイン上、入れる余地がなかった」と言われた。今考えると、編集者か営業担当かデザイナーか印刷所か、誰かのミスであろう。でもぼくは、本を出版した経験がなかったし、そんなものかな、と納得しようとした。この出版社は、ほとんど単行本は出さず、雑誌以外はその増刊号だから、ぼくの本も「増刊号」のような意識でいたのかな、と諦めかけた。でも、妻や同僚が、「それはおかしい」と強く主張したので、担当者に掛け合ったら、「それでは、増刷からは名前を入れます」ということになった。そして、約束通り、増刷から表紙のぼくの名前が入った。ドラマを観る限り、このミスは、プロの作家に対してやったら大変なことになって、刷り直しだっただろう。この参考書は、25年以上経った今でも生きながらえ、20刷ぐらいに達している。

 他の出版社の雑誌編集者から「表紙の刷り直し」というのを聞いた経験もある。それは、実は、ぼくが遠巻きに関与していた。ぼくが、ある人を「非常に偏屈で、怒りっぽく、面倒な人だ」とその編集者に話したことがあった。その人の名前は、変わった字体の漢字を使っていた。編集者は表紙の執筆者のその人の名前のロゴを間違えてしまったのだそうだ。ぼくから「気難しい人」と聞いていたため、トラブルを恐れて、表紙の刷り直しを英断したと、お礼とともに内緒で教えてくれた。

 ぼくは、40冊近くの本を書いてきたけど、校閲さんにはいろいろな印象を抱いてきた。ドラマの河野悦子さんとは違って、校閲さんとはいまだに一人としてお会いしたことがない。ドラマの中で語られているように、校閲さんは縁の下の力持ちに徹し、表には出てこないものなのだろう。

 本を書き始めた初期のことだ。ある本を書き上げて、ゲラをもらったとき、校閲さんのあまりの書き込みに辟易としてしまったことがあった。字句の間違いや表現の統一については、その通りだし、仕方ないと思えた。しかし、その校閲さんは、表現形式にまで口を出してきた。要するに、「自分の文体の嗜好」まで押しつけられているように感じたのである。当時のぼくは駆け出しだったし、「文体」や「表現」に(青臭い)こだわりがあった。だから、これには面倒さを通り越して怒りさえ感じた。まるで、校閲さんが目の前にいて、二人で口論している気持ちにさえなった。胃が重くなった。

それでぼくは、担当編集者に苦情を言った。その編集者も駆け出しで、若い人だった。編集者は、「校閲さんは、新人で、しゃかりきにがんばっています。正規雇用を獲得したいんだと思います」というような弁解をした。「毎日、国会図書館に通い詰めて、細かいところまで綿密に詰めているみたいです」と。それを聞いて、ぼくはなんか、逆に悪いことを言ってしまった気分になった。抵抗に抵抗を込めたぼくの初稿返しで、今度はその校閲さんが、ぼくが味わったような不快感や憤りを味わっているのかもな、と。

 でも、あとあとになって、この一件は、校閲さんの問題ではなく、編集者の問題だったとわかった。

講談社新書で『文系のための数学教室』を出したときだった。編集者は、阿佐信一さんだった(阿佐さんについては、編集者は、世界でたった一人の味方 - hiroyukikojimaの日記を参照のこと)。

刊行が終わったあとの打ち上げで、ぼくは阿佐さんに、いかに今回の執筆が気持ちよくできたかについて話して、お礼を言った。とりわけ、校閲さんとのやりとりが的確で気持ちよかったと。阿佐さんが不思議そうな顔をしたので、上記の、校閲さんとの死闘の思い出を説明した。それを聞いた阿佐さんは、笑いながら、「うちの校閲さんも、多かれ少なかれ、そういう細かさです。ただ、私だけで判断できるものついては、私が責任を持って判断し、ゲラには反映せず、著者さんにはお見せしていないんですよ」と教えてくれた。ぼくはそれを聞いて、真相がわかった。上記の死闘は、校閲さんのせいではなく、若い、駆け出しの、経験不足な編集者のせいだったのだ、と。

 それ以来、ぼくは、本を執筆するたびに好奇心を持ってゲラと接するようになれた。観察するだに、編集者によって、校閲の反映の仕方が違っている。そして、ぼくは、ゲラを通して、編集者の向こうにいる姿の見えない校閲さんと膝を詰めて議論をすることになる。それは、まるで、異次元から届いた手紙のようなものだ。誰とも知らない、どんな顔をした人か、男性か女性か、若いのかシニアなのか、何もわからない人と、ただただ、文章についてのみ議論をしている。これは考えようによっては、とてもスゴイことだ。時には、「この人とは感覚が合わないなあ」と思うこともある。別の時には、「友情のようなものさえ感じる」こともある。そうやって、ぼくは書き手として、少しずつ成長してきているのだと思う。

 でもきっと、校閲さんも、本が無事できたとき、著者や編集者と同じくらい、あるいはそれ以上の喜びを持って、本を読んでくれるのだと思う。ぼくは、世界のどこかに(異次元の世界に)、ひっそりと、ぼくの本の刊行を愛でてくれている人がもう一人いることを、とても誇らしく、ありがたく思うようになった。

ウィトゲンシュタイン哲学を学んだ日々の思い出

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 昨日(11月10日)の朝日新聞・朝刊の文化面に、「ウィトゲンシュタインに光」という記事が掲載され、それにぼくのコメントが(一言だけど)載った。この記事は、ウィトゲンシュタインの遺稿が最近、発掘され、彼の哲学に新たな光があたった、という内容の記事だ。朝日を購買しているかたは是非、読んでいただきたい。

ウィトゲンシュタイン哲学の第一人者である鬼界先生と肩を並べてのコメント者となったのは、誇らしくもあり、申し訳なくもあった。なぜなら、ぼくは全く哲学の門外漢だからだ。そんなぼくになぜ、新聞記者さんの取材が来たか、というと、ぼくの著作の複数にウィトゲンシュタインの哲学を引用しているからだ。例えば、『文系のための数学教室』『数学でつまずくのはなぜか』(ともに講談社現代新書)では、かなりなページ数をさいて、ウィトゲンシュタインの哲学の助けを借りている。

 門外漢と言っても、書籍を読んだだけにすぎない、というのとは違う。実は、専門家の講義を受けた経験がある。ウィトゲンシュタイン『論理哲学論考』の翻訳者である坂井秀寿先生藤本隆志先生の講義を、全く別個に受講したのである。

 坂井秀寿先生の講義は、東大の駒場時代に、一般教養の「論理学」の講義を受講した。講義の中で、先生は一回丸々使って、ウィトゲンシュタインの人生を語り尽くした。彼がいかに天才で、とんでもない金持ちで、その上、稀代の変人であったか、という話だった。それがめちゃめちゃ面白かったので、ウィトゲンシュタインという哲学者にほのかな興味を抱いたのだった。坂井先生の講義は、非常にユニークで、論理学というものに惹かれる感覚を植え付けられてしまった。とりわけ、(曖昧な記憶だが)、期末テストが画期的だった。二択問題が10題ほど出題され、答案用紙の上部に三角の切り取り線が10個ついているのを、イエスなら切り取り、ノーなら残す、という形式になっていた。それは採点上の工夫ということだった。答案用紙を束ねて、何か堅いもので三角の部分を押し込むと、切り取られてない答案だけがはみ出ることになる。このことを繰り返して分類すれば、(パスカルの三角形のように)、11通りに分かれ、簡単に点数が付けられる、という次第なのである。2進法の原理の応用と言えるもので、さすが数理論理学者(数理哲学者?)と感心した覚えがある。受験者のほうは、間違って切り取ったら、もう元には戻せないので、ものすごい緊張を強いられた。(もちろん、ちゃんとした記述問題も1題、出題されていた)。

 そんなこんなで、ウィトゲンシュタインの哲学というものがなんとなく気になっていたわけだが、三十代前後の頃に、どうしてもきちんと学びたくなった。なぜなら、中学生に数学を教える際、(正負の数であれ、文字式であれ、無理数であれ)、全く新奇な概念を導入するときに、何もなしでは子どもたちに「伝わらない」と感じたからだ。読書経験の中で、ウィトゲンシュタインが「言語とはいったいなんであるか」ということを深く考えた哲学者だ、と知っていたので、何かヒントが得られるのではないか、と考えた。

 ちょうどその時期に、藤本隆志先生が朝日カルチャーセンターでウィトゲンシュタインの哲学について講義する、という情報を得て、いさんで会員になって受講することにした。

 藤本先生の講義は、それはそれは驚くべきものだった。『論理哲学論考』を最初から一行一行読んで、その本質を解釈していくものだった。時にはドイツ語の原文まで持ち出して、デリケートな部分まで解説してくれた。この講義で、ウィトゲンシュタインが『論理哲学論考』にどんな目論みを込めていたのか、それが染みいるようにわかった。哲学とは、こういうことをするものなのか、と感激したのをよく覚えている。講義の最終日に、藤本先生の『哲学入門』東大出版会を持って行ってサインしていただいた。今でも、大事にとってある。

 藤本先生の講義で、最も印象に残っているのは、先生がシナリオを監修したデレク・ジャーマンの映画『ウィトゲンシュタイン』を、日本での公開前に鑑賞することができたことだった。得した気分だった。ジャーマンがAIDSで若くして亡くなるちょうど前後のことだったと思う。ジャーマンらしいタッチの映画だったが、ケインズのそっくりさんが、ウィトゲンシュタイン役の役者さんの肩を抱いて歩いている映像が今でも思い出される。

 ぼくが、ウィトゲンシュタインの哲学をどのくらい理解できているのかについては全く自信がない。だけど、少なくとも、ぼくが中学生向けの数学のテキストを執筆したときには、彼のものの考え方が非常に役立った。「世界とは何であるか」「言語とはどういうものか」「数とはどんな存在か」といった問題と徹底的に格闘して、深く思索したウィトゲンシュタインの姿勢は、ぼくが子どもたちに数学の概念を伝えようとするアプローチに、(うまく行ったかどうかはわからないが)、大きなヒントを与えてくれたと思う。

 

スティグリッツさんの宇沢先生を思う気持ちに心が熱くなる

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 宇沢先生の新著が刊行された。タイトルは、『宇沢弘文 傑作論文全ファイル』東洋経済新報社だ。

本書は、宇沢先生のパソコンに記憶されていた大量の原稿を、東洋経済の編集者さんが丁寧に整理して、「絶対に世に残すべきだ」と考えた原稿(傑作論文)を編纂して本にしたものである。大事なことは、編集者さんは、宇沢先生が生前のうちにコンタクトし、この企画を開始した、という点だ。すなわち、本書は、宇沢先生のご意志の下に製作されたのである。

残念なことに、編纂の途中で宇沢先生がご逝去されたため、最後の原稿のチェックはご遺族が行われた。ご遺族の依頼を受けて、ぼくも原稿に目を通し、弟子として、経済学者として、いくつかの誤植を指摘し、コメントをし、提案をさせていただいた。本書は、400ページを越える大部である。本書の校閲に、ぼくは今年のゴールデンウィークをまるまる費やすことになった。でも、それはとてもとても楽しい時間だった。どの年のゴールデンウィークよりも充実した連休になった。ぼくは、本書を校閲しながら、宇沢先生から新たなご指導を受けた。本当に怒濤のようなご指導だった。

 本書で最も注目すべき点は、ノーベル経済学賞受賞者であり、宇沢先生の弟子であるスティグリッツさんの宇沢先生への想いが赤裸々に収められていることだ。本書の冒頭に、2016年3月16日の「宇沢弘文教授メモリアル・シンポジウム」におけるスティグリッツ氏の講演の一部が収録されているのだ(この講演については、スティグリッツ氏の講演を聴いてきた - hiroyukikojimaの日記にエントリーした)。

 この講演の中で、スティグリッツさんは、格差問題のこと、環境問題のこと、TPPのことなどを経済学者の立場から論じた。それと同時に、宇沢先生との思い出についても、誠実に、畏敬を込めて、そして何より熱く語ったのである。

すばらしい講演なので、是非、本書でまるごと読んでいただきたいが、少しだけ引用をしよう。

先生は、シカゴ大学で開かれたセミナーに、私たち数人の学生を誘ってくれました。そのなかには、私と共同でノーベル経済学賞を受賞したジョージア・アカロフ教授もいました。宇沢先生は、MIT、スタンフォード、イェールの各大学から若手経済学者を集めて、シカゴを世界の知の集積地にしようと考えたのです。その考えはみごとに実現しました。私たちは、シカゴに集まったわずか一ヶ月ほどの間に、全員、宇沢先生の信奉者になってしまったのです。

なんと、涎の出るような環境だろう。

次の思い出も、ぼくには感慨深い

数学的手法を活用する能力に秀でていた宇沢先生は、私たちに最新の手法を紹介してくれました。たとえば先生は当時、微分位相幾何学の研究で知られるレフ・ポントリャーギンの理論に大変傾倒しておられ、それを問題解決に応用することを教えました。しかし、私たちが感銘を受けたのは、先生が数学的手法を使いこなすだけでなく、それを重要な社会的意味合いを持つ問題を解決するために応用しようとした点にあります。

ポントリャーギンは、動学的最適化法とか、連続群論など、たくさんの業績を持つ数学者。幼いときの事故で視覚障害者となってしまい、視覚がない中で数学を研究した。でも、視覚がない故か、彼の書く数学書は非常にわかりやすい。図の分を文章で補おうとしているため、文章を読むだけで図が頭の中に浮かび上がるように感じるのである。

実は、ポントリャーギンに対する宇沢先生の敬意は、ぼく自身も直接的にお聞きした経験があった。市民講座の打ち上げで少し飲んだあと、先生を最寄りの駅までお送りした際、先生は売店で夕刊をお買いになった。その新聞に、ポントリャーギンの訃報が掲載されていて、先生はそれをショックそうにぼくに伝えた上で、「ポントリャーギンは、本当にすばらしい数学者でね」と仰ったのだ。

次の発言からは、スティグリッツさんが先生を単なる新古典派の理論家と見ていたわけではなく、もっと深く先生の思想を感じ取っていたことがわかる。

多くの人は、先生の「二部門成長モデル」の論文を読んでも、その研究意欲の深さの真価を理解できないと思います。それはその背景にマルクス経済学の概念があることに気づかないからです。マルクス経済学は私たちがアメリカで学んだ経済学の対極にあり、私自身の経済学者としてのキャリアがいずれ向かうであろう方向からも遠く離れたものでした。しかし先生は、終戦直後の日本で熱烈に受け入れられたマルクス経済学の考え方の一部を現代の経済学に取り込もうとしたのです。先生は不平等の研究に数学をどう活用するかということにも強い関心を寄せており、私はその難題に強く惹かれました。それがきっかけとなって、当初考えていた物理学の専攻をやめ、経済学の道に進むことにしたのです。

ぼく自身も、先生から何度も、「マルクス経済学の道に進みたかった」とか「共産党に入党するつもりだった」ということを伺った経験がある。先生には、「二部門成長モデル」の前にも(とりわけミクロ経済学の)優れた論文がいくつもあるけど、ぼくはそれらは先生にとって、単なる「習作」だったのではないか、と思っている。ピカソが自分の画風を確立する前には、普通の(しかし、すごいテクニックの)絵を描いたのと同じことだ。先生は、「二部門成長モデル」を生み出すことで、自分の初心に近づいたのではないか。そして、初心に近づくと同時に、初心までの本当の距離・隔たりも感じ取ったのではないか。この数行のスティグリッツさんの言葉には、宇沢先生の経済学者として生き様に対する尊敬と、親愛と、そして戸惑いがデリケートに表現されていると思う。

次の発言は、スティグリッツさんが、自分の人生と先生の人生を重ねて述べたものであろう。

先生がアメリカを離れた時、私たちの誰一人として、日本で先生のその後の人生がどのように変化していくかを想像できませんでした。日本への帰国後、皆さんもご存じのように、先生は学者としての研究に没頭するするだけでなく、自動車が引き起こす社会問題や環境問題に関わっていくようになりました。

 以上は、ほんの一部にすぎないから、是非、本書を読んで、スティグリッツさんの宇沢先生に対する熱い想いを知ってほしい。これを読めば、スティグリッツさんという、単なるノーベル経済学賞受賞者という枠におさまらない偉大な経済学者に大きな影響を与え、方向性を育んだのは、宇沢先生なのだとはっきりわかると思う。理想の師弟関係で、うらやましくなる。

 ぼくは、本書を校閲する中で、いくつもの重要なことに気がついた。宇沢先生の本をほぼすべて読破しているにもかかわらず、新たな発見があった。それは、収録されている原稿に、刊行されているバージョンと異なるものがあることや、構成されている順序によって先生の真意に気づくことなどのおかげだと思う。長くなったので、それらの発見については、別のエントリーで書こうと思う。嬉しいことに、宇沢先生の業績(全ファイル)は膨大であり、その中に先生は今も生きておられ、まだまだいくらでもご指導いただけるのである。

もはや思想書と呼ぶべき数学書

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 今回は、黒川先生の新著である黒川信重『リーマンと数論』共立出版をエントリーしよう。

この本は、「リーマンの生きる数学」というシリーズものの第1巻。リーマン歿後150年を記念して刊行が開始されたシリーズだ。第1巻の本書は、リーマンのゼータ関数から発展した数論の全貌を鳥瞰し、リーマン予想解決への道筋を模索した内容となっている。

 本当は、来月に刊行されるぼくの新著、小島寛之『証明と論理に強くなる』技術評論社を紹介しようか、と思ったのだけど、刊行がまだだいぶ先(1月11日)なので、来週あたりになったら、エントリーすることにしたのだ。(お楽しみに)。

 実は、本書黒川信重『リーマンと数論』共立出版は、目次を見た段階では、「ぼくには読み通せない本かな」という予感を持っていた。かなり高度な数学が展開されていそうで、歯が立たなそうだったからだ。でも、予想は嬉しい方角に裏切られた。なんと、最後まで「目を通せて」しまったのだ。もちろん、「読みこなせた」わけではない。斜め読みしたところはたくさんある。でも、飛ばすことなく、最後のページまで到達したことは間違いない。飽きることなく、諦めることなく、突き放されることなく、最後まで連れていかれてしまったのである。それはなぜか。

 それは、本書が、数学書の領分を超えて、もはや思想書とでも呼ぶべき高みに達している、からなのだ。以下、それがどういうことかを順を追って説明する。

 まず、本書は、各数学者の業績を、緻密に考証し掘り起こしている

多くの数学書は、(ぼくの書いた啓蒙書も例外ではなく)、孫引きがほとんどだったり、また、誰かが整理整頓した記述に頼ったりしている。対して本書は、(黒川先生の本は、本書に限らずいつもそうなのだが)、原論文にアクセスした上で、正しい記述や見逃されている事実を掘り起こしている。例えば、俗にライプニッツやグレゴリーの発見とされる「奇数の逆数の交代和が、π/4となる」(1−1/3+1/5−1/7+・・・=π/4)が、実は、彼らより300年も前にインドのマーダヴァが発見したことを指摘している。どうも、マーダヴァは、三角関数の級数展開を得ていたらしい(微積なしで??)。あるいは、メルテンスという数学者が1874年の論文で示した公式(x以下の素数pに対して、1/pに(−1)^(p−1)/2を掛けて1から引いた数たちを掛け合わしたものの極限がπ/4になる)が、現代ではほとんど忘れ去られているが、実はこれは深リーマン予想の第一歩となっていることを掘り起こしている。はたまた、ハッセ予想のきっかけとなったアンベールという数学者が、同姓同名の別人と混同されることが多いことなども指摘している。

 次の点が非常に大事なのだけど、本書は、リーマンの研究に関するかなり踏み込んだ再考証となっている

第二部は、オイラー以前→オイラー→ディリクレ→リーマン、という歴史順に、ゼータ関数の誕生をたどっている。そして、リーマンについては、死後60年以上を経過したあとに、ジーゲルが遺稿を解読して発見されたことを踏まえて検証しているのである。例えば、ハーディをスターにした「リーマン予想が成立する零点の個数の評価」と同等の結果を、リーマンが既に得ていたことなどが指摘されている。この点について、黒川先生は次のように記している。

以上のことは、リーマンの1859年の論文はリーマンの研究の真実を伝えていないという教訓となる。リーマンは将来に詳細を書くことを予定していたのだと思われる。

この章がとにかくすごいのは、こんな風に、「黒川先生がリーマンの霊と議論している」かのように読めることだ。なんということか、「リーマンの全数学を合わせれば、リーマン予想の証明に至ったのではないか」という願望までが書かれている。リーマンは、きっと、こんなアプローチを企てていたに違いない、と。こういうところに、数学者の魂のあり方が垣間見られる。

 とは言ってもぼくには、本書での「有限ゼータ関数」と「行列のゼータ関数」の指南がものすごいツボだった。

今まで、何度か黒川先生と対談させていただき、いろいろなことを発見し腑に落ちたのだけど、一つ今までよくわからないことがあった。それが、「ゼータ関数の零点と行列の固有値が関係する」ということだった。本書には、この点が丁寧に解説されている。第2章「行列の整数ゼータ関数」と第3章「行列の実数ゼータ関数」がそれである。これらは、「行列からある計算でゼータ関数が定義され、それが関数等式を持ち、リーマン予想の類似が成立する」というもの。証明は簡単だけど、「行列のトレース(対角成分の和)が基底変換に対して保存される」という法則の見事な応用となっていて驚く。しかも、にわかには信じられないことだが、この方法論が、合同ゼータ関数やセルバーグゼータ関数に対するリーマン予想の証明(第8章で解説)の急所にもなっているのだ。ぼくはこの解説で、今までわからなかったこれらの証明に関して視界が開けた(ざっくり理解に達した)幸福感を味わうことができた。

一方、「有限ゼータ関数」というのは、有限和で作られるゼータ関数のことで、ぼくは全くこれを知らなかった。すごく簡単な関数だけど、関数等式も、オイラー積表示も、リーマン予想も成り立つことは全く驚きであった。高校生に教えるにはちょうど良いと思う。

 最も胸が熱くなったのは、最後の章に書かれた、黒川先生自身のリーマン予想証明の「提案」だ。

普通の数学書には、こんなことが書かれることはないからだ。もちろん、それはまだ、「青写真」でしかなく、「夢」の段階だけど、なぜそういうアウトラインを作るのかについては、本書一冊読んでくれば強い説得力がある。ちなみに、ここでも、「行列のトレース」のアイデアが活かされている。もしも、この方法で将来、リーマン予想が解決されたなら、本書は予言の書となる。リーマン自身が自らの研究の中で発想した夢想が、黒川先生の考察を経て、黒川先生か誰か他の数学者の腕力によって実現されたことを、後生に書き残す本となる。そして、読者はその生き証人となるのである。

もうすぐ、ぼくの論理学の本が刊行されます!

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 明けましておめでとうございます。昨年は、当ブログをご愛読くださりありがとうございました。

今年の初エントリーは、もうすぐ、1月11日に刊行されるぼくの新著の紹介をさせていただきましょう。(一部の書店では既に販売されているようです)。

 本のタイトルは、小島寛之『証明と論理に強くなる〜論理式の読み方から、ゲーデルの門前まで』技術評論社。これは、ぼくの長年の論理学との格闘から生まれた本。ある意味では、宿願とも言える刊行である。

刊行までまだ10日ほどあるので、今回は、目次だけをさらすこととしよう。次のようになっている。

『証明と論理に強くなる〜論理式の読み方から、ゲーデルの門前まで』目次

  

序章 「証明」と「論理」を学ぶと何の役に立つのか?

  

<第1部 論理式に慣れよう>

第1章 論理式を読めるようになる

第2章 論理式の真偽は考える世界で変わる

第3章 大学入試・公務員試験を解いてみよう

  

<第2部 証明するとは何をすることか>

第4章 言語と推論

第5章 「等しい」とはどういうことか?

第6章 「かつ」「または」「ならば」「でない」の推論規則

第7章 「証明できる」と「正しい」の関係

第8章 述語論理を読めるようになる

  

<第3部 自然数を舞台に公理系を学ぶ>

第9章 1+1=2を証明しよう

第10章 ∀と∃を操作しよう

第11章 数学的帰納法とはどんな原理か

  

<第4部 ゲーデルの定理の予告編で終わる>

第12章 ゲーデルの定理、その予告編

  

<補足>

A. 「命題論理の自然演繹の完全性定理」の証明

B. 「等号の演繹システムの完全性定理」の証明

C.  ニセ自然数はメカ自然数Qのモデルであることの確認

D. 「ホフスタッターの定理」の証明

少しだけ追加の説明をしよう。

本書は、ぼく自身の数理論理に関する自問自答を執筆した本、ということができる。

詳しくはあとがきを読んで欲しいが、ぼくは人生の中のいくつかの局面で、数理論理を勉強しなければならないはめになった。その中で、最も重要で、最も追い詰められたのが、塾で中高生に数学を教えているときだった。

中学生にユークリッド幾何を教えるとき、ちゃんとわかってもらおうとすれば、公理とか推論規則とかに抵触せざるを得ない。そうなると、「やっていい推論は何か」とか、「証明された定理が正しい、とはどういうことか」とかが問題になる。これらに、胸を張って答えるために数理論理の勉強が不可欠になったのである。

それ以外の単元も、数理論理と無縁ではない。証明問題の解法を教える際、「背理法」とか「数学的帰納法」とかが出てくる。このとき、鋭い生徒からは、「背理法は、どうして正しい論法なのか」とか、「数学的帰納法とはいったい何をやっているのか」とか、いじわるな質問が飛んでくる。教師の良心として、逃げずにごまかさずに、誠実に解答をしたい。そうなると、数理論理に取り組まざるを得ない。

このように、本書は、「数学講師としてのぼくの魂が書かせた本」と言える。だから、本書が最もフィットするのは、中高生に数学を教えていらっしゃる先生がたであろうと思う。

 塾講師時代に、幸運にも、同僚に数理論理の研究者がいた。その人が、ゲンツェンのシークエント計算とか自然演繹とかを高校生に向けてレクチャーしていたので、ぼくも講義にもぐらせてもらい、だいぶ下地ができた。でも、その直後に、経済学の大学院に入学したので、数理論理から遠のくことになってしまった。大学院でも、実は、松井彰彦先生のゲーム理論セミナーで、論理学の本の輪読に参加したことがあった。今思えば、とても効率的な学習の場だったのだけど、ほんちゃんの経済学の勉強を優先したため、たいして身につかなく、本当にもったいないことをした。

 かなり本格的に数理論理の教科書や専門書と取り組んだのは、拙著『数学的推論が世界を変える』NHK出版新書の企画が持ち上がったときだった(詳しくは、新著『数学的推論が世界を変える〜金融・ゲーム・コンピューター』が出ました! - hiroyukikojimaの日記参照のこと)。この本は、金融、コンピューター、ゲーム理論、数理論理をクロスオーバーさせるエキサイティングな本で、ぼくの経済学上の興味を結晶させたものだった。

本を書くからには、数理論理について、かなりきちんと理解しなければいけない。それこそ、数理論理を組み入れた経済学の論文が書けるぐらいまで、ちゃんと吸収したい。そういう思いで勉強を行った。

 今回は、その勉強をまとめる形として、本書を執筆した。本書は、さきほども言ったが、経済学者としてではなく、数学の教師として、あるいは、数学エッセイストとして、(数理論理の専門家や学徒以外の)多くの一般の人が証明や論理について疑問に思っているであろうことに答えることを志したのである。刊行日が近くなったら、ごり押しの宣伝をする予定なので、お楽しみに。

『証明と論理に強くなる』が、刊行されました!!

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 ぼくの新著『証明と論理に強くなる〜論理式の読み方から、ゲーデルの門前まで』技術評論社が書店に並んだので、このタイミングで宣伝をしようと思う。前回のエントリーもうすぐ、ぼくの論理学の本が刊行されます! - hiroyukikojimaの日記では、目次をさらしたので、今回は序文をさらしたいと思う。

以下が、序文である。

まえがき   こんな人たちには、本書がお勧め!

 

本書は、数学における証明のやり方と、論理式の扱い方を解説した本です。本書のテーマは、序章に詳しく書きましたから、そちらをご参照ください。ここでは、きっと本書が役立つであろう人々を、タイプ別に列挙することにします。

 

タイプ1  論理式の読解が苦手な方

 数学をはじめとした少なくない数理分野の書籍や講義では、論理式で内容が記述されます。論理式の読解になじんでいないと、「内容がわからない」だけでなく「表記が読めない」という二重苦に陥ります。本書では、論理式の読解法を丁寧に講義します。

 

タイプ2 公務員試験などの論理の問題に苦労している方

 就活や資格試験では、論理の問題が出題されます。これらの問題は、日常言語で記述されていますが、実は数学の論理の問題です。この手の問題は、フィーリングで解いている限り、いつまでたっても上達しません。本書で、論理式の真偽を学べばハウツーが身につけられます。

 

タイプ3 数学の証明を勘でやっている方

 多くの人は数学の証明で苦心していることと思います。しかし、証明とは単なる推論規則の適用にすぎず、実は十数個の規則だけでまかなわれています。一度、その規則をわかってしまえば、証明を読んだり実行したりすることが、かなり楽になるでしょう。

 

タイプ4 中高生に証明や論理を教えるのに苦労している先生方

 中高生の数学の授業で証明や論理を教えるのは、非常に難しい仕事です。ともすると、丸暗記の押しつけに陥り、学生たちを数学嫌いにしてしまいます。本書の中には、証明教育や論理教育のヒントが散りちりばめられています。

 

タイプ5 思考とか認識ってどういうこと?という疑問を持つ方

 私たちが「ものを考える」とは、いったい何をしているのか。これはとても難しい問題です。このような「人間の認識とは何か」を解くカギは、証明と論理の中にあると言っても過言ではありません。

 

これらのいずれかのタイプにあてはまる方は、ぜひ、本書を手にとってみてください。

 実は、今日の日経新聞夕刊の「目利きが選ぶ三冊」のコーナーで、竹内薫さんが書評を書いてくださった。しかも、最も大きな扱いで、さらに☆五つ! ありがたやありがたや。内容も、とても本書の特徴を掴んでいて嬉しくなった。さすが竹内さんだ。アマゾンの在庫があっという間にはけた。すげえ。

 本書のタイトルには、「ゲーデル」がついているけど、正直、それは刺身のつま。本書の意図は、それとは全く別のところにあるのだ。数理論理学の通常の教科書とは、かなり脇道に逸れた書き方をしている。なぜなら、数理論理の学徒に読んで欲しい本ではないからだ。(数理論理とか基礎論の学徒は、啓蒙書なんて読んでないで、ちゃんとした教科書を読みたまえ!)。本書の想定読者は、「論理ってソモソモなに?」「証明するって、ソモソモどういうこと?」って疑問を持つ人たち、ソモソモ人たちなのだ。だから、通常の教科書のように、「これが読解できなんなら、どうせこの分野には向いてないから諦めな」という突き放しかたはしない。それこそ、懇切丁寧に、まるで古文のあんちょこのように、すべての論理式に「逐語訳」がついているから、スラスラと読み進める(はず)。そして、ぼくが過去に抱いたような疑問を抱いている人たちには、かなりの程度で、その疑問に答えていると思う。

 それってどんな疑問?ってことについては、次回にエントリーしようと思う。


新著『証明と論理に強くなる』は、ぼくの論理学への自問自答なのだ。

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 ぼくの新著『証明と論理に強くなる』技術評論社が刊行されたことは、前回にエントリーした(『証明と論理に強くなる』が、刊行されました!! - hiroyukikojimaの日記)。竹内薫先生の日経夕刊の書評のおかげで、アマゾンの在庫も楽天の在庫も一気にはけ、幸先良いスタートとなった。おまけに、昨日、大部数の増刷が決まった。刊行後一週間以内の増刷というのは、ぼくにとってはとても久々のことだ。めちゃくちゃ嬉しい。竹内薫大明神さまさまである。アマゾンと楽天の在庫が回復したようなので、ここでもう一発、販促の追い打ちをかけようと思う。

前前前世、じゃなかった、前前回(もうすぐ、ぼくの論理学の本が刊行されます! - hiroyukikojimaの日記)では「目次」をエントリーし、前回(『証明と論理に強くなる』が、刊行されました!! - hiroyukikojimaの日記)では「まえがき」をエントリーしたので、今回は、「序章」の一部を晒そうと思う。

「序章」は、「『証明』と『論理』を学ぶと何の役に立つのか」と題している。この本のテーマについて語っている部分である。まず、見出しだけを列挙する。

(1)「論理学」の論理ってなに?

(2)公務員試験・資格試験の論理問題はどう解く?

(3)中高生に論理を教えるにはどうしたら良いか?

(4)数学はなぜいつも正しいのか?

(5)なぜ、三角形の内角の和が180°でない世界がある?

(6)証明法には、何か根拠があるのか?

(7)数理論理の教科書はなぜわかりにくいのか?

(8)ゲーデルの定理とはどう証明されるのか?

*見出し番号は、当ブログでつけたもの

見出しを眺めればわかるように、本書は、ぼくの論理学に対する自問自答を書き綴ったものなのだ。8項目をすべて晒すと、相当な字数になるので、(2)と(6)と(7)だけにしようと思う。

(2)公務員試験・資格試験の論理問題はどう解く?

 世の中で、「証明」と「論理」の能力が問われる場面は多くあります。大学入試の数学では論理は必須ですが、それだけではありません。公務員試験・資格試験・就職の適正試験などで実施される「論理的推論」もそうです。このような試験が課される理由は、数学や理科や歴史などの教科内容を試験すると、修学経験や専門の差が出て公平でないと考えられていることにあるでしょう。「論理的推論」を、教科を超えた普遍的な認識手段だと考え、その能力を見ることで応募者の知的能力を測ろうというわけです。

 これらの「論理的推論」の試験問題は、「日常言語」の形で出題されますが、実は、「日常言語の論理」に見られる曖昧性はほとんどありません。なぜなら、これらの問題は、みかけは日常言語的であっても、数学の論理(数理論理)で解けるように作られているからです。

 見たところ、たいていの学生さんたちは、これら「論理的推論」の問題を勘とかフィーリングで解いています。そうやっていては、正答しても誤答しても、その理由を理解できないでしょう。

 本書では、「論理的推論」の試験を受けなければならない学生さんに向け、勉強の指針を与えるように書いています。本書を読破した後、「論理的推論」の問題集にあたれば、きっと以前よりも理解がよくなっていると思います。

 実はぼくは、とある資格試験系予備校の経営者と商談をしたことがあり、そこで、(上級)公務員試験のテキスト作りを依頼されたことがある。そのとき、出題されている論理的推論の問題が、(日常論理ではなく)数理論理の問題でありながら、教材ではあまり良い解説(体系的解説)がなされていないことに驚いたのだった。きっと、世の中の受験生は、体系的に勉強することなく、フィーリングで解くか、あるいは、意味不明の暗号操作で解いているのだろうな、と想像した。そういう現状にアプローチした数理論理の教科書は見たことがないので、本書を従来の教科書と差別化するには、うってつけの題材だと思って投入することにしたのである。

(6)証明法には、何か根拠があるのか?

 数学が得意な人は、数学の証明法、例えば、「背理法」とか「数学的帰納法」とかを自然に使いこなせるようになったことでしょう。しかし、用心深くものを考える人、何でも根本的なところが気になってしまう人は、「背理法や数学的帰納法は、いったい何をやっているのだろう。そして、なぜ正しいのだろう?」という疑問を持ったかもしれません。

実際、筆者はそういう疑問に突き当たりました。自分では、これらの証明法を簡単に会得できましたが、それがどうして正しいのか、明確にはわかりませんでした。そもそも「証明法として正しい」とはどういうことかも疑問となりました。とりわけ、中高生にこれらの証明法を教えているときには、「例え話」で強引に納得させる顛末に陥り、心の中では秘かに「それじゃ、数学じゃない」という罪悪感を持ちました。

もしも読者が、こういう疑問を持ったならば、それはとても鋭い疑問なのです。安心して下さい、答えは論理学の中にあります。本書を読めば、「証明法として正しい」ということの意味が理解できるはずです。

塾の先生をやっていた頃、これが最も懸案事項だった。もちろん、「背理法」とか「数学的帰納法」とかは、スペシューム光線とか、コブラツイスト(ふ、古い)に匹敵する「決め技」、「必殺技」に当たるものだから、生徒に伝授するのは先生の威厳を示すのにもってこいとなる。塾の先生は、そうやって、権威を示し、尊敬を押し売りするのが生業だ。でも、ぼくは心苦しかった。めっちゃ葛藤があった。。それじゃ、インチキ宗教の教義の伝授とどっこいだ。ちゃんとした、「科学的な」、あるいは、「哲学的な」、バックボーンを生徒に示したい、と思ってた。ぼくが欲しかったのは、生徒からの「偽りの尊敬」ではなく、生徒たちの「好奇心にみなぎった未来」だったのである(かっこつけすぎかな。笑)。それが、ぼくに数理論理の勉強に走らせた最も大きな活力だったのである。そんなわけで、本書は、「How」を示すだけではなく、できるだけの、(ぼくの度量で可能なだけの)、「Why」を与えたかったのである。

(7)数理論理の教科書はなぜわかりにくいのか?

 以上のような、あるいは他の、さまざまな問題意識から、数理論理学の教科書をひもといた経験を持つ読者もおられるでしょう。そして、そのうちの多くの人はきっと、困惑に陥ったことでしょう。筆者もこれまで述べた疑問を解決しようと、何冊もの数理論理学の教科書に挑戦しましたが、いつも大きな困惑に直面しました。それは、ほとんどすべての数理論理学の教科書が、以上のような素朴な疑問を解決してくれるものではなかったからです。

 その理由は、数理論理学の教科書が、「数理論理学という数学分野」の研究のための本であって、私たち一般人の素朴な疑問に答えるための本ではないからです。

 例えば、「証明」において使うことが許される「推論規則」が提示されるとき、たいていは、全く見たことのない、わけのわからない「規則」となっていて頭を抱えます。それは、「ヒルベルトの体系」または「ゲンツェンのシークエント計算」、あるいはその派生形です。これらは決して、私たちが普段の数学で使う論法ではありません。なぜそんな奇妙な体系を使うのか、というと、「数理論理学」という固有の数学を展開する(数理論理学の定理を証明する)には、それらの体系のほうが便利だからに他なりません。しかし、これらの「推論規則」は、私たちの普段の論理的推論とあまりに見かけが異なるので、理解するのに大きな努力を要するうえ、「論理的推論ってなに?」という、私たちの疑問の出発点には答えてくれないのです。このことが、多くの一般の読者を論理学から遠ざけてしまう原因だと思います。

 筆者は、何冊もの教科書を読んでいく中で、数学で普通に使われる論法に非常に近い体系を見つけました。それが「自然演繹」と呼ばれる体系です。学校で教わる数学の「証明」は、すべて「自然演繹」の規則に対応づけることが可能です。また、そうすることで、数学の「証明」というものを、前よりも明確に捉えることが可能となります。

 本書では、「自然演繹」を丁寧に解説します。自然演繹を理解することは、「証明とは何をしていることか」を理解することであり、また、「証明のハウツー」を会得することになるからです。

いやあ、ほんとにね、数理論理の教科書を素人が読んでもね、ぜんぜんためにならないと思うよ。それらは、数理論理学というジャンルの専門家の免許を取得するためのものであって、決して、我々の広範な疑問や好奇心を満たすためのものじゃない。別にそれが悪いとは言ってない。ぼくが専門とする経済学の多くの教科書もそうだ。それらは、「生々しい経済活動」についての素人の疑問に答えるようには書かれていない。悪口覚悟で言えば、それは経済学というジャンルで飯を食っていくための「超常的教義」を習得するための呪文の本であって、我々の「生の現実」とは、ある意味での断絶があるんだと思う(ある意味の、意味が大事なんだけど、ここでは論じない)。

でも、数理論理の教科書たちのそういう「傷」が、ぼくには「チャンス」だと思った。専門家でないぼくにも、ある種の役割が、つけいる隙が、あるんだと思った。それは、素人の人のニーズを満たしながら、でも、ちゃんと数理論理の線路から脱線しすぎないような本を書くことができるんじゃないか、ということだ。それで本書を執筆した、というわけなのだね。

 ほ〜ら、読みたくなってきたでしょ? そういう人は、明日、書店に走ろう。ネット書店で、ぽちってもいいぞ。

経済学者がこぞって読むべき物理の本

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 今回は、久々に物理学の本の紹介をしようと思う。紹介するのは、田崎晴明『統計力学I』培風館だ。この本の元となる原稿は、かなり前に入手していた。ぼくが、田崎さんにぼくの経済学の教科書を献本したら、田崎さんが、お礼に(しかえしに)TeXで作った原稿を製本した分厚い冊子をプレゼントして下さった(送りつけてきた)のである。そのときは、ざっと斜め見しただけだったのだけど、今年に入って、(前半だけ)真面目に読んでみたのだ。

なぜ今頃読んだか、というと、それは経済学的なモチベーションからなのだ。

経済学では、「ミクロとマクロがいったいどうつながっているのか」というのは、いまだに解決されていない難題であり、突破口を見つけなければならない課題である。とりわけ、マクロ経済学において、ミクロ理論での基礎付けが要求される現状では不可避のことだ。

マクロ経済学の専門家ではないので確かなことは言えないけど、よく知られたマクロモデルでは、「代表的個人」というのを主体にモデル化している。それは、あたかも国民がたった一人しかいないかのような仮定の下でモデルを作っている、ということだ。もちろん、「国内にはいろんな人がいる」ということを無視しているわけではなく、それなりに正当化できないわけではないんだけど、それでも「ミクロ=マクロ」となっているこの前提は、それで大丈夫なのかと思わざるを得ない。

 そこでぼくは、統計力学をある程度きちんとわかりたい、となったわけだ。統計力学は、物理学において、ミクロとマクロの関係をなんとか解き明かそうとし、完全ではないが十分な成果を得ている。そんなわけで、分厚い私家版冊子を手にしている(押しつけられている)にもかかわらず、培風館版をあえて購入し、読み始めた次第である。

 ちゃんと読んでみたら、めちゃくちゃのけぞった、というか、驚いた、というか、感動した、というか、目を丸くした。そこには、ぼくの経済学的なモチベーションを刺激する記述があちこちにあったからだ。この本は、経済学者必読の物理学書と太鼓判を押せる本だったのである。

 まず、この本の章立てを、(読んだところまで)、ぼくの言葉でまとめてみる。

第1章 統計力学について、その問題意識を包み隠さず宣言している。

第2章 定番の確率論を、統計物理に応用できる言葉に書き換え、独自の物理的解釈を提示している。

第3章 量子論からの最低限の準備をしている。とりわけ、エネルギー固有状態の離散性と平方性を導出している。

第4章 平衡状態とは何かを解説し、それを記述するカノニカル分布を導出している。

第5章 カノニカル分布を応用して、気体の状態方程式を導いたり、常磁性体のモデルを導出したりする。

ここまでのすべての章が、経済学者として、驚きと興奮の連続だった。とりわけ、経済学者諸氏にお勧めしたいのは、第1章と第2章である。ここには「ミクロとマクロをつなぐ」問題について、執拗なまでに(良い意味での)御託を並べている。ここまで、きちんと著者の考えを記載している統計力学の本は、(ぼくの知っている限り)他にはないと思う。

一部の経済学者は、マクロモデルのために、統計力学を取り入れる研究をしている。古いけど代表的なのはダンカン・フォーリーの「統計的均衡」の論文で(楽しい統計物理 - hiroyukikojimaの日記参照のこと)、その後も、ぽつぽつと研究が出ている(ようだ)。でも、それらの研究は、統計物理をもろに経済現象に写し取るようなもので、ぼくにはあまり有効だとは思えない。物理現象と経済現象には根本的に違うところがある。だから、統計物理から写し取るべきは、モデルではなく思想のほうであるべきだと思うのだ。そういう観点から、本書の「(良い意味での)御託」は、そういう思想を得るのに役立つのだ。経済学者の立場から、非常に示唆的に感じられる記述を、いくつか引用してみよう。

予想されるように、ミクロの世界とマクロの世界を結ぶのは、きわめて非自明で困難な課題であり、今日でも未解決の点を無数にある。それでも「平衡状態」と呼ばれる限定された状況については、ミクロな世界の法則がどのようにマクロな世界と対応するかについての、ほぼ完全な一般論が得られている。

統計力学はミクロな世界の力学法則に基づいてマクロな世界を記述する体系である。(中略)。力学を少し学べば実感するように、特殊な事情がない限り、粒子の数が増えれば増えるほど、力学の問題を解くのは難しくなる。(中略)。ところが、ここで非常に興味深い「逆転」が起きる。構成要素の個数がきわめて大きくなることで、逆に、ある種の問題の扱いは簡単になるのである。より正確に言えば、マクロな系が平衡状態という特殊な状態にあるときには、力学の問題を完全に解かずにマクロな物理量のふるまいを正確に特徴づけることができるのだ。さらには、この際、系の記述には、力学の言葉よりも確率論の言葉を用いるのが自然なのである。

この言葉は、ぼくの統計力学への誤解を完全に解いてくれた。ぼくは、統計力学というのは、力学法則を公理のようにして用いて、マクロ現象を演繹的に導出する分野だと思い込んでいた。でも、そうではなかったのだ。次の記述は、そのことをもっと明確にしてくれる。

気体にしろ、固体にしろ、磁性体にしろ、統計力学の対象となるマクロの系は、一般には、きわめて複雑なミクロな構造を持っている。これらの系の(量子)力学的なミクロな詳細を完全に特徴付けるには、膨大な数のミクロなパラメーターが必要だが、通常、それらの値を正確に知ることなどできない。だから、ミクロな情報をもとにマクロな物理量を無闇やたらと正確に計算できるような理論ができたところで、科学としてさしたる意味がないのだ。統計力学が目指すのは、様々な物理量を細かく計算することではなく、系のミクロな詳細に依存しない普遍的なふるまいを探し出し、それらを的確に記述することなのである。

これなんかは、経済学者としては超「耳が痛い」。そして、非常に啓示的に感じられる。

 圧巻なのは、第2章である。ここでは、確率論の基礎を準備するのだけれど、二つの目的を備えている。第一は、物理量を確率の言葉で表現すること。第二は、「確率論が、マクロとミクロを関係付ける」ということの意味を一般論として提示することである。

物理既修者にとっては無駄な章に思えるかもしれないが、ぼくら経済学者にとっては、宝の埋まった「もったいないぐらいの章」なのである。とりわけ、ゆらぎが測定精度よりもはるかに小さい場合、不確実性が確実性にすり替わるからくりを、「チェビシェフの不等式」を用いて説明している数ページは、鳥肌がたち、わくわくしてしまった。いわく、

確率論という不確かさを全面的に取り入れた枠組みの中で、このように(ほぼ)確実な予言が可能だということは、意外なことだし、(特に統計力学への応用を考えるとき)本質的なことだ。

この章には、マクロな現象を理論化するときの重大なヒントが満載のように思える。もちろん、そのとき、向き不向きや限界をわきまえるのは大事なことである。その点については、田崎さんは次のように言及している。

われわれの世界には定量的な分析という観点からは「手に負えない」部分が確実に存在する。マクロな物質の中に潜むきわめて多くの自由度の複雑きわまりない運動は、その典型例である。そのような「手に負えない」側面については、単に予言をあきらめてしまうのではなく、確率の言葉を使った定量的な予言を試みるのは健全な考えだろう。ただし、単に確率的なものの言い方しただけで、科学的・定量的になるわけではない。

 確率論そのものは抽象的な数学の体系であり、それだけでは現実世界の出来事について予言する力はない。抽象的な確率論と現実とを結びつける何らかの解釈の規則が必要である。

ここなんかも、経済学者の「耳の痛い」言及であろう。

 第3章は、シュレジンガー方程式からエネルギー固有状態の離散性と平方性を導出する。ここのところは、ずっと前から離散性と平方性が疑問のるつぼだったぼくには、目からウロコだったけど、興味のない経済学者は飛ばしても問題ないと思う。

 第4章は、最も基本となるカノニカル分布の導出を丁寧に解説している。ここでは、分布の数学的な導出も面白いのだけど、それより何より、分布を導出する「原理的部分」の解説がスゴイのだ。平衡状態は、何の仮定もなしに導出されるわけがない。そこで何が仮定されているかが、明確に、そして哲学的に解説されている。仮定される原理は次のようなものであり、このような記述は、(少ないけど)これまで読んだ統計力学の本では見たことがない。

平衡状態についての基本的な仮定:ある系での(熱力学でいうところの)平衡状態の様々な性質は、対応する「許される量子状態」の中の「典型的な状態」が共通にもっている性質に他ならない。

ここで、「許される」とか「典型的な」とかいう、科学的でない表現が冒険的に使われている。こういう危険な冒険が、本書の魅力なのだ。この原理を元にして、平衡状態から大きくはずれた系が、どうして平衡状態に発展する(平衡への緩和)のかが説明されていく。ここが、科学思想的な意味で、非常に重要なことであり、経済学にも輸入できる観点だと思える。この章の最後のほうで「エルゴード仮説」へ痛烈な批判が書かれている。エルゴード仮説は、いろんな本に書いてあってみんなが認める原理だとばかり思っていたから、これは衝撃的だった。

第4章は、カノニカル分布を計算して導出し、導かれた分布関数を用いて、エネルギーの期待値とゆらぎを計算する公式を提示している。それは、ほれぼれするような綺麗な公式であり、うっとりとした(数理統計でもそっくりの計算が出てきた記憶があった)。とりわけ、二準位系を使って、「低温ではエネルギーがなるべく低いエネルギー固有状態をとろうとし、高温ではデタラメに近い状態をとろうとする」ということを明快に説明しており、このことはすごく重要だと思いながらもなかなか「からくり」が納得できなかったぼくには、目からウロコの説明だった。

 第5章では、カノニカル分布をさまざまに応用している。とりわけ、理想気体の状態方程式を導くところはワクワクものだった。著者はこの方法について次のように書いている。

このようにして、理想気体の状態方程式を導くことができた。もちろん、PV=nRTは高校から知っている関係で、目新しいものではない。しかし、ここでは、そのお馴染みの関係が、気体分子についてのシュレジンガー方程式と統計力学の一般論だけから導出されたのだ。その意義は十分に大きい。

 気体分子運動論を学んだ読者、ここでのPV=nRTの導出に、気体分子の速度分布、分子が壁に与える力積などなどが全く登場しないことに驚くだろう。確かに、出発点となるのは分子の(量子)力学なのだが、力学と無数の分子の統計的な性質を個別に議論する必要はないのだ。すべて分配関数という「魔法の和」の中に取り込まれていて、半ば自動的に計算が進むのである。

はい、仰る通りで、ぼくはめっちゃ驚きました。

 さて、ここまで読んだところでぼくは、以前、ぼくが校閲を手伝った加藤岳生『ゼロから学ぶ統計力学』講談社が、再読したくなった(この本との関係は、統計力学が初めてわかった! - hiroyukikojimaの日記を参照のこと)。この本は、校閲を手伝ったこともあり、相当読み込んでいた。そして、田崎さんの本とは、だいぶ構成方法が違っている印象があったからだ。

再読してみて、加藤くんがどういう工夫をしたかが当時よりずっとわかった。ほぼ、同じような方法論で、ほぼ同じ思想的な背景で書かれていることがわかった。(素人目には、「逆向きに」構築しているかのように見える)。ただ、重要な違いは、田崎本が公理論的な構築性を打ち出しているのに対して、加藤本は現象モデルを提示しながらイメージ的構成を試みている、というところ。加藤本は(褒めすぎかもしれないが)「ファインマン物理学っぽい」のである。とりわけ、前半で導入されている「ゴムの統計物理モデル」は、統計力学の計算が何をやっているのかをイメージするのに抜群に優れているので、田崎本を読んでいて苦しくなったら、この本に寄り道すればいいと思う。

 この二冊を読んでいて痛感したのは、高校で教わった力学というのが、統計力学ではなりを潜めて見えなくなる、ということだ。にもかかわらず、統計力学はミクロとマクロを整合的につなぐ。また、現実も精密に検証できる。この魔法のような手法は、経済学者にも十分示唆的な暗示的な啓示的なものだと思う。しかし、肝に銘ずるべきは、取り込むべきは「方法論」ではなく、その「考え方」「思想」「哲学」なのだ、という点であろう。

現代思想『ビットコインとブロックチェーンの思想』

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 刊行されてから一ヶ月以上経過してしまったけど、ぼくも原稿を寄稿しているので紹介しよう。『現代思想』2017年2月号の「ビットコインとブロックチェーンの思想」だ。

 ぼくは、この本に「ブロックチェーンは貨幣の本質か」と題した記事を寄稿している。この記事は、二つの立場から書いている。第一は、数学エッセイストとしてビットコインの仕組みを相当わかりやすく解説している。第二は、経済学者として、「貨幣とは何か」という問題意識からブロックチェーンを分析している。

 この記事を書くために、サトシ・ナカモトのビットコインの論文(no titleからDLできる)を初めて真面目に読んだ。短い論文だけど、専門外のぼくには理解するのが大変だった。

 ちゃんと読んでみると、ビットコインのアイデアは非常に巧妙にできていることがわかった。RSA暗号(素数を使った公開鍵暗号)を実にみごとに使っているし、ハッシュ関数を導入しているのもすばらしいアイデアだ。これらの仕組みは、例を使って簡明に解説しているので、本誌で読んでほしい。

 ナカモトはビットコインにいくつものアイデアを投入しているのだけど、最も画期的なのは、「取引の全記録(ブロックチェーン)を貨幣とみなそう」というアイデアだと思う。もちろん、このアイデアは斬新だし、「実現させた」という意味では類例のないものなんだけど、経済学者としては「ずいぶん前からあった発想だよね」という感慨があった。

 サミュエルソンは、1958年の有名な論文で、世代重複モデルによって「貨幣の存在意義」を証明した。これは、その後、ダイヤモンドやワラスなどの研究などを経て、大きなジャンルとして成立していった。サミュエルソンのアイデアは、ほとんどブロックチェーンの考えと同じである(とぼくは感じた)。もっとすごいのは、コチャラコータの1998年の論文「マネー・イズ・メモリー」だ。この論文は、ビットコインとほぼ同一視できるようにぼくには思える。この論文は、ぶっちゃけて言えば、「貨幣とは、記憶を代替するものである」ということをゲーム理論のナッシュ均衡(の中の完全公共均衡)を使って説明したものだ。「これって、ブロックチェーンだよね」、と経済学者なら、思わず言ってしまいたくなるように思う。これらの論文の説明も、記事の中で詳しくしているので、是非とも本誌で読んでほしい。

 この特集には、たくさんの学者がいろいろな角度からビットコインとブロックチェーンに関する分析を寄稿している。どれもが興味深い論説だから是非全部を読んでほしいが、ここでは一つだけ紹介しようと思う。それは小澤正直氏の「情報技術と社会の変化」だ。小澤氏は(たぶん)ハイゼンベルクの不確定性原理の不等式に補正項を付け加えた「小澤の不等式」の発案者だ(と思う)。

 小澤氏の論考は、ビットコインの技術を可能にしているRSA暗号を破る技術的可能性についてのものだ。1994年にピーター・ショアという人が、「量子コンピューターを使って、RSA暗号を破る」論文を発表した。これは、量子が重ね合わせの状態にあることを利用して、素因数分解を高速で行う方法論である。したがって、量子コンピューターが実現可能かどうかが、ビットコインの未来と深い関係を持つことになる。小澤氏は、その可能性について分析している。

 ちなみに、量子コンピューターの仕組みとショアの定理については、拙著『世界を読みとく数学入門』角川ソフィア文庫に易しく解説したので、是非、参照してほしい。

小澤氏の論考では、量子コンピューターは「デコーヒーレンスと呼ばれる不可避の誤りへの対応」が必要と論じている。これは、そんなに簡単ではなく、またコストも大きいとのことである。さらには、新しい暗号技術である「量子鍵配送」という技術も解説している。これは、不確定性原理に基づいて「盗聴を防ぐ」技術なのだが、新しい不確定性原理の理解では、必ずしも盗聴が防げるとは限らない、ということを指摘している。

 これらの解説は、最新の物理学に立脚するものであり、大変に興味深い。是非、本誌で読んでほしい。

「魔法少女まどか☆マギカ」に打ちのめされた

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 今回は、最近に見た映像作品2つと、最近好きになったミュージシャンのことをエントリーしようと思う。

映像作品は、アニメ作品『魔法少女まどか☆マギカ』とホラー映画『残穢』、ミュージシャンはAimerだ。

 まず、『魔法少女まどか☆マギカ』から。

この作品に興味を持ったきっかけは、知り合いの学者がツィートしたことだった。そのときは、別に観ようと思ったわけではなく、小学生に関わりを持つ職業の友人に、そのことを話しただけだった。「その学者さんは、なんで紹介したのかな」と。でも、その友人は、その学者のことをメディアで知っていて、とても気になったらしく、さっそく「まどマギ」を観たのだ。そして、ぼくにも「是非観るべき」、と再三にわたってプッシュしたのである。息子からも、「まどマギ」の若者たちの評判について教えられ、「こりゃ、観るしかないな」となって、春休みに乗じて一気観した次第だ。

 観て驚いた。これはあまりに斬新なアニメ作品だった。

 まず、映像が半端ない。魔女との闘いのシーンは、さながらポップアートだ。こんな絵柄で戦闘を描いた作品は他に知らない。音楽もかっこいい。

 しかし、なんと言ってもすごいのは、そのストーリーだ。魔法少女と聞いてイメージするのは、当然、勧善懲悪だ。でも、この作品は、そう言った勧善懲悪とは対極にある作品だった。善と悪とがくるくる入れ替わりながら、最後の一話まで、何をしようとしているのか読めない展開になっている。こんな作品を観た小学生の少女たちの中には、トラウマになっちゃう子もいるのでは、と心配になる。製作者は大人向けに作っているのかもしれない。もちろん、受け入れることができた子どもは、大人になる過程で、作者のもくろみが次第にわかって来るだろう。

 でも、テーマ自体は、ひねたものではなく、切なくて泣けるオチとなっているから、安心して最後まで観よう。

 ぼくとしては、『君の名は。』で打ちのめされ(ぼくの感想は21世紀の数学原論 - hiroyukikojimaの日記にて)、最近、テレビで同じ監督の『秒速5センチメートル』でのけぞり、などと来た結果、「最近のアニメは、局所的な進化を遂げつつあるのだなあ」、という感慨が沸いてきている。宮崎アニメのときも出遅れて後悔したけど、宮崎アニメを「ある意味では」超える作品群が現れていることに、ただただ驚いている次第だ。

 次の映像作品について語る前に、ミュージシャンAimerについて書き留めたい。

 彼女のことを知ったのもつい最近。ときどき見かけていたけれど、アニメ『夏目友人帳』のエンディングテーマ「茜さす」をAimerが歌っている、と気づいたことが一番のきっかけになった。

 ぼくは、ほんのときどき、ハスキーボイスの女性ボーカリストにはまる。最初は、ジャニス・ジョプリンだ。ジャニスは、60年代に活躍し、70年に麻薬死した。名曲が多く、今でもCMなどで使われることがある。ぼくは、ジャニスの生涯を描いたドキュメント作品を持っているけど、その映像の中のジャニスは、本当に孤独で切ない。観た印象に過ぎないけど、どこか本質的なところが壊れていて、「生きることとの摩擦」につねに苛まされているように感じる。歌うことでしか自分を保つことができず、歌うことが生きることだったのだと思う

 次にはまったのは、オートマティック・ラブレターというバンドのボーカリスト、ジュリエット・シムズだ。オートマティック・ラブレターは、兄妹を中心としたバンドで、妹のジュリエットが歌詞を兄が楽曲を書いていた。残念ながら、2枚のアルバムを作って活動を休止してしまい、その後はジュリエットはソロで活動している(ようだ)。ぼくは、オートマティック・ラブレターの曲が好きなので、要するに、兄の作るエモな楽曲に惹かれる、ということだと思う。二曲ほどyoutubeにリンクを貼ろう。

(Make Up Smeared Eyes - Automatic Loveletter)https://www.youtube.com/watch?v=uAPyutYlHt0

("Story of My Life" by Automatic Loveletter)https://www.youtube.com/watch?v=SEwsa9mAaE4

 そして、久々にはまったハスキーボイスのボーカリストがAimerだというわけなのだ。彼女の声は奇跡の声だと思う。生まれつきではなく、喉の病気からこういう声になったそうだが、神が奇跡を与えてくれたのでは、と思えるほどだ。本当に、切なくて、心に届く歌唱だと思う。

 Aimerのアルバムの最新盤は、Radwimpsの野田さん、One Ok RockのTakaさん、凜として時雨のTKさん、Andropの内澤さんなどが楽曲を提供しており、みんなぼくの好きなバンドなので、涎がこぼれる出来となっている。でも、デビューアルバムがすごく好きだ。これは、わりとR&Bっぽい曲が多く、ぼくはR&B方面が得意でないのだけど、このアルバムにはぼくにもぐっとくる。とりあえず、二曲だけリンクを貼っておこう。

(Aimer−me me she)https://www.youtube.com/watch?v=wAPHEzDWTHQ

(Aimerー夏草に君を想う)https://www.youtube.com/watch?v=5ea6rkow0Yw

さて、最後は、ホラー映画『残穢』

これは、小野不由美さんのホラー小説の映像化である。この映画を観たかった大きな動機は、橋本愛ちゃんが主演の一人だから(橋本愛ちゃんについては、当ブログでもワンダフルワールドエンドの舞台挨拶を見てきますた - hiroyukikojimaの日記などでエントリーしている)。なので、別に詰まらない作品でもかまわなかったのだけど、観てみたら、予想外に面白い作品だった。これは、異色のホラー映画、と言っていい。

映画は、橋本愛が演じる女子大生が住むマンションの部屋で起きる心霊現象から始まる。女子大生はその様子を、読者投稿から実話幽霊小説を書いている作家に手紙で知らせる。作家を演じているのは、竹内結子さんだ。女子大生と作家が、心霊現象を探るうち、二つのことが明らかになる。一つは、これらの現象は古くに遡れること。もう一つは、これらの現象が広がりを持っていること。物語は、過去を探る旅となり、意外な真実が明らかになっていくのだ。

原作は読んでいないので確かなことは言えないが、少なくとも映画は、「映像だから可能になる」ような物語を組みたてている。映像が過去に遡ると、ニュース・フィルムの荒さとか、写真の古びかたとか、本当に丁寧な検証の上で作られていて感心する。「どっかんどっかん」なショッキング・ホラー映画が大好きな人には、「なんじゃこれ」になるかもしれないけど、かなりな数のホラー映画を観たぼくには、逆に、とても新鮮で、とても斬新に感じる映画だった。小野さんの構想力はやっぱり天才的なあ、と拍手喝采。

 『魔法少女まどか☆マギカ』にしても、『残穢』にしても、ぼくの社会学者としての感覚に訴えかけてくる作品だった。

ぼくは、学部は理系(数学)、大学院は文系(経済学)なので、理文両方を経験している。その立場から言うと、理系と文系とでは、拠って立つところが違う気がしている。もちろん、学者によって考えが違うのは当然なので、今から書くことは、あくまで小島個人の感覚である。

ぼくは、理系というのは、「単純な世界観」を追求しているように思える。使う数学がどんなにややこしいものでも、難しいものでも、「世界を数式で表せる」ということ自体、シンプルなことである。物質世界の驚きとは、「単純な数式で記述できる」ということなんだと思う。

でも、文系はそうではない。文系で重要なことは、「社会の複雑さを複雑なままに受け入れる」ということではないか、と思えてきている。社会を単純化して解析することは決して間違ったことではないけど、その際、用心が必要であろう。一つは、「見出された結論は、社会の一つの側面を切り取っているにすぎず、全体の中では誤謬である可能性がある」という方法論的用心。第二は、「単純化の際に、あるカテゴリーの人間を冒涜している可能性を忘れず、痛みを持って単純化する」という倫理的用心だ。経済学をやってるお前が言うな、と揶揄されるかもしれないけど、それがぼくのたどり着いた最近の感覚なのだ。『まどマギ』と『残穢』は、そんなぼくの感覚にマッチする作品だった。

将棋の実況解説のような数学書

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 今、素数に関する本を書いているので、素数についての資料を集めている。とりわけ、解析数論の本とゼータ関数に関する日本語の本は、片っ端から取り寄せている。今回は、その中から、小山信也『素数からゼータへ、そしてカオスへ』日本評論社を紹介しよう。

 その前に、最近観たアニメの感想をいくつか。

前回(「魔法少女まどか☆マギカ」に打ちのめされた - hiroyukikojimaの日記)にエントリーした通り、『魔法少女まどか☆マギカ』の虜になったせいで、このところ、アニメづいてしまっている。いや、本当はそうじゃなくて、昨年、大学のホームルーム系の授業で、学生から『この素晴らしい世界に祝福を!』を勧められて、ちょっと観たらはまってしまったことが直接のきっかけだったのだ(恥ずかし)。このアニメでは、とにかく、爆裂魔法の使い手のめぐみんが爆裂にかわいい。

で、最近観たのは、新海監督の『言の葉の庭』と、新房監督の『化物語』だ。

『言の葉の庭』は、なかなか雰囲気のある作品だった。高校生と年上の女性との淡い恋の物語。ぼくも、高校生の頃は、年上の女性に憧れる傾向があったので、(年下に行くと、まずい性癖になっちまうが)、この感じはとても共感できる。また、ほのかに漂うフェテシズムもそそられる(やばい)。ぼくとしては、『秒速5センチメートル』よりも、この作品のほうが好みだった。『秒速5センチメートル』→『言の葉の庭』→『君の名は。』と時系列で並べてみれば、どんどん完成度が高くなり、『君の名は。』で大ヒットを手にするのは、とても納得できる。

『化物語』は、『魔法少女まどか☆マギカ』の監督ということでレンタルしてみた。いやあ、これもまた、斬新なアニメで、とんでもなく面白い。

とにかく、主人公の阿良々木くんと戦場ヶ原さんの会話がめちゃくちゃ面白い。とりわけ、戦場ヶ原さんのツンデレなキャラにそそられる。こんな女子高生がいたら、墜ちてしまってもいい(笑)。プチエロなところも夜中に酒呑みながら観るには適している。なにより、アニメの作画と展開があまりに斬新で飽きない。迷子の小学生の八九寺ちゃんの回には、とにかくぶっとんだ。こんなすごい作品があったなんて全く知らなかった。

 さて、小山信也『素数からゼータへ、そしてカオスへ』日本評論社に戻ろう。

この本を全部を読解することは、少なくともアマチュア数学愛好家には無理であろう。ぼくも、半分くらいしか読解できず、歯がたたない部分が多い。ただ、読解できる部分については、非常に得がたい内容なので、半分、あるいは3分の1しか読解できなくても手に入れる価値が十分ある本なのである。

何が「得がたい」かというと、数学者が定理や法則をどのように見つけ、どのようにアプローチするか、という点について「腹を割った話」をしてくれている点だ。喩えてみれば、それは、プロ棋士による将棋の実況中継に近いものである。

プロ棋士の勝負において、単なる観戦者が欲しいのは、「棋士が、なぜ、何のために、その手を指したか」ということだ。でも、だからと言って、複雑に分岐するその後の予想手順をつぶさに知りたいわけではない。そんなものを知っても、自分に指せるわけではないし、理解するつもりもない。ぼくに至っては、将棋を指す予定さえない。観戦者が知りたいのは、その手の背後にある茫洋とした発想・思想・主張なのである。できれば、それを(将棋固有の言語ではなく)「普通の言葉」にして欲しいのである。

数学の本を読むときも、ぼくは将棋の実況解説なようなものを望んでしまう。別に数学の研究をしようと思わないし、論文を書くわけではないので、緻密な証明や、デリケートな部分の注意なんていらないのだ。そんなことを知ったって、自分の仕事には役立たないし、時間の無駄だからだ。ぼくが知りたいのは、数学者がその定理を見つけたときの、その背後にある茫洋とした発想・思想・主張なのである。

そういう意味で、本書は、随所でそういう記述にチャレンジしてくれていて、とても溜飲が下がる。

とりわけ、「第5章 ラマヌジャンのL関数」と「第9章 高校生のための素数定理」が得がたい読書体験をさせてくれる章だ。

「第5章 ラマヌジャンのL関数」では、ラマヌジャン予想をラマヌジャンがどうやって発見したか、それを読者に追体験させてくれる。ラマヌジャン予想とは、「ラマヌジャンのτ関数」について、ラマヌジャンが立てた予想のことである。

ラマヌジャンのτ関数は次のように作られる。qを変数として、次のような無限次の多項式を作る。すなわち、まず、qを持ってくる。それに(1−q)の24乗を掛ける。次に、(1−qの2乗)の24乗((1−q^2)^24)を掛ける。さらに、(1−qの3乗)の24乗を掛ける。以下同様にして、(1−qのk乗)の24乗を次々と掛ける。このようにできたqの無限次の多項式を展開整理したときの、qのn乗の係数をτ(n)と記し、この自然数nに関するτ(n)がラマヌジャンのτ関数である。

ラマヌジャンは、このラマヌジャンのτ関数について、次のような5つの予想をたてた。

予想1:τ(n)は乗法的。すなわち、互いに素なmとnについて、τ(mn)=τ(m)τ(n)。

予想2:素数pに対し、τ(pのj+1乗)=τ(p)τ(pのj乗)−(pの11乗)τ(pのj−1乗)

予想3:τ(n)を使って作ったL関数(τ(n)/(nのs乗)、の全自然数nについての和)がpのs乗について2次のオイラー積を持つ

予想4:素数pに対して、|τ(p)|<2×(pの11/2乗)

予想5:ラマヌジャンのL関数に対して、リーマン予想が成立する

ぼくは、このラマヌジャン予想については、もちろん本で読んで知っていたが、知ったときに次のような素朴な疑問を持った。

疑問1:なんで24乗なの? 疑問2:なんで乗法的を見つけたの? 疑問3:なんでオイラー積に結びつけようとしたの?疑問4:予想2の式にどうやって気がついたの?疑問5:オイラー積表示はなぜ2次なの? 疑問6:予想4の不等式はいったい何の意味があるの?

その上で、どうしてラマヌジャンがこんな奇妙な予想を立てたのかは皆目見当がつかず、要するに、ラマヌジャンが人間離れしたとんでもない発想力の持ち主だからなのだろう、と考えるしかなかった。でも、本書では、この発想が「超能力的」のたぐいでない、ということを教えてくれた。ぼくの疑問たちに回答を与えてくれたのである。数学者にとっては、当たり前にことだから、誰も書かなかったのかもしれないが、アマチュア愛好家には全くあたり前じゃなかった。それは「棋士と観戦者との隔たり」へのアナロジーと言っていい。

小山さんは、まず、疑問2に答える。τ(n)の乗法性は、小さいnについてちょっと数値計算してみれば、わりあい簡単に予想のつくことだった。そして、疑問3につなげる。数列が乗法性を持てば、L関数を作るとオイラー積表示が出ることは経験的にわかることだそうだ。だから、ラマヌジャンがL関数を作ったのも自然な流れと言えるのだ。疑問4の回答も、そんなことか、という肩すかしな感じであった。ちょっと数値計算をしてみれば、案外簡単に予想のつくことだったのだ。ぼくだって、人生のかかった入試かなんかで、この性質を探せと出題されたら、時間を十分かければ見つけられたかもしれない。

圧巻は、疑問5への回答である。数値計算から発見的に見つかる予想1と予想2を用いて、自然にオイラー積の計算を実行してみれば、そんなに苦悶せずとも2次のオイラー積に到達とすることを見せてくれる。その際、重要なのは、τ(n)では完全乗法性(互いに素の条件なしに、予想1の式が成り立つこと)が成り立たず、代わりに予想2が成り立つことだ。予想2は、ある意味では、τ(n)が完全乗法性からズレを持っていることを意味しており、そのズレが2次のオイラー積となって体現される、ということなのである。

そして、小山さんは、予想4と予想5が表裏の関係にある、ということを示して見せる。それは、2次方程式の解の公式で理解できることなので、別に苦痛はない。こう言われてみると、予想4の不等式は非常に自然なものと見えてくる。非常に自然であるからこそ、その神秘に打たれる、とも言えるのだけど。

このように懇切丁寧に、ラマヌジャンの試行錯誤を解剖してくれただけに、疑問1への回答には痺れる。引用しよう。

初めてこの関数(5.4)を見た人は、なぜラマヌジャンがいきなりこんな形の関数を考えたのか、見当がつかないだろう。その背後にはオイラーによる五角数定理など、保型形式の嚆矢となった研究があったわけだが、それだけで、ラマヌジャンが(5.4)を深く研究し新たなL関数の族の発見に至ったことが説明がつくとは思わない。(中略)。そうした発展は、一人の天才がいなければ、その後十数年、数百年たっても決してなされることはない。

小山さんは、ここまでラマヌジャンの発想を解剖し、自然な道筋であることを示しながらも、このτ(n)自体の発見には、異端的な、降臨的な、「奇跡」という評価を下している。

 本書には、このような「数学者の頭の中や心の中の解剖」が満載である。「第9章 高校生のための素数定理」では、リーマンゼータ関数について、発散級数の和や、解析接続や、リーマンの素数公式や、素数定理などを、相当にかみ砕いて説明している。正直なところ、「高校生のための」と言ってもこれがわかる高校生なんかいない(か、あるいは、将来数学者が約束された高校生だけ)と思われるが、(笑)、でも、複素解析を勉強したことがある人には目からウロコの解説になっている。とりわけ、留数定理が非常に直観的に解説されていて、「そんな簡単なことだったのか」と明かりが灯ることだろう。

 本書は、最初に述べた通り、数学愛好家には歯が立たない部分の多い本だが、まるまる読もうせず、読めるところだけひもとけば得るものの多い本である。俗な数学者の「ほら、明快に証明できたでしょ」という難解な専門書とは違って、「それは何をやっていること?」「どうして、そうするの?」「それはどこから来るの?」に極力答えようとした画期的な本だと言える。

棋士は、苦境の中でどう心を支えるか

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今回は、将棋の現名人・佐藤天彦さんの『理想を現実にする力』朝日新書を紹介しよう。

この本の編集者さんは、実は、ぼくの本を二冊も世に出してくれた人だ。そして、その編集者さんが棋士の本を企画したことに、ぼくとの仕事が少し影響を及ぼしている。このブログで何度も書いたが、ぼくの中学時代の親友にプロ棋士になった人がいる関係で、ぼくは将棋に強い関心を持っており、普通の人よりには将棋周辺の話題に詳しい。実際、森内俊之・永世名人のことを何度かエントリーしている。(森内名人の就位式に参加してきますた。 - hiroyukikojimaの日記赤い公園のライブのこと、森内二冠の就位式のこと - hiroyukikojimaの日記なぜ複数の天才が同期に生まれるのか - hiroyukikojimaの日記など)。その編集者さんと書籍について歓談するとき、ぼくは将棋の話をけっこうしていたのである。

さて、佐藤天彦さんは、現在、将棋の最高位・名人の位にある天才だ。しかも、今期の叡王戦で優勝し、叡王として最強の将棋ソフト・ポナンザと対戦している渦中である。ある意味、(中学生棋士・藤井くんを除けば)、今、最もホットな話題の棋士である。

本書は、佐藤天彦さんの将棋に対する考え方が、さまざまな角度から語られる味わい深い本である。将棋ファンなら、非常に楽しめることは言うまでもない。

でも、この本には、将棋をしない人、将棋をよく知らない人にも、とてもためになる内容を持った本なのだ。それは、「苦境の中でどう心を支えたらいいか」についてのヒントが得られるからだ。

ぼくは、将棋ファンとしてこれまで、羽生善治さんの新書、森内俊之さんの新書は欠かさず読んできた。佐藤天彦・名人の新書は、それらの新書とは、ちょっと違うフレーバーを持っている。それは、「苦境の中にある」ときのことが、赤裸々に語られているからだ。佐藤名人も、名人位を獲得したのだからもちろん天才に他ならない。でも、羽生永世名人や森内永世名人に比べると、棋士生活が順風満帆だったとは言い切れない。ぼくも、本書で初めて知ったのだけれど、かなりな「苦境」をかいくぐってきたのである。だから、本書には、我々一般人が共感できる要素も多い。特にぼくなんかは、これまでの人生の3分の2の年月が「苦境」だったので(笑)、人ごとではない感慨を覚える。

ぐっとくる話が冒頭に書いてある。それは、羽生名人から名人位を奪取した7番勝負の第2戦についてのエピソードだ。引用してみよう。

初戦を落とした私は、この将棋に背水の陣で臨んでいました。開幕戦で負けただけで?と疑問に思われるかもしれませんが、そうではありません。当時、私は公式戦で六連敗中でした。四、五連敗までならば内容が悪くなければそれほど気にしませんが、さすがにここは結果を出さなければいけないと追い詰められました。(中略)。当時、私は自分が懸命に研究を積み重ねた戦法で失敗し続けていました。そのときの私は確かに技術的には着実に向上していたはずです。しかし、その一方で少しずつ新しい発見や自分で考える楽しみがなくなっていました。その結果、集中力が下がってしまった。要するにモチベーションが上がってこなくなっていたのです。このときの不調は、ここに敗因があったと分析しています。

苦境の自分をこのように客観的に分析できる精神力はすごいと思う。そして、この分析をもとに、この勝負でこれまでと違う戦法を用いて羽生さんに勝利し、それをきっかけに四連勝をして名人位を奪取することになったのである。苦境の自己分析は、苦境脱出に役立つ、ということなのだ。

本書で、とりわけ読み応えがあるのは、第3章「奨励会を生き抜くということ」である。奨励会というのは、棋士の養成組織のこと。ここを勝ち抜けして、4段になるとプロ棋士ということになる。ところが、この奨励会を勝ち抜ける、ということが壮絶なほど大変なことなのだ。まず年齢制限がある。21歳までに初段、26歳までに四段にならないと、強制的に退会させられる。一年に四人しか四段に勝ち抜けできない。そのため、奨励会入会者の約八割が脱落する。この奨励会時代の回顧は、本当に、「苦悩」に満ちた記述が満載だ。例えば、次のような感じ。

奨励会時代は負けて悔しい、と思うことはほとんどありませんでした。というのも「悔しい」というのは、比較的余裕のある感情だと思うのです。

例えばいまの私はプロになっているので、悔しさも将棋の醍醐味の一部、将棋を戦ううえで自然に起きてくる感情です。でも奨励会時代の私は、自分が負けると悔しいどころではなくて、人生が本当に閉ざされるかもしれないという切羽詰まった状況でした。(中略)。将棋の醍醐味の一部である「悔しさ」を感じている余裕がなくて、「次に勝つためにはどうしよう、何とかしなきゃいけない」と常に全力で模索していました。

 だから奨励会時代は、勝っても楽しさや喜びを感じたことはありません。

「人生が本当に閉ざされるかもしれないという切羽詰まった状況」というのは、ぼくも数学を勉強する中で遭遇したことがあるので、(レベルは違うけれど)、とても共感できる感情だ。(ぼくの場合は、本当に、数学人生が閉ざされてしまった)。多くの人も、このような状況に多かれ少なかれ、遭遇したことがあると思う。とりわけ、学者を目指している院生は、今現在、同じ「苦境」を経験しているんじゃないだろうか。高校在学中にプロになれなかった佐藤さんの次の記述などは身につまされることだろう。

高校卒業までにプロになれなかったというのは、実際には心理的・金銭的に危機的な状況でした。家族にいつまでも仕送りをもらい続けているわけにもいきませんし、ただそうは言っても、十八歳で奨励会員の自分に生活力があるはずもありません。そこで「あと一年だけこのままやらせてください」と父親に頼みました。それでもダメだったら、奨励会を辞めるか、続けるなら実家に帰るかを選ぶという約束をしました。(中略)。

物事はなんでもそうだと思いますが、悪い状況が続くと、それをはね返すだけのパワーが生まれてこなくなります。だから二十歳になる前、高校卒業後の一年間で勝負できなければ、どのみちプロになっても大成できないかもしれない。それなら二十六歳の年齢制限を待たずにあきらめをつけて辞めようか、と思ったのです。

羽生さんや森内さんは、(聞いたことがないので知らないけど)、こんな気持ちを抱いたこと、こんな境地に追い詰められたことはないと思う。そういう点で、佐藤名人は、彼らとは異質の名人なんじゃないか、と感じるのである。それは、次の一文に強く表れている。

その一方で私は「プロ棋士になるだけが人生ではない」とも思っていました。確かに一奨励会員の立場としては、プロになることがすべてです。ただ、そこから視野を広げて一人の人間としてみれば、世の中にはたくさんの仕事があって、それぞれの良さがある。そう認識しないと、プロ棋士になったら自分を偉いんだと勘違いをしてしまうかもしれない。

この気持ちの持ちようはすばらしいと思う。ぼくは、数学を断念するとき、こんな気持ちは持てなかった。他の仕事になど関心がいかなかった。ひょっとすると、佐藤名人が棋士になれて、ぼくが数学者になれなかった、その分かれ目は、このような「世の中全体に対する敬意と謙虚さ」の違いだったのかもしれない。ぼくには、卑屈さと同時に傲慢さがあったのかもしれない、と今は思う。

第4章でも、苦境が語られる。それは、順位戦C級2組の突破に四年もかかってしまった時期のことだ。本書を読むと、これが後に名人となる天才の回顧録とはとても思えない。苦境の中でもがき続ける若者の、初々しい手記のように見えて仕方ない。だからこそ、佐藤名人は、これまでとは異なるタイプの名人であり、それゆえ、天才の武勇伝とは次元の違う励ましを我々が得ることができるのである。

大事なことは、佐藤名人が数々の苦境に遭遇しながら、その都度、その中の自分を冷静に分析し、自分の心を支え、活路を見出したことだ。我々は、人生のたいていの時間、苦境の中にある。そんな我々は、本書を読むことで、苦境の中での振る舞い方を学ぶことができる。いかなる仕事に従事しているにしても、「名人」になる能力はもちろんないにしろ、苦境をやりすごし苦境の中をタフに生きるすべを本書から学べるのである。

 最終章第6章は、旬な話題「コンピューターとの対決」だ。ここは、多くの人が興味深いだろう。AIのことをどう考えたらいいか。ここでも佐藤名人の考え方は、「若手棋士っぽい」し、非常に参考になる。

ぼくの新著、マンガ統計学が出ます!

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 ぼくの新著『マンガでやさしくわかる統計学』日本能率協会マネジメントセンターの刊行まであと一週間を切ったので、満を持して宣伝しようと思う。

楽天はこちら。

アマゾンはこちら。

この本は、ぼくの統計学の本では、『完全独習 統計学入門』『完全独習 ベイズ統計学入門』(共にダイヤモンド社)に続く三冊目となる。統計学が専門でもなく、また、若い頃は好きでもなかったぼくが、三冊も統計学の本を書くとは、人生不思議な巡り合わせだ。統計学の面白さはどこにあるか - hiroyukikojimaの日記にエントリーしたように、ぼくは今では、統計学がとても面白く、また、ある程度統計学に近い距離にある「意思決定理論」という分野を専門としている。簡単に言えば、数学を専攻していた青年時代は、「完全無欠な演繹体系」としての数学にしか関心がなかった。それは同時に、「この生々しい現実世界」にほとんど興味がなかった、ということを意味する。そして、経済学を専攻するようになった中年以降は、「この生々しい現実世界」こそが興味の対象となり、「どうやったって不完全な情報しか得られない中での帰納体系」としての統計学に強い関心を抱くようになったのだ。

 でも、そういうふうに統計学に関心を持ってみると、世の中にある統計学の教科書に不満を持つようになった。ほとんどの教科書は、あまりに淡泊な記述をしていて、「どうやったって不完全な情報しか得られない中での帰納体系」としての統計学、という視点を強調していないからだ。まあ、統計学の教科書の執筆者たちは、「そんなことは自分で気取れ」と思っているのか、あるいはもしかすると、ぼくのような感じ方をしてないのかもしれない。だからぼくは、自分が感じる統計学の魅力と本質を伝えるような本を書きたいと思って、教科書を執筆した。

 今回の『マンガでやさしくわかる統計学』は、マンガ企画ということで、前著とは異なるアプローチをしている。まず大きいのは、コラボ作品だ、という点。統計学の解説部分はぼくが書いているが、マンガのシナリオは葛城かえでさんが、マンガは薙澤なおさんが担当している。ストーリー自体は、この三人に、編集者さんと編プロのかたが加わった5人で、ああでもないこうでもないと議論して構築した。自分の意見が反映されたストーリーが、マンガとして実現していくのは、このうえなく楽しいことだった。

 前著『完全独習 統計学入門』を読んでくださったかたは、この本と今回の新著との関係に関心があろうから、それについて述べよう。

完全独習 統計学入門

完全独習 統計学入門

 『完全独習 統計学入門』は、10万部超のセールスを収めた教科書だ。実は、つい先日に、1万部増刷になった(初版部数より多いやんけ)ので、11万部超ということになる。本書が多くの読者に歓迎されたのは、「数式をほとんど使わない」という工夫をしたからだ。シグマも使わない、順列・組み合わせも、確率も使わない、使うのは、中学数学(それも、せいぜいルート)だけ、というのが数式を苦手とするけど、統計学を学びたい読者にアピールしたと思う。

 この「数式をほとんど使わない」というのは、単なる「ごまかし」のためのネガティブな戦略ではないのだ。そうしたほうが、「どうやったって不完全な情報しか得られない中での帰納体系」という統計学の思想がストレートに伝わる、というポジティブな戦略だったのである。喩えてみれば、野菜の味は調理しないで生で食べたほうがよくわかる、ようなものである。そういう発想は、今回の新著でも踏襲している。今回も、「数式をほとんど使わない」ことによって、「統計学はいったい何をやっているか」を浮き彫りにしている。

 それじゃ、前著だけ読めば十分じゃないか、というツッコミをされそうだが、そうじゃないんだな。今回は、『完全独習 統計学入門』で扱っていない内容がいくつかある。例えば、「差の検定」という方法論は、当時はあまり大切とは思わず、前著では省略したものだ。新著では、これをクライマックスに持ってきた。前著を刊行したあと、実は、「差の検定」を扱えば、統計的推定を理解するための多くの項目が網羅される、と気づいた。母集団、正規分布、正規分布の差、検定の発想法、2つの標本グループからの真の母平均の推定などなど。だから、「差の検定」をメインのアイテムにもってくれば、統計学の技法の本質がものすごくよくわかる。このことに気づいたのは、前著を刊行したあとだったのだ。

また、あまり大きな声では言えないが、前著『完全独習 統計学入門』では、少し舌足らずな説明になった部分がある。その一つは、正規母集団から複数の標本を観測するときの標本平均の分布についてだ。この説明が伝わりにくいことが、大学でこれを教科書にして講義をしていて気がついた。それで、学生たちをモニターに、いろんなパターンの説明を試みて、今回の教え方を構築したのだ。新著での「福引き箱の足し算イメージ」が、現状では、最も伝わりやすい教え方のように思う。だから、前著を読んだ人も手にする価値があるはずだ。(っていうか、是非、手にして欲しい。笑)。

 「まえがき」等は、週末に刊行された頃に公開するので、今回は、もう一つだけ。

実は、このマンガの主人公・三浦晴香ちゃんのモデルは、ぼくが大ファンのアイドルなのだ。打ち合わせで、主人公をどんなキャラクターにするかを議論しているとき、「ぼくが○○のファンで」と言ったら、「じゃあ、○○をモデルにしましょう」と決まった。こんな感じ↓

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自分がファンのアイドルが主役だから、がぜんやる気が出て、めちゃくちゃウキウキと仕事をした。今回ほど、本を書くのが楽しかったのも珍しい。そのアイドルが誰だかは、あえて言わないので、(本を買った上で、笑)、是非当ててみてほしい。

 


『マンガでやさしくわかる統計学』が刊行されました!

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 ぼくの新著『マンガでやさしくわかる統計学』日本能率協会マネジメントセンターが、ネット書店にも入荷され、書店にも並び始めたので、ここできちんと紹介しよう。(ちなみに、前回もぼくの新著、マンガ統計学が出ます! - hiroyukikojimaの日記で紹介しているので、こちらも参照のこと)。

この本は、統計学の解説書だけど、マンガと解説がおおよそ半々になっている。マンガでは、「ピンチの商店街を統計学を使って復活させる」というサクセス・ストーリーを描いている。マンガのところどころに、統計学の計算が導入されているが、きちんとした解説は活字で行うようになっている。ぼくが担当したのは、マンガのストーリー作りの手伝いと、解説部分すべてだ。

全部をマンガで読みたい、という読者には不満が出るかもしれないが、ぼくはこの形式のほうが、全部マンガ、より優れていると思う。解説するジャンルによるとは思うが、数理系の解説書の場合、マンガの中に数式を入れるのは無理がある。数式が「背景」に埋まってしまうし、登場人物が吹き出しの中で数式について解説するとどうしても舌足らずになり、説明が十分ではなくなる。また、マンガの流れを断ち切ってしまう恨みがある。本書では、「スト−リーはマンガで、解説は活字で」、と役割分担をしており、それはむしろ有効に働いていると思うのだ。

今回は、本書の見所を二つほど紹介したあと、序文の一部をさらすことにしよう。

まずは、(前回に紹介したが)、本書の主人公の三浦晴香ちゃんは、ぼくがファンのとあるアイドルがモデルとなっている。右の娘だ。

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そのアイドルが誰かは、(恥ずかしいので)あえていわない。ヒントはいちおう巨乳ということで。笑。ちなみに、左の男は、もう一人の主人公・数沢九十九准教授。このモデルが誰なのかはよくわからない。みんなでキャラ作りをしている際、女性のスタッフが、好みのイケメンをあげつらい、そのとき出たのは、西島秀俊とか竹野内豊とか、渋めの俳優だった。(どうゆう趣味してるねん、と心の中で笑ってた)。たぶん、マンガ家さんはこれらは参考にしなかったのじゃないかと思う。

 本書のもう一つの見所は、ぼくの統計学の前著『完全独習 統計学入門』ダイヤモンド社と相補的な関係にある、ということだ。本書はマンガだし、前著ほどに豊富な解説はしていない。カイ二乗分布とかt分布とかを使った推定は諦めた。しかし、その分、ページの余裕が出来たので、「統計的推定とは、いったいどんな思想で、何をやっているのか」について前著には書かなかった解説を導入している。とりわけ、統計的推定というのが、「確率の逆問題(観測値から母集団のパラメーターを決定する)」というものであることを明らかにし、それを「確率の順問題(通常の確率の操作)」にどうやって書き換えるのか、ということを詳しく解説している。これこそが、統計学の思想であり、本質であると思うのだ。

したがって、前著『完全独習 統計学入門』を読んでくださった方も、いや、そういう読者こそ、本書は勉強になるはずだ。

 では、以下、序文を途中までさらすことにしよう。(全部だと長すぎるので)。

統計学に強くなる・仕事に活かす

 現在、統計学に対する関心が非常に高まっています。とりわけ、ビジネスシーンでは、必須アイテムの座を築きつつあります。

 その背景には、米国の企業が、ビジネスにマーケティングという技術を導入していることがあります。これは市場の動向を科学的に探ろう、というものです。マーケティングにおいては、消費者の嗜好(プレファレンス)を見抜くことが最も大切です。マーケターたちは、統計学を使って、市場調査し、商品の企画を立て、売り込みを行うのです。その手法は、完全に統計学に立脚する科学的なものです。驚くべきことですが、消費者の動向には科学法則が存在していて、統計学を使えばそれらをあぶり出すことが可能なのです。

 そんな米国企業の戦略を見て、我が国のビジネスパーソンも統計学を知りたい・わかりたい、という欲求を強くしています。ところが、残念なことに、日本語の統計学の教科書は、アカデミックに書かれたものばかりで、ビジネスへの配慮がありません。学者になりたい人が学ぶにはいいですが、ビジネスに活かそうと思うと「あさっての方向」と感じることでしょう。さらに困ったことには、これらの教科書は、高校以上の数学を前提として書かれています。したがって、学習者がこれらの教科書を手にすると、「難しい上、ピントもずれてる」という二重苦に陥りがちです。

本書は、その困難を克服するために、二つの工夫をしました。

第一の工夫は、「ストーリー・マンガを使って、ビジネスにピントを合わせる」ことです。「マンガ統計学」と題された本はこれまでもたくさんありましたが、それらはだいたい「登場人物が統計学を講義する」というもので、統計学自体のスト−リーがありません。本書はそれらとは異なり、登場人物たちが統計学を実際のビジネスに活かしていくストーリーになっています。そのビジネスも、「商店街を復活させる」という卑近でリアルな題材を選びました。

第二の工夫は、「高度な数学をイメージ図に置き換える」ことです。ページをぱらぱらめくってもらえばわかるのですが、多くのイメージ図によって、統計学の数式を図像化しています。とりわけ、推測統計の本質でありながら最も理解の難しい無限母集団を、「福引き箱」のイメージ図を使って具体化する工夫は、本書最高の「売り」です。本書がマンガを使った解説書であることが、このようなイメージ図の手法とマッチし、読者の理解を強化できる自信があります。

 実は、統計学がビジネスにリアルに利用できることは、森岡毅さんの本を読んでわかった。そして、思いっきりのけぞった。このことについては、いずれエントリーしようと思う。本書は統計学の基本を解説する本だから、森岡さんのような「マーケティングへの直接的利用」とまでは言えないけど、その発想にできるだけ近づけてあるつもり。

 それでは、当ブログ読者の皆さん、かわいい晴香ちゃんと一緒に、統計学を勉強してくださいな!

確率・統計は、マーケティングに使えるらしいぞ

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 今回は、マンガ統計学とマーケティングとアニメのことをクロスオーバーしてエントリーしようと思う。

昨年読んだ本として出色だったのは、森岡毅・今西聖貴『確率思考の戦略論』角川書店だ。この本は、著者たちが、確率理論を使ってテーマパークUSJを現実に成功させた、その方法論をまとめたものだ。

この本を知ったきっかけは、昨年、ある雑誌から統計学についての取材を受け、そのときの記者さんから教えてもらったことだった。雑誌の取材というのは、記者さんが書きたいことを決めてくることが多く、取材を受ける側としては退屈なものなのだが、記者さんから知らない情報を教えてもらうことがあって、軽視できない。

記者さんから聞いて本書を読もうと思ったのは、二つの理由からだった。第一は、昨年ぼくは統計学のマンガ本の作成に参加しており、その解説部分の方向性のアイデアを得たいと思っていたこと。第二は、大学でのゼミで輪読する本を探していたこと。この本はどちらにもドンピシャだった。

実際、現在、ゼミ生たちに本書を輪読させている(森岡さんの前著『USJを劇的に変えた、たった一つの考え方』も併読させている)。本学の経済学部の学生は、ビジネスには関心があるが、学際的な経済学や経営学や数学には熱意があまりない。これまで、マーケティングの本をいろいろリサーチしたが、これぞ、と思う本がなかった(難解なくせに、リアリティがない)。なので、去年までは、クリス・アンダーソンの本を輪読させていた。しかし、この本はスゴイ本だと思った。「理論上」の話とか絵空事とかではなく、著者たちが実践し成功を得た、その方法を記述しているので、ビビッドでエキサイティングで、しかもクールだからである。

また、最近刊行されたぼくの新著(共著)『マンガでやさしくわかる統計学』(日本能率協会マネジメントセンター)の執筆にも活かすことができた(この本の紹介は、前回『マンガでやさしくわかる統計学』が刊行されました! - hiroyukikojimaの日記も前々回ぼくの新著、マンガ統計学が出ます! - hiroyukikojimaの日記もエントリ−している)。

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マンガのストーリーは、主人公が統計学をビジネスに活かす、というものになっていて、これは森岡・今西本の影響を受けたわけではない(作成時には未読だった)のだけど、文章による解説部分の方向性を決めるときに影響を受けた。できるだけ、ビジネスを例に挙げるようにし、マーケティングの参考になるような書き方をしたつもりだ。

 マーケティングで重要なことは、おおざっぱには、二つあると思う。第一は、マーケットにある程度成り立つ法則があるなら、それを利用して投入する新製品の売上げの目安を作ること。第二は、新製品の販売戦略に関して、仮説を立てて、事前検証をすること。前者について、ぼくは無知なので、後者を念頭に解説を構築した。とりわけ、仮説検定の解説に大きな影響があった。

 たぶん、統計学を勉強しても、その背後にある理屈をきちんと捉えている人は少ないのではないか、と思う。それは、仮説検定というのが、「確率の逆問題」を「確率の順問題」に変換する営為だ、という点についてだ。ぼくが読んだ統計学の教科書で、このことを論じている(解説している)ものは皆無だった。なので、今回ぼくは、自分が到達した見解を記述してみた次第。

 確率の理論というのは、「確率の仕組み(確率モデル)」は決まっていて、そこからランダムに観測される数値の予測を言うものだ。これをぼくは「確率の順問題」と呼んでいる。一方、統計学の作業はこれと逆である。観測された数字を実際持っていて、それから、「確率の仕組み」を当てる(パラメーターを特定する)というものだ。これをぼくは「確率の逆問題」と名付けた。「逆問題」は、「順問題」を逆向きにすれば解ける、というものじゃないとこが面倒なのだ。「順問題」はモデルのパラメーターが与えられているから、ランダムな数値を確率的に予想することができる。しかし、パラメーターが与えられていないと、そういう予想ができないのである。だから、「逆問題」を解くには、どこかにある種の「飛躍」が必要になる。それが(単なる数学ではない)「統計学独自の思想」というわけなのだ。仮説検定は、「逆問題」を「順問題」に変換する典型的な「思想」なのである。(詳しくは、本書で)。

 さて、マーケティングに重要な第一の点については、森岡・今西本がすばらしい。ぼくは、ビジネスにはほとんど関心がなかったので今までリサーチしたことがなかったけど、マーケターの基本となる法則がいろいろあるということなのだ。例えば、負の二項分布(NBD)を使って、アンケート結果からパンケーキや歯磨き粉の購買行動を予測すると、それがかなりな精度で現実を当てることができる、とのことだ。著者たちは、USJでの戦略(例えば、ハリーポッター投入など)を作るとき、これらの予測式で綿密な予測を立ててから、実行に移している。テーマパークは、ファンタジーでメルヘンと言っても、その裏側には、冷徹な数学を活かしているというのだからのけぞる。大事なことは、著者たちが予測を立て、「このままでは成功は難しい」と思ったとき、「諦める」「撤退する」という方針を選んでいないことだ。彼らは、「ならばどうすれば成功するか」という斬新なアイデアをあれこれ考えるのである。この部分に、ビジネスの本性があるのではないか、と思う。大胆な言い方をすれば、ビジネスにはセオリーは不可欠だが、そのあたり前のセオリーを引き算した部分にこそ独自性・気概・秘訣・成功譚がある、ということになるだろう。そういう風に読むと、本書には、面白いエピソードが満載だ。著者たちは、USJ以前に、アメリカのP&G社でブランド・マネージャーに従事したのだけど、そこでのマーケティング戦略のエピソードは目からウロコのものが多く、アメリカの企業がどんだけ(根性論でない)知的な戦略を使っているかには驚かされる。どんな社会人にも参考になる必読本だと思う。

 長くなったが、最後にアニメの話を付け加えよう。

アニメ『マド・マギ』にはまって以来(「魔法少女まどか☆マギカ」に打ちのめされた - hiroyukikojimaの日記にエントリーした)、妙にアニメづいてしまって困っている(いや、困ってはない。笑)。いろいろ観たけど、今はまっているのは、『化物語』から始まる「物語シリーズ」というもの。いやあ、これ、ほんとにすごいよ。あまりに斬新。

読んでないのに言うのも何だけど、たぶん、西尾維新さんの原作がものすごいのだと思う。若い作家の物語に打ちのめされたは、乙一さんのミステリーを読んで以来だと思う。「物語シリーズ」は、第一にキャラ設定がすごい、第二に怪異のタイプが新しい、第三にキャラのしゃべり方の色分けがみごと、第四にキャラたちが抱える「病み・痛み」が当世的で泣ける、第五に作画が斬新、第六に主題歌・音楽がすばらしい。いやあ、非の打ち所がない。

アニメ版は、とにかく遊び心が満載で、見始めたら止められなくなる。今、シリーズの半分くらいを見終えたところ(花物語まで)。数話ごと主題歌が変わる、というのもすごいし、ところどころに散りばめられたパロディも超笑える。台詞も、ものすごく考えられていて、ぐっとくる。声優さんの選択も抜群だ。どうでもいいことだろうが、ぼくのキャラの好みを開陳しておこう。(A>Bは、AをBより好む、という記号で、A〜Bは、AとBは無差別的という記号。経済学の記号だね)。

忍ちゃん>>戦場ヶ原ひたぎちゃん>八九寺真宵ちゃん〜千石撫子ちゃん〜羽川翼ちゃん>可憐ちゃん〜月火ちゃん〜神原駿河ちゃん

という感じ(どうでもいいよね。笑)。

 いやあ、ちょっと前まで、「アニメなんて、みんな顔はおんなじで、髪型と髪の色が違うだけじゃん」と豪語してたけど、すいません、猛省してます。キャラのかわいさがわかってしまいました! 息子には「50代後半で、初めてアニメにはまるやつがいるのか」と呆れられておりやす。

 

ラマヌジャンの正当な評価がわかる本

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 今回は、黒川信重『ラマヌジャン探検 天才数学者の奇蹟をめぐる』岩波書店を紹介しよう。

 素数についての新書を執筆していることは、前のエントリーにも書いた。もうゲラがあがってきているので、ちゃんと刊行されると思う(笑)。その新書は、言うまでもなく、素数についての総合的な解説本だ。詳しくは、刊行直前に宣伝することにするけど、もちろん、ラマヌジャンの業績にも触れている。なので、黒川先生の本書を、参考文献として用いさせていただいた。

本書のすばらしさは、ラマヌジャンという稀代の天才数学者への正当な評価を、素人にもわかるように伝えている、というところにある。

ラマヌジャンは、インド出身の異色の数学者だ。ここで「異色」というのは、ラマヌジャンの数学研究のスタイルのことだ。ラマヌジャンは、ノートにたくさんの数式を書き留めており、それらの数式の多くが当時の数学者さえ、どうしてそんな式が成り立つのがわからないような類いのものだった。そういう意味で、ラマヌジャンは、ある種、「変わり者」「異端」「傍流」の数学者と見なされてきたと思う。ぼくは、大学の数学科で勉強した身だけど、そのぼくさえ、ラマヌジャンにそういう印象を持っていたのだから、アマチュアの数学愛好家の人はなおさらだろう。でも、本書を読むと、ラマヌジャンへのそういう偏見・無理解は完璧に払拭されると思う。

 本書の意義をおおざぱにまとめると以下の3点になる。

1.ラマヌジャンの天才性がわかる。

2.ラマヌジャンのイギリスでの数学者生活が決して幸せではなかったとわかる。

3.ラマヌジャンが現代の数学に残した大きな影響力がわかる。

一言で言えば、ラマヌジャンへの正当な評価がわかる、ということだ。

第一の点については、黒川先生はラマヌジャンの研究方法を、「発見的方法」と名付けている。少し引用をしよう。

ラマヌジャンの数学は、直観的な傾向が強い、ということも目立っています。手法としては「発見的方法」(第3章と第5章参照)を活用していたと思われます。現代の数学から見て残念なことは、「証明する」という習慣がラマヌジャンにはあまりなかったらしい点です。それはラマヌジャンがインドでは数学公式集で勉強していたということが原因でしょう。論理を大切にする数学の訓練を受けた経験が、ほとんどありませんでした。現代数学ではーラマヌジャン時代も含めて−証明が他人に認められてはじめて成果となることを彼は知りませんでした。

他のラマヌジャンの伝記で読んだところによると、ラマヌジャンが愛読した数学公式集は、証明抜きで数学の公式を羅列した事典のようなものだったそうだ。ラマヌジャンはそれらの公式を独自の感覚で理解し、吸収し、真似をして新しい公式を発見したらしい。これがラマヌジャンの数学研究のスタイルの突飛さなのだけど、逆から見れば、「証明」なしに公式の理屈を見抜くなんて、とんでもない才覚だと言えよう。

ラマヌジャンは、自分の発見を理解してくれる人がインドにはいなかったため、イギリスの著名な数学者ハーディに手紙で成果を知らせ、ケンブリッジ大学に招聘されることになった。しかし、このラマヌジャンの研究スタイルが、結果的には、第2点として挙げた「彼の不幸」につながることになってしまった。黒川先生はこの点について、次のように書いている。

ラマヌジャンの数学の特徴は飛び抜けた多産性です。毎日いくつもの数学結果を日記のように書いていました。実はハーディとあまりうまくいかなくなってしまうのですが、その原因の一つは、ハーディがラマヌジャンに対して感じた数学的ジェラシーだったと思われます。大数学者でも1年にいくつかの発見で充分です。普通の数学者なら、何年かに一つくらいで大丈夫です。それが、毎日いくつもとなるとハーディでさえうらやましくなってしまうのも当然です。

その上で黒川先生は、ラマヌジャンがイギリスのハーディ教授のところではなく、ドイツのヘッケ教授のところに行ったなら、もっとうまく行ったのではないか、というセルバーグの見解を紹介している。

ラマヌジャンの最大の不幸は、イギリスに渡ってすぐに第一次世界大戦が始まってしまったことにあった。それが主因で、6年後に32歳の若さで夭折することになる。その辺の事情は本書で読んで欲しい。

 本書を読むと、ラマヌジャンが単なる「一発屋」的数学者ではなく、現代数学の展開に深く大きな影響を与えたことがわかる。本書にはたくさん紹介されているが、ここではその中から、第9章「ラマヌジャンからフェルマー予想の解決へ」を紹介したい。なんてたって、フェルマー予想の解決はぼくの青春時代の夢物語だったので(笑)。まず、黒川先生の言葉を引用しよう。

このようにして、フェルマー予想の証明完成(1995年)にもラマヌジャンの研究(1916年)が大きく貢献していることが判明します。このことは、通常のフェルマー予想の解説では触れられませんので、特に強調しておきます。

ここで言うラマヌジャンの研究とは、重さ12レベル1の保型形式についてのものだ。ラマヌジャンは、1916年頃に(Δと名付けられている保型形式とは別に)次のような関数を研究した。すなわち、{(1−(qのn乗))の2乗}×{(1−(qの11n乗))の2乗}を全自然数nについて掛け算し、最後にqを1個掛け算した式をFとおく。Fをqの多項式として展開整理し、qのn乗の係数をc(n)とする。この数列c(n)を使って作ったL関数、すなわち、c(n)/(nのs乗)を全自然数nについて総和したものをL(s, F)と記す。

このL(s, F)が2次のオイラー積(素数pの(−s)乗についての2次式の無限積)で表され、それがリーマン予想の類似を満たす(素数pの(−s)乗についての2次式の零点の実部が1/2となる)というのが、ラマヌジャンの予想したことだった。

これを証明したのが、アイヒラーという数学者で、1954年のことだった。アイヒラーの証明は、門外漢のぼくにはとてつもなく奇抜なものに映る。楕円曲線E:(yの2乗)−y=(xの3乗)−(xの2乗)から作ったゼータ関数L(s, E)が、さきほどのラマヌジャンのL関数L(s, F)と一致する、ということを示すのである。楕円曲線のほうのL(s, E)に対しては、リーマン予想の類似が成り立つことは、ハッセが1933年に証明している。したがって、ラマヌジャン予想はハッセの結果に帰着されてしまうことになるのだ。保型形式と楕円曲線という、出自の全く異なるものから作られる二つのゼータ関数が一致してしまう、という不思議には心打たれる。

その証明が気になったぼくは、本書にはもちろん記述されていないので、ネットから解説論文をダウンロードしてざっと目を通してみた。ぼくの見たところでは、「フロベニウス」と呼ばれる写像(p乗する写像)に関するガロア表現を使って、「アイヒラーの合同関係式」と呼ばれる恒等式を導くようである(解説論文には、「アイヒラー=志村の合同関係式」と記してあった)。まるで手品のような証明だった。

これがなぜ、フェルマー予想の解決につながったのか。

それは、「保型形式と楕円曲線についてのゼータ関数の一致がもっと広いクラスについて成り立つこと」が、フェルマー予想の解決を導くからだ。この広い一致を予想したのが、谷山予想であり、それを解決したのが、ワイルズとテイラーだったということなのだ。詳しくは、黒川先生の本書を読んでほしい。

 本書を読むと、ラマヌジャンという数学者の「特別さ」がよくわかり、数学の進歩のダイナミズムに心を打たれる。「変わり者」「異端」「傍流」と片付けられないラマヌジャンの天才的な慧眼と、現代の数学者たちが空間概念を刷新し、より深化した空間概念を使ってラマヌジャンの「直観」を裏付けていった歴史は、素人が読んでも感動する。本書こそが、ラマヌジャンの重要性を正当に評価した本なのだ。

おまけ目当てで買うべきガロア本

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 7月は期末試験の準備と採点があって、なかなかブログを更新できない。そんな中だが、がんばって、数学書を一冊紹介しよう。それは、デュピュイ『ガロアとガロア理論』東京図書(辻雄一・訳、辻雄・解説)だ。とは言っても、この本を勧める理由は、デュピュイの書いた本体部分にはない。ガロアの実像については、加藤文元『ガロアー天才数学者の生涯』(中公新書)など、優れた最新の検証文献がある。わざわざ、古い本書を読む必然性は薄いと思う。本書を薦めるのは、全体の半分もの分量を占める「おまけ」部分がすばらしいから、なのだ。

 むかし、ビックリマン・チョコというのがあって、子どもがおまけのシール欲しさに買ってチョコを捨てる、ということが噂になって、社会問題化したことがあった。そのときは、「さすがに自分の幼少期は貧しかったから、買ったチョコを捨てはしなかった。でも、本心では、おまけが欲しくて買ってたよな」と思ったものだった。パラソルチョコレートとか、グリコ・キャラメルとか、鬼太郎チョコなど。そういうのと同じ意味で本書は、「おまけ目当て」で買うべき本、と言うべき画期的な本なのだ。

 おまけとして付いているのは、辻雄さんの「第2部 ガロア理論とその後の現代数学」。これは、ガロア理論の解説から始まって、「5次以上の方程式には、四則計算とべき根による解の公式はない」という定理の証明を経て、その後の数学の進化、すなわち、類体論や楕円曲線の数論や保型形式などの数論幾何へと解説を進めるもの。19世紀のガロアから始まって、あれよあれよ、という間に、ワイルズのフェルマー予想解決まで到達する解説なのである。

 この辻さんの解説文を読んで、ぼくはとても嬉しかった。それは、拙著『天才ガロアの発想力』技術評論社と、辻さんの解説が似ている、と思えたからだ。こういうと、「東大教授であり、数論幾何の最前線の数学者と、お前は肩を並べているつもりか」と叱られてしまいそうだ。でも、二つの点で、ぼくはそう言える勇気を持っている。第一に、辻さんの解説の組み立て方、例の使い方、証明の入れ方、がぼくの本ととても似ていること。第二は、過去に、辻さんと某所で一定期間ご一緒し、何度も会話をさせていただいたことがあるので、そう言っても無礼にはあたらない、と思えることだ。辻さんと最初にお会いしたのは、彼が高校生の頃だったけど、当時からもう天才性を爆発させていた。にもかかわらず、(受験数学だけが得意な輩には典型的に見られるような)鼻持ちならなさや傲慢さが全くなかった。ぼくは、「こういう人こそが、将来、本物の数学者になるのだろう」と思ったものだった。そして、実際、その予感通りになった。それも嬉しいことの一つである。

 以下、辻さんの解説についてまとめるが、エンタティメント性を意識して、「ぼくの本との将棋対戦」のように展開していこう。流行の将棋ソフトの評価値みたいな感じで進める。(もちろん、単なる冗談だからね)。刊行順に、先手は拙著、後手は辻さんの本書とする。数値は、先手から見た評価値だ。

(第一・五分位まで)

群を多角形の重ね合わせで解説(2面体群)→2次方程式の解の公式を群から導く。

ここまでは、ほとんど拙著と同じ構成、同じ解説の仕方。先行している分、拙著の優勢(+300)

(第二・五分位まで)

3次方程式の解を添加した体の性質→ガロア群の構造が正三角形の2面体群→3次方程式の解の公式をガロア群から導く。

ここも、拙著とほぼ同じ構成。しかし、解を追加して体を拡大する解説や、解の公式を導く手筋は、拙著よりかなりエレガントで、その分、差を縮められ、互角となる(+170)

(第三・五分位まで)

ガロア群の説明→ガロアの基本定理の解説。

具体例を用いてガロア理論の本質を理解してもらおう、という戦略は拙著と同じ。ただ、さすがプロの数学者、解説が簡潔にして的を射ている。ガロアの基本定理について、その「ココロ」を伝えることに集中し、厳密な証明をカットしているところも拙著と同じ。この辺の辻さんの解説の仕方を読むと、ぼくの方針が間違っていないことが確認でき、嬉しくなった。ガロアの基本定理で本質に思える「剰余群」については、辻さんは脚注で与えるのみとしている。「剰余群がわかりにくいだろう」という感触はぼくも共有している。だから、ぼくは丁寧に解説し、辻さんは脚注回しにした。ここは、拙著のほうが良いと(ぼくは)思う。したがって、先手・後手、双方がそれぞれポイントをあげたので、互角のまま(+80)。

(第四・五分位まで)

べき根拡大体のガロア群→クンマー理論→アーベル拡大体→5次方程式が可解でない証明

ここではもう、辻さんの書き方がポイントをあげ続ける。さすが、プロの数学者。それも単なる数学者ではなく、天才数学者だ。5次方程式が可解でない(四則計算とべき根だけでは解けない)ということに、一直線で、最短最良の解説をしている。ここに「クンマー理論」なるものを挟んでいるのがミソなのだ。これは、「原始n乗根を含む体Kのアーベル拡大が、Kの数のn乗根をいくつか加えることで得られる」というものだ。ぼくの本にも、本質的にはこれと同じことを書いたけど、こんなにエレガントには書けなかった。その上で、方程式が可解である、ということと、方程式の解を添加した体のガロア群に、ある性質を満たす正規部分群の列が存在することとが同値である、という定理を見せる。ここも、正直言って、辻さんの見事な差し回しにやられてしまった。なによりすごいのは、5次方程式のガロア群がS5のときそのような正規部分群の列が存在しない、という証明だ。とてもわかりやすい、エレガントな証明である。ぼくは、こんなみごとな証明を知らなかった。なので、拙著ではこの部分は省略してしまったのだ。そういうわけで、後手が圧倒的にポイントを稼ぎ、後手優勢(−800)

(第五・五分位まで)

類体論→クロネッカー・ウェーバーの定理→フロベニウス写像→代数的整数論→楕円曲線→等分点へのガロア群の作用→ガロア表現→虚数乗法論→保型形式→フェルマー予想

ぼくがのけぞり、(かぶってない帽子を)脱帽し、そして最も勉強となったのは、ここの部分である。これまで展開してきたガロア理論が、どのように現代の最前線の数学に進化していくかが、平明に語られる。正直言って、ガロア表現をここまで簡単に解説した本は見たことがない。というか、理解できるようになるのには相当な努力が必要だろうと戦々恐々だったガロア表現が、そんなに簡単なことだったのか、とため息が出た。

とにかく、この部分で重要なのは、「フロベニウス写像」というのを体得することができることだ。これは、「p乗する写像」のことなのだけど、いろいろな対象に同型を引き起こすので、非常に有力なアイテムだ。例えば、有限体上の楕円曲線のゼータ関数に関するリーマン予想(ヴェイユ予想)は、このフロベニウス写像を上手に使うことによって証明できる。どうもこの写像が、現代の数論のポイントなのだろうとはわかっていたけど、本書を読むことで、相当な天啓を得ることができた。

とにかく、この第五分位のパートを読むだけで、本書を読む御利益の相当部分が得られるのである。ここは、ぼくには逆立ちしたって書くことができず、最先端の数学者の面目躍如である。なので、後手勝勢(−9999)。

 こんな風に本書は、とんでもない「おまけ」がついている商品なのだ。しかも、もれなく「金のくちばし」がついているようなお得な商品である。数学ファンなら、買わない手はない。読まない手はない。

 ぼくの希望として、辻さんに、本書のような筆致で、「おまけ」でなく、まるまる本体の、数論幾何の本を書いてほしい。是非、是非。

もうすぐ、素数についての本が刊行されます!

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 新著の刊行まであと一週間に迫ったので、そろそろ宣伝し始めよう。

来週、刊行されるのは、拙著『世界は素数でできている』角川新書。タイトルでわかる通り、素数について解説した新書である。

今までも、素数に触れた本は何冊か書いたけど(『世界は2乗でできている』ブルーバックスとか、『数学は世界をこう見る』PHP新書とか)、素数だけに絞った本は初めてだ。本書は、全編が素数の、素数づくしの本となっている。今回は、まず、目次立てをさらすことにする。

   『世界は素数でできている』目次

□第一部 素数のふしぎ

第1章  世の中は素数でいっぱい

第2章  素数にハマった数学者たち

第3章  素数についてわかったこと・未解決なこと

第4章  素数の確率と自然対数

□第二部 素数が作る世界

第5章  RSA暗号はなぜ破られないのか

第6章  虚数と素数

第7章  難攻不落! リーマン予想

第8章  素数の未来

多少の補足をしよう。

第1章は、「素数がいかに世の中に興味を持たれているか」について、ライトに書いた。ぼくが監修として関わったドラマ『相棒』ドラマ『電子の標的』の裏話にも触れている。

第2章は、ピタゴラスから、ラマヌジャンまで、素数にハマった数学者たちの歴史をたどっている。

第3章は、ウィルソンの定理とか、メルセンヌ素数について解説したあと、古典的な予想、例えば、双子素数予想とか、ゴールドバッハ予想とか、奇数の完全数予想とかについて、できるだけ最新の結果を投入している。

第4章は、素数定理の確率解釈を説明した上、自然対数と素数の関係について解説している。

第5章は、素数を使ったRSA暗号の仕組みを、できるだけわかりやすく説明し、安全素数についても数学的に解説している。

第6章は、複素数の中で素数を研究する、数体の理論を紹介する。その上で、他の啓蒙書にはほとんど扱われていない、コンピューターによる素因数分解「数体ふるい法」を紹介している。最後には、量子コンピューターの原理を述べ、それがRSA暗号を破る可能性について解説している。

第7章は、リーマン・ゼータ関数とリーマン予想の総合的で初歩的な解説。他の啓蒙書よりは、わかりやすく書けたと(自分では)思う。

第8章は、素数を使った有限体の原理を説明し、最新の素数判定法AKSアルゴリズムを紹介している。クライマックスとして、有限体上の楕円曲線についてのハッセの定理を経由して、ラマヌジャン・ゼータ関数についてのリーマン予想に対して、その証明のアイデアを紹介してしめくくっている。

 いやあ、ほんとに素数づくしの本となったす。是非、書店で手にとってみてくださいな。

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