前回から、かなり間が空いてしまった。
今回は「集合と位相」の本を紹介しようと思う。
その前に、昨日、劇作家・唐十郎さんの訃報に接したので、唐さんの芝居の思い出を書こう。
唐さんの演劇を観たのは、1980年から1983ぐらいが中心だったと思う。たぶん、最初に観たのは、『女シラノ』だったんじゃないかな。『お化け煙突物語』も観た記憶がある。当時、日暮里に住んでいたので、唐さんの描く下町の人々に共感があった。とにかく、客はテントの中にぎゅうぎゅうに詰められ、足を伸ばすこともできないしんどい環境の中で、しかしだからこそ観客が一丸となって芝居を楽しむ、不思議な体験だった。とりわけ、水をふんだんに使った演出や、最後に舞台の後ろのテントが開いて、夜空を背景として演じられるエンディングは、どんな窮屈な思いも吹き飛んでしまうものだった。
唐さんの戯曲の持ち味は、いかがわしく下品で野蛮なタッチの中に、そこはかとない叙情が潜んでいることだ。とても好きだった芝居は、『下谷万年町物語』と『秘密の花園』と『さすらいのジェニー』。どれも水をふんだんに使った舞台だった。
『下谷万年町物語』はとにかく大人数の出る舞台でそのスケールと異次元感に圧倒された。『秘密の花園』は下北沢の本多劇場のこけら落としの公演。舞台に船を浮かべるエンディングにはどぎもを抜かれた。主演の緑魔子さんと柄本明さんがむちゃくちゃ良かった。とりわけ、姉と恋人の二役を演じた緑魔子さんの演技は秀逸。彼女の演技は劇団・第七病棟でも何度も観たけれど、その消えてしまいそうな儚さは比類ないほどの女優だと思う。
『さすらいのジェニー』は、ポール・ギャリコの原作を戯曲化したもの。ネコの冒険の物語。浅草の川沿いに安藤忠雄さん設計の建物を作ってそこで演じられた。これがまた演劇には全く向かない建造物で、聞こえないし見えないし寒いしで最悪だった。それでも、主演の緑魔子さんの切なさは最高だった。なにより、このときぼくは、愛猫を失った直後であり、この悲しい物語に号泣を禁じ得なかった。
唐さんは、稀代の天才的な劇作家だったけれど、これらの作品は時代のなせるものでもあったと思う。天才性と時代性がマッチしてこのような作品が生まれたのではないか。だから、こういう芝居はもう二度と出てこないように思う。
さて、本題の「集合と位相」に入ろう。
ここのところ、ぼくは、「位相空間」の勉強に熱中していた。その大きな理由は、近々執筆する予定の本に、位相空間の解説を入れたいからだが、もうひとつ動機がある。ぼくは大学教員を引退したら(今は、再雇用で特任教授としてまだ講義している)、(純粋)数学の研究をしたいな、と思っており、そのテーマを模索している。それでいろいろな数学書を読んでいるのであるが、昔に熱をあげた「数論」も、未遂に終わった「代数幾何」もいまとなっては何かぴんとこないものがある。そこでたどりついたのが「位相空間論」なのである。実は、ぼくが経済学の中の意思決定理論で書いた論文は、どれも離散集合論と集合関数に関連するものだった。そういう意味で、ぼくはこういうジャンルに、情熱と適性があるんだろうなと思い至ったのだ。それで、昔読んだことがあり、しかし、通読はしていない二冊の名著をもう一度読んでみようと思った次第。
二冊とは、松坂和夫『集合・位相入門』岩波書店と彌永昌吉・建一『集合と位相Ⅰ・Ⅱ』岩波基礎数学だ。
どちらもすばらしい教科書なのだけど、「どこが出来が良いのか」は全く異なっている。簡単に言えば、松坂版は、「話題をしぼって、非常に丁寧にわかりやすく解説する」スタンスの本であり、彌永版は「数学のさまざまな分野から豊富な例をとりこんで、位相空間の応用の広さを解説する」スタンスの本である。したがって、学習者は自分のニーズをはっきりさせて選ぶべきであろう。
松坂版は、とにかくわかりやすく、つっかえずにスラスラ読んでいける。今後の数学の勉強に必要となるであろう集合と位相の知識で重要なことだけを網羅し、最速で修得できるように工夫されている。余計なアイテムや、他分野を勉強していないとわからないアイテムは入れられていない。対して、彌永版は、いろいろなアイテムが投入されているので、リッチなもののなかなか進まない。なかなか進まないけれど、ひとつひとつの位相的概念をイメージ豊かに理解していける。
二冊の比較のために、いくつか例を挙げよう。
集合論のなかで最も有用な定理に「ツォルンの補題」というのがある。「帰納的な順序集合は極大元をもつ」という定理だ。ベクトル空間の基底の存在とか、環における極大イデアルの存在とかを証明するなど、さまざまな場面で使われる。この定理について、松坂版では整列集合についての数ページに及ぶかなり長い準備のもとで証明が行われる。他方、彌永版では、ツェルメロの証明に想を得たHalmosの証明を紹介している。これは、短くカッコイイ証明なのだが、その分、イメージ化が困難でわかりにくい。
「距離空間」については、松坂版は「実ユークリッド空間」のみを題材として、最短で位相の概念を作り上げる。彌永版は「関数空間」(関数の間に距離を導入して距離空間化したもの)や、「p進体」(有理数に通常の距離とは異なる、素数を使った距離を導入して、完備化した空間)など、発展的な距離空間を投入している。後者は、なかなか進まないとか、わかりにくいとかの難点を抱えるが、距離空間という概念がいかに応用範囲が広いかを知ることができる。数学ではいろいろなアイテムに「距離」を設定できるのだな、という「数学の自由奔放さ」を思い知れる。
「位相空間」において、二冊の違いは明確になる。位相空間とは、距離空間の位相を抽象化して、一般的な集合に位相を導入した空間だ。松坂版では、「開集合」の公理を出発点として、「閉集合」「閉包」「近傍」などを定義していく。他方、彌永版では、「閉包」を出発点として、他のアイテムを定義していく。もちろん、どちらの本でも、「どの概念を出発点としても他の概念を定義できる」ことを証明しているのは言うまでもない。
どちらが優れていると感じるかは、何に注目しているかに依存する。ぼくの場合、最初は松坂版がわかりやすく、彌永版には歯が立たなかった。だから、松坂版で勉強して単位をとった。彌永版を読んだのは、最近になってからのことだ。今回勉強し直してみると、彌永版のほうがしっくりくる。その理由は、彌永版のほうが「関数の連続性」がしっくり来たからだ。「連続」とは、「像が切れてジャンプすることなく、つながっていること」だ。これを開集合で定義する場合、「開集合の逆像が開集合」というふうになる。「逆像」という「逆」で考えることの意味が把握しにくい。他方、閉包で定義する場合、「任意の集合の閉包の像が、像の閉包に包含される」となる。これは順像の形式になっており、「像が切れてジャンプすることなく、つながっていること」をそのまま表現しているように思える。とてもしっくりくる。
位相空間については、他にも重要な違いがある。
松坂版は、距離空間でない位相空間の例は基本的に、「密着空間」(開集合が空集合と全体集合のみ)と「離散空間」(すべての部分集合が開集合)しか出てこない。他方、彌永版では、それらに加えて、「有限的位相空間」(有限集合の閉包は自分自身で、無限集合の閉包は全体集合になる空間)や「クルル空間」(群Gの指数有限正規部分群を使って、閉包を定義した空間)が導入されている。どちらも、閉包を使って位相を定義しているから、簡単に導入できている(この点は裏をとってないので嘘かもしれない)。さらに「ザリスキー空間」(体係数の多項式環のイデアルの零点を閉集合と定義する)も導入されている(これをは閉集合を経由して閉包を定義している)。これらの中では、クルル空間がめちゃくちゃ面白い。元の群を整数の加法群としてさえ、まったくイメージ化できない空間だけど、だからこそ、この空間でさまざまな位相のアイテムを試すのは意外性を感じて楽しめる。これこそ、抽象数学の楽しさの醍醐味だ。
位相空間についての松坂版の利点は、大事な概念だけをすらすらと猛スピードで学習していけることだ。証明もわかりやすいので、つっかえることはほとんどない。「チコノフの定理」(コンパクト空間の直積空間はコンパクト)の有限交叉性を使った証明もとてもわかりやすい。他方、欠点は、距離空間以外の例がほとんどないので、なぜ位相空間が必要なのかが実感がわかないこと。
彌永版の利点は、意外性のあるリッチな例が投入されているため、位相空間のアイテムを図像的イメージがわかないまま試すことで概念理解を深めることができること。他方、欠点は、なかなか進まないので、連結性とかコンパクト性などの最重要概念に到達する前にギブアップする可能性が高いことである。
どちらを読むべきかは、動機と目的による。初学者は、もちろん松坂版からにすべきだろう。大事な概念だけ、最適なスピードで進めるからだ。しかし、位相空間については、彌永版をちらちら参照するとその本質に触れることができるだろう。一方、位相空間の本領を学びたい人には、彌永版をお勧めする。なかなか進まないが、ひとつひとつのアイテムをかみしめながら、あるいは別の本で調べながら読み進むと、異世界・異空間のスリリングな冒険を楽しめる。群論や数論や代数幾何の初歩をかじったことのある人は、彌永版に戻ると意外な収穫があるかもしれない。かくいうぼくがそうだった。
最後に、いつものように、販促をさせてほしい。位相については、拙著『数学入門』ちくま新書を、ザリスキー位相については拙著『数学は世界をこう見る』PHP新書を手に取ってほしい。