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国際経済の方程式

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 まず最初に、ぼくが登壇予定のシンポジウムの宣伝をしよう。

 

『社会的共通資本と未来』寄附研究部門開講記念シンポジウム    

(タイトル)社会的共通資本のあり方とその未来を考える

(開催概要)2022年7月23日土曜日 13~17時

(開催場所) 京都大学稲盛財団記念館 および オンライン 

 

これは、今年、京都大学に創設された宇沢先生の社会的共通資本の理論に関する寄付講座の開講記念のシンポジウム。詳しいことは、プログラムと聴講の申し込み方法が確定したらここにエントリーしたいと思う。ふるってご参加いただきたい。 

 さて今回は、以前のエントリー、資本主義の方程式およびケインズ消費関数のどこが間違いかに続いて、再度、小野善康『資本主義の方程式』中公新書を紹介したい。したがって、これを読む前に、リンクを貼った2つのエントリーを読んでおいてほしい。

小野さんのこの本の大きなウリは、国際経済学の解説が導入されていることだ。小野さんは、これまでも数冊、国際経済学の解説書を上梓してきたけど(例えば、『景気と国際金融』岩波新書)、不況理論の方程式として国際経済バージョンの方程式を提供したのは初めてじゃないかと思う。

本書における小野さんの解説はおおまかには次の3点である。

1. 国際経済でも、基本方程式が小さな修正で成り立つ

2. 成長経済と成熟経済では、成長戦略や経済政策の効果が真逆になる

3. 普及している旧ケインズ経済学のマンデル・フレミング・モデルは根本的に間違っている

 今、日本の世の中ではインフレが取り沙汰されており、連日、テレビで取りあげられ、日銀の金融政策がやり玉にあがっている。1~3について説明する前にまず、この点に関連する小野さんの記述を引用することにしよう。曰く。

成熟経済では、資産選好が消費選好よりも強くなっているため、貨幣供給量が増えても人々は資産を貯めるだけであり、モノの購入を増やそうとはしない。そのため、金融緩和は物価にも経常収支にも何の影響も与えず、円安圧力も生まれない。このような成熟経済での金融緩和の無効性は、第3章で議論した閉鎖経済での結論とも整合的である。

(ちなみに、閉鎖経済とは、貿易を考えない鎖国状態の経済のこと。他方、開放経済が貿易のある経済)。テレビニュースでは、「アメリカの金利が高く、日本の金利が低いため、その金利差から円安になって行く」ってなことをエコノミストがこれみよがしに解説しているけど、小野さんが「それは嘘だぜ」ということを書いている、為替についての説明も引用しよう。

開放経済における景気の動きを考えるとき、為替レートの絶対水準(1ドルが何円か)と変化率(年率何%で変化するか)の働きをはっきり区別する必要がある。(中略)。

為替レートの変化率は、国内資産と外国資産との利子率の違いを埋めるものである。開放経済では、国内外の金融資産を自由に選択できるため、両者の利子率に違いがあれば、不利な資産を有利な資産に交換しようとして、巨額の資産がすぐに動き出す。いま、ドル建て債券の円換算での利子率を考えると、それは、ドル建ての利子率とドル円交換レート(1ドル何円)の変化率(1ドルが円換算で年率何%上がっていくか)の合計となる。この値が、世界中の投資家の資産選択行動によって、円建て債券の円建ての利子率と一致するように、為替レートの変化率が決まる。つまり、為替レートの変化率は、2つの通貨建て利子率の差をカバーしている。

これは小野さんの個人的主張ではなく、国際経済学の教科書なら必ず書いてあるロジックだ。このロジックを現状にあてはめるなら、「今現在、アメリカの金利が高く日本の金利が低いから、これから円安になっていく」というのは間違いということになる。なぜなら、円で貯蓄すると金利が低くおまけに円安になって減価するというのが本当なら、誰も円など保有しなくなる。それでは円を売ってドルを買いたい人に対して円をドルで買ってあげる人など誰もいなくなるはず。それでは為替取引が成立しない。円をドルで買う人がちゃんと存在するのは、「これから円が高くなる」と推論している人が(逆の推論の人と同数)いるからに他ならない。そういう意味で、均衡では、円保有はドル保有と無差別になるということなのだ。

 さて、それでは国際経済の基本方程式を紹介しよう。そのためにまず、「国民所得と総需要の関係式」を作る必要がある。それは、

 経常収支=rb^*+y-(c+g+i)=0

という式だ。ここで、b^*は対外純資産を表す(外国人が日本の資産を保有している分はマイナスとカウントする)。したがって、それに実質利子率rを掛けたrb^*が「所得収支」になる(利子・配当純取引)。一方、y国内総生産c+g+iは消費需要cと政府需要gと投資需要iの和であり総需要にあたる。したがって、y-(c+g+i)は貿易収支(輸出-輸入)にあたる。この値がプラスなら、生産物から総需要を取り除いても余りが出るから、それは輸出が輸入を超過する分になり、マイナスなら逆になる。

小野さんは、この式を「経常収支=0」という等式にしている。それは、経常収支がプラス(黒字)なら、円高の方向に為替レートの調整が生じ、経常収支が0になるまでそれが続くからである。つまり、この式は、瞬間瞬間で成り立つものではなく、為替レートの調整後の「市場均衡」下で成り立つ式ということだ。この等式から、結局、

 y=c+g+i-rb^*

という等式が導かれる。その上で、基本方程式は閉鎖経済の場合と同じで、

\bar{\delta}(c)=\rho+\pi where \pi=\alpha(\frac{y-y^f}{y^f})

となる。詳しくは、資本主義の方程式のエントリーを参照してほしいが、\rhoは「時間選好率」(消費を先延ばしにするときのご褒美分)、 \piは「インフレ率」。そして、\bar{\delta}(c)は「資産プレミアム」(資産を保有することによって得られる効用)。これは普通、資産保有額にも依存するが、成熟経済では資産には無反応になると仮定される。y^fは供給能力(完全雇用で達成できる生産水準)。これと現実の総需要yの開きに応じて、デフレやインフレが起きることを表すのがwhere以下の式の意味だ。

したがって、消費関数は、 y=c+g+i-rb^*の制約の下で、\bar{\delta}(c)=\rho+\alpha(\frac{y-y^f}{y^f})cについて解けばよい。詳しくは、ケインズ消費関数のどこが間違いかを読んでほしいが、y=c(y;y^f)+i+g-rb^*が45°線と交わるところ(ケインジアンクロス)を求めればよい。閉鎖経済と異なるのは、-rb^*の存在だけだ。

したがって、政府支出gを増やすと直線が上方にシフトするので、総需要は増加し、国内総生産は増加する。「財政政策が景気に効く」ということが結論できる。これはマンデル・フレミング・モデルと真逆の結論となっている。

 さらに、小野さんはこの基本方程式を使って、「国内企業が生産性を向上させると、かえって景気を悪化させる」という一見パラドキシカルな結論を導いている。「成長戦略」なんて逆効果だ、ということだ。言葉で説明している部分を引用しよう。

成熟経済なら、すでの消費が十分に大きく、資産選好が強くなって消費意欲が下がっているから、消費が伸びず、生産の増加分がそのまま経常収支に積み上がって、過度な黒字化が起こる。これは円高を呼び、自国製品の国際価格が上昇する。円高は、自国製品の国際価格を以前の水準にまで押し上げ、海外需要をもとの水準に引き下げるまでなっても、まだ終わらない。その理由は同じ量を作っても生産性上昇で雇用が以前より減っているため、デフレが以前より悪化し、それが国内消費を低く抑えて国内製品への総需要が以前より下がり、経常収支の黒字が残ってしまうからである。そのため、円高がさらに進んで自国企業が以前より国際競争力を失い、生産がもとの水準より下がって、ようやく経常収支のバランスが回復する。その結果、デフレも消費も雇用も、すべて以前より悪くなってしまう。

以上のことはもちろん、基本方程式を用いて、ちゃんとモデルの中で導出している。それは本を参照してほしい。あと、マンデル・フレミング・モデルの間違いについても本を参照してもらいたい。

 正直に告白すると、国際経済学はぼくの中では鬼門で、今まであまりちゃんと理解しないで来た。けれども、小野不況理論を材料にすることで、今回、かなりの理解に達することができた。その勢いで、小野善康『国際マクロ経済学岩波書店まで購入してしまった。この夏はこの本で、国際マクロ経済学を自分のものにしようと思っておるのだ。

 

 

 

 

 

 


京都大学寄付講座のシンポジウムに登壇します。

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前回エントリーした通り、創設された「社会的共通資本と未来寄附研究部門」のシンポジウムに登壇することになりました。申し込みは、

 

www.kyoto-u.ac.jp

 

のホームページから出来ます。あるいは、直で下のリンクから申し込みできます。

『社会的共通資本と未来』寄付研究部門創設記念シンポジウム参加申し込み

 

プログラムは、以下のようになっています。

オープニングトーク  

「創設を祝して」久能祐子(京都大学理事)
「社会的共通資本とは」占部まり(宇沢国際学館代表取締役

基調講演

「協生農法と拡張生態系 〜自然-社会共通資本のビジョンと本研究部門の方法序説
舩橋真俊(京都大学人と社会の未来研究院特定教授(社会的共通資本と未来寄附研究部門)) 

講演1

「経済学からみる社会的共通資本」
小島寛之帝京大学経済学部 教授)

講演2

「ポスト資本主義のビジョン」
広井良典京都大学人と社会の未来研究院 教授) 

講演3

「寄附と利他行動の未来」
渡邉文隆(信州大学社会基盤研究所 特任講師/京都大学経営管理教育部博士後期課程)

パネルディスカッション

「理論と実装の両輪の意義」 
 ファシリテート:占部まり(宇沢国際学館代表取締役

閉会の挨拶

宇佐美文理(京都大学副学長/人と社会の未来研究院長/文学研究科教授)

このシンポジウムでぼくは、宇沢先生の社会的共通資本の理論に対して、要約や概説ではなく、未来の方向性(可能性)を示唆する講演を試みたいと思う。それは、当然、経済学の現状に対する批判ともなるし、そして、経済学の枠を超えたインターディシプリナリーな方法論を宣言することになると思う。現在ぼくの考えていることのありったけを詰め込むつもりだ。是非ともオンラインで参加していただきたい。

以前、拙著『宇沢弘文の数学』青土社にもその一端を書いたけど、それをさらにブラッシュアップした内容になると思う。(だから買って前もって読んでおいてね。笑)。

 

 

 

酔いどれ日記21

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今夜のワインは、Massaiという赤ワイン。値段のわりには複雑な味わいがある。久々に音楽のことを書こう。

最近、ヨルシカのライブ映像『月光』を観た。これは、今年の3月に行われたライブを収録したもの。あまりのすばらしさにもう10回以上観ている。水族館で行ったライブ映像『前世』も良かったが、ストリングス中心の『前世』よりも、演奏がハードなこの『月光』のほうが好きだ。

何がすばらしいって、ライブが一つの物語になっている。n-bunaさんのモノローグを挟みながら、アルバム『だから僕は音楽を辞めた』とアルバム『エルマ』の曲をつないでひとつの物語として構成していく。こんなライブ、観たことない。ライブの概念を完全に突き破っている。言ってみれば、踊りのないミュージカル、演技のない演劇、会話のない映画、という風情だ。歴史に残る作品だと思う。

物語は、「僕」がエルマという女の子に贈る詩と手紙を綴るための「旅」。ボーカルのsuisさんは、フォルムとしてはエルマを体現しながら、「僕」の物語を歌い綴っていく。その二重性があまりにすばらしい。n-bunaさんのモノローグも感涙もので、彼はいつか文学賞を受賞しちゃうんじゃないか、とさえ予感してしまう。

あと、最近はまっているのは、YOASOBIのベーシストやまもとひかるさんがyoutubeにアップロードしているベースコピーの映像だ。YOASOBIの「夜に駆ける」のベース演奏を聴いて、めっちゃすげえな、と思って彼女のyoutubeを観てのけぞってしまった。めっちゃ巧いし、何よりかわいい(笑)。

例えば↓

https://www.youtube.com/watch?v=7lW1nvinVag

あるいはこれ↓

https://www.youtube.com/watch?v=c_3xd9tNDSc

彼女のベースコピーを観てると、ベースという楽器の魅力がわかる。ひかるちゃんには、いずれジャコ・パストリアスみたいなベーシストになってほしい。ついでだから、ジャコのプレイもリンクをはっておこう。ジャコの演奏ではウェザーリポートのものが有名だけど、ぼくはジョニー・ミッチェルのサポートのときの演奏が好きだ。例えば、次の2曲。マイケル・ブレッカーパット・メセニーも加わってて、あまりの豪華メンバーだ。

https://www.youtube.com/watch?v=JnpyCEUESEw

https://www.youtube.com/watch?v=IbkKFDHmTik

ひかるちゃんは、きっとこういうベースに到達するに違いない(決めつけ)。

 さて、これで終わったら、ぼくが何の人かわからないので、経済学のこともちょっとだけ書くことにする。

前回と前々回に宣伝したように、先週ぼくは、京都大学での『社会的共通資本と未来』というシンポジウムに登壇した。さまざまな角度から社会的共通資本にアプローチする実り豊かなシンポジウムになったと思う。

ぼくの報告は、経済学の立場から社会的共通資本を総合的に分析するものだった。その中にぼくは、「現在の経済理論はどこがダメか」という議論を差し挟んだ。宇沢先生によって経済学に目覚めさせられ、思いあふれて大学院で専門的な訓練を受け、いくつかの論文も公刊した上で、たどりついた問題意識がこれだった。

議論の一つにぼくは、「経済学がニュートン力学を模倣していること」を挙げた。ワルラス一般均衡理論は、まるで「質点の力学」とそっくりだと思ったからだ。だけど、ニュートン力学は、その創造において、ティコ・ブラーエとケプラーの膨大な天文観測データをバックボーンにしている。つまり、「生の現実」を出発点にしている。それに対して、一般均衡理論の創造にはそのようなバックボーンはなかった。そういう意味で、出発点においてまったくダメダメだと思うのだ。

ぼくは、ワルラス一般均衡理論がニュートン力学を模倣している、という確信はあったが、証拠はもっていなかった。ただの「自信のある憶測」だった。そこで、ちょっと前に入手した重田園江『ホモ・エコノミクスちくま新書を満を持して読んでみた。ホモ・エコノミクスというのは「合理的経済人」のことで、自己の利益を執拗に合理性をもって追求する経済主体のことをいう。この本は、このホモ・エコノミクスという言葉や概念がどういうふうに成立したかを追う思想史の本だ。

 

予感が当たって、この本には、ワルラス一般均衡理論をどうやって発想したかが掘り起こしてあった。思った通り、ワルラスニュートン力学を模倣したそうなのである。引用しよう。

ミロウスキーの『光と熱』によると、ワルラス1860年にすでに、経済現象を物理学の法則を用いて表現することに関心を持っていたようだ。このとき、ワルラスの構想は、ニュートン万有引力の法則の単純な当てはめだった。それは「商品の価格は供給量に反比例し需要量に比例する」というものだった。

やっぱりそうか、と溜飲が下がった。ぼくの経済理論批判は根拠を得たように思う。

実は、著者の重田さんとは面識がある。ぼくが、30代後半で大学院に入学した頃、駒場で院生によって行われていたセミナーに参加させてもらったのだが、その中に重田さんもいた。そのセミナーは科学哲学の専門家、日本思想史の専門家、経済学説史の専門家などバラエティに富んだメンバーで構成され、重田さんはフランス哲学の専門家だった。

そのセミナーでは、確率・統計の思想的背景について輪読をした。イアン・ハッキングの著作を読み込んだ。このセミナーがぼくのその後の著作や研究に決定的な方向性を与えることになったのだった。

重田さんは、当時から非常にディープで綿密な読み込みをしていた。本書にも彼女のそのマニアックな特徴がいい意味で活かされている。非常に執拗に、非常に厳密に、経済学説史を掘り起こし、網羅的に解説している。研究というより、「蒐集」と評したいぐらいだ。われわれ経済学者には、垂涎の本だと言える。ただ一つ、苦言を呈するなら、(セミナー当時からそうだったが)数学に対するひどいアレルギーはそろそろ払拭してほしい。本書にもところどころに弁明が書かれている。めちゃめちゃクレバーな人なんだから、数学も勉強してみればなんてことないんだとわかると思うんだけど。

 奇遇なことにも、この本の編集者はぼくが刊行した3冊のちくま新書の編集者と同一人物なのだ。世の中、広いようで狭いね。まあ、鼻がきく編集者だということなんだと思う(自画自賛)。

 一般均衡にちょっとだけでも関係あるぼくの本は一冊だけある。これ↓

 

 

 

 

 

酔いどれ日記22

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前回から、だいぶ間があいてしまった。今夜は、サンテミリオンのClarendelleという赤ワインを飲んでる。サンテミリオンはもともと好きな産地だけど、このワインもコスパの点で良い。

 先日、アマゾン・プライムで映画「コーダ あいのうた」を観た。これは、聾唖の両親のもとに生まれた健常の子供(Codaと呼ばれる)が背負う苦労を描いた物語だ。コーダを扱ったドラマとしては、NHKのドラマ「しずかちゃんとパパ」のことを酔いどれ日記18で紹介した。たぶん、このドラマは「コーダ あいのうた」を参考に作られたものだと思う。「しずかちゃんとパパ」も良かったんだけど、「コーダ あいのうた」ははるかにそれを凌駕するすばらしさだった。まあ、アカデミー賞を作品賞を含め3部門も受賞したんだから当然ではある。

シナリオの完璧さもさることながら、(聾唖の両親の間に生まれながら)音大を目指す主人公が歌う曲がめちゃめちゃツボなのだ。デビッドボーイもジョニ・ミッチェルもぼくの青春の歌手だもんね(ジョニ・ミッチェルの映像は、前回の酔いどれ日記21でリンクを貼ったから、観てね)。

この映画がツボなのは、ガス・ヴァン・サント監督の「グッド・ウィル・ハンティング」とか「小説家を見つけたら」というアメリカのリベラルな「希望と夢」を描いた作品を彷彿とさせるからなんだな。

まあ、いろいろ御託を並べてきたけど、結局、「コーダ あいのうた」の魅力は、主人公の女子高生のかわいさに尽きる。ほんとにかわいい。

 さて、ここからはおまけね。

ぼくは最近、宇沢弘文先生の「社会的共通資本の理論」を進化させるために、いろいろと勉強をしている。その一環として、サミュエル・ボウルズ『不平等と再分配の新しい経済学』大月書店を読んでる。

これを読み始めたのは、ボウルズが宇沢先生の初期のお弟子さんだったからだ。その上、ぼくの経済学事始めが、ボウルズとギンタスの『アメリカ資本主義と学校教育』岩波書店だったからだ。でも、『不平等と再分配の新しい経済学』を読んで、そういう懐古趣味とは違う衝撃を受けた。それは、この本には社会的共通資本の理論を推し進めるためのアイデアが満載だからだ。

まだ、2章までしか読んでいないんだけど、とりあえず、そこまでのことを(酔いどれながら)紹介しよう。

この本の趣旨を一言で言えば、「平等と効率がトレードオフの関係にある」というのが俗説あるいは神話だ、ということだ。平等化は経済の効率性を妨げる、というのは常識のように言われているけど、そんなのは根拠のないデマだ、ということをあの手この手で論証していく。

例えば、実証的根拠の一つとして、Moriguchi and Saez(2008, REStat)を挙げている。ぼくも、すごく気になったので、この論文を今日読んだところ。これは、日本が戦前はひどい不平等社会でありながら、戦中に(戦争におけるさまざまな理由によって)平等化が促進され、さらに進駐軍の政策やその後の土地所有制度・税制改革の結果として、大きく平等化し、その一方で大きな経済成長を遂げたことを実証した論文だ。平等化と経済成長は両立し得る、それどころか、平等化は経済を成長させるとまでいいたげである。

第2章でボウルズは、自分の主張を「資産制約」の問題で正当化している。資産制約とは、金融市場が完備でないため(取引主体に情報の差があるため)、低資産者に借り入れの制約が課されることを言う。ボウルズは、資産制約が富の産出を減少させる、というモデルを利用して、平等化(低資産者の資産を増加させる施策)が資産制約を減じ、マクロの意味で富を増加させることを主張するのである。

とても驚いたのは、この主張をモデル化するのに、「契約理論」(プリンシパル・エージェント・モデル)を援用していることだ。このモデルは、1人のプリンシパル(雇用者)と1人のエージェント(被雇用者)が「契約事項」を書いて契約をすることで、どんな生産とどんな分配が実現するかを記述するもの。ぼくは大学院のときに講義で教わって、それ以来ほとんど接触していないジャンルだった。大学院のときは、数学的な仕組みとしては面白いものの、経済学的にはあまり興味を持てないものだった。(学会でもときどき報告を聞いたけど、そのモデルの複雑さに理解が追いつかなかったものだった)。そのときは、まさか「平等化の根拠」に使えるなど夢にも思わなかった。ボウルズの論証を読んで、自分が大きな見落としをしていたことに気がつかされた。大事なのは「アンテナ」と「感受性」だなと思い知らされた次第。

ボウルズがどんなプリンシパル・エージェント・モデルを使ったかは、機会があれば、(酔いどれでないときに)、紹介しようと思う。

 

 

 

読むだけでわかる代数幾何の本

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今回は久々に数学のことをエントリーしよう。

いろいろわけあって、いま、40年ぶりに代数幾何の勉強をしている。このことは、以前にも、今頃になって、なんでか代数幾何が面白いでエントリーしたので読んでほしい。あるいは、かなり昔のエントリーだが、数学って「思想」なんだよな、も少しだけ関係があるので読んでほしい。

今回紹介するのは、永井保成『代数幾何学入門 代数学の基礎を出発点として』森北出版だ。この本を評すなら、「読むだけでわかる代数幾何の本」ということになる。え?あたりまえじゃないかって? いやあ、そうじゃないんだな、代数幾何の本に限っては。他のほとんどの代数幾何学の本は、「読んで教えてもらわないとわからない」とか、「読んで考え込まないとわからない」とか、「読んで調べないとわからない」とか、「読んで知ってることじゃないとわからない(笑)」とか「読んで生まれ変わらないとわからない(涙)」という類いの本ばかりなんだよ、まじに。そういう意味で、「読むだけでわかる」本書は、ほんとに希有な教科書だと思う。

この本が「読むだけでわかる」のは、著者がいろいろな親切な工夫をほどこしているからだ。箇条書きをすると以下のようになる。

1. 各章がそれぞれすごく短いので、わからなくなる前にひとつの話題が終了する。(そのせいで、なんと、21章もある)。

2. 何のためにそんな概念を考えるのかをいちいち自然言語で説明してくれている。

3. 証明中の、素通りしてはいけない大事な条件や仮定や式変形方法について、わざわざアンダーラインを引いて、読み飛ばさないよう、注意を喚起してくれている。

4. 非常に適切にして試金石になる例が紹介されている。

5. 遠大な道のりが必要な定理を主役とせず、面白い定理ながら短い道のりで到達できるものを主役として選んでいる。

こういう数学書はあるようでそんなにない。もし、本書が講義を原稿化したものなら、きっとすばらしくわかりやすい親切な講義だと思うし、ダイレクトに本で書いたなら、ものすごくよく構成を考えた上で執筆したのだと思う。どちらにしても絶賛ものである。

内容について、ちょっとだけ触れるけど、もうしわけないが、まだ第6章から第10章の5章分を読んだ程度の段階なので、それを前提に読んでほしい。

もともとは別の本で「座標環(多項式環を方程式の生成するイデアルで割った商集合)」を勉強していて、いまいち曖昧模糊として掴めない感があって、この本の第6章にあたってみたのがきっかけであった。それがめちゃめちゃわかりやすかったので、続きの章も読んでいくうち、ついつい面白くて、第10章まで読んでしまったのである。

これらの章だけでも、ぼくが最も興味のある数論に役立つアイテムがてんこもりだった。

まず、第7章の「加群」の章では、ネーター環の解説と「ヒルベルトの基底定理」の証明が紹介されているんだけど、そのついでとして、「完全系列」についても解説される。完全系列というのは、加群(でも環でも群でもいい) A, B, C準同型写像 f, gが作る図式、0\rightarrow  A \rightarrow (f) \rightarrow B \rightarrow (g)  \rightarrow C  \rightarrow 0について、 f単射 fによるAの像と gによる0の逆像が等しい( f(A)=g^{-1}(0))、g全射が成り立つものである(もっと長い列の場合は、ひとつ前の準同型の像と次の準同型の核が等しい、という条件を加えていけばよい)。たぶん、完全系列に慣れてもらおうという魂胆だと思うのだが、完全系列についての「5項補題」と「へび補題」のすごくわかりやすい記述の証明が投入されている。

完全系列は現代の多くの数学で使われる道具なんだけど、どの教科書でも、それがどんなふうに役に立つのかは、かなり先のほうまで読まないとわからないようになっているから、初学者はイライラしてしまう。でも、この本では、この7章自身の最後にちょっとした応用が書かれていて、10章(といってもたったの40ページ先)に応用が出てくるから嬉しい。

次の第8章は、「有限群の表現」という章。これは、有限群から行列の乗法群への準同型写像のことをいう。要するに、群演算の仕組みを行列のかけ算に写し取るわけなんだね。例えば、置換群(n個の対象を入れ替える操作の作る群)の場合、その表現は、n \times n行列の各行・各列に1個だけ1があるような行列たちの乗法群となる。

「群の表現」は、ゼータ関数に関係する数学(とりわけ、保型形式と楕円関数のゼータ対応)に関係するので、初歩ぐらいは知っておきたいアイテムだった。本書では、たったの5ページで解説が終わるからありがたい。それでも「Maschkeの定理」というステキな定理が証明される。

この「群の表現」を紹介しているのは、次の9章から「不変式論」を展開するためだ。不変式というのは、高校数学(というか受験数学)でおなじみの「対称式」を思い起こせば良い。対称式というのは、変数の入れ替えを行っても不変であるような式のこと。3変数の場合の例として、x^3+y^3+z^3のような式のこと。3変数の対称式は、かならず3つの基本対称式x+y+z, xy+yz+zx, xyz多項式で表現できることが知られているんだけど、この章ではその一般化を議論している。「ああ、この話はこういうふうに一般化するのか」と感心した。数学的な定理の証明を考えるのも重要な仕事なのだろうけど、定番となった理論をどうやったら一般化できるのか、その仕組みを作りあげることも才能のいる仕事だと身にしみた。この第9章のメインディッシュは、「ヒルベルト有限生成定理」というやつで、「有限群の表現から定まる不変式環は有限生成である」というすんごい定理だ。感激。

そして、第10章はいよいよ、「次数環とHilbert-Poincare級数」に突入する。「次数環」というのは、ぼくにとって初耳の環の概念だった。「次数環」とは、ようするに、多変数の多項式のなす環みたいな環だと想像すればよい。どんな多項式も、定数+1次単項式+2次単項式+・・・、のように次数別の和で表現できる。このように、環の要素が「適当な次数のついた部分環」の各要素の和で表せるような環を次数環と呼ぶみたいだ。この章では、次数環に対して「次数の拡張」にあたるものである「ヒルベルト-ポワンカレ級数」というのを定義し、その式を特定するのが目標である。そして、その証明のポイントになるのが、第7章で準備した完全系列だというわけなのだ。実によく伏線を張った展開だと思う。

代数幾何の教科書というのは、(ぼくの知っている範囲で)おおまかに言って、「代数曲線論」「リーマン面の理論」「可換環論」「スキーム論」というふうに分類できると思うけど、本書はフレーバーとしては「可換環論」かな、と思う。ぼくは、40年ぐらい前に、大学院を受験するためにしぶしぶ可換環論を勉強したけど、その抽象性と無味乾燥な内容に辟易としてちっとも理解できなかった経験を持つ。でも、本書を読んで、「ああ、もしかして、可換環論も面白いものがあるのかも」と感じる部分もあったから不思議だ。人生、どう転ぶかわからない。

 最後に一応、自著の販促をさせておくんなまし。置換群とか対称式とかについては、拙著『完全版 天才ガロアの発想力』技術評論社をどうぞ。あと、素人が代数幾何を勉強する場合、いきなりプールに飛び込むのは危険なので、「準備運動」の本として拙著『数学は世界をこう見るPHP新書をどうぞ。

 

 

 

 

酔いどれ日記23

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今夜はブルゴーニュピノノワールを飲んでる。LA Mountonniereというの。高価じゃないけど、なかなかの味わいだ。

今回はまず、最近ハマっているライブ映像について話そう。

それは、ずとまよ(ずっと真夜中でいいのに)のライブ・ブルーレイ「鷹は飢えても踊り忘れず」だ。これは、ずとまよが今年の4月に埼玉スーパーアリーナで2日間行ったライブを2枚のブルーレイに収めたもの。

いやあ、このライブはいろいろな面であまりにすごい。まず、舞台のセットがとんでもない美術だ。いつものようにボーカルのACAねさんの顔が見えない演出になっているけど、美術のすごさでそれが気にならない。しかもだ!なんと2日目は1日目とは舞台美術が変わっており、百年経過した、と言う体になっている。スタッフさんは一晩で設営したわけだから大変だったろう。

次にのけぞるは、サポートミュージシャンの豊富さ(大所帯)だ。ストリングスが入っているのは前のライブでもそうだったが、今回はホーン隊も投入されている。それも驚きなんだけど、もっと驚くのはツイン・ドラムであること!「ずとまよ、ついにやっちまったか」となった。もうこれは、ザッパというよりキング・クリムゾンだね。まあ、現在のクリムゾンはトリプル・ドラムだから、ACAねさん、つぎは3器でお願い。

さらに挙げたいのは、レトロなアイテムを使っていること。例えば、舞台に公衆電話ボックスがあって、しかも電話はダイヤル式だ。ACAねさんは途中で、この電話ボックスに入って、ダイヤルをまわして、受話器をもって歌うんだわ。すごすぎる。彼女はレトロなものがとても好きで、別のライブではオープンリールのレコーダーを使って演奏したりしてる。もしかすると、今の20代は70年代ぐらいのレトロに「幻想の郷愁」を抱いているのかもしれない。

ぼくが最も感動したのは、2日目のオープニングの曲で、ACAねさんが泣き崩れて歌えなくなってしまったシーン。ボーカリストが泣き崩れるのはさ、普通は、「初めての武道館公演の最終日のアンコール曲」なんすよ。YUIしかり、Aimerしかり、YOASOBIのイクラさんしかり。でも、ACAねさんは埼玉スーパーアリーナであることはさておき、オープニング曲だからね。まあ、どうしてそうなったかは、ブルーレイを買って知ってね。裏音声でACAねさんが理由をしゃべってるから。

 と、ここで終わっては、このブログらしくないので、(とってつけたように)経済学の本を一冊紹介しておく。それは津川友介『世界一わかりやすい「医療政策」の教科書』医学書だ。

著者の津川さんは医学部を卒業した医師で、その後、ハーバードで「医療政策学」を研究して博士号を得た人だ。医学と経済学の両方に通じている。

ぼくがこの本を読もうと思ったのは、言うまでもなく宇沢先生の「社会的共通資本の理論」を研究しているからに他ならない。医療は、宇沢先生が「制度資本」と呼ぶ非常に重要な社会的共通資本だ。

医療政策とか医療経済の本はあまり読んだことがないんだけど、ぼくが読んだ範囲では、感心できた本は一冊もなかった。だいたいが、細かい制度調査の羅列みたいな本で、科学的でも経済学的でもなかった。高校の社会科の教科書のように退屈極まりないしろものだった。でもこの本は本当にすばらしい内容だ。この本の特徴を箇条書きにすると、

1. 比較的新しい経済理論を使って医療を分析している。

2. 科学的エビデンスをきちんと提出し、出所も明記している。

3. 非常に多くの分野からのアプローチを導入している。

4.無駄に読解しにくい経済モデルなんかを書かず、非常にわかりやすく言葉で説明している。

という感じだ。

まず、1については、例えば、「情報の非対称性」という経済理論におけるモラル・ハザードとか逆選択から説明したり、契約理論におけるプリンシパル・エージェントモデルを援用したりしている。

2については、第1章:医療経済学、第2章:統計学、第3章:政治学、第4章:決断科学、第5章:医療経営学、第6章:医療倫理学、第7章:医療社会学、第8章:オバマケアからトランプケアへ、といった多彩ぶりだ。とくに、第6章でロールズが出てくるのは感涙ものだった。

3については、さまざまな統計データや実験結果がきちんとした評価の上で解説されている。例えば、医療需要の価格弾力性(医療の自己負担が1%増えると、医療の利用が何%減るか)の測定とか、実証研究で流行りの回帰不連続デザインとか。

ぼくは先日の京大での社会的共通資本の理論シンポジウムで、この本からの引用を行った。それは、医療というのを財・サービスと見なしたとき、通常の財・サービスとどう違うか、という点の説明だ。例えば、「病気の多くは予測不能なので、じっくり考えて、周りの人に相談して、慎重に病院を選択することができない」とか、「痛みや呼吸苦があると、冷静な判断ができない」とか、「時間的猶予がないから、遠くの病院を選択できない」とか。これらの特徴を考えて、この財・サービスがチョコレートやハンバーガーやスポーツジムのような財・サービスと同じものだと考える人はいないだろう。医療は、このように他の財・サービスと大きく性質が異なるから制度資本に分類されるのである。

ぼくが本書で最も感動し、共鳴したのは、最後のオバマ・ケアに関する章だ。ここでは、オバマ氏が大統領時代に行ったオバマ・ケア(医療保険制度の整備)とそれを崩そうとするトランプ前大統領のバトルのことをつぶさに分析している。法制度上のバトルである。トランプ氏は、上院で50票を集めることで「財政調整」というものを実行して、オバマケアを実質的に撤廃させようとした。しかし、それは可決されずに失敗に終わったのだ。なぜなら、2名の共和党員が造反して反対票を投じたからだ。そのうち一人は、2週間前に脳腫瘍の手術を受けたばかりの重鎮議員だった。この点だけでも、医療というものが他の財・サービスと決定的に異なる性質のものであることが実感できる。そして、「結局は政治がすべてなんだ」ということも、(経済学者としてむなしく)痛感する。

 最後に、我が教科書を販促するね。単に、タイトルの枕ことばが同じというだけ(笑い)。

 

酔いどれ日記24

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今夜は、シャンパンを飲んでる。BENOIT LAHAYEというの。色がきれいで味もふくよかで美味しい。

 朝日新聞10月12日朝刊の原真人さんの多事奏論の中に、ぼくへのインタビューが挿入された。この記事は、バーナンキノーベル経済学賞受賞に疑義を放ち、さらにはアベノミクス批判につなげて行くものだ。ぼくの発言部分だけ引用すると、以下だ。

経済学者で数学エッセイストの小島寛之帝京大教授は「経済学は物理学で言うならまだニュートン以前の段階」という。ニュートン力学の確立は17世紀後半。経済学は3世紀以上も遅れていることになる。

小島氏によると、経済学には致命的な弱点がある。経済活動が「1回しか起きないこと」の積み重ねだということだ。「だから物理学や化学とちがって実験が難しい。経済の法則にはどうしても仮説性がつきまとう。現実を説明できないことも多い」

これはぼくへの1時間以上の取材をまとめたものだけど、拙著『経済学の思考法』講談社現代新書に書いたことを原さんに口頭で説明したものでもある。この本はちょうど10年前に刊行したものだが、この考えは今も変わらない。経済学はぼくの期待していた学問ではなく、疑似科学とまでは言わないが、ニュートン力学以前の未熟な段階だと思っている。原さんの文章には、ぼくの考えのすべてが含まれるわけではないから、少し補強を行いたい。そのために、拙著『経済学の思考法』講談社現代新書のあとがきの一部をさらすことにする。このあとがきに、当時のぼくの想いのすべてが書かれている。

経済学者の著作のほとんどには、「経済学が現実を説明できている」という大前提が見られる。新聞記事などで経済について語る経済学者もみな自信満々だ。はっきり言って、ぼくにはそういう態度は理解できない。そういう人たちが、本当にそう信じてきって言っているのか、職業的立場からわざとそういうスタンスをとっているのかはわからないが、ぼくの感覚とは大きく異なる。序章で説明したように、現実解析の理論としては、経済学は物理学から数百年分遅れた段階にしかないというのが、ぼくの正直な認識なのである。

(中略)。

数学の論理を同じように用いる科学でありながら、経済学と物理学ではどこがどう異なっているだろうか。最も重要な違いは、「法則の正しさ」の検証に関して、物理学は特有の方法論を完成させているが、経済学はそうではない、ということであろう。経済学が「数学モデル」と「データによる検証」を備えたので物理学と同じ水準になった、と信じている人がいるようだが、それは大きな勘違いである。 

物理学のそれぞれの法則は、「数学の論理による演繹」と「データによる検証」だけを支えにしているわけではない。もっと大切なことがあるのだ。それは、さまざまな法則が、相互に関連しあう「網目構造」を形成しており、その「網目構造」が法則の正しさを堅固に支えている、ということである。

物理学には、力学のニュートンの方程式、電磁気学のマックスウェルの方程式、熱力学のクラウジウスの原理、統計力学のボルツマンの原理、量子力学シュレジンガー方程式、相対性理論アインシュタインの原理など、たくさんの方程式や原理がある。大事なのは、それらの法則が、単に個々に孤立した実験によって確かめられているばかりではなく、緊密に連関しあっている、ということなのだ。複数の法則を組み合わせると、特有の物理現象を説明できたり予言できたりする。さらにそれらの現象が、実験で検証される。ニュートン力学電磁気学の重なりの現象、電磁気学量子力学の重なりの現象、量子力学相対性理論の重なりの現象、みたいな具合で、多くの原理が重なりの現象を持ち、それらが複雑な網目模様を構成しているのである。

このような網目構造の利点は何か。それは、一度打ち立てられた法則は、簡単には覆せない、ということだ。例えば、今年2012年に、「ニュートリノは光速を超えている」という実験結果が報告され、相対性理論が間違っている可能性が指摘されて話題となった。しかし、多くの物理学者はこの実験結果を簡単に信じることをしなかった。実験の条件に何か見落としがあるに違いないと考えた。その理由はこういうことだ。「物質の運動は光速を超えることはできない」という相対性理論の結果は、他の分野の法則と絡めることで、あまりにたくさんの事実を説明できる。もしも相対性理論が間違いなら、それらの事実はみな崩れ去ってしまう。別の原理で、それらすべてを整合的に説明できる何かがあるというのは、あまりに奇跡のようなことで、まず考えられないのである。だから、「実験が相対性理論を崩した」とは考えず、「実験自体に間違いがある」と信じたのだ。

他方、経済学のほうは、「数学の論理による演繹」と、多少の「データによる検証」を備えているが、残念ながら、物理学のような網目構造を持っていない。だから、物理学の法則たちが備えている頑強な真理性を持つには至っていないのである。しかし、序章で解説したように、経済学が物理学を模倣することは原理的に無理なのだ。だから、経済学は「物理法則の網目構造」に匹敵する、何か別の固有の原理を見つけなければならないだろう。

 ところで、原さんとこういう議論をしたあと、ぼくは「現代の物理学の前段階」というのが気になってきた。ケプラーニュートン以前の天文学は、「地上から見える星の運行」を円軌道にこだわったまま説明しようとして、理論と合わない部分を、細々した周回円を付け加えて帳尻を合わせようとした。現代の経済学はこういう段階にあるような気がしてならない。

 そんなことを考えていたら、「熱力学の前段階」が気になってきた。最初、熱をつかさどる元素である「熱素」によって説明しようとし、その後、分子の熱運動に切り替えられた。それはどういう経緯をたどったのかが気になって、前から読もうと思っていた山本義隆『熱学思想の史的展開』ちくま学芸文庫を読み始めた。そしたら、これがものすごく面白く、ものすごくためになるのだ。

この本は、熱力学完成までの物理学史を綿密にたどる膨大な本だが、物理思想の書でもあり、17世紀から20世紀にかけてのたくさんの物理学者たちの伝記でもあり、さらにはこの時代の歴史書でもある。山本先生の博学が炸裂している。

この本によれば、熱現象は長い間、「熱素」という特殊な物質によるものと考えられていた。さまざまな現象がこの説でうまく説明されてしまうからだ。熱現象が、機械論的・運動論的なものであるとわかるまで、ものすごい紆余曲折があったのである。3巻組みの本書の2巻の半分ぐらいまでしか読めていないので、そこまでの感想をしたためることにする。

17世紀から18世紀にかけてさまざまな現象が発見され、さまざまな実験が行われ、それらが錯綜しながら「熱素説」が組み上がっていく風景は実に興味深い。中でもとても面白かったのは、かのニュートンがみごとに「間違った理論」を構築したくだりだった。

ニュートンは、熱現象の背後に「粒子間の斥力」があると考えた。それは、「ボイルの法則」と呼ばれる「圧力と体積の積は一定(PV=const)」から来たものだ。簡単なわりに面白いので、山本先生の本の内容をかいつまむことにする。

1辺がlの立方体(体積V=l^3)の中に気体があるとする。これを1辺がl^{'}の立方体(体積V^{'}={l^{'}}^3)に縮める。このとき、粒子間の距離も同じ割合で、すなわち、rからr^{'}へ減少するから、r^{'}/r=l^{'}/lとなる。他方、粒子間斥力をそれぞれ、f(r), f(r^{'})と記す。また、面の受ける圧力をそれぞれP, P{'}とする。立方体のひとつの面に接する粒子数Nは不変だから、壁面のうける力はそれぞれ、Nf(r)=P l^2, Nf(r{'})=P^{'} {l^{'}}^2となる。これより、

\frac{f(r)}{f(r{'})}=\frac{P l^2}{P^{'} {l^{'}}^2}=\frac{PV}{{P^{'}}V^{'}}\frac{l^{'}}{l}=\frac{PV}{{P^{'}}V^{'}}\frac{r^{'}}{r}

から、「PV=constとf(r)\frac{1}{r}に比例することが同値」とわかる。「ボイルの法則」が実験でわかっていることを受けて、ニュートンは、「粒子間の斥力が\frac{1}{r}に比例する」と考えたわけだ。そして、これを逆手にとって、圧力という熱現象を粒子間の斥力から来るものと推測した。このことは、気体の熱膨張などいろいろな現象と整合的でもある。

ところがのちに、空気中の音速を求めることにこの「粒子間の斥力」を応用したニュートンは、計算が実測と合わないことに直面した。けれども、細かい恣意的な修正をほどこすことで、つじつまを合わせてしまったのである。

この例で、何が言いたいかと言うと、「ある計算が現実を説明できたからと言って、その計算の背後にある原理が真理であるとは言えない」ということだ。単なる「偶然の一致」でしかないことも十分にありうる。物理学は丹念にそういう「こじつけ」を排除していったが、経済学はいまだに「恣意的な修正によるこじつけ」を繰り返しているように見える。でもそれはある意味、しょうがないとも言える。それは経済社会のできごとは一回性のものであり、実験がままならないからである。

 山本先生の本は、2巻の真ん中でやっと、「運動」が「熱」に変わることを検証したラムフォードとジュール、そして、熱機関を考察したカルノーとワットにたどり着いた。ここから熱思想がどう転換して行くのか、わくわくしている。

 最後に、途中で出てきた我が本を販促しておく。↓

 

 

 

 

 

酔いどれ日記25

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今夜はブルゴーニュピノノワールを飲んでる。おつまみは柿ピー。

今回は、群論のことを書こう。

最近、群論が楽しくて仕方ない。今読んでいるのは、遠い昔に買っておいた浅野・永尾『群論』岩波全書だ。

この本は、30年以上前に買ったまま、ただただ長い間、本棚で眠っていたものだ。ぼくは学部は数学科だったから、当然、群論の講義を受講したし、大学院受験のために多少の勉強をした。でも当時はま~ったく興味を持つことができなかった。(群論の講義で、唯一記憶に残っているのは、先生がルービックキューブの群の行列表現を黒板に書いてみせたことだけだ。笑)。

それがなぜか今になって、群論をとてつもなく面白いと感じるようになったのだから、人生は摩訶不思議である。

面白いと思うようになった理由は自分でもよくわからないが、あえて探してみると、二つあるように思う。第一は、拙著『完全版 天才ガロアの発想力』技術評論社を執筆している過程で群論を再勉強したこと。ガロアの定理「5次以上の方程式には、四則計算と根号では解けないものがある」を証明するには、「群」は必須アイテムだ。とりわけ、一番の佳境のところで5次対称群(1, 2, 3, 4, 5を並べ替える操作の成す群)の特殊な性質が使われる。それは5次方程式の解の対称性を解明するためだ。それでぼくは、最も素人が理解しやすい道筋を探すために、いろいろな文献にあたったのである。これが、ぼくに、群論を身近にしたと言える。

でも、もっと大きい理由は、ぼくの専門での研究分野が「意思決定理論」という非常にマニアックな分野だ、ということであろうと思われる。とりわけ、ぼくが共同研究者と論文を書いている分野は、集合論組み合わせ論と測度論と順序集合論との合わせ技のようなものなので、とにかく「記号操作」の集大成のようなストイックな分野だ。そういうのを毎日やっているうちに、群論のような抽象的な「記号操作」の嵐を面白いと思う嗜好に変わったのかな、と思うのだ。

 「群」というは、

①つなぐことができる(結合法則)。

②変えないことができる(単位元の存在)。

③もとに戻すことができる(逆元の存在)。

で規定される数学構造のことだ(この表現は、拙著『完全版 天才ガロアの発想力』技術評論社より。詳しくは拙著を読んでくれたまえ)。こんな少ない規定で、複雑な数学構造を生み出し、豊かな定理たちを生み出すのだから、神秘そのものだと言えよう。

さて、そこで先ほどの浅野・永尾『群論』岩波全書だ。この本は、ぼくがこれまで読んだ数々の群論の教科書の中で、最もわかりやすく、そして読むのが楽しくなるように書かれている。どこが他書と一線を画すのかを端的に説明することができないのだけれど、たぶん、「目次立ての順序」、「定理の取捨選択」、「定義や定理を表現する文章」、「定理の証明の方法」、「記号法の選択」などが非常に工夫されているからではないか、と思う。

この本を読むと、群論というのが、上記の①②③という単純な仕組みのものにすぎないのに、実に多くのテーマで研究されていることがわかる。

例えば、部分群を包含関係で並べた列で、各部分群が1つ前の部分群の正規部分群となっており、かつ最後は単位元に到達する列、のことを考える。これには「ジョルダン・ヘルダーの定理」というすばらしい結果が存在する。

あるいは、与えられた群が、その部分群の直積と同型になるかどうか、なども問題として考える。これには、「クルル・レマク・シュミットの定理」という有名定理が存在している。

さらには、「p-シロー群」という発想がある。これは、有限群において要素数素数べきの部分群のことだ。「シローの定理」は、このような部分群の存在を保証してくれる。

フラッチニ部分群なんてものも考え出された。これは与えられた群のすべての極大部分群の共通集合の作る部分群のことだ。これも実に奇妙な群になることが示されている。

ガロア理論に関係するのは、可解群というもので、交換子と呼ばれる元の作る群の列と関係するものだ。そして、これがn次方程式が四則計算とべき根で解けるかどうかに本質的な役割を果たすのだ(これについても拙著参照)。

 この本を読むと、数学者たちがある数学的アイテムに関してどのように研究テーマを見つけるかが、非常にコンパクトにわかると思う。数学の受験勉強をいっぱいやれば、数学の問題を解くことにはかなりな程度熟達するだろう。しかし、それだけでは数学者にはなれまい。数学者になるには、構築されている数学的アイテムに新しいテーマを見つける力が必要だ。それが数学でのクリエイティビティを意味する。そういうことの勘所を作るのにも、本書はかなりリーゾナブルな貢献をしてくれるのではないか、と思う。

最後にいつものように販促をしよう。本書を読む前に、とりあえず、拙著『完全版 天才ガロアの発想力』を読んでおくと、効き目倍増になること請け合いなんだぞ。

 

 


受験数学から最先端数学へ

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今回は、黒川信重オイラー積原理』現代数学社の一部を紹介しよう。この本は、雑誌「現代数学」の一年間の連載をまとめたものだ。

オイラー積とは、オイラーゼータ関数を全素数を使った積形式で表したことが発祥となったものだ。ゼータ関数とは、自然数s乗の逆数を全自然数にわたって足し合わせもの、すなわち、

\zeta(s)=\frac{1}{1^s}+\frac{1}{2^s}+\frac{1}{3^s}+\dots

のこと。これを全素数を使って、次のように表現することができる。

\zeta(s)=\frac{1}{1-\frac{1}{2^s}}\frac{1}{1-\frac{1}{3^s}}\frac{1}{1-\frac{1}{5^s}}\dots

この積の形式が「オイラー」と呼ばれる。ゼータ関数のこの表現を利用することによって、「十分大きいxについては、x以下の素数の個数は、\frac{x}{log x}で近似できる」という「素数定理」が証明されたりする。\zeta(s)がなぜこのオイラー積で表されるか、とか、なぜこれで「素数定理」が証明されるのか、とかは、拙著『素数ほどステキな数はない』技術評論社で理解してほしい。

黒川さんによると、自然数s乗の逆数を全自然数にわたって足し合わせることがポイントではなく、オイラー積のほうが本質なのだそうだ。その証拠に、オイラー積は「素数の類似」があれば、これ以外にもいろいろ作ることができる。本書は、そんなオイラー積の魅力のすべてを集大成した本なのである。

正直言って、この本の多くの部分は専門家でないぼくには、読みこなすのが困難だ。でも、ところどころに、読んで理解できるところがあり、しかも非常に興奮する話題があるので、今回はそんな中から紹介しようと思う。

ピックアップする話題は、「チェビシェフ多項式」というものだ。チェビシェフ多項式(詳しくは第1種チェビシェフ多項式)とは、cos(n\theta)cos\thetan多項式で表したときのその多項式のことだ。すなわち、cos(n\theta)=T_n(cos\theta)となるn多項式T_n(x)のこと。

いくつか具体的に書いてみる。

cos(2\theta)=2cos^2(\theta)-1だから、T_2(x)=2x^2-1

cos(3\theta)=4cos^3(\theta)-3cos(\theta)だから、T_3(x)=4x^3-3x

という具合。

実は、このチェビシェフ多項式には、次のような性質が知られている。

「最高次係数が1のn多項式(モニック多項式)f(x)で、-1\leq x \leq 1での|f(x)|の最大値が最小となるのは、\frac{1}{2^{n-1}}T_n(x)である」

実は、これは\frac{1}{4}T_3(x)=x^3-\frac{3}{4}xの場合には、大学受験でときどき出題される有名問題なのだ。ぼくも30年ほど前、予備校の講師をしていた頃、この手の問題を解いて、教えた経験がある。ちなみに、3次の場合は愚直にやっても証明できる(という記憶がある)が、一般次数の場合はちょっとしたトリッキーな工夫が必要になる。その非常に鮮やかな証明は、黒川さんのこの本で読んでほしい。

さて、ここからが面白いのだ。

このチェビシェフ多項式がなんと!オイラー積と深い関係を持っているのである。しかも、ラマヌジャンゼータ関数との関係なのだ。

ラマヌジャンは、\Deltaという保型形式を考えた。具体的には、

\Delta=q(1-q)^{24}(1-q^2)^{24}(1-q^3)^{24}\dots

これをqの(無限次)多項式として展開したものを、

\Delta=\tau(1)q+\tau(2)q^2+\tau(3)q^3+\tau(4)q^4+\dots

と記して、関数\tau(n)を定義する。この\tau(n)から作ったディリクレゼータ関数

\frac{\tau(1)}{1^s}+\frac{\tau(2)}{2^s}+\frac{\tau(3)}{3^s}+\dots

が次のように、全素数の積であるオイラー積で表すことができる。しかも、2次のオイラー積でなのである!

\frac{1}{1-\tau(2)2^{-s}+2^{11-2s}}\frac{1}{1-\tau(3)3^{-s}+3^{11-2s}}\frac{1}{1-\tau(5)5^{-s}+5^{11-2s}}\dots

ここで、変数ss+\frac{1}{2}に置きかえることにより、正規化されたオイラー積が得られる。それは、

\frac{a(1)}{1^s}+\frac{a(2)}{2^s}+\frac{a(3)}{3^s}+\dots

=\frac{1}{1-a(2)2^{-s}+2^{-2s}}\frac{1}{1-a(3)3^{-s}+3^{-2s}}\frac{1}{1-a(5)5^{-s}+5^{-2s}}\dots

となる。ちなみにa(n)=\tau(n)n^{-\frac{11}{2}}である。

同じように、整数係数のn次モニック多項式f(x)に対して、次のようなオイラー積を定義する。

Z^f(s)=\frac{1}{1-f(a(2))2^{-s}+2^{-2s}}\frac{1}{1-f(a(3))3^{-s}+3^{-2s}}\frac{1}{1-f(a(5))5^{-s}+5^{-2s}}\dots

これが、な、なんと、チェビシェフ多項式と結びつき、次のような驚愕の定理が得られる、というのだ。

(定理) 次は同値である。

(1) Z^f(s)複素数全体における有理型関数に解析接続できる。

(2) すべての素数pに対して、次が成り立つ。

1-f(a(p))p^{-s}+p^{-2s}=0ならば、sの実部は0

(要するに、リーマン予想を満たす)

(3)  f(x)=2T_n(\frac{x}{2})

あまりの意外性にのけぞるような定理ではありませんか。(解析接続やリーマン予想については、拙著『素数ほどステキな数はない』でわかりやすく解説してあるので、ご利用くださいませ)。ラマヌジャンオイラー積をモニック多項式で変形したものは、それがリーマン予想を満たすためには、チェビシェフ多項式でなければならないというのだ。

チェビシェフ多項式の特徴付けというのは、前半で紹介したように、「変動幅が小さい」ということだけど、それがリーマン予想の成立にまわりまわって関わってくる、ということなんだろうか。それは、門外漢のぼくにはわからない。それはともかく、しかし、受験数学の常連である関数(多項式)が、超最先端の数論まで跳躍するのは、本当に興味深いことである。受験数学もばかにしてはいけない。

ラマヌジャンの他の業績についても、前掲の拙著で読んでおくんなまし。

 

 

 

 

 

 

 

 

「知らなきゃならない」から「知りたい」へ

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 ちょっと前から自分の勉強法が変わって、昔の(学部時代の)自分への後悔をすることがたびたびある。今回のタイトルがそれ。昔の自分は数学について「知らなきゃならない」ことに責め立てられて、焦燥感の海で溺死した。もしも「知りたい」という欲求の中で勉強していたら、少しはマシな学生時代になったのではないか、そう今は思う。

 忘れもしない学部4年の夏休み。所属ゼミの先生に「大学院を受験するなら、その準備の勉強計画について報告しなさい」と呼び出された。学部での2年間、ほとんど何も勉強していないぼくには「知らなきゃならない」ことがてんこ盛りだったため、正直に課題を網羅して報告した。「まず、『解析概論』の多変数の微積分を勉強します」。先生は黙ったまま、頷いた。「それから、佐武『線形代数』をやります」。先生はうつむいて顔をあげない。「それから、基礎数学で『集合と位相』を復習して」、この辺で先生の体が震え始め、「高木か藤崎で『代数的整数論』を・・・」と言ったとき、先生が怒鳴った。「真面目に言っているのか!そんなにできるわけないだろ」。

そう、今思えばできるわけないのだ。ぼくは「やらなきゃならない」「知らないとまずい」ことを列挙しただけで、実現可能性など念頭になかった。先生の怒りは当然のものだった。そして、その夏、バイトに明け暮れたぼくは、その中のただのひとつも勉強しなかった。

「知らなきゃならない」という焦燥感は、勉強の意欲をそいでしまう。「知らなきゃならない」という時点ですでに、「知ることを放棄している」に等しかったのだと思う。勉強にとって大事なのは、「知りたい」というモチベーションなのだ。「知りたい」は、人に試行錯誤と工夫をもたらす。「知りたい」から読んだ本が「わからない」場合は、「わからない」ことが「何が足りないか」を明らかにしてくれるし、「どういうふうに書いてあればわかるか」も教えてくれる。そしたら、その目的に適した別の本にシフトすることができる。「知りたい」は「わかる」ことへの道しるべの発見につながるのだと思う。

 今回そういう想いに至ったのは、「コホモロジー」の勉強の中でだった。

近々執筆する予定の本には、どうしてもコホモロジーの解説を入れたいと思っている。コホモロジーというのは、さまざまな数学的対象の不変量を与えるもの。準備している本は、現代数学における集合と写像の役割を解説するものなので、先端数学の最強の道具であるコホモロジーをどうしても扱いたいのである。それで、できるだけ簡単で、できるだけ端的にわかるコホモロジーの例を探していた。

コホモロジーというのは、(ベクトル空間や群や環などの)演算を持つ集合 A_1, A_2, \dots準同型写像(つまり、演算を保存する写像) f_1, f_2, \dotsのなす図式、

A_1\rightarrow (f_1) \rightarrow A_2 \rightarrow (f_2) \dots  \rightarrow A_n  \rightarrow (f_n) \rightarrow A_{n+1} \rightarrow (f_{n+1})\rightarrow A_{n+2}  \dots

が、すべての nにおいて、任意のx \in A_nf_{n+1}(f_n(x))=0を満たす(つまり、連続して写像すると単位元になる)ときに、 ker f_{n+1}/Im f_nで定義される商集合のことである。ここで、 ker f_{n+1}とは、 f_{n+1}(x)=0を満たす xの集合( 0の逆像)のこと。 Im f_nは、 f_n(x)たちの集合( A_nf_nによる像)を意味する。f_{n+1}(f_n(x))=0という仮定から、 f_n(x)たちは ker f_{n+1}に属するので、 Im f_n \subseteq ker f_{n+1}だから商集合 ker f_{n+1}/Im f_nを構成できる。

このように定義されるコホモロジーは、さまざまな数学対象に応用されている(ようだ)。しかし、ぼくの本では、できるだけ簡略に勘所だけを紹介したいので、なるだけ準備が少なく解説できる素材を探していたのである。

最初に勉強したのは、代数幾何学における「層のコホモロジー」だった。だけど、これは定義に異様に手間がかかり、しかも応用までに長い道のりが必要になる。ぼくの本ではとても無理だ。次に見つけたのは、数論における応用例で、それは小野孝『数論序説』にあった。(この本については以前に、このエントリーで紹介している)。この本でのコホモロジーは、本の前半に登場し、しかも、巡回群というとても単純な対象({a, a^2, a^3,\dots, a^n=e}の成す群)に対して定義される。このコホモロジー群に関して、6角完全系列というのを証明して、「エルブランの商」という商集合に関する補題を導くところまではかなり簡単で、それはめっちゃ助かる。でも、残念ながら、このコホモロジー群が役立つ定理は最後の最後まで行かないと出てこないんだね。しかも、応用のためには、2次体のイデアルとか分数イデアルとかイデアル類群とかを持ち出す必要がある。こりゃあ、途方もないステップだ。

 で、かなり諦め気味だったところで、唐突にいいネタを見つけた。それが「群のコホモロジー」と呼ばれるものだ。これは秋月・鈴木『代数I』に載っていた。ここできちんと定義を述べると長くなるので、詳しい解説はなしにおおざっぱに述べる。可換群 Gと、結合法則を満たし Gの作用域である集合 \Gammaに関するものだ。すなわち、 g \in G, x \in \Gammaに対して、 gx \in Gで、

 (g_1+g_2)x=g_1x+g_2x, (gx_1)x_2=g(x_1x_2)

を満たす対象。この \Gamma上で定義され、 Gの値をとるn変数の関数の全体を C^nとして、その加法を普通の多項式のように定義する。その上で、 C^nから C^{n+1}への写像(準同型) \deltaを次のように定義する(多項式だと思って理解すれば良い)。

 \delta f(x_1, \dots, x_n)=f(x_2, \dots, x_n)

 +\sum_{i=1}^{n}(-1)^if(x_1,\dots,x_ix_{i+1},x_{i+2},\dots, x_{n+1})

 +(-1)^{n+1}f(x_1, \dots, x_n)x_{n+1}

見るからに奇妙な計算だ。言葉で説明すると、n変数の関数 f(x_1, \dots, x_n)から\deltaという写像 x_1, \dots, x_{n+1}を変数とするn+1変数の関数を構成するのだけど、i番目の変数 x_ii+1番目の変数 x_{i+1}をかけ算してx_ix_{i+1}とくっつけて、x_1,\dots,x_ix_{i+1},x_{i+2},\dots, x_{n+1}n変数としてfに入力したものを交互に引いたり足したりして作るのだ。面白いことに、この操作を2回繰り返してできるn+2変数多項式 \delta (\delta f(x_1, \dots, x_n))は、項の打ち消し合いが起きて必ず0となってしまう仕組みなのである。奇妙だけど巧くできている。この作用(準同型) \deltaに関して、コホモロジー群を定義するのが、「群のコホモロジー」というわけだ。

ところが、「このコホモロジーはいったい何をしようとしているのか」を知りたくなって、その前の部分を読んでみて、参ってしまった。どうも「シュライエルの定理」というのが下敷きになっているらしいのだが、秋月・鈴木『代数I』ではその説明が異様にわかりづらいのだ。「シュライエルの定理」というのは、2つの群 N, \Gammaが与えられたとき、 N正規部分群として含む群 Gで商群 G/N \Gammaと同型となるものをすべて求める(というよりも、構成する、と言ったほうが適切なんだけど)ものだ。そこまではわかるのだけど、定理の証明がめちゃくちゃわかりづらかった。それでこの本はあっさり放棄し、これに関して何かいい本はないかと漁ってみたら、ずっと前から持っていた浅野・永尾『群論に解説があることを発見した。(この本については以前、このエントリーで紹介している)。幸運なことに、この本での「シュライエルの定理」の説明はめっちゃわかりやすかったのだ。それで「シュライエルの定理」がきちんと理解できた。それは「因子団」と呼ばれるもので、因子団が決まれば群 Gを構成できる、というものだった。(この定理自体、とても面白く、みごと)。そうして、再度、秋月・鈴木『代数I』の群のコホモロジーに戻ったら、これが何をしようとしているか、前よりずっとわかるようになっていた。

秋月・鈴木『代数I』読み進めてみると、群のコホモロジー群を使って、とある定理を証明していた。これも詳しく説明すると手間がかかるので、おおざっぱにだけ言うけど、可換群が直和分解でき、その直和因子の一方がm正則という性質を持つ場合、\Gamma不変な直和分解を持つ、というような定理だった。

その証明では、すべてのnに対してコホモロジー群が{0}(すなわち、単位元)になることが利用される。上に書いた定義からわかるように、コホモロジー群が{0}ということは、 ker f_{n+1}=Im f_nが成り立つことである。したがって、 f_{n+1}(x)=0なるxに対しては、f_n(y)=xを満たすyを見つけることができる。この性質を利用して、\Gamma不変な直和分解を構成する次第。

すこし穿ったまなざしで見てみると、 ker f_{n+1}=Im f_nという性質がポイントなら、何もコホモロジー群なんて出さないで、直接 ker f_{n+1}=Im f_nから証明すりゃいいやん、とも思うけど、コホモロジー群の系列を作っておくことが、ものごとの見通しをよくするということなんだろうと思う。

そう思えてみると、以前のこのエントリーで紹介した加藤五郎『コホモロジーのこころ』の文章が思い出される。引用すると、

 X, Y, Zの間に連絡fgがあったとき、Yでのコホモロジーとは、 Ker \,g/Im f

という割り算で定義します。上の約束事で Xからの影響を受けている Yの部分Im fZには全く影響なしだからIm f Ker \,gの一部分、すなわち Im f \subset Ker \,gです。だから、 Yでのコホモロジーというのは、 Zにまったく影響を与えない部分 Ker \,gであって、この Ker \,gの一部である Xから影響を受けている部分Im fを無視してもいい部分にあたり、 Ker \,gIm fで割った残りの集まりがコホモロジーです。

こう言ってもいいでしょう。Yでのコホモロジーとは、Yの中で他人に影響を与えない部分 Ker \,gで、その中の、他人から影響を受ける部分を捨ててしまえということです。もっといってしまうならYの神髄とでもいうか、Yの本質をYでのコホモロジーというのです。たとえば、Yがたった一人でくらしてた場合を考えてみてください。人は見かけによらないといいますが、Yそのものは見かけでYのほんとうの姿はそのコホモロジーということになりましょうか。

この場合にあてはめるなら、コホモロジーが{0}ということは、「神髄」というのが存在しないことを意味していて、 Zにまったく影響を与えない部分は Xから影響を受けている部分ぴったりそのものだ、ということになる。

今回は、「知らなきゃならない」ではなく「知りたい」を動機とした行動だったので、実に効率的にそれなりのスピードで成果にたどり着くことができた。おまけに、浅野・永尾『群論については、あまりにわかりやすくて面白かったので、一週間程度で(込み入ったところを除き)一冊読破してしまったぐらいだ。こういう感覚が学部時代にあれば、ぼくの数学生活は豊かなものになったかもしれないと後悔している。でも、受験勉強には、これは妥当な方法論では全くないかもしれないけれどね。

販促として、似たような勉強(「知りたい」からの勉強)の仕方をして書いたぼくの本にリンクを貼っておくね。下は、数学基礎論(とゲーデル不完全性定理)の勉強の成果を本にしたものだ。それだからきっと、いわゆる専門書よりずっとわかりやすいと思う。

 

 

 

 

 

 

ドラマ総集編のようなすばらしい現代数論の入門書

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今回エントリーするのは、山本芳彦『数論入門』岩波書店だ。この本は以前にも、このエントリーで紹介しているが、今回は違う観点から推薦したいと思う。

ゆえあって、最近またこの本を読み始めたのだが、面白くて遂にほぼ全部読んでもうた。そして全体を読破すると、この本がもくろんでいること、この本の特質がひしひしつと伝わってきた。ひとくちに言えば、この本は、「ドラマの優れた総集編を観るようなすばらしい内容」ということなのだ。

ドラマの総集編って、全12話を4話ぐらいでかいつまむ。もちろん、圧縮しているので、カットされたエピソードもあるし、ナレーションで進めちゃう場面もあるし、スルーされるキャラもある。でも、優れた総集編では、本編より本質が浮き彫りになり、面白さが倍増になることも多い。この本は、数論の総集編として、そのメリットがみごとに活かされたものだと思うのだ。

 いろいろメリットがあるのだけど、その中で最も強調したいことは次のことだ。

数論や代数幾何の一般向け専門書を読んでいると、よく出くわすがたいてい説明がスキップされている用語や概念がある。例えば、「類数」、「導手」、「モジュラー」、「虚数乗法」、「j-不変量」、「フロベニウス自己同型」、「主因子」、「微分因子」、「種数」、「リーマン・ロッホの定理」など。これらの用語は、一般の数学ファンが是非知りたいと思う数学、例えば、フェルマー予想とかリーマン予想とかラマヌジャン予想とかの解説に必ず登場する。けれども、用語がアリバイ的に出てくるだけで、その説明は塵ほどもなされないのが常だ。それに対して、本書では、非常に初歩的な方法でこれらの説明がなされるのがすばらしいのである。

 どうしてこういう「総集編」が可能なのか、というと、

1.  証明の難しい定理は、証明をはしょって紹介だけにして、大事な数学概念を説明するための隠し味に使っている。

2. 各章が絶妙な関連性を持って書かれているため、自然な流れの中で大事な数学概念が登場できる。

3.  必ず適切な具体例を紹介することで、その数学概念の実感が掴めるようになっている。

からなのだ。特に、具体例はとても工夫されている。多くの数学書ではトリビアルなものか典型的なものを挙げているのに対し、この本では、その概念の本質を包含しているものや後の章とも関係あるものを、ちゃんとした計算を解説した上で紹介しているのである。定理の証明をスキップされていても、具体例を見ることで当該の定理や数学概念の本領をつかむことができるようになっている。

では、その「絶妙な関連性を持った章構成」について、簡単にまとめてみよう。

第1章:有理整数環

は、まあ、普通の導入だけど、ユークリッドの互除法を行列の積との関連で説明している点は、多少、目新しい。

第2章:合同式

これも普通の解説だけど、さりげなく、フェルマーの小定理の応用として、素数 pについて、 (a+b)^p \equiv a^p+b^p (mod \, p)を証明して、「フロベニウス自己同型」の伏線にしているあたり、にくいところ。

第3章:剰余環

ここでは、合同式の性質を「剰余環」として見直し、それによって素数 pに対する「 p元体」という「有限体」を構成している。他の数論の本よりずっと丁寧に剰余環の概念を説明しているので、一般読者にはとても有益である。しかし、この章の白眉は、一般の有限体「 p^m元体」を構成し、その性質を紹介している点だ。一般の有限体を発見したのはガロアだと何かで読んだけど、「 p^m元体」の構成方法の解説では本書が最もわかりやすい印象を受けた。そして、これは、次章での「平方剰余」へのみごとな伏線となっている。

第4章:平方剰余の相互法則

この章は、平方剰余の説明にあてられる。素数 pを固定したとき、平方剰余とは、 pと互いに素な整数aに対して、2次合同式 x^2 \equiv a (mod \, p)が解を持つ場合のaをいう。このような平方剰余については、「第1補完法則」、「第2補完法則」、「相互法則」の3つの法則が有名である。この章は、この3つの法則の証明にあてられている。

この章がすばらしいのは、これら3つの法則の証明に前章の「有限体( p^m元体)」の方法論が使われていることである。たいていの教科書では、これらの法則は、合同式の初等的な性質を使って、しかし非常にテクニカルな証明を与えている。でも、本書での有限体を使った証明は、概念的には高度であるものの、その証明自体は簡単であり、しかも、平方剰余の観点から p元体の有限次拡大の重要さを身にしみて感じることができる。また、最後に紹介される「ヤコビ記号」は、後の章で展開される「類体論」の伏線になっているのも見逃せない。

第5章:ディリクレ指標

この章では、「法mに関するディリクレ指標」が解説される。これは、「法mに関する乗法群から複素数の乗法群への準同型」、すなわち、「乗法を保存する写像」のことだ。この章の目的は、ひとつには「平方剰余」の応用ということがあるが、もっと大事なのは、有限アーベル群へ拡張することで、「有限アーベル群の指標のなす群が、もとのアーベル群と同型」という双対性を証明することにある。ここには、「ある空間の構造は、その上の関数に宿る」という数学一大思想の一端が垣間見られる。また、この章に「導手」の簡単な解説が含まれる。さらには、この章の最後に、「ヘンゼルの補題(多項式mod \, p^kでの因数分解)」の証明がある。これは、「p進体」の基礎になるものだが、「p進体」には触れずに合同式の水準にとどめているのも本書の優れた工夫と言える。この補題も後の章の伏線になっている。

第6章:2次体の整数論

たぶん、この章が本書のメインディッシュであり、著者が最も力を入れた章だと思える。非常に丁寧に、非常に豊かに解説されている。2次体の理論とは、「(有理数)+(有理数) \sqrt{m}の集合」のような、2次の無理数有理数に添加した体に「整数」を定義して、その素因数分解(素イデアル分解)を分析するものだ。豊かな性質を持っており、いまだに未解決のことも多い。本書では、これを前章の「平方剰余の理論」を用いて上手にさばいている。具体例が多く、類書に比べて、実感として理解できる工夫がなされている。また、この章での数学展開が、このあとのもっと高度な章のお手本となっているように描かれていて、溜飲が下がる。

第7章:代数体の整数論

この章は、第6章の発展として、「1のべき根を有理数に添加した体」での整数論を展開している。これが「類体論」と呼ばれる壮大な理論の出発点である。ここでは、ほとんどのことは証明抜きに結果のみを具体例とともに記述している。これは潔い態度と言っていい(いちいち証明してたら、紙数がとても足りない)。いよいよこの章で、新内と言っていい「リーマン・ゼータ関数」が登場する。また、「フロベニウス自己同型」が平方剰余の類似の記号で定義され、2次体の数論で示された定理の類似の定理が成立することが紹介されている。

第8章:楕円モジュラー関数

この章ではまず、「モジュラー変換」が語られる。モジュラー変換とは、複素平面の上半平面(虚部が正の領域)上のz ad-bc=1を満たす整数a,b,c,dによって、 (az+b)/(cz+d)と変換するものだ。この変換は、2次無理数論や保型形式論などさまざまな数学に現れる。そのあと、「楕円モジュラー関数j(z)」の紹介に進む。ここに、「ラマヌジャン\Delta」や「アイゼンシュタイン関数E_4(z)E_6(z)」などがさっそうと登場する。ここで、ラマヌジャン\Deltaとはこのエントリーで紹介した保型形式で、一方、アイゼンシュタイン関数E_i(z)は、自然数nの約数の(i-1)乗和にe^{2 \pi inz}を掛けて総和したもので作られる保型形式。ラマヌジャン数学の根幹をなすアイテムだ。楕円モジュラー関数j(z)は、j(z)=E_4(z)^3/\Delta(z)で定義される。この関数はモジュラー変換で不変という保型性を備えている。さらには、虚2次無理数の分類と密接な関係を持つ。すべて証明はカットされているけど、それがむしろ功を奏して、面白さだけが伝わってくる。この章の最後は、ヒルベルト類体に関するアルチンの相互法則を紹介して終わる。これは、平方剰余の相互法則を代数体に拡張したものになっている。

第9章:楕円曲線

この章は、現代数学の主役級である「楕円曲線」についての解説だ。楕円曲線とは、Y^2=4X^3-aX-bで定義される複素射影空間上の曲線である。曲線上の点が加法群(アーベル群)をなすというすさまじい性質を持っていて、その群は数理暗号にも利用されるぐらい複雑であり、また多くの未解決問題を提供している魔窟と言っていい。この章では、アーベル群の性質の中で最も証明が困難な「結合法則」については、マティマティカのプログラムを与えることで済ますという画期的な扱いをしており、いちはやく大事な「等分点」の理論に進んでいく。ここも適切な具体例が多く、楕円曲線の性質が身近になる。そして、最後に「虚数乗法」というアマチュア数学愛好家も知りたい概念がわかりやすく(かつ深入りせずに)解説されている。

第10章:超楕円曲線とヤコビ多様体

本書で最も白眉であり、最も卓越していて、大団円であるのはこの章だ。この章は、数論の解説というより、代数幾何の超入門と言ったほうがいい。最初に楕円曲線の拡張にあたる楕円曲線Y^2=X^n+a_1X^{n-1}+\dots+a_nを紹介し、これを材料にして「因子」「主因子」「整因子」「微分因子」などを解説していく。因子とは曲線上の点に係数をつけた形式和だ。とりわけ重要なのは有理関数について、その零点にその位数を掛けたものと、その極(値が無限大になる点)にその位数を掛けたものとを、足し合わせた「主因子」である。これについてはいろいろな代数幾何の本で読んだが、なかなか咀嚼できず、本書でやっと溜飲下がる解説に出会った。とりわけ、種数(図形に空いている穴の個数)の定義を「微分因子」で行っており、いろいろな本で読んだ種数の定義の中で最も手短なもので嬉しかった。(コホモロジー群の次元とかで定義された日にゃあ、溺れ死ぬ)。なにより、具体例が適切で当を得ている。そのあと、あの有名な「リーマン・ロッホの定理」が登場するが、応用の仕方を語るのに終始しているのが良い。最後は「ヤコビ多様体」での代数学が語られる。

代数幾何を勉強したいがどの本でも途中で遭難してしまう(ぼくのような)人は、是非、この第10章から入門すると良いと思う。楕円曲線を知らないなら、第9章から入ればいい。第9章と第10章は他と独立した章として読めるから、この2章だけ読むだけでもすごく有益である。

実は、拙著素数ほどステキな数はない』技術評論社を書いたとき、平方和の数論をガウス整数環を使って説明した章は、本書を大きく参考にした。流れとしては本書よりも初等的で自然な形で記述しているので、ぼくの本を先に読んでから本書に進むほうがベターだと言える(販促として。笑)。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

社会的共通資本を考える シリーズ1第2回『自動車の社会的費用』を読む、に登壇します。

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京都大学社会的共通資本と未来寄附研究部門が主催する公開講座シリーズ、社会的共通資本を考える シリーズ1第2回『自動車の社会的費用』を読む、に登壇します。来週、3月28日(火)19:00~20:30分です。興味あるかたはふるってご参加ください。以下は、京都大学社会的共通資本と未来寄附研究部門のサイトからの引用です。

社会的共通資本を考える シリーズ1『自動車の社会的費用』を読む 第2回のゲストは帝京大学経済学部教授・小島寛之さんです。

小島さんは、宇沢最後の弟子で、『宇沢弘文の数学』を上梓されています。数理経済学者の視点から『自動車の社会的費用』を解説していただきます。

 

万物は固有値である

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 最近は、NHK以外の地上波がおそろしくつまらないので、ケーブルTVで海外ドラマばかりを観ている。めっちゃ面白かったのは、『ナンバーズ』一挙放映と『アストリッドとラファエル』一挙放映だ。

『ナンバーズ』はFBI捜査官の兄と天才数学者の弟が協力して難事件を解決する話。解決には、さまざまな応用数学が使われる。中にはむりくりな使い方もあるが、多くは「数学ってこんなふうに使えるのか」と舌を巻く。グラフ理論や最適化アルゴリズムベイズ統計やゲーム理論などが縦横無尽に登場する。なんと言っても、あのリドリー・スコット(「ブレードランナー」とか「エイリアン」とかの監督)が制作に関わっているのだから、つまらないわけがない。

『アストリッドとラファエル』は、フランスの刑事物。異色なのは、犯罪資料局で資料整理の仕事をする主人公のアストリッドが重度の自閉症ということ。しかし彼女は、恐るべき記憶力と推理力を兼ね備えており、女性刑事のラファエルと組んで難事件を解決する。このドラマは事件の新奇さが面白い。さすがフランスは歴史のある国だから、歴史の絡んだ摩訶不思議な話が組み込まれている。でも、それより何よりすばらしいのは、アストリッドの自閉のありようの描き方だ。アストリッドを演じる女優さんの演技が卓越で、自閉症がどんなものであるかが手に取るようにわかる。一方、女刑事のラファエルは自由奔放で発散型の性格をしており、アストリッドとは真逆の精神性を備えている。その対照的な取り合わせが物語に彩りを与えているのだ。NHKで5月に、第1シーズンの一挙放送もあるし、第2シーズンも始まる。是非、観てみてほしい。

 さて、今回紹介したいのは、黒川信重・小山信也『リーマン予想のこれまでとこれから』日本評論社だ。以前にもこの本をエントリーした記憶があるのだけど、見つからないのでリンクははらない。今回、この本を久しぶりに再読したら、前よりずっとわかるようになっていた。なんでかというと、別の専門書でいろいろな知識を吸収してきたからだと思う。そうやってから戻ってみると、本書はものすごく良く書けている専門書だと再認識した次第。

この本のメッセージを一言で言えば、

万物は固有値である

ということだと思う。固有値というのは、普通、線形代数で習う。1次変換f(\vec{x})に対して、f(\vec{x})=\alpha \vec{x}を満たす\vec{x}を「固有ベクトル」、\alphaを「固有値」と呼ぶ。行列で記すなら、A\vec{x}=\alpha \vec{x}ということだ。本書は、一言で言うなら、この固有値」が難攻不落の難問「リーマン予想」の攻略の武器となることをわかりやすく解説した本ということになる。

リーマン予想というのは、簡単に言えば、「ゼータ関数の零点や極の実部が一定値である(虚軸に平行な直線上に並ぶ)」というもので、一部の特殊なゼータ関数で解決しているものの、多くのゼータ関数では未解決なままだ。とくに、オリジナルの予想であるリーマン・ゼータ関数\zeta(s)=\frac{1}{1^s}+\frac{1}{2^s}+\frac{1}{3^s}+\dotsについて、「その零点の実部がすべて1/2である」は、160年以上も未解決の状態だ。本書では、この難問についても、「固有値」が突破口になるのでないか、と示唆している。実際、リーマン予想(の類似)が解決している「合同ゼータ関数」と「セルバーグゼータ関数」については「固有値」が解決のカギとなった。そこでの固有値の働きを解説することで、その他のリーマン予想、とりわけオリジナルのリーマン予想の解決に肉薄しようとしている。

したがって、この本を読むことは、ゼータ関数リーマン予想についての知識を得られるだけではなく、固有値というのが数学全体を貫く一大アイテムであり、数学の主役である、という認識に到達することができるのである。そう「万物は固有値」ということだ。

 本書の根幹には、ヒルベルトとポリアの「ゼータ関数の零点は固有値解釈できるだろう」という予想がある。そのベンチマークとなる理論としての「Z-力学系ゼータ関数」から話をはじめている。これは「置換」(n個のモノの並べ替え)に関するゼータ関数である。例えば、X=\{1, 2, 3\}の並べ替えである\sigma=(1, 2, 3)を考えよう。これは1を2に、2を3に、3を1に動かす写像である。この\sigmaに対して、

\zeta_{\sigma}(s)=exp(\frac{|Fix(\sigma^1)|}{1}e^{-1s}+\frac{|Fix(\sigma^2)|}{2}e^{-2s}+\frac{|Fix(\sigma^3)|}{3}e^{-3s}+\dots)

というゼータ関数を作る。ここで、\sigma^m\sigmam回ほどこしたもの(合成したもの)、|Fix(\sigma^m)|は、それに関する固定点(不動点)の個数である。上記の\sigmaについては、mが3の倍数のときは、\sigma^mは恒等置換(何も動かさない置換)になるから、|Fix(\sigma^m)|=3。その他の場合は固定点がない(全部が動く)ため、|Fix(\sigma^m)|=0となる。このことから、

\zeta_{\sigma}(s)=\frac{1}{1-e^{-3s}}

と計算される。

次に、別の\sigma=(1, 2)(3, 4, 5)を考えよう。この置換は1と2を入れ替え、3を4に、4を5に、5を3に写す写像(置換)である。この場合は、

\zeta_{\sigma}(s)=\frac{1}{1-e^{-2s}}\frac{1}{1-e^{-3s}}

となる。見てわかる通り、オイラー積」の類似の形式が出現している。

本書では、この置換に関するゼータ(Z-力学系ゼータ関数)を行列表現し、その固有値に結びつけていく。

置換\sigmaの行列表現M(\sigma)とは、i\sigma(i)列にだけ1を置き、他を0にした行列のことだ。例えば、\sigma=(1, 2, 3)に対するM(\sigma)は、1行2列、2行3列、3行1列だけに1があり、他は0であるような行列である。このとき、

\zeta_{\sigma}(s)=\frac{1}{det(I-M(\sigma)e^{-s})}

となることが示される。det行列式のことで、分母は固有値を求める方程式と同じものだ。この計算のポイントになるのは、M(\sigma)固有値\alpha_1, \alpha_2,\dots,\alpha_nとするとき、

|Fix(\sigma^m)|=\alpha_1^m+\alpha_2^m+\dots+\alpha_n^m

が成り立つことだ。これは線形代数あるいは行列の理論で有名な性質、

(行列Aの対角線の和(tr(A))=(行列A固有値の和)

である。本書ではこれを「跡公式」と呼んでいる。

さて、固有値の定義から、

\frac{1}{det(I-M(\sigma)u)}=\frac{1}{1-\alpha_1u}\frac{1}{1-\alpha_2u}\dots\frac{1}{1-\alpha_nu}

よって、\zeta_{\sigma}(s)の極(値が∞となるs)は固有値から計算できることになる。これによって、Z-力学系ゼータ関数リーマン予想が証明されることになる。

 このZ-力学系ゼータ関数の例に本書がやりたいことのすべてが込められている、と言っても過言ではない。このあと、「合同ゼータ関数」と「セルバーグゼータ関数」に対するリーマン予想の攻略法が解説されるが、本質的にはもっと抽象的な対象に関して、上でやったことをなぞることになるからだ。

例えば、合同ゼータ関数リーマン予想解決については、グロタンディークがエタール・コホモロジーを使って、フロベニウス作用素の行列表現の固有値で解釈した方法が概説される。またセルバーグゼータ関数では、「フーリエ展開」の係数が固有値と解釈できることから、フーリエ展開を応用した「ポワソンの和公式」がセルバーグ跡公式の源であることが詳しく説明され、そこからセルバーグゼータ関数リーマン予想解決の急所に向かっていくのである。

これらを読むと、本書ではあまり触れられないが、ラマヌジャンゼータ関数(あるいは、保型形式のゼータ関数)も固有値的な方法論でアプローチされているのだ、ということが実感されるから、「なるほど」という理解に達することができる。

 本書が黒川さんや小山さんの本として異色だと思うのは、初歩的なことにも丁寧な証明がつけられていることと、「数学アプローチの見つめ方」みたいなものが随所に語られていることだ。例えば、有限次元の行列の性質を無限次元の行列に対して拡張することで、合同ゼータ関数にアプローチできるようになったり、さらには、連続無限次に拡張したものが、積分作用素であること、フーリエ級数はその一種であることを詳説したりしていて、とても感動する。それは次の文に結晶している。引用しよう。

数学ではこのように、似ている現象を敏感に察知して展開していくことで研究が進展する。「似ていること」の発見は、論理よりも感性による部分が大きい。根源的なところで数学を進展させているのは、人間の感性なのだろう。

なんと含蓄のある、なんとすばらしいことばだろう。

 さて、本書を読むには、行列の理論、群論・体論、ゼータ関数に慣れておいたほうが良いと思う。いつもの販促であるが、行列には拙著『ゼロから学ぶ線形代数講談社を、群論・体論には拙著『完全版 天才ガロアの発想力技術評論社を、ゼータ関数には拙著『素数ほどステキな数はない技術評論社を推奨しておく。

 

 

 

2平方定理の幾何的証明

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 今回は、「2平方定理」について、数学書の中に幾何的証明を見つけたので、そのさわりの部分を紹介したい。読んだ本は、キャッセルズ『楕円曲線入門』岩波書店だ。
この本は、楕円曲線(y^2=x^3+ax+bで定義される曲線)の数論を解説した本だが、p進体上の楕円曲線も含むのが特徴である。

この本のユニークなところは、各章が非常に短いこと。長くても5ページぐらいで終わる。だから、長い解説や証明を読まされる苦痛は少ない。しかし、そのおかげで全部で26章もある。

この本は、(ぼくにとって)めちゃくちゃわかりやすいところとすげぇわかりにくいところが混在している。おおざっぱに言えば、最初のほうはものすごくわかりやすいが、途中からかっとんでしまって歯が立たなくなる。後半には、「ガロアコホモロジー」とか、「セルマ-群」とか、フェルマー予想解決のときに耳にしたアイテムが出てくるだけに読破できれば幸せだと思うのだけど、近未来の目標というところだ。

 さて、「2平方定理」というのは、「4で割ると1余る素数は2つの平方数の和で表せる」というもの。例えば、5=1^2+2^2, 13=2^2+3^2, 17=1^2+4^2のようなことだ。同値な言い換えをすれば、「素数pに関して、l^2 \equiv -1 (p)を満たす整数lが存在するなら、pは2つの平方数の和となる」である。

この定理は、(初等的にも証明できるが)普通は2次体のガウス整数を使った証明がなされる。ガウス整数とは、a+bi(a,bは整数)の形の複素数だ。おおざっぱには、4で割ると1余る素数pは、ガウス整数の世界では素数でなくなり、p=(a+bi)(a-bi)素因数分解されることから証明される。(a+bi)(a-bi)=a^2+b^2だから巧くできている。詳しい証明は、拙著『素数ほどステキな数はない』技術評論社で読んでほしい。

 キャッセルズの本には、この定理の幾何学的証明が載っていてのけぞった。この手法自体は知っていたけど、2平方定理が証明できるとは初耳だった。

 証明にはひとつの補題とそれから導かれる定理が使われる。

補題とは、「mは正整数。Sn次元空間の点集合で、その体積V(S)mより大きいとする。このとき、Sに属するm+1個の点\boldsymbol{s}_0, \boldsymbol{s}_1, \dots,\boldsymbol{s}_mが存在して、任意の0 \leq i ,j \leq mについて、差\boldsymbol{s}_i-\boldsymbol{s}_jのすべての座標が整数となる。」というもの。点集合Sがどんなに変な形をしていても、体積がmより大きいなら、すべての座標の差が整数となる点がm+1個以上とれてしまう、ということだ。m=1の場合はBlichfeldtという数学者が最初に証明したらしい。

この補題の証明は次のようにすごく簡単明瞭だ。

まず、「単位立方体」の点集合Wを、「すべての座標が0以上1未満の点の集合」と定義する。すると、n次元空間のすべての点\boldsymbol{x}は、点集合Wの点\boldsymbol{w}とすべての座標が整数である点(格子点とも言う)\boldsymbol{z}を用いて、\boldsymbol{x}=\boldsymbol{w}+\boldsymbol{z}と表せる。

次に、\psi(\boldsymbol{x})Sの「特性関数」とする。すなわち、\boldsymbol{w}Sに属するなら\psi(\boldsymbol{x})=1、そうでないなら、\psi(\boldsymbol{x})=0と定義された関数である。そして、この関数をn次元空間全域で積分する。積分値は\int   \psi(\boldsymbol{x})d\boldsymbol{x}であるが、定義からこれは体積V(S)である。したがって、

\int   \psi(\boldsymbol{x})d\boldsymbol{x}=V(S)>m

さて、この積分を単位立方体に分解して実行するとしよう。2次元なら、例えば、点\boldsymbol{z}=(1, 2)を最小点とする単位立方体は(1+w_1, 2+w_2)なる点の集合だから、\boldsymbol{z}+Wとなる。だから、先ほどの積分は、整数点\boldsymbol{z}にわたる総和として、

\int   \psi(\boldsymbol{x})d\boldsymbol{x}=\sum_{\boldsymbol{z}}\int_{\boldsymbol{z}+W}  \psi(\boldsymbol{x})d\boldsymbol{x}

と書き換えることができる。各積分を、\boldsymbol{w}を変数に取り替えて、単位立方体内での積分に書き換えると、(さらに積分と総和を入れ替えて)、

\int   \psi(\boldsymbol{x})d\boldsymbol{x}=\int_{W}\sum_{\boldsymbol{z}}\psi(\boldsymbol{w}+\boldsymbol{z})d \boldsymbol{w}

となる。

ここでもし、積分の中身の\sum_{\boldsymbol{z}}\psi(\boldsymbol{w}+\boldsymbol{z})がすべての\boldsymbol{w}に対してm以下であると、単位立方体の体積が1であることに注意して、

\int   \psi(\boldsymbol{x})d\boldsymbol{x}=\int_{W}\sum_{\boldsymbol{z}}\psi(\boldsymbol{w}+\boldsymbol{z})d \boldsymbol{w} \leq \int_{W} m d \boldsymbol{w}=m\int_{W}1d \boldsymbol{w} \leq m

となって、V(S)>mに矛盾してしまう。よって、ある\boldsymbol{w}_0に関して、

\sum_{\boldsymbol{z}}\psi(\boldsymbol{w}_0+\boldsymbol{z})>m

が得られることになる。左辺の総和の中身は1または0だから、左辺は整数。よって、左辺がm+1以上になる\boldsymbol{w}_0が存在する。これは、\boldsymbol{w}_0+\boldsymbol{z}Sに属する点\boldsymbol{w}_0+\boldsymbol{z}が少なくともm+1個以上存在することを意味する。これらを\boldsymbol{s}_0, \boldsymbol{s}_1, \dots,\boldsymbol{s}_mと置けば、それら任意の2点の差は(\boldsymbol{w}_0が相殺されて)、すべての座標が整数となって、補題の証明が終わる。

 ポイントは積分の単純な評価にすぎないから、こんな簡単な分析でも面白い結果が出てくることに数学のパワーを実感できる。

 この補題を使うと次の定理が証明できる。m=1の場合はMinkowskiによって、一般の場合はvan der Corputによって証明されたとのこと。

定理「\Lambda\boldsymbol{Z}^n(整数のみからなるn次元ベクトルの成す加法群)の指数mの部分群とする。\mathcal{C}n次元空間の凸かつ対称的な部分集合で、体積がV(\mathcal{C})>2^{n}mであるものとする。このとき、\mathcal{C}\Lambda(0, 0, \dots,0)以外の共通点をもつ」

この定理は、上の補題を使って、引き出し論法に持ち込めば簡単に証明できるのだけど、部分群の指数とか説明するのが難儀なので省略する。

そしていよいよ、この定理を上手に用いることで、2平方定理「正整数Nに関して、l^2 \equiv -1 (N)を満たす整数lが存在するなら、Nは2つの平方数の和となる」が証明できる。冒頭で述べたのは素数に関してだけど、ここでは一般の正整数Nに拡張されていることに注目してほしい。

この2平方定理の証明は、\mathcal{C}を開円盤x^2+y^2<2Nととり、\boldsymbol{Z}の部分群\Lambdaを「 y\equiv lx (N)」で定義すれば、先ほどの定理から(0, 0)と異なる(u, v)で、(u, v) \in \mathcal{C} \cap \Lambda をみたすものが存在する。つまり、0<u^2+v^2<2Nかつu^2+v^2=u^2(1+l^2)\equiv0 (N)となる。これから、u^2+v^2=Nが得られる。要するに、Nの倍数となるu^2+v^2で、0以上2N未満のものがあり、それはNそのもの、ということだ。補題や定理における「体積がある程度大きいなら整数点(格子点)が存在する」ことと、「合同式の制約」から、ピンポイントの平方和が出てくる、というからくりなわけ。実によくできている。

 キャッセルズは、この2平方定理の証明は定理の簡単な応用例として紹介している。ほんちゃんは、Hasseによる「局所・大域原理」を証明することだ。これは、「\boldsymbol{Q}上の2次曲線\mathcal{C}上に有理点が存在するための必要十分条件は、\mathcal{C}実数体\boldsymbol{R}上およびすべての素数pに関しp進体\boldsymbol{Q}_p上で定義された点をもつこと」

という定理。これは現代数論のひとつの象徴的定理と言えるものだ。

 しつこくてすまんが、2平方定理の2次体の数論を使った証明を、わかりやすく知りたいなら、拙著『素数ほどステキな数はない』技術評論社を読んでほしい。他にも素数の魅力が満載の本だよ。

 

 

 

 

整数の中のランダム性

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 今年は、夏からあまりに忙しくて、このブログを更新する時間が取れなかった。

忙しさの最も大きな要因は、新書を書いていたことだ。しかも、普通の新書とはわけが違う。ぼくの勤務する帝京大学が、このたび、帝京大学出版会を立ち上げる運びとなった。そして、帝京新書というブランドを新設し、新書市場に参入することとなった。その第一弾の1冊をぼくが書くことになったのだ。その新書は、『シン・経済学ー貧困、格差および孤立の一般理論』である

タイトルは編集者がつけた。ぼくには恥ずかしくてこんなタイトルはつけられない。まあ、ぼくも庵野監督のファンだから、拒否まではしなかった。

この本については、刊行時期が近づいたら販促しようと思う。

 もうひとつ、忙しさをちょっとだけ担ったのが、NHKの番組への出演だ。それは、市民X「ビットコインの生みの親『サトシ・ナカモト』とは?」である。

www6.nhk.or.jp

NHK総合の放送は終わってしまったけど、NHK BSで放送される完全版は11月26日(日曜)夜9時の放送だから、是非、観てほしい。ぼくは、拙著『暗号通貨の経済学』講談社メチエに書いた知識をベースにインタビューに答えている。実によく取材されている面白い番組になっている。

 さて、これだけで終わっては何なので、最近読んで面白かった本を紹介することにしよう。それは、小山信也『素数って偏ってるの?~ABC予想、コラッツ予想、深リーマン予想技術評論社だ。

この本のメイン・テーマは、著者の小山先生が最近になって論文にした「チェビシェフの偏り」に関する「深リーマン予想」の仮定の下での証明だ。

チェビシェフの偏り」というのは、「4で割ると1余る素数」と「4で割ると3余る素数」の出現順序に関するものだ。100以下の奇素数では、「4で割ると1余る素数」が11個で「4で割ると3余る素数」が13個。後者のが多い。1000以下では前者が80個で後者が87個。1万以下では前者が609個後者が619個。このように、たいてい後者のほうが多い。300万以下では、後者が前者より249個も多い。

こうなると、「4で割ると1余る素数」全体よりも「4で割ると3余る素数」全体のほうが多いんじゃないの?と疑りたくなるけど、実はそうではない。奇素数全体の中に「4で割ると1余る素数」の占める割合と「4で割ると3余る素数」の占める割合は(極限としては)等しいことが証明されている。すると、この見た目の偏りはどういうことなのだろうか。このように、与えられたx以下の範囲で調べると「4で割ると3余る素数」が「4で割ると1余る素数」より多い傾向が強いことを発見者にちなんで「チェビシェフの偏り」と呼ぶらしい。

本書は、この「チェビシェフの偏り」が深リーマン予想を前提とすれば説明できることを解説している。深リーマン予想については、当ブログのこの記事を参照してほしい。

 しかし、ぼくにとってのこの本の白眉は、「コラッツ予想」についての最近の進展を解説していることだ。「コラッツ予想」というのは、アマチュア数学愛好家にも有名な予想で、「正の整数から出発して、偶数なら2で割り、奇数なら3倍して1を加えるという操作を繰り返すと、有限回で1になる」というものだ。一例をあげれば、6からスタートして、

6→3→10→5→16→8→4→2→1

と8ステップで1に到達する。

この予想は、数学者のコラッツが1930年頃に考えついて、1950年の国際数学者会議の中の雑談を通して世間に広まったとのことだ。整数論で有名なハッセが取り組んで解けなかったことはよく知られているらしい。

一見してわかるように、全く手のつけようのない問題に見える。しかし、この難問に最近、大きな進展があった。それが語られているのである。

その進展をもたらしたのは、素数に関する「グリーン=タオの定理」で有名なテレンス・タオだ。またしてもタオが偉業を成し遂げた。

タオのコラッツ予想へのアプローチには、整数の中に潜んでいる特殊なランダム性が利用されている、とのこと。非常に難しい定理なので、簡単には理解できないが、この本には測度論などの前提知識を丁寧に初歩から解説してあるから、理解しようという意欲がわいてくる。

小山先生は、「チェビシェフの偏り」も、素数の持つある種のランダム性の現れだという。ランダム性というのは、確率に関する概念であるにもかかわらず、「静的な」整数の集合や素数の集合にも適用できることに数学の深みを垣間見ることができる。

 これはうがった見方かもしれないが、確率論に構築されているランダム性は、実は「静的な」概念で、「動学的な」ランダム性は別のところにあるのかもしれない、という妄想も膨らむ。数学者による一般向けの解説書は、そういう楽しい妄想をかきたてる効果もあるのだね。

 最後に、途中で紹介したビットコイン関係の書籍はこれですよ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 


シン・経済学

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前回のエントリーでお知らせしたように、ぼくの新著が刊行される。刊行まであと一週間ぐらいになったので、販促を始めようと思う。タイトルは『シン・経済学~貧困、格差および孤立の一般理論』帝京新書である。

帯には、宇沢弘文氏没後10年・森嶋道夫氏没後20年』特別企画、とある。実際、本書の中には、宇沢先生の思想と森嶋先生の思想をふんだんに書き込んである。本書はお二人へのオマージュであり、その一方で、経済学への新しいアプローチの提案の書でもある。

まだ刊行前の今回は、目次と各章の簡単な要約をさらそう。

「はじめに」

この章では、日本の「見えざる貧困」について解説している。参考にした本は、阿部彩『弱者の居場所がない社会』、阿部彩・鈴木大介『貧困を救えない国日本』、石井光太『日本の貧困のリアル』

第1章 限界を暴いた経済学者

この章では、経済学の歴史と新古典派経済学に対する宇沢先生の批判を解説している。

第2章 「失われた30年」の真相

この章では、バブル経済のあとに不況が訪れることを中心に、ケインズ経済学についてまとめている。

第3章 長期不況と金持ち願望

この章では、ケインズ経済学を超克した小野理論(小野善康さんの長期不況理論)について説明している。とりわけ、小野さんの「資本主義の方程式」を導入して、バブル経済のあとに不況が訪れる理由を解明する。

第4章 見えざる貧困の解決

この章では、小野さんの研究を引用して、ケインズがどう間違ったか、とりわけ乗数理論の誤謬を解説する。その上で、見えざる貧困の解決には宇沢先生の「社会的共通資本の理論」が有効であることを説得する。

第5章 値段のないものの価値

この章では、経済学の真骨頂とも言える「帰属価格」について、けっこう丁寧に解説する。帰属価格とは「値段のないものの価値を測る」数学的技巧であり、理系向けに言えば「ラグランジュ乗数」のことだ。応用として、自動車の社会的費用、最適成長理論、温室効果ガスとしての二酸化炭素と炭素税、を解説する。

第6章 教育の自己言及性

この章では、社会的共通資本としての教育をどう考察すべきかを論じる。題材として、センの潜在能力アプローチ、ボウルス・ギンタスの対応原理、ジョン・デューイの思想を概説する。その上で、社会的共通資本の5つの特性について論じる。

第7章 医療を基本とする資本主義

この章では、政策のターゲットをGDPから健康寿命へ変更することを提案する。それがぼくの構想している「医療ベース資本主義」である。

第8章 シン・経済学の待望

この章では、物理学との比較によって、経済学がいかに未熟であるかを論じている。経済学がダメな原因を、経済学における「限界革命」がニュートン力学を模倣したことに求める。その上で、経済学が模範とすべきだったのは「熱力学」であり、そして今でもそうであることを説得する。要するに、シン・経済学とは「熱力学的経済学」なのである。(勘違いしてほしくないのは、決して、「統計力学的経済学」ではない、ということ。それなら既にいくつか研究成果があるし、それらはそんなに有望なものじゃないと個人的に思っている)。

第9章 過去の最適化

この章では、主にロールズ『正義論』とそれをぼくなりに拡張した「過去の最適化」について論じている。言ってみれば、経済学への哲学的アプローチである。

章立てを眺めた人は、異端の経済学に見えるかもしれない。でも、「人々を幸せにできる経済理論」で、現在最も有望なものが、宇沢先生の「社会的共通資本の理論」だと、ぼくは正直思っている。もっと適切な理論がどこかに存在するのかもしれないけれど、既存の理論の中ではぼくにはこれしか候補がない。本書には、ぼくがどうしてそう思うかを魂を込めて書いたつもりだ。

値段のないもの価値

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 いよいよ、ぼくの新著『シン・経済学~貧困、格差および孤立の一般理論』帝京新書が書店に並び、アマゾンにも入荷されたので、満を持して販促することにしよう。

 その前に、ショックだったことをひとつ。それは、チバユウスケさんが亡くなったこと。彼の音楽のすごいファンだっただけに、早すぎる死には衝撃を受けた。

チバユウスケさんのライブを観たことは少なくて、たったの3回だった。1回はミッシェルで、1回はロッソで、1回はバースディで。どれもバンド初期のライブだった。

ミッシェル・ガン・エレファントを観たのは、「世界の終わり」でメジャー・デビューした直後だったと思う。客席は若い女の子でいっぱいで、みんなキャーキャー騒いでいた。そしたら、ステージからチバさんが「うるせ~」って怒鳴ったのが印象的だった。あまりにかっこよかった。

ロッソを観たときは、もっと鮮烈だった。ぼくとつれあいは、マーズ・ボルタというアメリカのプログレバンドを観るためにライブハウスに行った。そのとき、前座で、知らないバンド「ロッソ」が演奏した。スリーピースのバンドで、ステージに出てくると、なんの挨拶もなく、突然演奏を始めた。「態度悪いな」と思ったが、その直後、音楽に引き込まれた。名曲「シャロン」を演ったからだ。「このかっこいい曲は、いったいなんだ!」とぼくは目を丸くした。すると、つれあいが「あれって、チバユウスケじゃない?」ともう気が気じゃない様子で言った。そう、チバユウスケの新しいバンドのお披露目ライブだったのだ。彼らは3曲ぐらい演奏すると、挨拶も感謝も、そしてマーズ・ボルタへの賛辞もなく、帰っていった。ぼくとつれあいは、あまりのことにびっくりして、メインのマーズ・ボルタの演奏はほとんど記憶に残らなかった。

チバユウスケさんは、バンドを変えるごとに、新しい音楽にチャレンジする才能ある人だった。その死は、あまりに大きな損失だと思う。

 さて、拙著の紹介をしよう。

この本は、バブル崩壊後の日本経済の低迷と、それに起因する貧困・格差に対し、その原因を小野善康さんの不況理論から説明し、解決策として宇沢弘文先生の社会的共通資本の理論を推奨するものだ。

さらには、経済学を現実を説明できる理論に進化させるための方策として、熱力学を模倣すべきだと提案している。

今回はこの本の第5章「値段のないものの価値」の内容について、多少の紹介をしたいと思う。

 ぼくは、京都大学の寄付講座「人と社会の未来研究院・社会的共通資本の未来」のレクチャーに招待してもらって、宇沢先生の「自動車の社会的費用」について解説したり、さらに先生の「地球温暖化に関する炭素税」のアプローチをレクチャーしたりしている。そうしているうちに、気がついたのは、宇沢先生が「帰属価格」という経済概念を多用していることだった。このことはこれまであまり意識したことがなかった。

 「帰属価格」というのは、一言で言えば、「値段のないものの価値を測る」数学的な技術のこと。宇沢先生の説明によれば、メンガーが導入した概念らしい。メンガーは19世紀末の経済学者で、「限界革命」の立役者の一人だ(他の二人は、ワルラスとジェボンズ)。

 とは言っても、数学的にはもっと以前から使われていたもので、いわゆる「ラグランジュ乗数」というものに他ならない。ただし、数学でラグランジュ乗数法を習った人でも、それが「帰属価格」という経済概念であることを知っている人は少ないと思う。ラグランジュ乗数法とは、制約付き極値問題を解くために使われる便法だ。例えば、g(x, y)=bの制約の下で、関数 f(x, y)極値を求めたいときは、L(x, y)=f(x, y)+\lambda(b- g(x, y))x, y,\lambdaに関する微分がすべて0となるようにすればいい。この\lambdaラグランジュ乗数。そして、経済学では帰属価格にあたるというわけなのだ。

 大事なことは、パラメーターbを限界的に1だけ緩めると、最適化された f(x, y)には\lambdaだけ跳ね返ることになる、ということ。つまり、\lambdaは「制約が影に備えている価格もどき」だということになる。したがって、これを経済的な最適化の中で用いれば、「制約が秘めている価値を効用水準で計測する」というような使い方(あるいは解釈)ができる。詳しい数学的な解説は、以前のエントリー、

ラグランジュ乗数と帰属価格 - hiroyukikojima’s blog

を読んでほしい。

 ラグランジュ乗数について、たしか、経済学部の大学院のミクロ経済学で教わったけど、それが帰属価格というものであることは、明示的には教わらなかったと思う。しかも、かなり広範に用いられている技術である、ということは宇沢先生の論文を読むようになって初めて意識したことだった。

 帰属価格について意識するようになって、宇沢先生の「自動車の社会的費用」が、帰属価格の概念から発想されたのではないか、と思うようになった。宇沢先生は、自動車の社会的費用を1台あたり200万円という、とんでもない値に算出したのだけど、これが帰属価格だと理解すれば、そんなに驚くべき数値ではないと思えるようになった。(詳しいことは拙著を読んでくれたまえ)。

 そうしてみると、ラムゼーの最適成長理論も、小野さんの長期不況動学も、宇沢先生の最適炭素税も、すべて帰属価格から解釈できることがわかった。これは、大学院を出てずいぶん経過した今頃になって到達した境地である。(特定の研究分野の人にはあまりにあたり前のことかもしれないが)。

 そんなわけで、この第5章では、帰属価格を中心に据えて、自動車の社会的費用、最適成長理論、長期不況理論、最適炭素税を解説している。知らなかった人には、有益な知識になると思うので、是非読んでほしい。

 

 

 

 

 

医療ベース資本主義

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 前々回前回に続いて、新著の宣伝をしよう。新著は、『シン・経済学~貧困、格差および孤立の一般理論』帝京新書だ。この本では、貧困と格差と孤立を解決(ないし、緩和)する経済政策として、宇沢弘文先生の「社会的共通資本の理論」を推奨することに主眼がある。

 

 

社会的共通資本とは、宇沢先生の言葉を借りれば、

市民一人一人が人間的尊厳をまもり、魂の自立をはかり、市民的自由が最大限に保たれるような生活を営むために重要な役割を果たす財や社会的装置

というものだ。宇沢先生の分類では、自然環境を表す「自然資本」、道路・下水道・湾岸などの社会インフラを表す「社会資本」、医療・教育などの「制度資本」となる。ぼくは、現在では、AIなどを表す「知的資本」を加えるべきだと考えている。前回は「自然資本」について簡単に解説したので、今回は「制度資本」について解説したい。

宇沢先生が制度資本として強調したのは、前述の「医療」と「教育」だった。そして、ぼくも全くその通りだと思っている。なぜなら、これらは通常の経済理論の枠組みから大きくはみ出す社会的存在だからだ。

まず、「教育」について語ろう。教育についての経済理論はいろいろある。出発点にあたるのは、「人的資本理論」というやつ。これは、人が高等教育を受ける意味は、自己の生産性を上昇させ生涯収益を上げるためだ、というもの。しかし、これはちょっと考えてみただけでも無理がある。大学教育が生産性を上昇させるものばかりだとは到底考えられない。そこで出てきたのが、「シグナリング理論」というものだ。これはスペンスという経済学者がゲーム理論の枠組みから提供した理論。要するに、学歴は就業希望者が企業に与える「シグナル」であり、別に直接的な生産性と密接に関係しなくてもかまわない、とするものだ。少なくとも日本の大学教育の現状を鑑みればある程度の妥当性は受け取れる。拙著では、これ以外に、ボウルス&ギンタスによる「対応原理」とか、デューイの「リベラル派教育論」とかを紹介している。でも、ぼくが拙著で強調したかったのは、「教育の自己言及性」という性質なのだ。これは一言で言えば、「教育の真の価値を知るには教育が必要だ」ということである。詳しくは拙著を読みといてくだされ。

それよりなにより、ぼくが社会的共通資本の中心テーマとして打ち出したかったのは、「医療」である。経済学には「医療経済学」という分野があることはあるのだけど、ぼくはその到達段階にあまり納得できていない。そもそも、人間の苦痛や生命にかかわる医療を、通常の新古典派理論(市場経済)で扱うのはあまりに無理があると思っている。むしろ、医療を出発点にして、経済制度を考え直すべきではないか、と思っている。それが、拙著で打ち出した「医療ベース資本主義」なのである。宇沢先生が常々主張していた「医を経済に合わせるのではなく、経済を医に合わせるべきである」という思想の言い換えだ。

経済政策のターゲットを「GDP」から「健康寿命」に変更すれば、日本もまんざら捨てたものではない、という結論を導ける。このところ、日本の一人当たりGDPは世界ランキングの30位以下に落ちてしまったが、平均寿命は世界ナンバーワンである。「医療ベース資本主義」の立場からは、日本は世界に誇れる国だと言えるのだ。医療についての分析については、細かいことは拙著で読んでほしい。

 以上のように、「教育」とか「医療」とかを経済分析の中心に据えるならば、現在の経済学の定番的なアプローチははなはだ力不足だと言わざる得ない。なぜなら、「教育」や「医療」は、人間の尊厳や基本的人権というものに抵触するものだから、「価格を付けた市場取引」という観点だけでは全く掌握しきれないからだ。逆に、「教育」や「医療」を正当に分析し得る経済学が完成させられれば、それこそが経済学が物理学と肩を並べる「科学」の座を獲得しうる瞬間なんだと思う。

 これらについてのもっと詳しい議論は、拙著『シン・経済学~貧困、格差および孤立の一般理論』で読んでいただきたいが、ぼく自身のレクチャーを聴いてみたいのであれば、ちょうど良い講座があるので紹介しておこう。それは、「早稲田大学エクステンションセンター」が提供する市民向けの教養講座だ。ぼくはここで、2月にレクチャーをすることになっている。リンクをはっておく。

宇沢弘文の社会的共通資本を考える | 小島 寛之 | [公開講座] 早稲田大学エクステンションセンター

レクチャー内容の要約は以下である。

宇沢弘文は日本を代表する経済学者で、ノーベル経済学賞に最も近いと言われていました。主流派の経済学で多くの業績をあげたあと、制度学派という分野において独自の「社会的共通資本の理論」を提唱しました。「社会的共通資本の理論」とは、一言で言うなら「カネよりモノ」という発想です。自然環境、社会インフラ、教育、医療など公共のものを中心に、社会を管理・運営する理論なのです。この理論を通じて、市民が豊かで幸せに暮らせる安定した社会とは何であるかを考えます。

 

石川経夫『所得と富』

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今回も引き続き、拙著『シン・経済学~貧困、格差および孤立の一般理論』帝京新書の販促をしよう。これまで、これこれこれでもすでに販促のエントリーをしている。

ついでながら、早稲田大学エクステンションセンター」が提供する市民向け講座でもレクチャーをするので、先にそれをアナウンスしておく。

宇沢弘文の社会的共通資本を考える | 小島 寛之 | [公開講座] 早稲田大学エクステンションセンター

レクチャーは今年の2月に3回行われる。内容の要約は以下である。

宇沢弘文は日本を代表する経済学者で、ノーベル経済学賞に最も近いと言われていました。主流派の経済学で多くの業績をあげたあと、制度学派という分野において独自の「社会的共通資本の理論」を提唱しました。「社会的共通資本の理論」とは、一言で言うなら「カネよりモノ」という発想です。自然環境、社会インフラ、教育、医療など公共のものを中心に、社会を管理・運営する理論なのです。この理論を通じて、市民が豊かで幸せに暮らせる安定した社会とは何であるかを考えます。

時間に余裕があり、宇沢先生の理論(or思想)に興味や共感のある人は是非、参加していただければ幸いである。

 さて、今回は、ぼくのもう一人の師匠である石川経夫先生について書こうと思う。石川先生は宇沢先生の愛弟子であり、ぼくの修論の担当教官だった人だ。あまりに悲しいことに、51歳の若さで亡くなってしまった。

石川先生の思い出について、拙著『シン・経済学~貧困、格差および孤立の一般理論』帝京新書から引用しよう。

宇沢氏の薫陶を受けて一念発起し、経済学研究科の大学院を私は受験しました。経済学部出身ではない私には、口頭試験は鬼門です。少し専門的な質問をされて答えに窮しました。試験官は3人で、一人が石川氏でした。他の二人から厳しい質問が続き、私は硬直しました。助け船を出してくれたのが石川氏でした。私が宇沢氏のことを書いたエッセイについて、石川氏が唐突に質問をしたのです。そのエッセイは私が当時勤めていた塾のテキストに掲載したものでした。石川氏がそのエッセイを読んでいたことに私は驚愕しました。その場で理由を尋ねると、「宇沢先生に読ませていただいたので」と柔らかな表情で答えました。エッセイは私が宇沢氏に郵送したものでした。石川氏のひと言をきっかけに私は気持ちを立て直すことができました。自分が経済学を知らないことは仕方のないことだ。宇沢氏に教わったこと、宇沢氏にもらったテーマについて真摯に説明するしかない。そう覚悟を固めたのです。

運良く大学院に合格した私は最初から石川氏に師事することを決めていました。

このエピソードは、実は、以前にもこのブログにエントリーしたことがある。そこにはもう少し詳しいことが書いてあるので、興味があれば読んでいただきたい。また、石川先生のお人柄がしのばれる別のエピソードは、拙著『確率的発想法』NHKブックスのあとがきにもあるので、それも参照していただきたい。

 今回は、石川先生の名著『所得と富』岩波書店を紹介したい。なぜかというと、ぼくはこの石川先生の本で初めて、ジョン・ロールズ『正義論』を知ったからだ。ロールズの格差原理「社会的・経済的不平等が許容されるとしても、それは(a)最も不遇な人々の利益を最大限に高めるものであり、かつ(b)職務や地位をめぐって公正な機会均等の条件が満たされる限りにおいてである。」は、ぼくが経済学者になったあとで最も衝撃を受け、最も感動し、最も影響を受けた理論だ。『所得と富』を読んだことで、石川先生の言葉で格差原理を学び、いつのまにか目に涙があふれていた。経済理論(or思想)で涙を流したのはこれだけである。このときには、既に石川先生が亡くなっていたので、その影響もあったと思う。石川先生の解説はまるでロールズが憑依しているかのように感じられたのだった。拙著『シン・経済学~貧困、格差および孤立の一般理論』の最終章は、正義論の解説と自分なりの理論拡張にあてている。

『所得と富』は、所得分配の経済学を中心に書かれたすばらしい本だ。「はしがき」には次のような一節がある。

本書には2つの主題がある。第1に、労働市場における雇用と所得の決定の理論、第2に、物的な富の蓄積と、その分配の時間的推移をめぐる理論である。

また、次のようなことも述べている。

筆者にもひとつの意見がある。それは、人々の豊かさの感覚を規定する要因としては基本的な生活保障や生活上の余裕を支える物的環境の質ーー広い意味での所得の水準と言い換えてもよいーーだけでなく、そもそも所得を生み出すプロセス、あるいは人々が労働する過程自体の質もあるのではないかということである。人間は、生活時間の主要な部分を労働にあてているからである。所得の水準の高さと所得を生みだすプロセスの貧困さの間の不釣合いも、前記の要因と並んで、あるいはもしかするともっと重要な要因として存在するのではないだろうか? 労働のプロセスの豊かさをどのように概念規定するか、それは本書の全体を流れる伏線的主題である。

本書は、1991年刊行だが、この「所得の水準の高さと所得を生みだすプロセスの貧困さ」という問題は、今の労働環境について、もっと切実にあてはまるように思える。

 ぼくは大学院に合格してすぐ、エッセイのことを話してくれた試験官の名前を調査し、石川経夫先生だと突き止めた。そして、すぐに『所得と富』を買い求めた。大胆にも、1ページも読まないうちに、石川先生の研究室をアポなし訪問して、この本にサインをお願いしたのである。もし、中身について感想を求められたらと考えると、我ながら恐ろしい行動だったと思う。でも、石川先生は快く、サインをしてくださった。そればかりではない。「宇沢先生とお親しいのだから、私から献本するのが筋です。もう、お持ちなので、せめて代金を払わせてください」と言って、お財布から小銭を出してテーブルに並べはじめ、代金を頂戴してしまった。こういうところにも、石川先生のお人柄がにじみでている。

 サインには、ただ「石川経夫」とだけある。でも、このサインを見るだに、涙が溢れ出るとともに、学問と向かい合う勇気もみなぎってくる。なぜなのかについては、拙著『シン・経済学』で読んでいただきたい。

 

 

 

 

 

久賀道郎『ガロアの夢』

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自著の販促はしつこいと嫌われるので、そろそろやめて、別の話題に移ろう。

今回は、久賀道郎先生の名著『ガロアの夢』ちくま学芸文庫から復刻されたことを祝してこの本についてエントリーしたいと思う。

実は、久賀先生は宇沢弘文先生の親友で、宇沢先生から何度もお話を伺ったことがある。しまいには、宇沢先生から「君は久賀くんに似ている」とまでおだてられて、恐縮するものの、とても嬉しかった経験までした。その辺の事情はこのエントリーに詳しく書いてあるので、読んでほしい。

 この本のレビューをする前に、せっかくだから宇沢先生がらみで、ぼくが来週から行う市民向けレクチャーの宣伝とプッシュをしておこう。

宇沢弘文の社会的共通資本を考える | 小島 寛之 | [公開講座] 早稲田大学エクステンションセンター

レクチャーは2月2日、9日、16日の3回行われる。内容の要約は以下である。

宇沢弘文は日本を代表する経済学者で、ノーベル経済学賞に最も近いと言われていました。主流派の経済学で多くの業績をあげたあと、制度学派という分野において独自の「社会的共通資本の理論」を提唱しました。「社会的共通資本の理論」とは、一言で言うなら「カネよりモノ」という発想です。自然環境、社会インフラ、教育、医療など公共のものを中心に、社会を管理・運営する理論なのです。この理論を通じて、市民が豊かで幸せに暮らせる安定した社会とは何であるかを考えます。

わりと少人数なので、いろいろ質問とかしたい人には向いていると思う。上のリンクから申し込んでほしい。

 さて、久賀道郎『ガロアの夢』の話に移ろう。

 

これは、専門的な数学書なんだけど、そのスタイルがかなり特異なのだ。通常の専門書とは全く違う書き方をしている。それは目次にも端的に表れている。次のようなあんばいだ。

数学以前のことなど(第0週~第3週)

エイヤーッとひっぱってみる(第4週~第7週)

奥さんがとり替わってもわからない紳士たち(第8週~第11週)

人はしっぽをもっている(第12週~第13週)

ガロア理論を目で見よう(第14週~第15週)

解けるか、解けぬか(第16週~第19週)

さよならはHATTARIのあとで(第∞週~第∞+1週)

この章タイトルを眺めるだけで、その異色さと久賀先生の才気が見て取れる。この目次では何の本かわからないだろうから、簡単に説明すると、要するに「ガロア理論」の本だ。ガロア理論とは、「高次方程式が四則計算と累乗根だけで解けるかどうか」を解明した理論で、おおざっぱに言えば、「解を入れ替える群」の複雑さに依存する、というものだ。本書は、そういう「ガロアの定理」を解説しているわけでなく、「ガロア理論微分方程式への応用」を解説したものである。例えば、与えられた微分方程式が「四則と1次結合」「微分」「不定積分」「exp作用素」だけを有限回ほどこした形で解けるか、というような問題を目指している。

異色なのは、もちろん、章タイトルのユーモアだけではなく、数学の解説の仕方そのものにある。一言でいうなら、「厳密な数学的表現を捨てて、直感的イメージだけで進めていく」というスタイルで書いているのである。とりわけそれは「位相」が関係する部分に顕著である。「位相」を勉強したことがある人の多くが経験していると思うが、理解するのにはすごい努力が必要である。例えば、「連結」とか「連続写像」とか直感的には当たり前に思える概念が、非常にしちめんどくさい方法で定義されており、たくさんの人々が挫折を余儀なくされる。それに対して久賀先生は、その「直感的には当たり前に思える」イメージを使って解説しているのである。

例えば、「連結」については、

領域(すなわち陸地)Dのどんな2点P,Qを選んでも、Pを始点、Qを終点とする曲線をDの中にえがくことができるとき、領域Dは連結であるという、すなわち陸地Dの任意の1地点Pから他の任意の1地点Qまで人が歩いて(泳いだり、ジャンプしたりせずに)行けるとき、Dは連結であるというのである

という具合。また、「基本群の例」のところでは、

領域Dが全平面から1点P0を取り除いたものである場合を考える。海はなく1点P0に無限に小さい湖はあるだけなのである。いかに小さくても湖は湖であるから、既約にしたがい、P0をまたぎ越してゴムでできたレールを移動することは禁じられているのである。そのことが考えにくければ、点P0に天までとどくクイが打ってあると考えたらよい

みたいに解説が始まっている。

このようなイメージ的な書き方は、ありがたい人とそうでない人に分かれると思う。実際、本書の解説は数学者の飯高茂先生が書いているのだけど、次のような回顧をしている。

私は1961年に微積分の講義を久賀先生からきいた。私は高木貞治著『解析概論』に毒されていたので、極限の定義すら厳密に述べないで直感に頼る久賀式講義に馴染めなかった。

飯高先生が書いた数学書にチャレンジしたことがあるので、その印象から想像するだに「そうだろうなあ」と思う。でも、世の中のみんなが飯高先生のような天才ばかりではない。「厳密な数学的記述」にはついていけない人も多い。そういう人には、久賀先生の本は救いになる可能性がある。ただし、それゆえ「厳密に理解したい」と思ってはいけない。あくまで、「そういう感じなのかあ」とずんずん読み進んでいかないとならない。

ぼく自身は、この久賀先生の本が「数学力のリハビリ」になった。この本を読破したことで、数学的概念をどのように具体的なイメージにすれば良いのかを会得することができた。それをバネにして、経済学(というか意思決定理論)の論文を書けるようになった。さらには、いくつかの啓蒙書を久賀流で上梓することができた。例えば、『完全版 天才ガロアの発想力技術評論社とか『数学は世界をこう見るPHP新書とかである。今も、ある本の企画について、この久賀流を試してみようと準備している。久賀先生はそういう意味で、ぼくの「恩人」みたいなものだ。

宇沢先生と夕方の蕎麦屋でビールを飲んでいるとき、久賀先生の話をする宇沢先生は本当に楽しそうな顔をしていた。数学科に所属していた頃の感覚に戻ってしまうのだろうと思った。久賀先生がアメリカに旅発つ前日、宇沢先生が一人でお祝いしてあげたと言っていた。それには(ほんとか嘘かわからない)ちょっといわくがあるんだけど、そのネタについてはここには書けない。墓まで持って行く(笑)。

とにかく、久賀道郎『ガロアの夢』が文庫になったのは、まことにめでたいことである。筑摩書房はほんと、いい仕事をしている。

 

 

 

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