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ぼくの統計の本が、オーディオブックになりました!

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 ぼくの書いた統計学の教科書『完全独習 統計学入門』ダイヤモンド社が、オーディオブックになった。

せっかくだから、リンクを貼ろう。

完全独習 統計学入門のオーディオブック情報 - 聴ける本【FeBe(フィービー)】

オーディオブックというのは、本の内容を音声にしたもの。ぼくは、主に視覚障害の方々のためのツールかと思っていたけど、そうでもないらしい。車で移動中に本を読みたい人とか、電車の中で耳から本を聴きたい人とか、さまざまな需要があるとのこと。

でも、パラリンピック開催中でもあるし、視覚障害の方々向けという方向で、書こうと思う。

ぼくの本ではたぶん、二冊目だと思う。

最初にオーディオブックになったのは、90年代のぼくの単行本デビュー作『数学迷宮』(現在は、角川ソフィア文庫から『無限を読みとく数学教室』として刊行されている)だったと思う。ただ、商業ベースのものではなく、ボランティア的な音声化だったように記憶している(曖昧なんだけど)。そのときは、なんだかとても嬉しかったことを覚えている。なぜか、というと、この本は、4章を4つの文体で書きわけて、DJスタイルにする、という画期的な試みをしたからだ。だから、「聴いて」もらえるのなら、それにこしたことはなかったからだ(今刊行されている角川文庫バージョンでは、編集者の意向で、そういう小細工はやめることになった)。

それを思うと、今回の『完全独習 統計学入門』ダイヤモンド社のオーディオブック化には、少し「ハテナ感」があった。なぜなら、この本は、通常の統計学の教科書だし、図も(普通の教科書より)ふんだんに入っているからだ。

でも、よくよく考えてみると、この本を音声化するのは、なるほどとなった。なぜなら、この本は、ぼくの講義をそのまま「音声のように」書籍に落としたものだからなのだ。思い出してみれば、ぼくは、この本を書いたとき、「極力、リアルな講義を生のままで再現してみたい」という野望を持っていた。なぜなら、この本の内容は、大学で学生の表情を見ながら、彼らがうなずくような繊細な言葉を選んで展開した講義だからだ。それで、グラフも式も極力、言葉に置き換えて、文章の中で二重に表現している。きっと、「音声で聴く」とよりリアルになるんじゃないか、と思うのだ。

心配だったのは、この本が(通常の統計学の教科書に比べても)大量の図版を投入していることだった。視覚障害者の方々は、オーディオブックで図版があるとき、どうするんだろう、と気になった。そこで、特別支援学校の指導員をしている友人に尋ねてみた。その人は、盲学校の指導員の経験もある。その人がいうには、オーディオブックには図版の音声による説明もついている、そして、生来の視覚障害の方々は、小さい頃から、「図を言葉で理解する」訓練を受けているのだそうだ。だから、図版についてもなんとかなるのだそうだ。「そうなのか」とびっくりした。

そこで、ぼくは、その人に、「点字化のほうが良いのではないか」と尋ねてみた。「音声」というのは、時間経過をリアルタイムで必要とするコンテンツだ。他方、文字情報は、個人の速度で進むことができる。だから、点字のほうがより良いように思えたのだ。その人の説明によると、点字はその性質上、同じ本を翻訳しても、2倍3倍の分量になってしまって、決して効率的とは言えないのだそうだ。「そうだったんだ」とちょっとびっくりした。

 今回は、これで終わってもいいんだけど、これじゃあまりに個人的で、読者を利する点が少なすぎるだろうから、別の本も紹介しよう。前からいつか紹介したい、と思っていた本、新井紀子『ほんとうにいいの?デジタル教科書』岩波ブックレットだ。

この本は、2012年刊行、もうずいぶん経過してしまった。数理論理学者の新井紀子さんが、総務省のデジタル教科書推進について、さまざまな検討をしている本である。デジタル教科書というのは、パソコンやタブレットを基幹とした教材のことである。

新井さんは、この本の中で、多様な方向性から「デジタル教科書」について、その功罪を予測している。その主要な部分には、当然、「障害者に対して」ということが入ってくる。例えば、次のように主張する。

デジタル教科書は、弱視や自閉症等の障害のある子どもたちにとっては、大きなメリットはある。一方で、デジタル教科書は新たな学習障害を生む可能性もあることに注意が必要である。「デジタル教科書を必要とする子どもたちにデジタル教科書を」という主張は正しいが、「すべての子どもにデジタル教科書を」という主張は正しいとは言えない。

実際、液晶画面などに適応力が悪く、かえって認識を損なう「障害」が存在するそうなのである。障害は多様であり、どんなコンテンツにも障害は存在すると考えるほうが無難である。

 また、新井さんは、人工知能の研究者でありながら、旧態依然としたコンテンツに対しても、むげには否定しない。例えば、デジタルベースと紙ベースのコンテンツを比べて、前者の優位性が多くあることを指摘しながらも、後者にも無視できない効能があることを提示している。例えば、次のよう。

読者の多くは、複数の資料を広げて一覧できる状態で相互参照しつつ学んだ経験があるだろう。もし、机がA4サイズしかなく、教科書と教材を「重ねて」置かなければならなかったとしたら、非常な不便を感じるのではないだろうか。(中略)。

なぜ、上下に重なった状態でバラバラに見るのと、一覧で見ることができるのとで違いが生じるのだろうか。それは、私たちの脳がそもそもそのようにできているからだろう。つまり、「同じ視野の中に同時に入る物事の間にはなんらかの関連性がある」、そう思うことが動物だった時代から、私たちの脳にとって外部世界を解釈する自然な方法なのではないだろうか。

鋭い観察眼を基礎とした実に哲学的な議論だと思う。本書は、こういうみごとな「哲学」の連続なのである。

 とは言え、先ほどの特別支援学校の先生によれば、デジタル機材の発達は、障害のある子どもたちの生活を激変させたのは間違いないことだそうだ。視覚障害のある子どもたちは、ウエブの文章を音声で聴くことができる。弱視の子どもたちは、自分たちに適切な大きさにウエブの文字を拡大して読むことができる。聴覚障害の子どもは、youtubeの(誰かが勝手に付けた)字幕付きの画面でさまざまな動画を楽しむことができる。自分の言葉をスマホで音声に変換することができる。もちろん、新井さんの指摘するように、デジタル機材は新しい障害を生みだすだろう。でも、それを用心しながら、「すべての人」ではなく、「困っている人」に向けて利用すれば、世界は劇的に変わるだろう。

 他方で、アナログコンテンツも捨てたものではない、と思う。その指導員さんの話では、視覚障害者の子どもの多くが、幼少期にそろばんを習って、それで計算を覚えるのだそうだ。ぼくも、小学生のときに長い間そろばんを習い、どうにか暗算2級まで取得した。そのおかげで、50代になった今も、簡単な計算はぼくにとって、指先でのそろばんの玉の感触に変換される。これはとても不思議なことである。そろばんとは、「触覚による計算」に他ならないのである。そろばんには、そんな意義があると初めて認識させられた。

 世界が豊かになる、ということに、ある何かが決定的な優位性を持つのではなく、それぞれがそれぞれのありかたで意義を発揮するのだと思う。ぼくらはそれを見極め、有効に利用すればいいのだ。

 


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