今回は、黒川信重『リーマンの夢』現代数学社についてエントリーしよう。
この本は、一昨年(2017年)に刊行なので、少し時間がたってしまった。入手当時も一読しているが、今ぼくは素数についての啓蒙書を準備していることもあり、再読してみたのだ。すると、前とは少し違う感慨があったので、それを語りたくなった。
本書のタイトル『リーマンの夢』は、まさに、数学者リーマンが当時に夢見たであろうことを著者の黒川さんが想像して書いた、という意味だと思う。もっというなら、「リーマンが黒川さんに憑依して書かせた」と言ったほうが正しいかもしれない。それほど幻想的でかつ斬新な本なのだ。
リーマンは19世紀に活躍した数学者で、たくさんの業績があるが、代表的なものは、ゼータ関数の発見、素数公式の導出、リーマン予想の提出、リーマン面の構成、などなど。残念なことに39才の若さで亡くなってしまった。
そのリーマンの数学について、ゼータ関数を中心に語ったのが本書だ。本書が斬新である点を箇条書きしてみよう。
(A) リーマンのゼータ関数の研究と黒川さんの「絶対ゼータ関数」の研究とがクロスオバーしながら、行きつ戻りつする構成になっている。
(B) リーマンが草稿だけを残した研究についても黒川さんの感性から詳しく紹介している。
(C) リーマン予想を解決するための本質的なアイテムについての解説がある。
(D) メルセンヌ素数やBSD予想についての珍しい解説が読める。
(E) セルバーグやラングランズとの黒川さんの交友のエピソードが読めて、黒川さんという数学者の位置づけがしみじみわかる。
(F) 数学が夢のある学問であることが実感できる。
以下、もう少し詳しく説明していこう。
ゼータ関数というのは、そもそもはオイラーの研究から始まったものであり、「自然数のs乗の逆数の総和」のことだ。これをζ(s)と記す。これは、例えばs=2での値ζ(2)が「円周率の2乗を6で割った数」になるなど、非常に面白い性質を持っているのだが、最も重要な発見は、素数ぜんぶを使って積表示できることだ。これを「オイラー積」という。
リーマンはこのζ(s)を複素数全体で定義し、その虚の零点(ζ(s)=0を満たす虚部が0でないsたち)を使ってx以下の素数の個数を表す公式を得た。それが「素数公式」である。だから、ゼータ関数の虚の零点がわかれば、x以下の素数の個数を完全に掌握することができるわけだ。
リーマンは「虚の零点たちすべての実部が1/2であろう」と予想した。これがリーマン予想だ。つまり、虚の零点は、複素平面上の直線上に分布している、という予想なのである。大胆な言い方をすれば、素数はゼータ関数の零点というフィルターを通すと、その不規則性の一部が封じ込められる、ということだ。
このリーマン予想が、提出から150年以上経過した現在も解けていない。フェルマー予想落城のあと、難攻不落の未解決問題の代表となっているのだ。
黒川さんは、リーマン予想の解決を夢見て、数学の研究を続けてきた。そこで到達したのが、「絶対ゼータ関数」という新しいゼータ関数の創造だ。
(A)(B)は、黒川さんがリーマンの研究の中に絶対ゼータ関数の影を見ていることの解説である。したがって、絶対ゼータ関数の解説とリーマンの研究(草稿)とを行きつ戻りつする。通常の数学書は時系列に研究を紹介していくので、この手法は非常に斬新だ。まるで、黒川さんがリーマンと対話しているかのようである。これを読んでいくと、リーマンの草稿に、絶対ゼータ関数の概念が萌芽していることが判明し、リーマンの天才性にただただ驚かされる。黒川さんは、リーマンが長生きすれば、絶対ゼータ関数を使ってリーマン予想を解決したのではないか、という「夢」を見ているのだ。ただし、絶対ゼータ関数については、本書ではあまり詳しく説明されないので、提示されている参考文献を入手する必要がある。
ゼータ関数は、リーマンの研究後、複素平面以外にさまざまなアイテムに対して創造された。楕円曲線や、代数体や、リーマン面や、ガロア表現や、行列や、保型形式や、離散グラフなどなど。そして、これらのいくつかについては、リーマン予想の類似が証明されている。本書はこの点についても語るが、非常に大づかみな解説なのが、かえってアプローチの本質を浮き彫りにしてくれる。それが(C)だ。ぼくの理解では、要するに、ゼータ関数を行列式(det)で表現して、固有値問題に帰着されるのが有望なのだ。黒川さんは、絶対ゼータ関数にこのようなアプローチをすれば、本家のリーマン予想が解けると期待している。
ぼく自身がこの本ですごくわくわくしたのは、(D)の点だ。
メルセンヌ素数とは、「2のべき乗から1を引いてできる素数」で、3、7、31などがそう。現在見つかっている巨大な素数はすべてこのメルセンヌ素数だ。メルセンヌ素数には、コンピューターで実用的時間内でチェック可能な判定法があるのだ。このメルセンヌ素数は、現在、51個見つかっているが、数学者の多くは無限に存在していると予想している。この予想「メルセンヌ素数予想」については、ほとんど文献がないのだが、本書には紹介されており、非常に貴重だ。それは、「メルセンヌ素多項式予想」というものだ。
「メルセンヌ素多項式」とは、素数pに対する1+x+(xの2乗)+・・・+(xのp-1乗)というxの多項式((xのp乗-1)/(x-1)としてもいい)で、素数ℓの剰余体において既約多項式となるものをいう。x=2を代入すればメルセンヌ数になるから、メルセンヌ素数に対応する概念となる。これに関して、次の二つの結果が得られているという。
命題1.代数体のゼータ関数に対するリーマン予想を仮定すると、素数ℓを原始根とする素数pが無限個存在することがわかる。
命題2. 相違なる素数ℓと素数pに対して、次が同値。
(1) 1+x+(xの2乗)+・・・+(xのp-1乗)は素数ℓの剰余体でのメルセンヌ素多項式。
(2) ℓはpの原始根
(ここで「ℓはpの原始根」というのは、(ℓのp-1乗-1)が初めてpの倍数となること)。
これを踏まえると、「代数体のリーマン予想」が解ければメルセンヌ素多項式が無限に存在することが証明されることになる。もちろん、代数体のリーマン予想は未解決で、まだほど遠いので、メルセンヌ素多項式予想もほど遠いが、めっちゃわくわくする話だ。以前、黒川さんと対談したとき、メルセンス素数予想の解決には適切なゼータ関数の発見が必要と仰っておられたが、こういう意味だったのか、と本書で初めて理解した。ちなみに、命題2は黒川さんの発見らしい。
BSD予想(バーチとスィンナートンダイアー予想)は、ゼータ関数に関する(リーマン予想とは別の)予想で、1億円がもらえるミレニアム問題のひとつである。この問題についても、世の中にあまり知られてない重要なことが解説されている。すなわち、ミレニアム問題に取り入れられているBSD予想ではなく、おおもとの(2つあるもうひとつのほうの)BSD予想は、リーマン予想よりも強く、元祖BSD予想が証明できればリーマン予想が証明できる、ということだ。ミレニアムBSD予想も系として出てくるから、ミレニアム問題がふたつ同時に解けて、2億円もらえる(かどうかは知らない)。これを深リーマン予想(DRH)と呼ぶらしい。このいきさつも面白い。
でも、数学ミーハーのぼくにとってすごく楽しかったのは、(E)の点だ。そして、非常に驚いたエピソードでもある。二つほど引用しよう。
私は、30年近く昔になりますが、1988年5月にプリンストン高等研究所を訪問した際に、偶然、セルバーグ先生にお目にかかることができました。その折にセルバーグゼータ関数の話をさせていただいたことから、セルバーグ先生のオフィスに招待され、セルバーグゼータ関数のことをいろいろとうかがうことができるという幸運にめぐまれました。しかも、ちょうど書き上がったばかりの「ゲッチンゲン講義録コメント」をいただき感激したものです。このコピーは、セルバーグ先生自らしてくださったのでした。
すごい! そして、うらやましい。もうひとつ引用しよう。
私にとっては、ラングランズの``メルヘン論文''は思い出深い論文です。ラングランズ先生から出版前に手紙とともに送られてきました。論文に引用されている通り、私が1976年にジーゲル保型形式のラマヌジャン予想に反例があることを発見したこと(1976年2月24日付手紙でプリンストンの志村五郎先生に伝えた)はラングランズにラングランズ・ガロア群を巡る問題を考える一つのきっかけを与えたのでした。
すごい! そして、うらやましい。
本書にはこういう美味しいエピソードが入ってるし、さらには、ユーモラスな冗談も書かれていて笑わしてもくれる。一つだけ紹介しよう。
ところで、今回のメルセンヌ素数を本として印刷すると通常の10進表記では数千ページになりますが、2進表記なら1が74207281個並ぶシュールな本――本というよりも壁紙――になります。
いや、暗黒通信団なら、2進表記の本を刊行しそうな気がするぞ。
さて、黒川さんの『リーマンの夢』を読む前に、以下のぼくの本を読んでおくことを激しく推薦しておこう。
やっぱ、数学って楽しいよね。