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ルート数のダンジョン、横から見るか、上から見るか。

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 ずいぶん、間があいてしまったが、今回は「2次体の数論」の話、もっと簡潔に言えば、ルート数の魅力的な世界についてエントリーしようと思う。

 その前に、音楽の話をちょっとだけ。

ぼくが、Tricotという日本のバンドを好きなことは何回も書いてきた。例えば、直近では、次のエントリーだ。

Tricotの無観客ライブは、本当にすばらしかった。 - hiroyukikojima’s blog

そのTricotは今週にも、オンライン有料ライブ(課金+投げ銭)「猿芝居vol.2」を実施した。こっれがまた、すっばらしいライブで、感動しまくった。今回は、ファンからのリクエストの上位10曲を演奏する、というすばらしい企画。さすがTricotファン、リクエストの投票がめっちゃマニアックで、的を射ていた。すべてぼくの聴きたい曲だった。たった一つ残念だったのは、ぼくが最も好きで、一度もライブで聴いたことのない「42°C」が選ばれなかったこと。ぼくが投票しなかったのは、きっとみんなが投票してくれると信じていたからだ。笑

 新型コロナは、世界をいろいろ変えてしまったと思う。大部分は、「やもうえない変化」「悪い方向の変化」だけど、ごく少数だが、「良い変化」「必然的な変化」「気づきをもたらす変化」があったと思う。

 Tricotの無観客オンライン・ライブはその一つ。彼らのライブはだいたい、スタンディングのライブハウスで行われており、ぼくのような老人には正直きつい。さらに、背も低いので、ステージが見えず二重苦だった。それが、オンライン・ライブだと、疲れず、感染の危険もなく、好きな時間に安全に、ステージ上をまるごと観ることができる。こんなすばらしいことはないと思う。Tricotは、新型コロナ収束後も、是非、これを続けてほしい。

 もう一つ。ぼくの大学ではオンライン講義が実施されているが(少人数は対面)、オンライン講義のほうが勉強しやすい学生がかなり多くいる、ということが明らかになった。音声を何度でも聴くことができるし、掲示板での質問は敷居が低いし、オンラインでの確認テストは何回でも入力できる(ように設定している)から、納得するまで勉強できる。大学での講義様式も、きっと、新型コロナ後に変化していくのだろう。

 さて、本題に入ろう。

今回は、「2次体の数論」の本を紹介する。ネタ本は、山本芳彦『数論入門』岩波書店である。現在、この本を精読している理由は、雑誌『高校への数学』東京出版の今年度の連載で「ルート数の冒険」と称して、2次体の魅力を中学生たちに布教しているからである。(興味ある人は是非、連載を読んでほしい)。

 

数論入門 (現代数学への入門)

数論入門 (現代数学への入門)

 

 この本は、数論全般を扱っているが、「2次体の数論」に多くのページを費やしている。

 2次体というのは、mを平方数でない(正負の)整数とするとき、「(有理数)+(有理数)√m」という形の数の集合(ℚ(√m)と記す)のことをいう。このような数に対する整数論を展開するのである。

 この本の最も大きな特徴は、「(有理数)+(有理数)√m」の中で、「(整数)+(整数)√m」という集合の持つ数論的性質を詳しく調べていることだ。本書では、この集合「(整数)+(整数)√m」を整域ℤ[√m]と呼んでいる。

  整域ℤ[√m]は(有理)整数と類似した世界として扱うことができる。例えば、ℤ[√m]において「a+b√mがc+d√mの倍数である」ということを、「(a+b√m)=(c+d√m)(x+y√m)となるℤ[√m]の要素x+y√mが存在する」と定義すれば、倍数・約数の概念を定義することができる。そうすれば、「素数」にあたる概念も導入することができるようになる。ただし、(有理)整数の世界では、素数pは「pがこれ以上、(1以外の数で)積に分解できないこと」と「pがabを割り切るなら、aまたはbを割り切る」と両方の性質を持っているが、整域ℤ[√m]ではこれを区別しないとならない。すなわち、前者を「既約元」、後者を「素元」と呼び、一般には異なるのである。後者のほうが大事であり、後者が素数に対応する。(後者ならば前者、は必ず成り立つ)。

 2次体の数論で最も面白いところは、前者と後者のずれが起きることなのだ。

例えば、m=2のときの整域ℤ[√2]では前者と後者が一致する。したがって、既約元たちの積への分解について「既約分解の一意性」(素因数分解の一意性に対応する性質)が成り立つ。他方、m=10のときの整域ℤ[√10]では、前者と後者は一致しないので、「既約分解の一意性」が成り立たない。

 整域ℤ[√m]という「(整数)+(整数)√m」タイプの数の代数世界は、中学生にもなじみの深いものだ。これが、(有理)整数世界と似ている部分を持ちながら、違う正体、異なる顔も持っている。これはとても深淵なことではないか!

 山本芳彦『数論入門』の優れている点は、まさに、この整域ℤ[√m]をダイレクトに扱っていることだ。通常の数論の本では、整域ℤ[√m]ではなく、「2次体ℚ(√m)の整数環」というのを解説する。これは、ℚ(√m)の中の数で、(xの2乗)+ax+b=0(a, bは整数)という2次方程式の解となる数の集合のことだ。したがって、「(整数)+(整数)√m」だけではなく、「(有理数)+(有理数)√m」のタイプの数も一部混じることになる。例えば、(xの2乗)+x+1=0の解は、(-1+√-3)/2なので、これは「2次体ℚ(√-3)の整数環」の「整数」となる。このような集合を考えるのには必然性があるのだけど、(素イデアル分解の話につなげる必然性)、素人しては、やはり素朴な整域ℤ[√m]での数の振舞いを先に見ておきたい。この本は、それをやってみせてくれる稀有な本なのである。非常に簡単な工夫だが、これまでこういうことをやった数論の本はぼくは知らない。

 この本での整域ℤ[√m]に関するアプローチは、おおざっぱにまとめると、次のようなものだ。(m=3を例に説明する)

 (1) 素数pが「(xの2乗)-3(yの2乗)」という形式で表されるのは、どんなときか? (2次形式)

 (2) 3が素数pを法として平方剰余となる(3が平方数と合同になる)のは、どんなpか? (平方剰余相互の法則)

 (3) 整域ℤ[√3]の集合で、(有理)素数pが素元になるのはどんなときか? (素元分解整域)

この3つは、相互に緊密な関係を持ち、同じ根っこを持った問題なのである。これは、数論の本領であり、実にエキサイティングなことだと思う。それを、深い理論を使わずに、非常に初等的に証明するのが、この本の面目躍如なところだ。また、豊富な例と具体的な計算が投入されているのも他書に差をつけている。

 ただ、以上のことはこの本の欠点にもなっている。

なぜなら、通常の代数的整数論の本で必ず解説されている「イデアルの包含関係は、約数・倍数関係」や、「素イデアル分解の一意性」や、2次体の類数についての「ミンコフスキーの公式」など、重要な定理が証明なしで掲載され、それを前提に解説が進むことである。これらを証明するには紙数が足りなかったのだろう。また、どうやったって、初等的では済まなかったからなのだろう。

 この点を補うには、以前に

高木貞治『初等整数論講義』の続きで読むべき数学書 - hiroyukikojima’s blog

で紹介した、小野孝『数論序説』裳華房が最適であろうと思う。

 この本は、上記のエントリーで書いた通り、代数的整数論の解説書として最も優れた構築をしている本だと思う。「2次体の整数環」についての諸性質を示す場合にも、もっと広い「代数体」全体の性質を見たほうが近道なのだ。例えば、「イデアルの包含関係は、約数・倍数関係」とか、「素イデアル分解の一意性」とかは、この本ではガロア理論を援用して、非常に鮮やかに証明されている。したがって、山本版で省略されている証明を知りたかったから、小野版にあたるのがいいと思う。

 山本芳彦『数論入門』は、ルート数のダンジョンという魅力的な世界を、横から見て、楽しく冒険する本である。他方、小野孝『数論序説』は、そのダンジョンを高見(代数体のガロア理論)から俯瞰して、ダンジョンの構造をまるっと掌握する本である。どちらが好きかは、好みと知識のあり方に依存するだろう。

 山本芳彦『数論入門』の奥付によると、この本は2003年に刊行され、山本先生は翌年の2004年に亡くなっている。覚悟の上で書いたのなら良いが、そうでないなら、この本の行く末を見届けずに他界したことはさぞ無念であったろう。(合掌)。

 

数論序説

数論序説

  • 作者:小野 孝
  • 発売日: 1987/01/25
  • メディア:単行本
 

 

 

 

 

世界は素数でできている (角川新書)
 

 

 


ネコの物語が、こよなく好きだ

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今回は、いつもと趣向を変えて、ネコにまつわる物語のことをエントリーしようと思う。どうしてそんなことを思い立ったかというと、ネットフリックス配信のアニメ『泣きたい私はネコをかぶる』を最近、観たからだ。

映画「泣きたい私は猫をかぶる」公式サイト|Netflixにて全世界独占配信中!

この映画を観たのは、そもそもは「ヨルシカ」という音楽ユニットの曲を聴いたのがきっかけだった。ヨルシカの曲はあまりにすばらしく、久しぶりにぞっこんになってしまった。

まずは、「花に亡霊」↓

https://www.youtube.com/watch?v=9lVPAWLWtWc

この曲は、アニメのテーマ曲で、PVがアニメの宣伝にもなっている。めちゃくちゃ良いPVなのでこれだけでも観る価値がある。是非、観てほしい。きっとアニメも観たくなると思う。

もう一曲は劇中歌で、「夜行」という曲↓

https://www.youtube.com/watch?v=MH5noJJfqDY

この曲も、めちゃめちゃ良い。なんか、子供の頃特有の不安感と高揚感を思い出してホロっとなる。

 なぜ、ヨルシカの曲がそんなに衝撃なのか。それは、曲の出来の良さや女性ボーカリストの声と歌唱技術もさることながら、とにかく歌詞がぐっとくるのだ。こういう歌詞は今まで、あるようでなかったと思う。単なるおじさん殺しの曲なのかもしれないけどさ。

 アニメ『泣きたい私はネコをかぶる』は、かぶるとネコになることができる仮面を使って、ネコになる女の子の物語だ。ネコになって、恋心を抱く男子に会いにいくのだ。人間のままだと素直になれない主人公だが、ネコになれば男子と素直にコミュニケーションできる。男子の心に寄り添うことができる。でも、ネコのままでは人間の言葉を話せないから、彼女の気持ちを伝えることはかなわないのである。

 アニメ『泣きたい私はネコをかぶる』には、新海アニメ(の中の『君の名は。』『天気の子』)のような派手さはない。また、宮崎アニメのようなダイナミックで思想的な深みもない。どちらかと言うと、テーマが(家庭問題とか)今風な卑近さで、ちんまりした話になっている。まあ、それはそれでとても楽しめるんだけどね。とにかく、なんと言ってもネコたちがかわいくて、それでもう、すべて許せてしまうのだ(笑)。

 驚くのは、新海アニメもそうだけど、このアニメも、宮崎アニメの洗礼を受けているように思われることだ。もちろん、これはぼくの個人的印象にすぎないけど、随所のシーンの絵コンテに宮崎駿さんの生み出したイメージが感じられる。やはり、宮崎駿さんは天才なんだと思う。

 ネコの物語のアニメと言って他に思い出すのは、アニメ『銀河鉄道の夜だ。

銀河鉄道の夜 [Blu-ray]

銀河鉄道の夜 [Blu-ray]

  • 発売日: 2014/05/30
  • メディア:Blu-ray
 

 これは、ご存知、宮沢賢治銀河鉄道の夜』のアニメ化なのだけど、ポイントになるのは、登場人物をネコにして擬人化したことだ。絵は、ますむらひろしさんの漫画を原案にしている。そのおかげで、あの悲惨な物語(とぼくは思っている)がいくぶん緩和され、幻想味の中でやんわり鑑賞できるようになっている。細野晴臣さんの音楽もすばらしく、さめざめと切ない映画に仕上がっている。このアニメも名作だと思う。

 もう一つ、忘れられないネコの物語は、劇団唐組の演劇『さすらいのジェニー』だ。これは、1988年に唐十郎の作・演出で上演された舞台劇。原作は、ポール・ギャリコの小説である。ギャリコは、映画化された『ポセイドン・アドベンチャー』で有名だ。

 劇団唐組『さすらいのジェニー』は、浅草の川沿いの隅田公園に小屋を建てて上演された。記憶では、芝居小屋を設計したのは建築家の安藤忠雄さんだった。金属の棒のようなものを縦横無尽に組み上げたへんてこな劇場だった。舞台には水路のようなものがあり、船で流れながら物語が演じられる、というすごい仕掛けだった。まあ、水を利用するのは、唐さんの十八番なのだけどね。そして、ジェニーを演じる主演は緑魔子さんだった。

 ぼくが最初に観に行った日は、緑魔子さんが喉を壊したため、休演となってしまった。しかし唐さんは、せっかくがんばって並んでチケットを買ったぼくらに粋なはからいをしてくれたのだ。それは、緑魔子さんの登場シーンまでを無料で見せてくれる、というはからいだった。水路の向こうの舞台の扉が、ばーん、と開くと、そこにネコのジェニーにふんする魔子さまが立っている、というまさにそのシーンまでみせてくれたのだった。

 ぼくはどうしても演劇全体を観たい気持ちにかられて、別日に再度並んで当日券をゲットした。その日は、あいにくの雨で、金属の棒で組まれた小屋は雨音の反響で台詞が聴きづらく、さらには金属が冷たくて、ものすごい逆境の中で最後まで観劇をしたのだった。それでも、切ない切ないネコたちの物語に、ぼくらはさめざめ感動したのだった。(実は、今年、唐組はこれを再演したらしい!)

 最後にもう一つだけネコの物語を紹介したい。

 そう、ぼくの書いたネコの物語だ。(実は、これを書くのが、このエントリーの真の目的なのだ。笑)。それは、『夜の町はネコたちのもの』という児童小説である。この小説は、拙著『ナゾ解き算数事件ノート』技術評論社という短編集に収録されている。

ナゾ解き算数事件ノート (すうがくと友だちになる物語2)

ナゾ解き算数事件ノート (すうがくと友だちになる物語2)

 

 この本は、「パラドクス探偵団シリーズ」という、パラドクスに遭遇して成長していく子供たちの物語の短編集なのだが、最後に一篇だけ別の物語が付録として収録されている。それが、『夜の町はネコたちのもの』なのである。これはもともとは、『中学への算数』東京出版という(中学受験を目指す)小学生のための雑誌に連載したものだった。

 これは、政治家や役人が権力を使って悪事を働いていることに、一匹のネコが気づき、それを暴く物語だ。推理小説仕立てになっており、数学のある著名な定理が解決の糸口を与えることになる。もったいないのでネタばれしないから(笑い)、是非とも、ご購入の上、お読みいただきたい。

 実はこの物語は、亡くなった愛猫に捧げるために書いたものだった。ぼくは、20代の10年弱の間、一匹の雑種ネコと暮らした。そのネコは、ぼくの兄弟姉妹がどっかからもらってきたネコで、アパートの大家に見つかったため、数日だけ預かってくれと置いていったものだった。数日預かったら、情が移って、ずっと飼うことになった。思えば、最初からそれを見込んで置いていったのだと思う。そのネコは、あまり人に馴れず、かみついたり引っかいたりする乱暴なやつだったが、それでも主であるぼくには全幅の信頼を持っていてくれた。だから、亡くなったときはあまりのショックで、ぼくは体調を崩してしまうほど落ち込んだのだった。そのネコへの弔いとして書き上げたのが、この『夜の町はネコたちのもの』なのである。もう30年も昔のことなのだけど、いまだに、そのネコの夢を見て、起きて涙ぐむことがある。

オイラー素数生成式の思い出

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今回は、「オイラー素数生成式」について、出会いと再会を書いてみたい。

その前に音楽の話を一つだけ。前回のエントリー、

ネコの物語が、こよなく好きだ - hiroyukikojima’s blog

で、最近、音楽ユニット・ヨルシカが好きだということを書いたが、そのヨルシカがリリースした最新アルバム「盗作」があまりにもすばらしいのだ。一曲一曲もすごいのだけど、全体が一つのストーリーになっていて、コンセプト・アルバムになっている、というのがぶっとびなのである。こんなバカなアルバムを聴いたのは、ぼくの経験では、ピンクフロイドの「アニマルズ」「ウォール」以来、久々だと思う。(他のプログレのバンドを無視するな、という声も聞こえてきそうだが無視する。笑)。

しかも、ぼくが購入した「盗作」初回限定版には小説とカセット・テープがおまけで付いている!現在、ぼくの家にはラジカセがないので、途方に暮れているところだ。なんてことするんだ!

ボカロPのn-bunaさんの楽曲もめちゃくちゃ斬新だが、ボーカルのsuisさんの声と歌唱力がすばらしい。よくよくみたら、「TK from凛として時雨」のお気に入りの最新アルバム「彩脳」にsuisさんがゲストで入ってた!気が付いてなかった。このアルバムも最高のアルバムだ。

 さて、本題に戻ろう。

オイラー素数生成式」とは、(xの2乗)+x+41、という2次式である。これは、xに0から39まで代入すると、連続して40個の素数を生成するとんでもない2次式だ。天才オイラーの発見だから、オイラーにしてはたいしたことではないかもしれないが、ほれぼれしてしまう。

ぼくがこの式に出会ったのは、中学生のときだった。何かの啓蒙書で知ったのだと思う。記憶はあいまいだが、たぶんぼくのことだから40個計算して、それらが素数であることをチェックしたのだろう。そして、そのみごとさに見惚れたことだろう。

x=40を代入すると素数にならない、ということは勘がいい人ならすぐわかる。(41でダメなのは勘が悪くてもわかる。笑)。なぜなら、(xの2乗)+x=x(x+1)からx=40なら、これが40×41となるからだ。つまり、x=40では素数にならないことは簡単にわかるが、それまではずっと素数が生成される、というのはめっちゃすごいことである。

オイラー素数生成式」と再会したのは、塾講師をしていた頃だった。数学オリンピックで、次のような問題が出題されたのを見たからだ。

(数学オリンピック 1987年キューバ大会) 

nを2以上の素数とする。

0≦k≦√(n/3)をみたす任意の整数kに対して、(kの2乗)+k+nが素数ならば、0≦k≦n-2の任意の整数kに対しても(kの2乗)+k+nは素数であることを示せ。

この問題を見たときは心底驚いた。これは、まさに「オイラー素数生成式」をテーマにする問題ではないか!しかも、この問題(定理)によれば、√(41/3)=√13.6・・=3.6・・だから、k=0, 1, 2, 3について素数が生成されることを確認すれば、k=39まで素数であることが保証される、というのだ。こんなことが初等的に証明できる、ということに思わずのけぞったのである(数学オリンピックの問題は、原則として、数1までの知識で解けるように作られている)。

もちろん、証明は常人に思いつくようなものではなかった。面倒なので概要で済ませるが、次のようなものである。

まず、もしも、0≦k≦n-2のkに対して素数でないものがあるとして、最初のそれをsとする(つまり、それまではすべて素数となると仮定される)。その上で、(sの2乗)+s+nの素因数で最小のものをpとする。この素数pに対して、0≦k≦s-1なるkに対する(kの2乗)+k+nが、素数pそのものになるかどうかを検討する。sがある程度大きいと、(すなわち、√(n/3)以上だと)、0≦k≦s-1なるkに対する(kの2乗)+k+nのどれかが素数pに一致する。しかし、このように、pの倍数が2回現れることは不可能なのだ。それは、(sの2乗)+s+n-{(kの2乗)+k+n}の因数分解からわかるのである。(詳しい、証明は、拙著『数学オリンピック問題に見る現代数学ブルーバックスを参照してほしい)。

いやあ、すごいことを思いつく人がいるものだな、と惚れ惚れしたものだった。

 ところが、最近になって、この「オイラー素数生成式」とまた再会したのである。

それは、最近読んでいた小野孝『数論序説』裳華房である。この本については、

高木貞治『初等整数論講義』の続きで読むべき数学書 - hiroyukikojima’s blog

で紹介したので、参照してほしい。

この本の最後のほうに、唐突に「オイラー素数生成式」が登場する。しかも、なんと!練習問題での登場だ。それは以下のような問題である。(表現をわかりやすく変更している)。

問題4.16(ラビノヴィッチ) 有理数虚数mを添加した虚2次体をkとし、m≠-1, -3とする。

lを、m≡2, 3(4)のときは-mと定義し、m≡1(4)のときは、(1-m)/4と定義する。

さらに、

P(x)を、m≡2, 3(4)のときは、(xの2乗)+l、と定義し、m≡1(4)のときは、

(xの2乗)+x+l、と定義する。このとき、次の2条件は同値である。

(i) P(x)が0≦x≦l-2なるすべてのxについて素数

(ii) 2次体kの類数が1である。

この問題でm=-163としたものが、「オイラー素数生成式」である。実際、-163≡1(4)だから、

l=(1-(-163))/4=41、となる。つまり、P(x)=(xの2乗)+x+41、となる。

この問題(ラビノヴィッチの定理)から、虚2次体Q(√-163)の類数(あとで説明する)が1であることを確かめれば、「オイラー素数生成式」が40個の素数を生成することがわかるのだ。そればかりではない。この問題(ラビノヴィッチの定理)から、次のこともわかる!

(xの2乗)+x+lという式で、オイラー素数生成式よりももっと多くの素数を連続して生成するものは存在せず、オイラー素数生成式が最良である。

なぜなら、虚2次体で類数が1のものは、Q(√-163)のあとにはないと証明されているからなのだ。

「ラビノヴィッチの定理」については、ネット上に多くの解説がころがっており、厳密な証明をアップしているものもあるので、ここでは証明を紹介することにこだわらないことにする。そこで、数学愛好家諸氏のために、「類数」の簡単な解説をすることに集中する。

 2次体というのは、有理数に√mを添加して作った体Q(√m)のことで(mは1以外の平方因子を持たない)、(有理数)+(有理数)√m、という形の数の集合である。ルート数√2を加えた場合は、√2と有理数とで作られる(中学生におなじみの)数世界となる。虚数単位√-1を加えて作った場合、複素数の中の、係数が有理数である(高校生におなじみの)数世界となる。前者が実2次体、後者が虚2次体である(2次体については、拙著『完全版 天才ガロアの発想力』技術評論社ガロア理論の観点から勉強してほしい)。

 2次体Q(√m)の中で「整数」にあたるものが定義される。これはmを4で割った余りで分類される。Q(√m)の「整数」は、mを4で割った余りが2, 3の場合は(整数)+(整数)√mであり、mを4で割った余りが1の場合は(整数)+(整数){(1+√m)/2}、である。前者は自然だけど、後者は不自然な形をしていて、なぜこうなるかには理屈がある(整閉という理屈)が、省略する。

 「整数」にあたるものが定義できたので、「約数」「倍数」を通常の整数の場合と同じに自然な形で定義できる。そうするとすぐに、「1の約数」について違いが出てくるのがわかる。通常の整数では、「1の約数」は±1の2つだけど、Q(√-1)では±1と±√-1, Q(√2)では(1-√2など)無限個になる。次に「素数」に対応する「既約元」が定義される。すなわち、「整数」aがa=bcと表されれば、bかcは「1の約数」になるものを「既約元」と決める。

 以上のような定義の下では、Q(√-1)や Q(√2)では「既約分解の一意性」が証明できる。これは通常の整数に対する「素因数分解の一意性」に対応するものだ。例えば、5は通常の整数世界では素数だが、Q(√-1)では既約分解できる。5=(1+2√-1)(1-2√-1)である。ここで、1+2√-1も1-2√-1もQ(√-1)世界での既約元(素数)にあたる。

 すべての2次体でこれが成り立てば、清純で平和な、しかし面白みのない数学になるが、実際はそうではなく、実に面白いことがわかった。それは、多くの2次体で「既約分解の一意性」が成り立たない、という事実だ。

 有名な例では、Q(√-5)では、6が2通りに既約分解される。実際、6=2×3=(1+√-5)(1-√-5)であるが、2も3も(1+√-5)も(1-√-5)も既約元で、これ以上分解されないのである。このことは、虚2次体に固有のことではなく、例えば実2次体Q(√10)でも生じる。

 このことは、通常の整数での素数が備えている二つの性質「既約元」「素元」が、2次体では分離されることを意味している。ちなみに「aが素元」であるとは、aがbcを割り切るなら、bかcを割り切ることを言う。通常の整数の場合は、「既約元」は必ず「素元」で、その逆も成り立つ。しかし、Q(√-5)では、上で見たように、2は(1+√-5)(1-√-5)を割り切るけど、(1+√-5)も(1-√-5)も割り切らないから、2は既約元だが素元ではない。このズレが、2次体の数論をめっちゃ豊かで面白くする源泉なのだ。

 さて、このズレを解消して、清純さを取り戻すために編み出されたのが、「イデアル」というツールだ。イデアルとは、Q(√m)の整数から成る部分集合Iで、次の2条件を満たすものである。

(i)  x,yIの要素なら、 x±yもそう。(ii)  xIの要素なら、 xの「Q(√m)での倍数」もそう。

(イデアルのもっと詳しい解説は、拙著『数学は世界をこう見る』PHP新書を読んで欲しい)。イデアルは、通常の整数の世界では、単なる「あるaの倍数の集合」となって、「倍数」概念と一致してしまうが、2次体の世界では「倍数」概念とのズレが生じる。例えば、Q(√-5)の整数世界では、

P={(2の倍数と(1+√-5)の倍数との和}と決めると、これはイデアルではあるが、「あるaの倍数の集合」とはならない。つまり、イデアルは倍数の拡張概念ではあるものの、2次体においては、「単なる倍数ではない場合」が生じるのである。

そこで、

イデアルQ={(3の倍数と(1+√-5)の倍数との和},

イデアルR={(3の倍数と(-1+√-5)の倍数との和}

と定義すると、(イデアル同士に適切な積を定義することで)、

(2の倍数の作るイデアル)=(Pの2乗),  (3の倍数の作るイデアル)=QR

(1+√-5の倍数の作るイデアル)=PQ,  (1-√-5の倍数の作るイデアル)=PR,  

となって、6=2×3=(1+√-5)(1-√-5)のもっと細かい分解が可能となる。そう、

6=(Pの2乗)(QR)=(PQ)(PR)

という形で、「分解の一意性」が回復されるわけである。

 長い道のりを進んできたが、やっと、「類数」にたどり着いた。

以上のように、ある2次体では、単なる倍数集合とは異なるイデアル(上記、P, Q, Rのようなイデアル)があることがわかったが、それらの中で「本質的に異なるものが何種類あるか」を問題としてみよう。

Q(√-5)では、(2の倍数の作るイデアル)や(1+√-5の倍数の作るイデアル)という自然なイデアル(単項イデアルと呼ばれる)のほかに、P, Q, Rのような「単項イデアルでないイデアル」がある。注目したいのは、このような「単項イデアルでないイデアル」で本質的に異なるものがどのくらいあるか、ということだ。

たとえば、さきほどのP, Qでは、αP=Qを満たすQ(√-5)の要素αが存在する(α=(1+√-5)/2)。したがって、P, Qは「本質的には異ならない」と見なせる。実は、Q(√-5)のいかなるイデアルも、単項イデアルであるか、Pと「本質的には異ならない」イデアルであることが示せる。そこで、Q(√-5)のイデアルの本質的に異なる種類は2種類であると考える。この「種類の数」を「類数」というのである。「Q(√-5)の類数は2」ということになる。

類数の観点から言うと、「類数が1」ということは、「イデアルが単項イデアルだけ」ということであり、「既約分解の一意性が成り立つ」単純な数世界ということになる。「ラビノヴィッチの定理」が述べていることは、素数生成式が可能であること」と「類数が1である単純な虚2次体であること」が一致する、ということなのだ。オイラーはこういう背景をうすうす直感していたのであろうか。

 「ラビノヴィッチの定理」の証明は、冒頭に述べた通りネット上にあるので、そちらを参考にしてほしい。おおざっぱに言えば、次のようになる。

任意の2次体の類数は有限である」ことは証明されており、その上限もミンコフスキーが不等式で与えている。なので、比較的小さい(有理)素数に対して、その素イデアル分解を調べれば類数を決定することができる。l-2はその上限に対して、十分に余裕があるのである。したがって、類数が2以上であれば、単項イデアルでない素イデアルがl-2より小さいxの P(x)に対する(有理)素数の素イデアル分解に現れるのである。

 この証明を見ていると、前半に述べた数学オリンピックの問題の解答と非常に似ている気もする。ひょっとすると、数学オリンピックの問題は、「ラビノヴィッチの定理」の証明を初等的に焼き直したものなのかもしれない。

実際、虚2次体Q(√m)の場合、先ほど述べたミンコフスキーの上限は、√(|判別式|/3)である(ここで判別式は、mが4で割って余り2, 3の場合は4m, 余り1の場合はm)。この上限は、数学オリンピックの仮定ととても似ている。もしかしたら背景にあるのは、「0≦k≦√(n/3)をみたす任意の整数kに対して、(kの2乗)+k+nが素数」→「ミンコフスキーの上限まで、素数の単項イデアルが素イデアル)→(類数が1)→「0≦k≦n-2の任意の整数kに対しても(kの2乗)+k+nは素数」という経路なのかもしれない、とふと今思いついた。(にわか仕込みなので、まだちゃんと突き詰めてはいない。笑)

 

 

 

 

 

 

 

「現実」はすべて統計的

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今回は、現代思想』の最新号「統計学/データサイエンス」で巻頭対談しているので、そのことを宣伝するとともに、少しだけ統計学についてエントリーしようと思う。

 対談は、生物統計学者の三中信宏先生と。対談内容は、統計学の理解の仕方から、その思想的背景、利用の限界まで多岐に及んで討議している。

ぼく自身は統計学者ではないし、経済学の中でも実証分析を専門としているわけではないので、統計学とは一定の隔たりがある。とは言っても、経済学の中の「意思決定理論」という分野を研究しており、なかでも「ベイジアン意思決定理論」の論文を書いているので、統計学と近接的ではある。

ぼくは経済学者の立場と数学科出身者の立場の両面から、統計学について批判的な議論を提示したのだけど、生物学を専門とする三中先生とは、ずいぶんと統計学に関する認識が違うな、というのが正直な感慨だった。この感覚は複雑で繊細なものなので、それについては対談を読んで感じ取ってほしい。

対談をするにあたってぼくは、準備として、三中先生の本を三冊読破した(いつも、対談をする際は、お相手の著作を勉強するように心掛けている)。三冊とも良書だったが、中でも、『統計思考の世界』技術評論社はすごく良い本だと思った。

この本は、統計学の手法を非常に手際よく、わかりやすく紹介している。正規分布を基礎とする通常の統計学だけでなく、ロジット回帰や、AIC(赤池情報量基準)など発展的な内容も簡潔に解説しているのでお勧めだ。

 さて、生物学はそれこそ生命現象を扱っているから、物理学とは大きく違うのだろうと思う。ぼく自身は、物理学が統計原理の最も成功的分野だと思っている。統計原理(統計思想)とは、最尤原理「最も起こりやすいことが実際に起きていると考える」というものだけど、統計力学はその原理を基礎にして理論を構築している(例えば、マックスウェル分布とか)。ぼく自身は、最尤原理を今でも受け入れることができない(あたりまえだと思えない)が、統計物理だけは信頼している。なぜなら、実験結果と整合的だからだ。もっと言うなら、「圧力」とか「温度」とか、そう言った物理量が、最尤原理と偶然に親和的だからうまくいくんじゃないか、というのがぼくの最近たどりついた認識である。(経済学や生物学など)他の分野で最尤原理を基礎にするのは、そういう親和性の検証が不可欠なんじゃないかと思う。その辺のことは、以下のエントリーで読んでほしい。

統計力学が初めてわかった! - hiroyukikojima’s blog

これは、友人の物理学者・加藤岳生さんの統計物理の教科書について紹介したものである。統計物理に入門するのに、最適な本だと今でも思う。

ゼロから学ぶ統計力学 (ゼロから学ぶシリーズ)

ゼロから学ぶ統計力学 (ゼロから学ぶシリーズ)

  • 作者:加藤 岳生
  • 発売日: 2013/03/16
  • メディア:単行本(ソフトカバー)
 

 さて、現代思想 統計学/データサイエンス』の号には、ぼくが大学院で講義を受けた二人の先生が寄稿しておられる。一人は竹村彰通先生で、「ウィズコロナ時代の統計学」を寄稿している。現在、テレビやネット上に渦巻くコロナの病理について、統計学者の立場から、明確な論評を与えている。もう一人は、松原望先生で、「今承認される『世界性の統計学』」を寄稿しておられる。松原先生は、ぼくにベイズ統計学を指南してくださり、最も影響を受けた師の一人だ。今回の寄稿は、主観確率」としてのベイズ統計学を、その成立の歴史から説き起こしている。創始者トーマス・ベイズ牧師のこと、ベイズの研究に日の目を見させる努力をしたプライスのこと、ベイズとは独立にベイズ理論を発見し、同時にベイズの仕事も発掘した数学者ラプラスのこと、一度は批判によって瀕死に陥ったベイズ理論を復興させたサベジのこと、サベジの継承者となったリンドリ―のことなど。次の文章は当時の雰囲気を浮き上がらさせている。

このようにして、東海岸から個人確率を根底にした「ベイジアンリバイバル」の烽火があがった。残念なことに、サベジの挑戦はやはり難しすぎてそのままでは受け継がれなかった。亡くなった71年、私は総じてアンチ・ベイズの西海岸スタンフォードに留学中であった。お隣の有名校バークレーはアンチ・ベイズの中心で、「サベジの理論はいいが、サベジは(個人的には)嫌いだ」という嘆息が聞こえてきた。スタンフォードはそれほどでもなく、しっかりした頻度論を教育する一方、ベイズ統計学には目配りはよかった。

ぼくは、今でも数学という学問が好きで、だから「演繹的推論」が興味の対象である。それだから、経済学の中でも、「選好公理系から効用関数を導出する」という分野の研究をしている。そういうのがすこぶる性に合うのである。

でも、「現実」というやつは明らかに「統計的」だ。前提のすべてが明らかでそれから数理論理的に結論が導出できる、なんて場面は全くない。ぼくらは、常に、「世界の一部だけを数値という形で見ている」にすぎない。そこから「現実」を推測するには、どうしたって、「帰納的推論」が必要になる。数理論理の外側での「論理のアクロバット」が不可欠なのだ。その立役者が統計学なのである。

 最後になるが、ぼくは「ネイマン・ピアソン統計学」の教科書と、「ベイズ統計学」の教科書と、両方を書いている(だから、対談に呼ばれたんだと思う)。せっかくだから、最後に推奨しておく(というか、これこそが狙い)。

完全独習 統計学入門

完全独習 統計学入門

  • 作者:小島 寛之
  • 発売日: 2006/09/28
  • メディア:単行本(ソフトカバー)
 

 

 

完全独習 ベイズ統計学入門

完全独習 ベイズ統計学入門

 

 

 

 

ゼータの伝記そして歳時記

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 前にエントリーから、ずいぶん間が開いてしまった。

今回は、黒川信重さんの『零和への道ーζの十二箇月ー』現代数学社を紹介しよう。

零和への道 ―ζの十二箇月―

零和への道 ―ζの十二箇月―

 

 タイトルにはちょっとのけぞるだろうが、決して、トンデモ本ではない。それどころか、驚くべき名著であり、読んで感じ入ることのできる数学書となっている。

 もちろん、黒川さんの本だから、当然「ゼータ」の本となっている。しかし、そればかりではなく、非常に「斬新」な、非常に「変わった構成」の本となっているのだ。それは、「歳時記造り」になっているという点だ。

実際、目次が4月から3月までの年度の一巡となっている。目次だけ抜き出すと、

4月 ゼータ入門

5月 合同ゼータと絶対ゼータ

6月 セルバーグゼータ

7月 リーマン予想

8月 ハッセゼータ

9月 絶対ゼータ

10月 ラングランズ予想

11月 ゼータ育成

12月 ゼータ融合

1月 井草ゼータ

2月 群ゼータ

3月 零和時代

 この本は、『現代数学』誌2019年4月号~2020年3月号までの連載をまとめたものだから、それで4月から3月の一巡になっているのだが、それだけではないのだ!

この本は、該当月にちなんだ数学者の紹介をしていくという、ある種の「歳時記」、ある種の「伝記」、そしてある種の「墓碑銘オマージュ」になっているのである。 「歳時記」とはなにかというと、数学者の「生誕月」であったり、「没月」であったりする。具体的には、(ネタばれになってしまうので申し訳ないが)、

4月 オイラーの生誕月

5月 ヴェイユの生誕月

6月 セルバーグの生誕月

7月 リーマンの没月

8月 ハッセの生誕月

9月 オイラーの没月

10月 ラングランズの生誕月

11月 エスターマンの没月

12月 ラマヌジャンの生誕月

1月 井草凖一の生誕月

2月 ランダウの生誕月・没月

3月 グロタンディークの生誕月

このように、その月にちなんだゼータ研究の数学者たちの順に解説が並んでいる。そういう意味で「歳時記」なのだ。だから、他書に比べて新鮮な気分で読むことができる。 

 実は黒川さんの本には、いつでも、数学者の生誕年・没年、定理の論文への所収年、初出年、などが詳細に記載されている。これは黒川さんがその都度調べているのではなく、驚くべきことに、黒川さんの記憶から書いているのである(と思う)。なぜなら、ぼくが黒川さんとの共著『21世紀の新しい数学』技術評論社を対談で作ったとき、黒川さんがすらすらとこれらの年を記憶からたぐり寄せたのを目の当たりにしたからである。これは、黒川さんの驚くべき特殊能力(のひとつ)だと思う。

さて、「ちなんだ数学者」の中に一部に、アマチュア数学愛好家に馴染みのない数学者がいるので、本書での解説を少し紹介しておこう。

 エスターマン(ぼくは知らなかった)とは、ドイツ生まれの数学者で、フィールズ賞を受賞したロスの師匠らしい。エスターマンの発見した重要な結果とは、素数pに関する式(1-2/(pのs乗))を全素数について掛け合わせた一種の「オイラー積」が、複素平面全体には解析接続できない(つまり、複素数全体で定義された関数に拡張できない)ことを証明したことである。このことから、いわゆる「オイラー積によるゼータ関数」が複素数全体に解析接続できるのは当たり前のことではない、とわかる。黒川さんは、このエスターマンの結果を拡張して、位相群で解析接続不可能なオイラー積を構成したそうである。実におもしろい。

 井草凖一(ぼくは知らなかった)は、井草ゼータというのを構成した数学者である。京都大で博士号を得たあと、米国に渡り、ジョンズ・ホプキンス大学で教授職を長年勤めた。井草ゼータとは、整数上の代数的集合・スキームXに対して定義されるもので、「融合積」と相性が良く、「畳み込み」ができるらしい。

 本書は、ゼータ関数に関して、新鮮な順序で解説されている。何かの解説書(もちろん、黒川さんの本でも良い)でゼータ関数素数のことを一通り勉強した人も、本書を読むと、意外な発見や気づきがあるだろう。

 そればかりではなく、黒川さんが「リーマン予想」解決のカギ、最終兵器として研究を進めている「絶対数学」「絶対ゼータ」についても、新しい視座から理解が可能になるようになっている。だから、リーマン予想に興味がある人には必読の本なのである。

 黒川さんの本を読むと、「数学とはいろいろな技術や思想や世界観の融合物である」ということが実感される。数学の「人間味」が伝わるから、読んでいて楽しい。

 本書にはところどころに、黒川さんと著名数学者との交友の体験談も出てくる。それを読むと、数学者の人生を追体験できて、じーんと来る。

 

 

 

「エビデンス」のエビデンスを知るための本

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 今回は遂に2か月も間が空いてしまった。オンライン講義の仕込みに時間をとられたせいもあるし、某大学での非常勤でベイズ統計学のオンライン講義を引き受けてしまったせいもある。押し詰まっているが、なんとか年内にもう一つエントリーをしようと思う。

 今回は、マンスキ―『データ分析と意思決定理論 不確実な世界で政策の未来を予測する』(奥村+高遠・訳)ダイヤモンド社を紹介したい。この本は、ざっくり言えば、実証分析のメソッドとそれに付随する限界、注意点を解説する本だ。

 

 

 なぜこの本を紹介したいのか、その意図は二つある。

 第一の意図は、コロナ禍の現在、テレビにもネットにも「エビデンス」という言葉が飛びかっていることだ。専門家も政治家も素人も二言目には「エビデンスはあるんか?」と、口角泡を飛ばす。このときの「エビデンス」は、単に「証拠」という語彙である場合も、単なる「データ」である場合も、また、「ちゃんとした実証の手続きを持つ裏付け」という場合もあるようだ。これらの「エビデンス」には温度差があり、どの程度「真実性が担保されている」のかがかみ合っていない風情がある。せっかくの機会だから、「エビデンス」について、みんながもう少し認識を共有する必要があると思う。

 第二の意図は、国の方針で、「データサイエンス」の研究と教育が奨励さている現状があることだ。ぼくには幸い、著作『完全独習 統計学入門』『完全独習 ベイズ統計学入門』(いずれもダイヤモンド社)があるため、複数の機関からレクチャーを依頼されて、今年と来年に引き受けることになった。いうまでもなく、「データサイエンス」とは、実証のための科学的メソッドの学問である。しかし、「データサイエンス」を推進するのはいいが、それが単にExcelやRに数値を入力できる、というスキルを意味するのだったら、そんなことで国家の科学的な未来なんて来やしないと思う。大事なのは、データをどのように「エビデンス」に仕立てるか、その「エビデンス」を背後で支える科学的理論は何か、「エビデンス」から政策を決めるにはどうするべきなのか、それらをきちんと普及させることだと思う。

 本書、マンスキ―『データ分析と意思決定理論 不確実な世界で政策の未来を予測する』は、そのヒントを与え、勉強の道筋を示してくれる本だと思う。

 本書は2部構成であるが、第一部は「どんな分析であれば信頼できるのか?」、第二部は「不確実な世界では、どんな意思決定をすべきか?」となっている。ちなみに、第二部の「意思決定理論」は、まさにぼくの専門でもある。

目次建ては以下となっている。

第一部 データ分析編

第1章 「強い結論」欲しさに政策分析の信頼性が犠牲にされている

第2章 政策の効果を予想する

第3章 新しい政策に対する人々の行動を予測する

第二部 意思決定理論編

第4章 単純な状況下で部分的な知識に基づいて意思決定をする

第5章 複雑な状況下で部分的な知識に基づいて意思決定をする

第6章 データ分析の「消費者」へ

 本書には具体例がふんだんに投入されていて、いろんなケーススタディをすることができる。二つほど紹介しよう。

第一は、まさにコロナ禍でワクチンの治験が実施されている現状にぴったりの次の一節である。

製薬会社が新薬の承認をFDAから得るために実施するランダム化臨床試験(治験)について見ていこう。こうした治験に自発的に参加する人たちは、新薬の対象となる患者の代表とは言えない可能性がある。自発的な治験の参加者は、製薬会社が提供する金銭的なインセンティブ、医学的なインセンティブに反応した人たちである。

金銭的なインセンティブとは、治験に参加すれば謝金がもらえる、あるいは無料で治療が受けられることを指す。医学的なインセンティブとは、治験に参加しなければ手に入らない新薬を入手できるといったことを指す。

 治験に自発的に参加したグループの反応の結果が、自発的に参加するわけではない人たちの結果と異なっているのであれば、治験の母集団は新薬が対象とする患者の母集団とは実質的に異なっていることになる。FDAが治験のデータをもとに医薬品を承認するとき、患者の反応は治験の被験者の反応と似通ったものになるという暗黙の仮定を置いている。この不変の仮定がどの程度正確かはわかっているとは言えない。

これがどの程度、新型コロナウイルスのワクチンの治験にあてはまるかはわからないが、「エビデンス」を理解する上で欠かせない論点には違いない。

 もう一つの例は、ぼくの関心から選ぶ。それは、有名な経済学者フリードマンの論説についてのものだ。フリードマンは、学校教育の「バウチャー制度」を提唱した。バウチャー制度とは、学校を好きに選んで教育を受けることのできるクーポン券を配布することである。それによって、教育を受ける人の「選択の自由」を保証し、学校に競争原理を導入する、ということだ。裏側には公教育の否定と解体が込められている。著者はまず、フリードマンの議論を引用する。

 「近隣効果」を根拠にした教育の国有化を支持する説に、そうしなければ社会の安定に不可欠な共通の価値観を醸成することができないとする議論がある・・・この議論はかなりな力を持っている。だが、この議論が明らかに正当だとはいえない・・・

 教育を社会統一の原動力にするために政府による公教育が不可欠であるとする考え方の根拠の1つに、私立学校の階層の格差を助長しかねないとする説がある。わが子をどの学校に通わせるかを選べる自由度が大きいと、似たような親同士で固まる傾向があり、バックグラウンドが決定的に異なる子供同士の健全な交流が妨げられるという。この議論が原則として妥当かどうかはともかく、主張されたとおりの結果になるというのは明白とは到底いえない。

このようなフリードマンの議論に対して、著者は、次のように批判を展開する。

この文章は興味深い。フリードマンは近隣効果に関して実証的証拠を一切挙げていないし、このテーマについての調査を求めているわけでもない。単に近隣効果があるからといって公教育を保証することが「正当だといえない」、「明白とは到底いえない」と述べているだけである。

 フリードマンのレトリックでは、証明する負担を無料の公教育に負わせ、反証がないのだからバウチャー制度は好ましい政策であると主張しているのだ。これはみずからの主義主張を押し通す主義主張のレトリックであり、科学のレトリックではない。

フリードマンのレトリックは、現在のネット上の議論・批判にも頻繁にみられるものだ。そういう意味で、本書を読むことで、こういう不毛な似非議論に巻き込まれない判断力が培われるだろう。

 本書には、他にも、刺激的な「実証的テーマ」が満載である。例えば、「コカインの消費量の削減経費」とか、「過去の犯罪歴と再犯の可能性の関係」とか、「IQは「生まれ」と「育ち」のどちらで決まるか」とか、「死刑の殺人抑止力効果」とかである。これらの社会的に重要な問題から、読者は「エビデンス」の在り方を学ぶことができる。

 また、本書は、統計学のメソッドの指南書として読むこともできる。例えば、今、実証の論文で流行っている「回帰不連続」なども具体例から勉強することができて便利である。さらには、「意思決定理論」の入門書にもなっている。是非、多くの人に読んでいただきたい。

 最後に自著の宣伝になるが、「データサイエンス」にこれから参入するなら、まず、(最初のほうで紹介した)拙著『完全独習 統計学入門』『完全独習 ベイズ統計学入門』を読もうよ。きっと、役に立つからさ。笑

 ではでは、良いお年を。

 

完全独習 統計学入門

完全独習 統計学入門

  • 作者:小島 寛之
  • 発売日: 2006/09/28
  • メディア:単行本(ソフトカバー)
 

 

 

完全独習 ベイズ統計学入門

完全独習 ベイズ統計学入門

  • 作者:小島 寛之
  • 発売日: 2015/11/20
  • メディア:単行本(ソフトカバー)
 

 

 

 

ラグランジュ乗数と帰属価格

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 今、都内某所で、地方自治体主催の市民講座に登壇しており、そこで現実問題を経済学で分析するレクチャーをしている。そのレクチャーでは、現代の(広く認められている)経済理論を援用しながらも、そこかしこに宇沢弘文先生の「社会的共通資本の理論」を刷り込むサブリミナルを仕込んであるのだ(笑)。

 それで環境問題をテーマとする回に、宇沢先生の地球温暖化へのアプローチを紹介しようと思い立ち、今までちゃんと勉強しなかった宇沢先生の温暖化についての理論と初めて向き合った。読んだのはこの本。

 この本での宇沢先生の最終的なアプローチは、動学的最適化理論を使う分析である。二酸化炭素の排出量制約のもとでの、消費の通時的最適化を求めている。これをもとに、「最適な炭素税とは各国のGDPに比例させる課税である」ことを主張している。

 この動学モデルで重要な役割を果たすのが、「帰属価格(imputed price)」という概念だ。帰属価格とは、数学で「ラグランジュ乗数」と呼ばれているものと全く同じである。それが、経済学においては、「価格の一種」として登場するわけなのだ。これは実に面白いし、ラグランジュ乗数法をイメージ化する上で格好の材料だと思う。

 宇沢先生のアプローチを緻密に理解するため、ラグランジュ乗数のことをもう一度勉強し直そうと思いたった。ラグランジュ乗数の数学的仕組み、それを経済学的に「価格」として解釈する仕方、さらには、それが動学的最適化モデルの中でどう働くか、それらもろもろを考え直したくなったのだ。

 ぼくはラグランジュ乗数法のことを、すでに拙著『ゼロから学ぶ微分積分講談社で解説してる。この説明はかなり自慢のものだ。そして、レビューでも、多くの読者たちから一定の評価ももらっている(と理解している)。

ゼロから学ぶ微分積分

ゼロから学ぶ微分積分

 

 たぶん、この本でのラグランジュ乗数法の解説は、現存する類書の中で最もわかりやすいに違いない。それでもなお、また考え直したいのは、もっと「直感的」でもっと「経済学的」な理解に達したくなったからなのだ。それで、最適化理論の本(オペレーションズ・リサーチの本)をいくつか読み、変分法の本もいくつか読み、それを自分の頭で咀嚼し直した。この勉強によって、前より進んだ理解に到達し、さらには、副産物として、不等式制約の「クーン・タッカーの定理」、それと動学的最適化における「ハミルトニアン」の直感的理解も手に入れることができた。

 ラグランジュ乗数法というのは、制約付き最適化の方法論だ。

例えば、座標平面上の円x^2+y^2=b上の点(x , y)に対する2変数関数f(x , y)=2x+3yの値を最大化する(bは定数とする)、みたいな問題の解法である。言い換えると、「制約x^2+y^2=bの下でのf(x , y)=2x+3yの最大値を求める」、ということだ。

愚直にやるには、x^2+y^2=bからy=\sqrt{b-x^2}と解いて2x+3yに代入して、1変数xの関数として微分すればよい。(受験数学的には、もっと巧い、もっと簡単な解法があるが、ここではスルーする)。ラグランジュ乗数法とは、このように陰関数を解かずに、多変数関数のまま通常の「微分法」に持ち込む解法なのである。

 まず、(最大化したい関数)-\lambda(制約関数)という式を作り、これをLとおく。つまり、L=(2x+3y)-\lambda(b-x^2-y^2)ということ。これをx, y,\lambdaの3変数関数とみて、それぞれの変数で偏微分して、それらが0となるという連立方程式を作り、それを解けばいいのである。このように問題を変形することで、もとは従属していた変数x, yを独立変数として扱うことができる。陰関数を求めることも、マニアックな受験テクもいらず、「(偏微分)=0」という素朴な条件で解けるのである。

 ここに登場する\lambdaが「ラグランジュ乗数」と呼ばれる。しかしこれだけだと、まるで「おまじない」「魔法」の類にしか見えない。経済学(あるいはOR)を勉強することで、現実的な意味が見えてくるようになる。

 \lambdaは、ざっくり言うと「制約が陰に備えている価格」なのだ。これを経済学では「帰属価格(imputed price)」と呼んでいる。

例えば、x, yを生産に投入する要素で、ぎりぎり使えるのがx^2+y^2=bを満たすx, yだとする。生産要素をx, yだけ使うと2x+3yの量の生産物ができるとすれば、この生産者は制約x^2+y^2=bを守りながら2x+3yを最大化するのが、経済的に最適ということになる。

このとき、最適化させるラグランジュ乗数\lambda^{*}は、「制約が陰に備えている価格」に対応する量となる。その意味は、制約bを緩めるとあたかも1単位あたり価格\lambda^{*}が付されているごとくに生産の増加が生じる、ということだ。より詳しくは、制約bを微小量dbだけ緩めると、最適産出量2x^*+3y^*\lambda^*dbだけ増える、ということ。これが、「ラグランジュ乗数は価格の一種」ということの意味である。大事なのは、制約bを微小量dbだけ緩めるとき、生産者は改めて最適な投入量x, yを計算し直し、その上で増加する生産量が\lambda^*dbだということだ。

こういうイメージが得られれば、ラグランジュ乗数も血の通った概念に見えてくるだろう。

 以上のことを直感的に理解するためには、厳密性は欠くが次のように局所分析をしてみればよい。

 一般の2変数関数f(x, y)において、x, yが微小量(dx, dy)だけ変化するとき(dは微小量につける記号)、f(x, y)の変化dfは、f_xdx+f_ydyで与えられる。ここで、f_xfx方向における偏微係数(\partial f/\partial x)である。要するに、xx+dxに増やすと、f(x, y)f_xdxの量だけ増えるということ。df=f_xdx+f_ydyという公式は、点(x, y)から点(x+dx, y)に移って、f_xdxだけ増え、次に点(x+dx, y+dy)に移動して、f_ydyだけ増える、ということだから、きわめて自然だ。(曲面を平面で近似して考えているということ)。

 ここで重要なのは、f_xdx+f_ydyをベクトル(f_x, f_y)とベクトル(dx, dy)内積と見なす見方である。(ここから先が、拙著『ゼロから学ぶ微分積分とは異なる説明)。高校数学で勉強するように、2つのベクトルの作る角が90度以下のとき、内積は0以上になる(内積は長さにcosを掛けたものだから)。つまり、点が移動する向き(dx, dy)がベクトル(f_x, f_y)と90度以下であるなら、内積≧0だから、df=f_xdx+f_ydy≧0となって、f(x, y)は増加することになる。

 さて、制約b=g(x, y)のもとで、f(x, y)の最大(または最小)を求める制約付き最適化問題を考えよう。

制約b=g(x, y)から、関数g(x, y)は一定値だから、制約を守る方向に動く限り、dg=g_xdx+g_ydy=0となる。上記に述べたことから、ベクトル(g_x, g_y)と制約を守って移動する方向のベクトル(dx, dy)との内積は0となる。したがって、もしも点(x, y)においてベクトル(f_x, f_y)とベクトル(g_x, g_y)が平行でないのなら、制約を守って移動する方向のベクトル(dx, dy)はベクトル(f_x, f_y)との内積は0でない。すると、ベクトル(f_x, f_y)とベクトル(dx, dy)内積、または、ベクトル(f_x, f_y)とベクトル(-dx, -dy)内積、のいずれか一方は正になる。これは、f(x, y)が増加する方向が存在する、ということだから、(x, y)が最適点でないことがわかる。

 以上から、ベクトル(f_x, f_y)とベクトル(g_x, g_y)が平行、ということが、最適点では成り立っていなければならない、ということが示された(必要条件)。これは、ある\lambdaが存在して、(f_x, f_y)=\lambda(g_x, g_y)ということである。したがって、任意の移動方向(dx,dy)に対して、ベクトル(f_x, f_y)とベクトル(dx,dy)内積は、ベクトル\lambda (g_x, g_y)とベクトル(dx,dy)との内積と一致している。これは、ラグランジュ関数L=f(x, y)-\lambda g(x,y)のどの方向の偏微係数も0であることを意味している(つまり、極大点や極小点の必要条件)。

 この分析法から、「帰属価格」へアプローチしてみよう。

関数f(x,y)の制約b-g(x,y)=0における最大値を、bの関数と見なして分析してみる。最適化の解x^*,y^*,\lambda^*は、すべてbの関数となっている。ここで、bが微小量dbだけ変化したとき、最適化された生産量f(x^*,y^*)がどのくらい増加するかを見てみよう。f(x^*,y^*)の増分は、ベクトル(f_x, f_y)と制約を守った移動ベクトル(dx^*,dy^*)内積だが、この移動ベクトルは(x^*,y^*)bに関する微係数のベクトルの延長である(dx^*/db,dy^*/db)dbだから、

f(x^*,y^*)の増分=((f_x, f_y)(dx^*/db,dy^*/db)内積)×db

である。一方、制約b=g(x^*,y^*)から、

1=g_x\times dx^*/db+g_y\times dy^*/db=((g_x, g_y)(dx^*/db,dy^*/db)内積)

よって、前に述べた最適化の平行条件から、

((f_x, f_y)(dx^*/db,dy^*/db)内積)×db

=(\lambda^*(g_x, g_y)(dx^*/db,dy^*/db)内積)×db

=\lambda^* db

つまり、制約をdb緩めると、その\lambda^*倍が生産にはね返る。つまり、これ制約が陰にもっている価格にあたる、ということなのだ。(数学的にきちんとした証明は、拙著『ゼロから学ぶ微分積分を参照のこと)。

 ちなみに、宇沢先生の地球温暖化に関する分析では、V_tを大気中の二酸化炭素の量として、それがdV_t/dt=v_t-\mu V_tという微分方程式にしたがって変化すると仮定される。ここでv_tは生産の要素投入a_tからv_t=ca_tによって決まる二酸化炭素排出量であり、\muは海水に吸収される二酸化炭素の割合を表す。もうひとつの制約は、投入要素に関するK=fa_tである。この制約を満たす要素投入a_tによって、x_t=Ba_tの生産物ができると仮定される。これらの制約の下で、関数u(x_t)\varphi(V_t)を最大化する問題を考えるのである(各変数はみなベクトル量。面倒なので細かい説明は省略している)。

ラグランジュ関数は、次のように与えられる。

u(x_t)\varphi(V_t)-p_t(v_t-\mu V_t)+r_t(K-fa_t)

ここで、p_tは、二酸化炭素に関する制約を緩めることによってもたらされる不効用の増加であり、「二酸化炭素の帰属価格」にあたるものである。ただし、このラグランジュ関数は動学化されているし、制約が微分方程式になっていて、一般にはハミルトニアンと呼ばれる形式になっているので、上記の説明よりずっと複雑化した手法だ。

 帰国後の宇沢先生のことを「新古典派的な手法を捨ててしまった」とか「文化論的になった」とか言う人が多いが、先生は最後まで数理的解析を続けた人だと思う。ただ、数理言語によるアプローチの一方で、「思想の自然言語による表現」も加えたのである。

 

 

 

 

パワフルで不思議なテータ関数

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また、ひと月ほど間が空いてしまった。最近では、いまどき音楽好きおじさんの例に漏れず、夜好性のミュージシャンにはまっている。ぼくのはまった順は

ヨルシカ⇒YOASOBI⇒ずとまよ(←いまここ)

である。ヨルシカについては、

ネコの物語が、こよなく好きだ - hiroyukikojima’s blog

で熱烈に語っている。

夜好性はどのバンドも、斬新な歌詞と楽曲と、女性ボーカルの声質に特徴がある。今、集中的に聴いているユニット「ずっと真夜中でいいのに。」は、歌詞も楽曲も斬新で、直後の展開が予想できないような進行をする。楽器の演奏もバカテクだ(King Gnuに負けず劣らず)。また、独特な声質の女性ボーカルの、高音部と低音部の使い分けが絶品で、癖になって何度でもリピートしてしまう。いやあ、こういう斬新な音楽に出会えるのは、長生きしているご褒美だと思う。

 さて、今回は、「ヤコビのテータ関数」について語ろうと思う。

「ヤコビのテータ関数」は、ネピア定数eのべき乗を無限個足してつくられる関数。これを勉強したのは、二つのきっかけからだ。

第一は、今、素数についての啓蒙書を書いているから。ぼくは以前に、『世界は素数でできている』角川新書を上梓しているが、今書いている素数本は、横組みでもっと詳しい内容のものだ。

その本には、素数と言えばお決まりの「リーマン・ゼータ関数」が登場するが、テータ関数とリーマン・ゼータ関数には深い関係があるから、勉強をしたのだ。リーマン・ゼータ関数には「関数等式」という美しい等式があるのだが(あとで解説する)、その証明にテータ関数が利用されるからである。

一方、関数等式の勉強をしながら、「そういえば、テータ関数は、4平方定理の証明に使われたよな」と思い出したのが第二のきっかけである。「4平方定理」とは、「すべての自然数は、高々4個の平方数の和で表わされる」というフェルマーの発見した定理だ。0も平方数に含めれば、「すべての自然数は4個の平方数の和である」と言い換えてもいい。

 ぼくは、だいぶ前に出版した『世界は2乗でできている』講談社ブルーバックスの中で、「4平方定理」の証明方針を3通り紹介した。第一はラグランジュの証明で、「無限降下法」を使う初等的なものだ(初等的ではあるが、めっちゃアクロバットではある)。第二は、「p進数に関するハッセ原理」を使うもの。そして第三が、この「ヤコビのテータ関数」を使うものである。以下を参照のこと。

ステキな4平方数定理 - hiroyukikojima’s blog

しかし、この本を書いたときは、テータ関数を使う証明だけは、あまり深堀せずに、表面的になぞっただけだった。今回は、もうちょっと詳しくその証明を理解しようと思い立って、次の数論の本で勉強した次第である(とは言ってもまるまる厳密に理解したわけではない)。

数論II 岩澤理論と保型形式 (岩波オンデマンドブックス)

数論II 岩澤理論と保型形式 (岩波オンデマンドブックス)

 

 ぼくは、このように、一つの数学ツール(関数や公式)が、全く別分野に見える複数の分野に応用できるとき、とてもほれぼれしてしまう。例えば、メビウス変換は数論にもゲーム理論にも応用される。あるいは、母関数は数論にも統計学にも登場する。同じように、テータ関数も「関数等式」と「4平方定理」とに登場するから、感動してしまう。

 ヤコビのテータ関数とは、zを変数とする関数で、eの指数を、(整数の平方)×\pi iとして、それを全整数について足し合わせたものだ(\pi は円周率、i虚数単位)。すなわち、

\vartheta(z)=\cdots+e^{(-2)^2\pi i z}++e^{ (-1)^2\pi iz}+1+e^{1^2\pi i z}+e^{2^2\pi i z}+\cdots(=\Sigma_{n=-\infty}^{\infty}e^{n^2\pi i z})

 この関数は、q=e^{2\pi i z}と置いて、qの無限次の多項式として書くことが多い。それは、

\vartheta(z)=\cdots+q^{(-2)^2/2}+q^{(-1)^2/2}+1+q^{1^2/2}+q^{2^2/2}+\cdots(=\Sigma_{n=-\infty}^{\infty}q^{n^2/2})

 という形式だ。ヤコビはこの関数を使って、母関数の手法で「4平方定理」を証明したのである。やり方はこうだ。

 テータ関数の4乗、つまり、\vartheta(z)^4を考えよう。これは多項式としては、\vartheta(z)を4個掛け算し、それを展開したものだから、

q^{n_1^2/2}q^{n_2^2/2}q^{n_3^2/2}q^{n_4^2/2}=q^{(n_1^2+n_2^2+n_3^2+n_4^2)/2}

という項たちの和となっている。したがって、\vartheta(z)^4多項式表現に、q^{m/2}の項が現れるならば(係数が0でないならば)、mn_1^2+n_2^2+n_3^2+n_4^2というふうに、4個の平方数の和で表わされることがわかる。しかも、q^{m/2}の項の係数は、「4個の平方数の和として何通りに現されるか(ただし、n_jが負の場合もカウントする)」までわかることになる。

ヤコビが証明したのは、次のことだそうだ。

q^{m/2}の項の係数=8×(mの約数で4で割り切れないものの総和)」

mの約数で4で割り切れないものとして、少なくとも1が存在することから、

q^{m/2}の項の係数≧8

が得られ、4平方定理が証明される次第だ。

例えば、m=2については、(\pm1,\pm1,0, 0)で4通り、これの\pm1の位置を変えたものを考えれば、4×6=24通りの表現がある。一方、8×(2の約数で4で割り切れないものの総和)=8×(1+2)=24だから、確かに一致している。

このヤコビの公式を証明するために、上記の本では、(ヤコビの方法ではなく)、デデキントゼータ関数(有理数虚数単位iを付加した2次体のゼータ関数)とラマヌジャンが1916年に編み出した計算法を用いている。簡潔に書いているが、相当に複雑な計算となっている。さすがラマヌジャン

 もう一つの応用である「リーマン・ゼータ関数の関数等式」のほうに話を移そう。

リーマン・ゼータ関数とは、ご存知のように、自然数s乗の逆数を総和したものである。

\zeta(s)=\dfrac{1}{1^s}+\dfrac{1}{2^s}+\dfrac{1}{3^s}+\dots

 この関数は、オイラーが研究して、リーマンが複素数全体に拡張したものだ。この関数は、負の偶数全部を零点として持っているので、邪魔なそれらを消すために、\pi^{-s/2}\Gamma(s/2)を掛ける。すると、「完備ゼータ関数\hat{\zeta}(s)になる。これを使って、関数等式を表現すると、

\hat{\zeta}(s)=\hat{\zeta}(1-s)

となる。これは、完備ゼータ関数の値が、s1-sで一致することを述べている。例えば、\hat{\zeta}(2)=\hat{\zeta}(-1)のようになる。s1-sとは、1/2から反対側で等距離にあるから、「s=1/2に関する対称性」を表していると言える。未解決の難問「リーマン予想」は、\hat{\zeta}(s)=0となる零点sがすべて実部が1/2となる(\frac{1}{2}+b iという複素数)、という予想だ。もしも、実部が1/2でない零点があると、1/2に関する対称点も零点だから、2個ずつ零点が増える。関数等式は、「リーマン予想」の秘密の一端を担っている予感がある。

さて、関数等式の証明を次の2冊から要約しよう。

リーマンと数論 (リーマンの生きる数学)

リーマンと数論 (リーマンの生きる数学)

 
素数とゼータ関数 (共立講座 数学の輝き)

素数とゼータ関数 (共立講座 数学の輝き)

 

 ガンマ関数\Gamma(s)は、e^{-x}x^{s-1}を変数xについて0から∞まで積分して得られる変数sの関数である。

\Gamma(s)=\int_{0}^{\infty}e^{-x}x^{s-1}dx

これは、確率論や統計学など多くの分野で頻出する関数で、そういう意味で、ほれぼれするパワフルツールの仲間だ。

 この関数は、複素数全体に拡張する(解析接続する)ことができ、sが負の自然数のとき、値が∞になる。つまり、負の自然数がぜんぶ極となる。したがって、\Gamma(s/2)は負の偶数を極とするから、\zeta(s)の零点と打ち消し合いが起きて、完備ゼータ関数\hat{\zeta}(s)では負の偶数が零点ではなくなるのだ。

この\Gamma(s/2)\pi^{-s/2}自然数s乗の逆数n^{-s}を掛け算した積分は、

\pi^{-\frac{s}{2}}\Gamma(s/2)n^{-s}=\int_{0}^{\infty}\pi^{-\frac{s}{2}}e^{-x}x^{\frac{s}{2}-1}n^{-s}dx

 この式で、y=\pi^{-1}n^{-2}xと変数変換して、置換積分をすれば、

\int_{0}^{\infty}e^{-\pi n^2y}y^{\frac{s}{2}-1}dy

となる。ここで、e^{-\pi n^2y}e^{n^2\pi i z}z=i yを代入したもの。したがって、テータ関数の1つの値だと見なせる。そこで、全自然数n=1,2,3,\dotsについて足し上げれば、次の式が得られる。

\pi^{-\frac{s}{2}}\Gamma(\frac{s}{2})(\dfrac{1}{1^s}+\dfrac{1}{2^s}+\dfrac{1}{3^s}+\dots)=\int_{0}^{\infty}(e^{-\pi 1^2y}+e^{-\pi 2^2y}+\dots)y^{\frac{s}{2}-1}dy

テータ関数を改めて、\vartheta(x)=e^{-\pi 1^2y}+e^{-\pi 2^2y}+\dotsと(面倒だから同じ記号で)定義し直せば(つまり対称な和の片方を同じ記号で書いている)、

\hat{\zeta}(s)=\pi^{-\frac{s}{2}}\Gamma(\frac{s}{2})\zeta(s)=\int_{0}^{\infty}\vartheta(x)x^{\frac{s}{2}-1}dx

という公式が得られる。これはリーマンの第二積分表示と呼ばれるものだ。この公式を使うと、ゼータ関数の関数等式が証明できる。上記の小山先生の本から引用しよう。

 この積分を0から1までの部分と1から∞の部分に分け、前者のx\frac{1}{x}に変数変換すれば、1から∞までの\vartheta(\frac{1}{x})に関する積分に変わり、それを、「テータ変換公式

1+2\vartheta(\frac{1}{x})=\sqrt{x}(1+2\vartheta(x))

を使って書き換えると、

\hat{\zeta}(s)=\int_{1}^{\infty}\vartheta(x)(x^{\frac{s}{2}}+x^{\frac{1-s}{2}})\frac{dx}{x}-\frac{1}{s(1-s)}

 が得られる。複雑で頭がくらくらするかもしれないが、欲しいのはs1-sとに関する対称性だから、ちょっと観察すれば、簡単にそれがわかる。s1-sに置き換えると、x^{\frac{s}{2}}x^{\frac{1-s}{2}}が入れ替わるが、x^{\frac{s}{2}}+x^{\frac{1-s}{2}}は不変。s1-sが入れ替わるが、\frac{1}{s(1-s)}は不変だ。したがって、

\hat{\zeta}(s)=\hat{\zeta}(1-s)

が示されることになる。詳細は小山先生の本で勉強してほしいが、テータ関数の不思議なパワーがここにも炸裂しているのだけは伝わるだろう。

いやあ、数学って、ほんとに奥が深く、不思議・深遠な森である。最後に最初のほうで登場したぼくの本を宣伝しておく。

世界は素数でできている (角川新書)
 

 この二冊である。どちらも読者を数論にいざなう内容だ。黒川先生の本や小山先生の本にアタックする前に、この二冊でウォーミングアップしておくと良いと思う。

 

 


剰余定理には、行列バージョンがあったんだ!

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 年末ぐらいからNetflixにはまり、けっこうドラマを観ちゃっている。

 まずは、「クイーンズ・ギャンビット」。これはすごかった。あまりに傑作だった。なんと、全7話を三巡も観てしまった(笑)。

 物語は、親を失い、施設で暮らす女の子が、施設の清掃員のおじさんにチェスを教わり、チェスの天才へと成長していく、というもの。たぶん、現実に世界チャンピオンになったボビー・フィッシャーを女子に置き換えたんだと思うのだけど、シナリオがあまりによくできている。チェスの詳しい内容には踏み込まず、その代わり、アメリカ社会のいろいろな側面を投入した、みごとな青春ストーリーになっている。

 そして、最近観たのは、実写版「アカギ」。これは、アカギと鷲巣との伝説の一夜の闘いを完全に描いたもの。本郷くんのアカギもさることながら、津川さんの鷲巣がすばらしかった。マンガを読んだときは、次が知りたくて、ついつい手替わりとかおろそかにしてしまったけれど、このドラマではきちんと説明がなされるのでマンガよりわかりやすかった。

 もう一つ観たのは、実写版「咲」のドラマ4話と映画。以前は全く興味がなかったんだけど、最近、浜辺美波ちゃんの良さに目覚め、美波ちゃん目当てでこのドラマを観た。麻雀の内容もおもしろいが、とにかく当時、16歳ぐらいだった美波ちゃんの美少女ぶりがすばらしい。

 さて、これで終わったら「阿呆か」ってなってしまうので、数学のこともちょっと書こう。

 実は今、線形代数の復習をしている。なんで今頃、線形代数か。実はある疑問に肉薄したいからなんだけど、それは最後に書くことにして、今何を復習しているのかを述べる。それは、「ジョルダン標準形」なのだ。

 ぼくは、『ゼロから学ぶ線形代数講談社という本を刊行していて、けっこうロングセラーになっている。そんなのに「ジョルダン標準形」を知らないんかい、という突っ込みが来そうだが、そりゃ、知ってるさ。この本を書くときに、ちゃんと理解した。でも、その時の理解では、今肉薄したいぼくの疑問には届かないのだ。当時の理解は、草場公邦『線型代数』朝倉書房から得たものだったような気がする。これは、草場先生の本の特徴である、ものすごい明解な解説がみなぎっている。でも、今回の疑問に際して、読み直してみて、「なんか求めているものと違うな」という感触になったのだ。草場先生の本には、わかりやすく簡潔な証明が投入されているんだけど、言ってみれば「予備校の先生がやる別解名人芸」みたいなもので、「数学の深淵」とはちょっとズレている感じもするのである。

 そこで、今回は、杉浦光夫『Jordan標準形と単因子論』岩波書店を読むことにしたのだ。ぼくの疑問へのヒントがここにある予感がしたからだ。そして、この本を読んでよかったと思う。「行列の対角化」と「行列のジョルダン標準形」について、実に「深淵な」解説を展開している。

 今回は、その中から、「剰余定理の行列バージョン」を引用することにする。

「剰余定理」というのは、高校2年ぐらいで教わる多項式についての定理だ。多項式f(x)と1次多項式(x-\alpha)(\alphaは数)に関して、f(x)=(x-\alpha)Q(x)+Rを満たす多項式Q(x)と数Rが存在し、数R多項式f(x)x=\alphaを代入したf(\alpha)になる、というもの。この定理によって、「因数定理」とよばれる「f(\alpha)=0f(x)=(x-\alpha)Q(x)」が導かれる。この定理を行列に拡張したバージョンが存在したのである。有名なのかもしれないが、恥ずかしながら今の今まで知らず、杉浦先生の本で初めて知った。

 行列バージョンは次のように表現される。

tを変数とし、n次正方行列P_jたちを係数とする多項式P(t)=P_mt^m+P_{m-1}t^{m-1}+\dots+P_0がある。このとき、n次正方行列Aとn次単位行列Iに対して、P(t)=(tI-A)G(t)+Rを満たすn次正方行列G(t)Rが存在する。そして、R=A^mP_j+A^{m-1}P_{j-1}+\dots+P_0となる。

このRは、行列係数の多項式P(t)の変数tに行列Aを代入したものだから(ただし、積の順序に注意)、まさに「剰余定理」と同じことを主張している。この定理の証明は、P(t)の次数に関する数学的帰納法で出来て、とても簡単なのだ。

 この定理の系として、「行列版・因数定理」も得られる。すなわち、多項式g(t)とn次正方行列Aに関して、

g(A)=O⇔「g(t)I=(tI-A)G(t)となるG(t)が存在」

という定理だ。この定理は、意外な定理の証明に利用できる。それは、あの有名な「ハミルトン=ケーリーの定理」である。この定理は、高校数学に行列と1次変換があった我々の時代には、生意気な受験生なら知っていた定理である。

「ハミルトン=ケーリーの定理」とは、

「n次正方行列Aとその固有多項式\Phi(t)=det(tI-A)に関して\Phi(A)=0となる」

というもの。(ちなみに、det(AI-A)=0は間違った証明、ということがwikipediaに書いてあるので、参照するように)。

 この「ハミルトン=ケーリーの定理」は「行列版・因数定理」によって次のように鮮やかに証明できる。tA-Iの余因子行列をG(t)としよう(行列Aの余因子行列\tilde{A}とは、detA\neq0のとき、1/detAを掛けると逆行列になる行列のことで、一般には、A\tilde{A}=(detA)Iを満たす)。すると、(tA-I)G(t)=(det(tI-A))I=\Phi(t)Iが成り立つ。したがって、「行列版・因数定理」から\Phi(A)=0となる。

草場先生の本には、もっとダイレクトな「ハミルトン=ケーリーの定理」の証明が紹介されているが、たぶん、本質的にはこれと同じ仕組みだと思う。そして、ぼくは杉浦版の証明のほうが好みだ。なぜなら、「剰余定理」「因数定理」という高校数学で馴染みの定理の発展形が成り立つことが本質だと教えてくれていて、「一貫した哲学」が感じられるからだ。

 さて、最後に、なんでぼくが今頃、「ジョルダン標準形」を勉強したくなったかを簡単に述べておこう。それは、「多項式因数分解における分岐」というのが、行列の基本形とか、対応する空間(一般固有空間)の性質を映し出す、というのがめっちゃ不思議だからなのだ。実際、n次正方行列Aの固有多項式\Phi(t)=det(tI-A)が、\Phi(t)=(t-\alpha_1)^{m_1}(t-\alpha_2)^{m_2}\dots(t-\alpha_r)^{m_r}

と素因子分解されるとき、指数m_kAの一般固有空間の次元となる。ただし、これだと、固有空間(Aが対角化できる)の場合と、一般固有空間(Aがべき零成分を持つ)の場合とが区別がつかず、それを分類するには最小多項式m(t)(Aを代入して零行列になる最小次数の多項式)を調べる必要がある。最小多項式m(t)は、固有多項式\Phi(t)を割り切り、しかも固有多項式の根はすべて根として持っていることが示される。これらを分析すると、Aが対角化できるのは最小多項式m(t)が分岐しない場合(単根の場合)だと判明する。

 このように、「対角化」と「多項式の分岐」と「固有空間」とが魔法の鏡のように互いを映し合っている。なんかワクワクする世界感である。実は数論を勉強してみると、似たような場面に遭遇する。代数体における素数の素イデアル分解に、分岐の性質(因子の素イデアルの指数が2以上)が現れ、どうも多項式や特殊な空間と関係があるようなのである。こういうこととの関係性を知りたくて、久しぶりにジョルダン標準形を新しい観点(単因子という観点)から理解したくなったのだ。

本文中に出てきた本は以下。(杉浦先生の本はアマゾンに見つからなかった)。

線型代数 (すうがくぶっくす)

線型代数 (すうがくぶっくす)

 
ゼロから学ぶ線形代数

ゼロから学ぶ線形代数

 

 草場先生の本は、ぼくの知りたい「哲学」には答えてくれないけど、達人のようにエレガントな解説をしている。ぼくの線形代数の本は、対角化については一般論を書いていないけど、「固有値が物理学的にどんな意味を持っているか」について、簡明な解説をしているので、役に立つと思う。是非読んでみて。

 

 

 

久しぶりにWebRonzaに投稿しました。

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久しぶりにWebRonzaに記事を投稿した。テーマは、

「デジタルvs紙~どういう学習ツールが優れているのか?」↓

デジタルvs紙~どういう学習ツールが優れているのか? - 小島寛之|論座 - 朝日新聞社の言論サイト

東京大学大学院総合文化研究所とNTTデータ経営研究所の共同研究の他、情報学研究所の新井紀子教授の主張と、東大経済学部の松井彰彦教授の主張とを紹介している。

全文読むには、購読者になる必要があるけど、興味ある人は是非読んでおくなまし。

 

 

 

 

数学と友達になれて、リーマン予想とお近づきになれる本

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すっごい長い間、ブログを休んでしまった。新著の執筆・校正をしてたのと、論文を複数並行して作成していたことに起因するんだけど、オンライン講義のせいも大きい(共同研究者がきっとこのブログ読んでいるんで、こんなん書くなら、論文を進めろと怒りそうだし)。

で、久しぶりの今回は、小山信也『「数学をする」ってどういうこと?』技術評論社の紹介をしようと思う。

 

 その前に、近況を少しだけ。

まずは、じゃーん、映画「シン・エヴァンゲリオンを観てきました!いやあ、すごい映画だった。アニメでできることのほとんどすべてがやられてるんだろうな、って思った。ただただ映像に圧倒された。

ぼくは、少し前まで、エヴァには全く関心なかった。興味を持ったのは、「シン・ゴジラ」を観てからなのだ。

シン・ゴジラ観てきた。シン・ゴジラ観るべし - hiroyukikojima’s blog

この映画で庵野監督のファンになって、それから遅まきながら以前の映画版エヴァを観た次第。そんなだから、「シン・エヴァンゲリオン」は物語が半分ぐらいしかわからなかったけど、それでも、「これはすごいアニメだ」ということだけはわかった。何について触れてもネタバレになってしまいそうなので、この辺にしておく。

あと、音楽については、

パワフルで不思議なテータ関数 - hiroyukikojima’s blog

に書いた通り、バンド「ずとまよ」にはまっているわけだけど、最近リリースされた「ぐされ」はめちゃめちゃすごい。アルバムの出来も最高なんだけど、おまけでついてるブルーレイのライブが死ぬほどすばらしい。ずとまよの衝撃は、バンド「相対性理論」以来だと思う。すべてが完璧すぎて、わなわな震える。リーダーのACAねさんは、「遂に日本にザッパが現れた」と思わせる天才さだ(迷惑だと言われそう、笑)。現在に聴くことのできる最高の音楽だと思う。

 さて、小山信也『「数学をする」ってどういうこと?』に戻ろう。小山先生と言えば、ゼータ関数の専門家だけど、この本では、数学そのものの見方・考え方・使い方を懇切丁寧に語っている。完全な数学音痴でも読める(ところが多い)。

 三部構成になっていて、

第Ⅰ部「日常編」、第Ⅱ部「無限への挑戦」、第Ⅲ部「ゼータ編」

である。第Ⅰ部は、主に新型コロナ肺炎をテーマに、こういう未知のパンデミックについて、どう数学を適用していくかを解説している。毎日、ニュースやSNSで見かける議論について、それこそ算数レベルの計算でアプローチしていて、それでも「なるほど」という結論が導ける。読めば目から鱗の人が多いと思う。

第Ⅱ部は、「無限」に関する数学を易しく解説している。これは、「無限」という数学固有の概念、そしてだからこそ、人間の思考の本性について、その深淵を垣間見せてくれるものだ。もちろん、第Ⅲ部のゼータ関数への伏線ともなっている。

ただ、ここにはぼくも一家言あるので、書き添えておく。ぼくは、「アキレスと亀」の解決を「無限和の収束」に求めるのはお門違いだ、という思想を持っている。なぜなら、それだと、「アキレスと亀」という形而上の議論に、別の形而上の議論で反論しているだけにすぎないからだ。単に「特定の無限和が収束する」ことを手前みそに定義しておいて、「だからアキレスは亀に追い付く」と言っているに過ぎないから、そんなのなんの反論にもならないと思うのだ。その「定義」が「我々のこの現実」である証拠はない。むしろ、「アキレスと亀」の議論のほうがずっと深淵な「現実に対する問いかけ」をしていると思う。この点については、詳しくは拙著『無限を読みとく数学入門』角川ソフィア文庫を参照して欲しい。

 さて、数学の素人とは言えないぼくには、結局は、第Ⅲ部がめちゃくちゃ面白かった。Ⅰ部とⅡ部が平易だからと言って見くびってはいけない。この第Ⅲ部には、最先端(2010年以降)のゼータ研究が投入されているのだ。それは、「リーマン予想」と呼ばれるリーマン予想を超えた予想についてだ。

リーマン予想というのはリーマン・ゼータ関数に関する予想だ。リーマン・ゼータ関数というのは、自然数のs乗の逆数和

\zeta(s)=\frac{1}{1^s}+\frac{1}{2^s}+\frac{1}{3^s}+\dots

のことで、この「虚の零点」(全複素数に解析接続した上で、実数でない零点)が一直線(実部が1/2の直線)上に並ぶ、というのがリーマン予想だ。大事なことは、\zeta(s)素数を使って表現できる、ということ、すなわち、

\zeta(s)=\frac{1}{1-\frac{1}{p^s}}素数pすべてにわたる積

 と表せる。これを「オイラー」と呼ぶ。これによって、リーマン・ゼータ関数の零点と素数とが結びつくことになり、リーマン予想が正しければ、素数についていろいろわかるのである(詳しくは、拙著『世界は素数でできている』角川新書参照のこと)。

一方、類似の関数として、「オイラーのL関数」というのがある。それは、

L(s)=\frac{1}{1^s}-\frac{1}{3^s}+\frac{1}{5^s}-\frac{1}{7^s}\dots

というもの。奇数のs乗の逆数の交代和となっている。これにもオイラー積があって、

L(s)=\frac{1}{1-\frac{e}{p^s}}の奇素数pすべてにわたる積・・・(☆)

ここで定数eは、pが4n+1型素数のときは1、4n+3型素数のときは-1となるもの。このL関数についても非自明な零点が一直線上に並ぶ(実部が1/2)と予想されており、これが「L関数のリーマン予想」だ。

この本では、「L関数のリーマン予想」に関するアプローチとして最新の研究を紹介している。それが「リーマン予想」なのだ。今だったら、「シン・リーマン予想」と書いたほうが通りが良かっただろう(←完全ばか)

 L関数のリーマン予想は、1/2<s<1でオイラー積(☆)が収束することに帰着される。ただ、収束と言っても(テクニカルなことだけど)絶対収束ではなく条件収束だというのが大事だ。これが証明されれば、L関数のリーマン予想が正しいことがわかる。

 一方、「深リーマン予想」とは、「オイラー積(☆)がs=1/2で条件収束する」という予想。これは、リーマン予想より強い予想だから「深(シン)」とついている。この収束は、数値計算ではかなりな桁数まで確認されており、「正しそう」という手ごたえがあるのだそうだ。

 「オイラー積の収束を攻める」という戦略がわれわれアマチュアや高校・大学生に嬉しいのは、「解析接続した関数の零点」という見えざる相手が、「極限の収束」というどうにか見える気がする相手に置き換えられることだ。これは、リーマン予想の裾野を広げることに役立つと思う。

 最後に、小山信也『「数学をする」ってどういうこと?』でめちゃめちゃ興奮した解説をひとつだけ紹介しておこう。それは、「オイラーメルテンスの定理」と呼ばれる公式、

\frac{\pi}{4}=L(1)=\frac{3}{4} \frac{5}{4} \frac{7}{8} \frac{11}{12}\frac{13}{12}\dots

のめちゃめちゃわかりやすい証明が解説されていることだ。この公式は、円周率と素数が結びつく、という感動の公式。でも証明に使われているテクニックは、ぼくの見るぶんには、単なる「エラトステネスのふるい」の応用である。まさか、この「ふるい」にこんな使い道があるとは、驚き桃ノ木であった。こんなわかりやすい証明があるとは知らなかった。

 本書は、このように、平易な語り口調ながら、日常から無限をめぐって、最後には最新のゼータ研究までに到達する、めちゃめちゃエキサイティングな数学啓蒙書だと言える。読まない手はない。

 

 

 

 

 

 

 

 

たくさんのインスパイアをもらえる熱力学の教科書

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 今回は、田崎晴明『熱力学=現代的な視点から』培風館を紹介しようと思う。これは、熱力学の教科書なのだが、非常に異色であり、教科書というよりは「思想書」のような風情だ。なぜなら、本書からは、熱力学だけじゃなく、たくさんのインスパイアを得られるからだ。

 ぼくは本書は相当昔から持っていたし、読んでなんとか熱力学を理解したいと思っていたけど、ぱらぱらめくってみては、「ちょっと無理」と感じて書棚に戻す、ということを繰り返していた。

そんな本書を、今回は、第6章まで一気に読めてしまった。なぜ読めるようになったかというと、友人の物理学者・加藤岳生さんの東大での熱力学の講義資料をもらって独習したことがきっかけだった。この東大での講義は、「さすが加藤くん」というみごとなもので、ぼくは加藤さんの講義で、宿願だった熱力学の本質の一端をつかむことができたのだ。

 そうした結果、今こそ田崎『熱力学』を読めるようになったのではないか、と思いたって、満を持してチャレンジしてみた。そうしたら、なんと!読めてしまったのだ。そればかりではなく、数学エッセイストとして、また経済学者として、大きなインスパイアをもらうことになったのである。この本を理解できてしまうと、「これ以上の熱力学の解説はありえないのではないか」とまでの衝撃を受けた。(加藤くん、ごめん。せっかく資料をくれたのに。笑)

 この本で読者は、たくさんのサプライズを受け取ることができ、「世界の仕組みがどうなっているか」「人間は、それをどう受け取り、どう理解するべきか」ということを、熱現象という物理現象を通して教えてもらえるだろう。

 そのサプライズには、「等温操作と断熱操作が、どう(公理論的に)本質的に異なるか」とか「`熱'というのが、実は認識不可能なもの」とか「エントロピーが完璧にわかっちゃう」とか「自由エネルギーが最初から出てくる」とかいろいろある。でも、それは次回以降にエントリーするとして、今回は本書にみなぎっている「思想」方面についてだけ紹介しようと思う。

 田崎さんは本書の第1章で、熱力学に対する思想を熱く語っている。これは田崎さんの本に共通する姿勢である。そして、それらの熱力学に関する思想と熱力学に注ぐ眼差しからは、たくさんのインスパイアを受けとることができる。とりわけ、経済学の研究者として、得るものは大きかった。田崎さんが論じているのは、「熱力学におけるマクロとミクロの関係」だ。経済学も「マクロとミクロの関係」では同じ難題に直面しているから、刺さるものがある。例えば、以下のような記述だ。

熱力学や流体力学のようなマクロなスケールでの理論(現象論)は、よりミクロな「基本的な」理論の「近似」と見なすのが還元主義の立場である。還元主義の見方が首尾一貫しているのは確かだが、私は優れた現象論は、近似などではなく、それ自身、ミクロな理論から「独立して」存在し、ある普遍的な構造を厳密に記述するものだと捉えている。

ぼくは常々、経済学が「悪しき還元主義」に陥っているのではないかと疑ってきたので、この指摘には溜飲下がる。さらに田崎さんは次のように展開する。原文は長いので、わかりやすさを優先し、引用ではなく箇条書きで要約する。

ミクロな理論を出発点とした熱力学は、少なくとも以下の3点で望ましくない。

1.マクロな世界を記述する自立した普遍的な構造という熱力学の最大の特徴が見失われる。

2.物理学を経験科学として見たとき、ミクロな統計物理学がマクロな熱力学の基礎だと考えるべきではなく、逆に、マクロな熱力学がミクロな統計物理学の基礎だと考えるべき。

3.現在のところは、統計物理学はミクロな力学とマクロな熱力学の両側から、それぞれ部分的に支えられ成立している。このような事情を踏まえれば、統計物理学から熱力学を導こうという考えは、一種の堂々巡りとみることさえできる。

これなども、そのまま経済学に置き換えることができると思う。田崎さんは、この節の締めくくりとして、次のように述べている。

人類が経験と理性で織りなした普遍的な構造の網が、かつては理解不能だった様々な現象を覆うようになっていく。そして、人類の認識の進歩につれて、この網はより豊かに、そして、より精密になっていく。このような科学観は、たった一つの「究極の」ミクロの理論が存在し、それ以外のすべての理論はそこから「近似理論」として導出されるという還元主義的な科学観よりも、少なくとも私には、はるかに魅惑的に感じられる。

この言葉からは、ひしひしと伝わるものがあるし、ぼくの経済学の研究の方向性に大きなインスパイアを与えられる。もちろん、「じゃあ、どうすればいいのか」は、まだぼんやりとしか見えないのだが。

 この本の熱力学の解説がいかにすばらしいかは、上で書いた通り、次回以降にエントリーするつもり。でも、次回は、ぼくの新著『素数ほどステキな数はない』技術評論社の販促エントリーになるから、笑、だいぶ先のことになると思う。

 

 

 

新著『素数ほどステキな数はない』が出ます!

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前回のエントリー

たくさんのインスパイアをもらえる熱力学の教科書 - hiroyukikojima’s blog

で予告した新著が、いよいよ今週末に書店に並ぶので、今回から数回、販促をエントリーすることにしたい。新著は、小島寛之素数ほどステキな数はない』技術評論社である。

 

この本は、素数についてめちゃくちゃ真正面から取り組んだ本だ。初歩から発展まで、古典から最先端まで網羅して解説している。

ぼくには既に、素数の性質を解説した本として、『世界は素数でできている』角川新書がある。この本とどこが違うかというと、今度の本は多くの定理にきちんと証明を与えている(あるいは証明のポイントを与えている)、ということだ。しかも、数学を専門に勉強したことがなくても、がんばればどうにか理解できるぐらいの平易さと丁寧さで証明を解説しているのである。これは、新書ではとてもできない芸当だった。だから、角川新書版はほとんどを「お話」に終始している。しかし、今回の本は、351ページものページ数(めっちゃ大部じゃ)を与えてもらえたので、じっくりと、そして道具立ての初歩から、解説を展開することができたのだ。

 今回は、まず、目次と各章の簡単なあらすじを晒すことにしよう。章名は、趣向として、将棋の棋士の等級に合わせた。以下である。

素数ほどステキな数はない』目次と概要

[入門編] 素数ほど面白い数はない

(素数の末尾の法則、双子素数予想、ゴールドバッハ予想メルセンヌ素数)

[初段編] なぜ、素数は無限にある?

(素数が無限個ある証明、ユークリッド-マリン数列)

[二段編] 数列の中の素数

(等差数列を成す素数オイラー素数2次式、メルセンヌ素数とリュカテスト)

[三段編] 対数関数と素数

(対数の定義、素数定理、チェビシェフ第1関数と第2関数)

[四段編] 合同式素数RSA暗号フェルマーの小定理オイラーの定理

(合同式フェルマーの小定理の証明、オイラーの定理の証明、ウィルソンの定理の証明、RSA暗号の仕組みと電子署名)

[五段編] 順列・組合せと素数素数定理への最初のアプローチ

(組合せ数の公式、フェルマーの小定理の証明、素数定理の直感的導出)

[六段編] 無限和と素数オイラーの大発見

(無限和の定義、オイラー素数定理エルデシュによる証明、双子素数)

[七段編] 虚数素数

(複素数フェルマー2平方定理、ガウス素数による証明、平方剰余、2次体)

[八段編] 素数微分積分

(微分ランダウ記号、積分微積分学の基本定理、対数積分Li(x))

[九段編] ラマヌジャンとベルトラン=チェビシェフの定理~ψ(x)による証明

(ベルトラン予想、ラマヌジャンによる証明の完全収録)

[A級編] 複素数上の微分積分

(複素関数微分積分オイラーの公式、コーシーの積分定理、コーシーの積分公式、ガンマ関数、解析接続)

[名人編] ゼータ関数リーマン予想素数定理

(ゼータ関数オイラー積、リーマン予想オイラー素数定理の証明、ディリクレの算術級数定理の証明、明示公式の証明、素数定理の証明)

ご覧の通り、素数ファンにはよだれの出る素数ずくしのメニュー。どの編にも、ぼくの素数愛がみなぎっているので、きっと微笑みながら読み通せるはずだ。

さあ、書店に急ごう。

 

ぼくの新著で「素数名人」まで昇りつめてください。

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ぼくの新著素数ほどステキな数はない』技術評論社が、書店に並んだ頃だと思うので、二回目の販促エントリーをしたいと思う。今回は、「まえがき」をさらして、それに補足をすることと、ラマヌジャンについてちょっと紹介する。一回目の前回は、

新著『素数ほどステキな数はない』が出ます! - hiroyukikojima’s blog

のエントリー。ここでは目次を晒してあるので、そっちも参照して欲しい。

ではまず、まえがきを披露しよう。次である。

素数とは、1と自分自身以外に約数を持たない2以上の整数です。みなさんは、素数のことを耳にしたことがあるでしょうし、また、素数は不思議な数だと知っておられるでしょう。本書は、そんな素数の魅力を余すことなく紹介する本です。

本書のウリを箇条書きすると次のようになります。素数に敬意を表し、番号は素数としました。

2.素数の法則を初歩から最先端までありったけ網羅した。

3.素数に挑んだ数学者たちの人となりを紹介した。

5.できるだけ本書内で知識が閉じる(self-contained)ように、必要な数学ツールに初歩からのわかりやすい解説を付けた。

7.素数のナゾを解き明かしながら、高校・大学の数学を自習できるようにした。だから、数列・場合の数・対数・三角関数・無限和・微分積分虚数合同式の参考書としても使える。

11.ゼータ関数について、これ以上簡単に説明するのはムリというぎりぎりの解説に挑戦した。

13.素数定理ベルトラン予想の証明を書ききった

17.素数を使う数理暗号について、わかりやすい紹介をした。

さて、あなたも是非、本書で、「素数名人」まで昇りつめて下さい。そうすれば、素数に恋するワクワク・ドキドキの豊かな人生を送れること請け合いです。

「ウリ」は見ての通り、7項目もあるのだが、今回は、青字で強調した二つの項目について補足的な売り込みをしたい。

まず、「素数のナゾを解き明かしながら、高校・大学の数学を自習できるようにした」という点。前回にエントリーした目次を見てもらえばわかるのだけど、本書には素数との関連で、高校数学の多くの単元が現れている。二段編では数列(等差数列、2次の数列、等比数列)、三段編では対数関数(log)、四段編では合同式、五段編では順列・組合せ、六段編では極限・無限和、七段編では複素数、八段編では微積分という具合だ。だから、高校数学のほとんどの単元が素数と関連づけられることになったわけだ(残念ながら、ベクトルだけは結び付けられなかった)。そういうわけで、本書を使って、高校数学をおさらいできる(あるいは予習できる)ように仕組まれている。高校数学の無味乾燥さに耐えられなくて数学アレルギーを発症した人も、もしも素数に惹かれる人なら、素数を愛でながら高校数学にリベンジできてしまうかもしれない。また、高校以上の数学を先取りしたいけど、教科書とか参考書はつまらないから嫌、という中学生も、わくわくしながら高校数学を先取りできるようになっている。そういう隠れたニーズも踏まえて、本書では高校数学の単元についてもできるだけ初歩から丁寧に解説した。本書は二人の友人に査読してもらったのだけど、そのうちの一人には、「小島くん、この本を読み通せるような人に、こんな初歩の解説は無用なんじゃない?」という疑問を投げかけられた。けれどもぼくは、その人が思っているよりも、数学と一般の人との関係性は多様だと思っている。実際中学生のときのぼくは、高校数学を知らなかったけど、本書を読み通せたと思う。つまり、すぐ上に書いたタイプの中学生だったのだ。そういう意味では、本書は、中学生のときのぼくが欲しただろう本として執筆したつもりだ。

 さらには、本書は、大学数学の自習に使えるようにもなっている。例えば、テイラー展開とか広義積分とかガンマ関数とかを解説している。とりわけ、微分の解説では、高校数学の定義に加えて、ランダウ記号を使った定義をメインに据えたのが特徴だ。関数のランダウ記号表現(f(x)=1+x+O(x^2)みたいなやつ)は、素数についての専門書を読むと必ずふんだんに登場するが、どの本でもこの概念を丁寧には解説していない。これは、専門家でない人たちを素数の魅力から遠ざける障壁になっていると思う。だから本書では、ランダウ記号について、ものすごく丁寧な解説をすることにした。

 もうひとつ、大学でも、数学科や物理学科などの理学分野でしか教わらないであろう複素関数微分積分」についても初歩からの解説を導入した。例えば、コーシーの積分定理(正則関数を閉経路でぐるっと積分すると0になる)とか留数定理(積分値が1位の極のところで決まる)などだ。ただ、ページ数の関係で厳密な扱いができないので、かなり乱暴で大胆な解説をしているけど、それでも定理の急所・本質が伝わるように紹介したつもりだ。

 「ウリ」の中でもう一つ強調しているのは、「ベルトラン予想の証明を書ききった」という点だ。「ベルトラン予想」というのは、「任意の自然数nに対して、nより大きく2n以下の素数が必ず存在する」というものだ。ベルトランが予想して、チェビシェフが証明したので、「ベルトラン=チェビシェフの定理」とも呼ばれる。本書では、九段編で「ラマヌジャンによる証明」を解説した。しかも、この証明はほとんど省略をしてない完全版だ。ラマヌジャンのアクロバットのような証明が理解できてしまうと、彼がいかに時代を超越した数学の天才だったか思い知らされる。皆さんも是非、本書でラマヌジャンのファンになってほしい。

 ラマヌジャンと言えば、ぼくはつい最近、映画『奇跡がくれた数式』をHuluで観た。

 

 

これはラマヌジャンの生涯を描いた物語だ。この映画では、ラマヌジャンの天才性がわかるだけではなく、20世紀初めのインドとイギリスの文化や歴史もみごとに描き出されていて、映画として十分に堪能できる。ただし、ラマヌジャンケンブリッジに招聘した数学者ハーディについて、その複雑な性格をきちんと描いているものの、最終的にはちょっと良い人と持ち上げてる感が否めない。

 数学者の黒川信重さんは、ハーディとラマヌジャンの関係について、黒川信重ラマヌジャン ζの衝撃』現代数学社で詳しく論じているので、是非読んでほしい。ぼくの昔のエントリー

ラマヌジャンの印象が衝撃的に変わる本 - hiroyukikojima’s blog

でも紹介しているので、これも参照のこと。

今回は黒川さんの本から、ハーディとラマヌジャンの関係について書いている部分を引用しよう。(ぼくの新著では、黒川さんのもう一冊ラマヌジャン探検』岩波書店から同じような評価を引用している)。

一番残念なことは、ハーディは最初から最後までラマヌジャンを真に信用し理解することができなかったことです。それは数学の専門家として、他人を疑ってかかるのが当然、という体質が染みついていたせいでしょう。ハーディによれば、ラマヌジャン複素関数論を全く知らなかったそうです。それが本当だとしたら、適切な教科書を教えてあげれば良いのに、と思うのが人情ですが、ハーディはそうではなかったようです。

そして、次のようにハーディの気持ちを分析する。

 人間のやっかいな感情に「ジェラシー(焼き餅。嫉妬)」というものがあります。とくに、数学ではどんどん発見を行う人にジェラシーを感じないわけには行かないものでしょう。実際、別のすっきりした道を通って、ずっと先まで行き着いているのを見たら、そうなるでしょう。ラマヌジャンにハーディが持った感情の底には、それもあったことでしょう。

映画で見る限り、ラマヌジャンへの評価は、ハーディの相方リトルウッドのほうが高かった感じがある。リトルウッドが、当時、第1次大戦のせいで軍部に出向していたのが、ラマヌジャンの不運の一因だったかもしれない。

そんなこんなで、ぼくの新著の九段編を、ラマヌジャンの追悼にも使ってほしいと思う。

 

 

 

 

 

 

シン・リーマン予想

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今回も、基本的には、ぼくの新著『素数ほどステキな数はない』技術評論社の販促のエントリーなんだけど、「深リーマン予想ラマヌジャン」にまつわる話を紹介しようと思う。「深リーマン予想」は、数学者の黒川信重さんの命名らしいけど、ぼくは庵野秀明監督にあやかって、「シン・リーマン予想」と改名したいと思う。笑

庵野監督は、最近、「シン・ゴジラ」「シン・エヴァンゲリオン」「シン・ウルトラマン」と「シン」を連発しているんだけど、ご本人によれば、「シン」の解釈は「新」でも「真」でも「神」でもなんでもいいとのこと。だからもちろん、「深」でも良いはず。そこで「深リーマン予想」も「シン・リーマン予想」と呼ぶ。

 「シン・リーマン予想」とは、リーマン予想よりも強い予想のこと。つまり、「シン・リーマン予想」が証明されれば、自動的にリーマン予想が証明される。リーマン予想というのは、リーマン・ゼータ関数

\zeta(s)=\frac{1}{1^s}+\frac{1}{2^s}+\frac{1}{3^s}+\dots

に関する予想だ。この右辺は、(sの実部)>1に対しては収束するが、(sの実部)≦1では発散するので、それらのsに対しては「解析接続」という方法で値を決める。(解析接続は簡単に説明するのが困難なので、是非、拙著を読んで理解して欲しい。笑)。このゼータ関数についての、\zeta(s)=0となるsで、虚部が0でないもの(s=a+bi(b\neq0))、すなわち、「虚の零点」について、「その実部aがみんな1/2である」、という予想がリーマン予想だ。言い換えると、虚の零点が虚軸に平行な直線上に並んでいる、ということ。リーマンが予想を提出してから、150年以上経過した今も解かれていない超難問である(ミレニアム問題なので、解けば1億円もらえる)。

実は、ゼータ関数の親戚にL関数というのがある。それは、

L(s)=\frac{1}{1^s}-\frac{1}{3^s}+\frac{1}{5^s}-\frac{1}{7^s}\dots

というものだ(全奇数にわたり、±は交互)。ディリクレが研究したので「ディリクレ級数」と呼ぶが、オイラーも研究していたそうな。もっと一般には、

L(s, \chi)=\frac{\chi(1)}{1^s}+\frac{\chi(2)}{2^s}+\frac{\chi(3)}{3^s}+\frac{\chi(4)}{4^s}\dots

ここで\chi(k)は、ディリクレ指標と呼ばれるもので、整数から複素数へのmod. Nでの積を保存する写像だ。(詳しくは、拙新著を参照のこと)。このL関数にもリーマン予想と同じ帰結(虚の零点の実部はみな1/2)が予想されており、それを「L関数のリーマン予想」と言う。

これらのリーマン予想を攻略する新しい道筋として、2010年頃から研究されだしたのが「深リーマン予想(Deep Riemann Hypothesis;DRH)」なのだ。そして、この研究が進行する中で、すごいことがわかった。それは、ラマヌジャンがこのDRHの一部と思しき結果を1915年にすでに導出していた、ということだ。おそるべき数学者ラマヌジャン

ちなみに、拙著『素数ほどステキな数はない』では、ベルトラン予想「任意の自然数nに対して、nより大きく2n以下の素数が存在する」に対するラマヌジャンのあまりにみごとな証明を完全収録しているので、是非、読んでラマヌジャンのファンになってほしい(しつこい)。

 前回のエントリー

ぼくの新著で「素数名人」まで昇りつめてください。 - hiroyukikojima’s blog

では、ラマヌジャンの人生を描いた映画「奇跡がくれた数式」の紹介をした。そこでぼくは、「ラマヌジャンをイギリスに招聘したハーディをちょっと美化しすぎている」というようなことを述べたのだけど、黒川信重さんの『ラマヌジャン ζの衝撃現代数学社を読み直したら、これについてすごいことが書いてあったので、まずは、それを引用しよう。

ハーディとリトルウッドにとっては、ラマヌジャンがイギリスに来た1914年からラマヌジャンの書いたノートなどの数式は自分達の身の回りにあふれていて日常見慣れた風景になっていて、自分達のものと区別がつかなくなっていたようです。前にも触れましたが、ラマヌジャンが書いた式に間違いを発見すれば、ハーディとリトルウッドの2人だけで間違いを直し、2人だけの論文として盗んで発表するということもやっていました。

 つまり、ラマヌジャンのアイデアをどんどん吸収し、換骨奪胎して数学を作り上げて行くというのがハーディとリトルウッドの方針でした。数学界を引っ張っていくリーダーたちがこれでは20世紀の数学者たちが見習ってひどい状態となっているのは無理ないことなのかもしれません。21世紀に数学をはじめた君たちは、こんなまねをしないでください。

前回にもこの本からのハーディについての引用をしたけど、ハーディという人は、映画で描かれているのとはだいぶ違う人格の数学者だと思い知らされる。黒川さんのこの本には、黒川さん自身が同じような経験をしたことを告白している。どんなことかは本で確認されたし。

 さて、「シン・リーマン予想」の話に移ろう。

ゼータ関数の顕著な特徴は、「素数の無限積」で表わされる、ということだ。すなわち、

\zeta(s)=(\frac{1}{1-\frac{1}{2^s}})(\frac{1}{1-\frac{1}{3^s}})(\frac{1}{1-\frac{1}{5^s}})\dots

という全素数にわたる積で表わされる。これを「オイラー」と呼ぶ。なぜこうなるかは、拙著で理解してほしい(くどいと怒るなかれ。販促の故ですがな)。

L関数もオイラー積表現を持ち、以下である。

\zeta(s)=(\frac{1}{1-\frac{-1}{3^s}})(\frac{1}{1-\frac{1}{5^s}})(\frac{1}{1-\frac{-1}{7^s}})\dots

積は全奇素数にわたり、4n+1型素数については分子の符号はプラス、4n+3型素数については分子の符号はマイナスになっている。

「シン・リーマン予想」の着眼点は、「オイラー積の収束の様子を見る」ということだ。

L関数(無限和)は、(sの実部)>1で絶対収束する。ここで絶対収束とは、各項の絶対値をとっても和が収束することで項の順序を入れ換えられる。L関数のオイラー積も(sの実部)>1で絶対収束する(無限積(1+a_1)(1+a_2)(1+a_3)\dotsの絶対収束とは、無限積(1+|a_1|)(1+|a_2|)(1+|a_3|)\dotsが収束すること。積の順序を入れ換えられる)。

問題は、(sの実部)=1や0<(sの実部)<1ではどうなるか?ということ。L関数(無限和)は、0<(sの実部)≦1で条件収束することがわかっている(順序を変えずに足せば収束するということ)。他方、オイラー積は(sの実部)=1で条件収束することがわかっており(メルテンスの定理)、また、0<(sの実部)<\frac{1}{2}に対しては発散することが分かっている。だから問題になるのは、

\frac{1}{2}≦(sの実部)<1

でどうなるか。そこで、「オイラー積は\frac{1}{2}<(sの実部)<1に対して条件収束する」という予想が「オイラー積収束予想」と呼ばれる。これが証明できれば、L関数のリーマン予想は証明されてしまう。なぜなら、オイラー積が収束すればそれは非零(0でない)だとわかるからだ。オイラー積が収束か発散かを調べるのだから、具体性があり、零点全部の実部を考えるよりずっとアプローチしやすそうに見える。

そして、残るひとつ、「オイラー積は(sの実部)=\frac{1}{2}に対して(零点以外では)条件収束する」を「シン・リーマン予想」と呼ぶ。実は、この「シン・リーマン予想」が証明されれば、「オイラー積収束予想」もおまけとして出てしまう。なぜなら、もしも、\frac{1}{2}<(sの実部)<1のどれかのs_0で発散したとすれば、s_0より実部の小さい任意のsで発散することになるので、\frac{1}{2}でも発散することになるからだ。したがって、

「シン・リーマン予想」⇒「オイラー積収束予想」⇒「リーマン予想

というふうに演繹されるから、「シン・リーマン予想」が「リーマン予想」より強い予想であるとわかる。

ちなみに条件収束の雰囲気を理解するために、「メルテンスの定理」を記述しておく。慣れないと記号が難しいと思うが、条件収束を理解するためにはこうするしかないのでご容赦いただきたい。

\lim_{x\to\infty}\prod_{p\leq x, p\neq2}(1-(-1)^{\frac{p-1}{2}}\frac{1}{p})^{-1}=\frac{\pi}{4}

これは、x以下の奇素数についてのオイラー積を作っておいて、x\to\inftyとしているので、素数の小さい順からオイラー積に参加させていって極限をとっていることを意味する。つまり、オイラー積が\frac{\pi}{4}に「条件」収束することを表している。ちなみに、L関数のs=1のときの値L(1)は、上の定義から、

L(1)=\frac{1}{1}-\frac{1}{3}+\frac{1}{5}-\frac{1}{7}\dots

だが、これが\frac{\pi}{4}に収束することは、高校数学でも証明できる程度のことだ(tanの積分)。

「シン・リーマン予想」は、(証明しやすいか否かはさておき)、実証的に検証するには向いている定理である。以下の図は、プレプリント「EULER PRODUCTS BEYOND THE BOUNDARY」(KIMURA, KOYAMA,KUROKAWA(2013))をコピペしたものである(プレプリントのリンク先は一番最後に張る)。この図は、黒川・小山『ラマヌジャン<<ゼータ関数論文集>>』日本評論社にも、小山『素数ゼータ関数共立出版にも掲載されている。

f:id:hiroyukikojima:20210925195504j:plain

 

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横軸は、\frac{1}{2}+ittを、各曲線は参加する素数を小さい方から10個、100個、1000個として計算した有限部分を表している(上図が実部で、下図が虚部)。この図で、オイラー積の参加素数を小さい順に増やしていくと、オイラー積の値がL関数の値に近づいていくことが見てとれる。「シン・リーマン予想」が正しそうな証拠だ。

面白いのは、ディリクレ指標を変えると不思議な現象が起きることである。

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上の図は、あるディリクレ指標に対するものだが、t=0でジャンプが見れらる。これは、L関数の1/2における値ではなく、その\sqrt{2}倍に収束するように見える。これも「シン・リーマン予想」の一部である。

(参考文献)TARO KIMURA∗, SHIN-YA KOYAMA, AND NOBUSHIGE KUROKAWA;

``EULER PRODUCTS BEYOND THE BOUNDARY''   https://arxiv.org/abs/1210.1216 

(このプレプリントの著者の一人の方に、きれいな図版のDLの仕方を教えていただきました。ありがとうございます!9/25)

以上のように、「シン・リーマン予想」の発見から、リーマン予想は新しい段階に入ったと言えるだろう。ぼくの新著では、この「シン・リーマン予想」に触れる余裕がなかったが、ぼくの新著でリーマン予想に触れた上で、(はい、しつこいですね、笑)、是非とも「シン・リーマン予想」に踏み出し、できますれば、これを解決して(1億円ゲットして)ほしい。参考文献を下にリンクする。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


お酒にまつわる推理もの

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また、間があいてしまった。オンライン講義に手間がかかってるだけでなく、非常勤(オンラインだけど)もやっているので、余裕がないのだ。とは言っても、Netflixで「イカゲーム」を一気観したりはしている。笑。これはめっちゃおもろいドラマだった。

本当は、

たくさんのインスパイアをもらえる熱力学の教科書 - hiroyukikojima’s blog

で紹介した、田崎さんの熱力学の教科書についてきちんとした紹介をしたいのだけど、時間と心の余裕が必要なので、また今度ね、ということにする。

 そんなわけで今日は、「お酒にまつわる推理もの」について雑談をしようと思う。(いつも雑談だけどね)。その前に音楽について、ちょっとだけ語る。

 このところ、ZTMY(ずっと真夜中でいいのに)ばかり聴いている。とりわけ、ライブ・ブルーレイ「温れ落ち度」の2枚を繰り返し観ている。何度観ても飽きがこない。ZTMYのリーダーACAねさんは、(前にも書いたけど)、「フランク・ザッパの再来」「日本のザッパ」「21世紀のザッパ」だと思うんだよね。2人の共通点を箇条書きすれば、

1. 楽曲が非常に複雑ながらそれでいてキャッチー。

2. 1曲の中に複数の曲が詰まっている構成。

3. あらゆるジャンルの音楽を取り入れてる。

4. 非常に多くの楽器を導入した編成(ZTMYでは奇妙な楽器が多く使われる)。

5. サポートメンバーが超絶技巧集団。

なんかがあげられる。違いと言えば、ACAねさんの歌詞はわけわかんない詩句だけど、ザッパのような猥歌ではなく、政治的でもないことかな。フランク・ザッパが93年に他界してから、もうこういう音楽は二度と聴けないのだろうと諦めていたけど、まさか日本の若い女の子が、新しい装いでザッパ的な音楽をやるとは想像してもいなかった(本人はこう言われると怒るかもしれんが)。長生きするといいことがある。

 さて、本題、「お酒にまつわる推理もの」に移ろう。ひとつずつ作品を紹介するけど、推理もの(ミステリー)なので、どうやったってある程度のネタバレになるので、読む人の自己責任ということで。

 1.  刑事コロンボ「別れのワイン」

これはぼくの知っている限り、ワインを扱ったミステリーでは最高の作品だと思う。犯人はワイン製造会社の取締役で、低レベルなワイン製造会社に自社を売り渡そうとする弟を殺してしまう。動機は、自分の会社のワインを誇りに思っていること。犯人は類い希なる味覚を持っており、ワインをこよなく愛している。そして、その味覚とワインへの愛が災いして、コロンボの罠にはまることになる。原題は、「ANY OLD PORT IN A STORM」で、こっちのタイトルのほうが抜群に良い。 なぜなら、最終的にポートワインが大事な役割を果たすから。ダブルミーニングでしゃれているのだ。ぼくは昔、この作品を録画したい一心で、やっと普及し始めたビデオデッキを買ったものだった。

 2. 刑事コロンボ「策謀の結末」

この犯人は、アイルランドからの移民で吟遊詩人。しかし、アイルランドのテロリストに武器を密輸出している。この犯人は、裏切りものの武器商人を抹殺してしまう。犯人はアリッシュ・ウイスキーを常飲し、しゃれた言葉遊びとユーモアを得意とする。コロンボは、彼の著作や来歴から犯人は彼だと確信し、追い詰めていく。この作品は、たぶん、ぼくの中でコロンボ作品のベスト3に入る。コロンボが犯人と意気投合しながらも、犯人のテロリスト的性向には共感しないのが胸をうつ。そして、アイリッシュウイスキーが何重にもトリックになっているのがあまりにみごとである。コロンボ屈指の作品と言っていい。

 3. 刑事コロンボ「祝砲の晩歌」

犯人は時代遅れの士官学校の校長。学校を共学に変えようとする経営者を殺害する。殺害の方法がまたすごい。祝砲の空砲を実弾と取り替え、雑巾を砲先に詰めておいて爆発させ、事故に見せかける。この作品の妙は、コロンボが生徒たちと一緒に合宿生活をしながら、生徒たちの証言をもとにして、真相に迫っていくこと。最終的には、生徒たちが密造しているリンゴ酒が犯人逮捕の鍵になる。犯人の軍人気質こそがぼろを出すポイントになる皮肉がまた切ないのである。

 4. ディック・フランシス『証拠』

フランシスの競馬シリーズの中の一冊で傑作。主人公は、競馬場でワインを売っているワイン酒屋。世捨て人のようにひっそりと生きている。けれども彼は、幼少の頃から優れた味覚を獲得しており、利き酒の天才でもある。主人公はひょんなことから、偽酒に絡む殺人事件に巻き込まれる。彼はスコッチウイスキーに混じるかすかな異物から、事件の真相に迫っていく。この作品には心底感動した。ハードボイルドタッチで、息つかせぬ展開。本当にみごとな小説だと思う。村上春樹っぽい作品。

 5. 勝鹿北星浦沢直樹マスターキートン』「シャトーラジョンシュ1944」

これはマンガで、厳密な意味ではミステリーではないが、推理的要素もあるので抜擢することにした。ドイツ軍に占領されていたラジョンシュの1944年が奇跡のブドウの年となった。そこでドイツ兵の攻撃の中、子供だった主人と使用人がドイツ兵の銃剣の刃をかいくぐって、命がけでブドウをつんで作ったビンテージワイン、シャトーラジョンシュ1944をめぐる物語。切なく胸をうつ小品だ。マスターキートンには傑作が多いが、これも屈指の一作。

 6. 相棒「殺人ワインセラー

相棒シリーズがワインを扱った作品。これは、コロンボ「別れのワイン」へのオマージュだと思ってる。佐野史郎さんが犯人を演じていて、それがあまりに名演技である。ワイン評論家やワイン通を皮肉っているのも相棒らしい。相棒には、お酒にまつわる作品が他にもいろいろあるが、これだけにしておく。

 7. Dr.House「命の重み」

ドクター・ハウスはアメリカの医療ミステリードラマで、本当に傑作揃いだ。この作品は、死刑執行が数日に迫った死刑囚が自殺をはかって危篤になるが、その動機も方法もわからない。ハウスはちょっとしたきっかけから自殺の手段を突き止める。秀逸なのは、ハウスがベッドで死にかけている死刑囚と、スコッチウィスキーを一気競争するシーン。最初、何をやっているかと思うけど、その真意を知ると驚愕する。この作品は、黒人問題と死刑制度に問題提起をしており、非常にディープな作品である。ハウスシリーズ屈指の一作と言っていい。観終わると、胸にジーンと迫るものがある。

 

 

酔いどれ日記1

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これから、なんか、ブログっぽいことを書こうかな、と急に思い立った。

現在、リースリングの白ワインを3杯と、ペルノ-を2杯目。

飲みながら、チケットを購入した「TK from 凛として時雨」の配信ライブを鑑賞してた。ものすごい出来のライブだった。ゲスの極み乙女のちゃんまりがピアノとサイド・ボーカルでサポートに入ってる。すばらしい。

今日は、高校の同級生Hのことと当時好きだった女子の思い出を書こうと思う。

 高校の同級生だったHは不良っぽい男だった。

ぼくが通った高校は、(当時の)学区の中で一番偏差値の高いところだったけど、まあ、学区が下町だったんで、不良っぽいやつもけっこういた。不良でもそこそこ頭がいいというか、頭がいいけどそこそこ不良というか、そんな感じ。Hはそんな一人だった。バイクに乗るのが趣味だった。

ぼくは中学のとき、同級生の女の子に恋をしていた。別々の高校に進んでもまだ好きだったので、かれこれ6年弱は恋していたんだと思う。彼女は(当時の基準で)美人で、しかも才女だった。絵にも音楽にも才能があった。成績も良かった。学年の3分の2の男子が彼女を好きで、誕生日には処理しきれないほどのプレゼントをもらったみたいだった。ぼくもそんな3分の2の中の名も無い一人だった。ちなみに、彼女はぼくの著作『無限よ読みとく数学入門』角川ソフィア文庫に、Nというキャラクターで登場してる。

彼女は政治的な指向があり、高校生のくせに政治集会なんかに参加していた。ぼくも彼女に誘われて、何回かそういう政治集会に行ったものだった。政治とか革命とかに興味はないけど、彼女とつながっていたい一心だったんだ。

そんなある日、もう覚えていないが、何かの用で、ぼくの高校のそばで彼女と会うことになった。デートというのでは(まったく)なく、本当に何かの用事だったんだと思う。

それで、ぼくの高校のそばの喫茶店で彼女と会ったんだ。

彼女と向かい合って話していると、ちょっと向こうの席に、クラスメイトのHがいることにふいに気がついた。Hはぼくに気がついていた。ぼくらのほうを見ながら、ニタニタしていた。ぼくは、直感的に、「やばいことになった」と悟った。こんなところを目撃されたら、Hが明日学校で何を言いふらすかわかりやしない。もうぼくは、心ここにあらず、という状態だった。

でもHは、翌日、何も言ってこなかった。クラスでも言いふらしたり、しなかった。ぼくは肩すかしを食らったと同時に、Hのことを理解し直さなければならないな、と感じた。でも、そんなチャンスは訪れなかった。

なぜなら、それからほどない頃に、Hが亡くなったからだ。

Hはバイク事故で唐突にいなくなってしまった。道路わきの電柱に激突して亡くなったのだそうだった。担任の教師は、心痛な面持ちで、「とにかく、バイクには乗るな」とみんなを諭した。その担任に個人的に聞いたところでは、Hの事故現場には、自動車に幅寄せされた痕跡があったとのこと。しかし、証拠ははっきりせず、犯人らしきものも不明だということだった。

その後、ぼくは、あの日のHのニタニタ笑いが頭から離れなくなった。記憶の中では、ぼくと女の子Nを眺めながら、Hはずっと笑っている。Hのあの笑みは何だったのだろう。Hはぼくのことをどう思ったのだろう。その謎かけは今でもぼくの中に螺旋を描いている。

 

 

 

酔いどれ日記2

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今日は酒を抜くつもりだったのだが、ストレスが激しいため予定変更。マルサネの赤ワインをいま、2杯目。

昨日は、約2年ぶりにゼミ生たちとスタジオ入りをした。ぼくのゼミでは、講義とは関係なく、毎年ゼミライブというのをやっていた。音楽サークル系のゼミ生がバンドを組んで演奏し、ゼミ生が歌う。ぼくも数曲、ギタボで参加する。

去年がちょうどゼミライブ10周年にあたるのだが、新型コロナでやむなくオンラインで実施。ぼくは演奏しなかった。新型コロナが沈静化したので、やっとスタ練に入ることができた。ぼくは、エルレガーデンの「ジターバグ」「金星」の演奏にギタボで参加した。どちらもすばらしい曲だ。

エルレガーデンを好きになったときは、彼らが活動停止を決めてからだった。だから、なんとかライブを観たいと奔走したが、さすがにチケットが手に入らなかった。でも、アジカン主催のフェスに彼らが参加したため、横浜アリーナで彼らのライブ(最後に近いライブ)を観ることができた。あまりのすばらしい演奏に、感涙むせんだのを今でも覚えている。

 さて、今夜は、高校時代の国語の先生の思い出を書こうと思う。

中学時代は数学が最も好きな科目だったが、高校時代は現国が最も好きな科目だった。中学時代に数学が好きだったのは、数学の先生が数学科の大学院にまで行った若い先生だったので、その情熱に飲み込まれたからだ。その先生のおかげでぼくは、「素数マニア」になり、今年素数ほどステキな数はない』技術評論社という本まで上梓することとなった。その先生のことはこの本のあとがきで読んでほしい。しかし、高校時代には、数学の先生と感覚が合わなかった。もちろん、数学を教える能力は高かったけど、数学の不思議さ・深遠さとは縁遠い人たちだったからだ。

それに比べて、現国の先生には血気盛んな人が存在した。O先生はそんな人だった。例えば、芥川龍之介の「羅生門」を扱ったときは、B4のプリント2、3枚にびっしりと「問い」が書いてあった。小説の数行にひとつは問いがなされている体だった。あたかもソシュールのごときだった。

あるとき、その先生が高橋和巳の小説を薦めたので、生徒は誰もが読むものだと思ったぼくは一冊読んで、O先生に報告に行った。驚いたことに、読んだのはどうもぼく一人だったようだった。先生はよほど嬉しかったと見え、放課後に喫茶店につれていってくださり、長時間語りあってくださった。先生はたぶん『邪宗門』を読んでほしかったと思うのだが、へそまがりのぼくは『我が心石にあらず』を読んだのだ。この小説は、(高橋和巳の小説は常にそうだが)、インテリのひ弱さ、脆弱さ、そして虚偽を描いていた。『我が心石にあらず』では、主人公のインテリが不倫する女性が、最初は魅力的なのにだんだん醜さを露呈していくプロセスが(高校生ながら)たまらなかった。そんな話をぼくはO先生にいきって話したような記憶がある。

またまたあるとき、O先生は現代短歌について、生徒ひとりひとりに歌をひとつずつ担当させ、生徒なりの解釈を発表させる、という講義を行った。ぼくは、(たしか)塚本邦雄という人の歌、

鞦韆に揺れをり今宵少年のなににめざめし重たきからだ」

という歌を割り当てられた。鞦韆は「しゅうせん」と読むが、いわゆる「ブランコ」のことである。

何度読んでも、背後の意図をつかめなかったぼくは、ちょうど中学のときの数学の先生に会う予定があったので、その先生にこの歌をもちかけた。その数学の先生は文学にも強い興味を持っていらしたからだった。その先生は、「鞦韆が、終戦にかけており」、「重たきからだは、敗戦に対するものだろう」と解釈した。ぼくは、めちゃめちゃ「なるほど」と思った。 

それで、O先生の前で、意気揚々とその解釈を披露した。ところがO先生は、すこしひきつった笑みを浮かべて、「全く違う」と断じた。そうしてこのような解釈を披露した。「小島ね、少年が目覚めると言えばなんだ。わからんか? 性に対してに決まってるだろう」と。

ぼくは一瞬、あんぐりとなったが、その一方で数学の別解を知ったときの快感のようなものが脳を走り抜けるのも感じた。O先生の解釈が正しいのかはいまだにわからないが、ただ、その解釈に「文学的価値」があることは今ならわかる。文学の多くの部分は、「性」で成り立っているからだ。

O先生の現国には、結局、ぼくは大きな影響を受けたと思う。小説や詩や歌は、ただの感覚的や雰囲気だけで創作されているのではなく、数学のような緻密さ・厳密さで生み出されているのだ(かもしれないな)と悟ったからだ。

O先生は、ぼくらが卒業してから数年後、40代で急逝したことを人づてに知った。癌を患ったとのこと。教わっていた当時から虚弱な感じはしていたが、早すぎる、そして惜しすぎる死であったと思う。もっといろいろ教わりたかった。

 

 

 

酔いどれ日記3

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昨日休肝日にしたので、今夜は飲んでいる。今、サンセールの白ワインを3杯目。赤ワインに比べて白ワインで好みのものにあたることはあまりないんだけど、サンセールだけはなぜかすごい好きなんだ。高級とかテオワールとかはよくわからないのだけど、この独特な匂いにはうっとりなる。

 さて、今回は、英語の勉強の話をしようと思う。

経済学の道に進んでから最も困ったのが英語だった。専門的な論文はたいてい英語だから、英語を読むのに時間がかかるとなかなか勉強が進まない。進まないとやる気も失せてくる。もっと困るのは、論文を英語で書こうとする場合だ。ほんとにどうやって書いたらいいのか途方に暮れた。

 ぼくの最初の論文は、ある先生の勧めで、財務省の『フィナンシャルレビュー』というジャーナルに投稿することになったんだけど、あとになって要約を英文で提出してほしいという依頼(というか命令)が来て、晴天の霹靂になった。途方に暮れたあげく、仕方ないから論文のイントロを青息吐息で英文化して、同期の英語に堪能な院生に頼んで校正してもらったんだ。そうしたらその人は、「小島さん、正直に言うけど、校正しようのないほどひどい英文なので、自分でやったほうが直すより早いかなと思って、小島さんの日本語の文を最初から自分で英訳しましたよ」と言われてしまい、ありがたいとともに、穴があれば入りたい気持ちになった。

 そんなわけで、英語をどうにかせんと前に進めんと思ったぼくは、師匠の宇沢弘文先生に市民講座で教わっていた頃に、宇沢先生が話してくださったことをふいに思い出したんだ。

宇沢先生は、東大数学科をぷいと退学してしまってフリーターをしていた頃、ケネス・アロー(のちにノーベル経済学賞を受賞することになるすごい経済学者)の論文を読んだ。そして、そこに間違いを発見し、修正の提案をし、さらには一般化した内容を手紙にしたため、アローに送った。それを読んで驚いたアローが、宇沢先生をスタンフォードに招聘した。それから宇沢先生の華麗なる経済学者の道程が始まったわけだ。(この辺の話は、拙著『宇沢弘文の数学』青土社で読んでほしい)。

信じられないことだが、宇沢先生は、スタンフォードに行ったときは英語がぜんぜんできなかったそうだ。本人の言によれば、「アローさん、こんにちわ」さえ通じなかったという。それでアローに「君は経済学はいいから、とにかく英語を身につけなさい」と言われて、いわゆる「おまめ」の立場に置かれたそうな。そんなある日、アローのゼミのみんなが黒板に書かれた微分方程式をめぐって、どうしたものかと思案にくれているとき、宇沢先生が黒板に出ていってその微分方程式を解いてみせた。そうしたらみんな、口をあんぐりと開けて、驚愕の表情になったという。先生は笑いながら曰く「サルが微分方程式を解いたかのような表情だった」と。まあ、先生特有のジョークだと割り引くべきだけど、「サル」と見なされるほどに英語ができなかったのは事実だったんだと思う。

 そんな先生がどうやって英語を身につけたかを、先生が教えてくださったのだ。先生は、英語の小説を読みまくったのだそうだ。子供の絵本から始まって、小学生の読む物語から、中高生の読む小説までむさぼるように読んだのだ。「英語を身につけるには、子供向けの小説を(辞書なしに)読むのが一番いい」というのが先生の持論だった。

 それでぼくも、宇沢先生を見習って、子供向けの小説を英文のまま読んでみることにした。最初にチャレンジしたのは、宇沢先生がすごく好きだったというトールキンホビットの冒険だった。これは正直、十数ページで挫折した。特殊な単語が出過ぎていて、かなり読み進めば理解できるのだろうけど、「知らない英単語なのか、それとも単なるキャラクターの名前なのかがわからない状態」に陥り、とてもじゃないけど読み進めることができなかったからだ。

ホビットの冒険」を断念したあと、もっと易しい物語にしようと思ったぼくは、オズの魔法使いを購入して読み始めた。そうしたら、驚くべきことに、(辞書なしで)最後まで読み通せてしまったのだ!これには我ながら驚いた。英文が易しかったこともあるけど、物語がめちゃめちゃ面白いのでずんずん進むことができたんだ。こんな有名な物語のオチを知らなかったぼくもぼくだが、それだけに、わくわくどきどきのまま、オチに驚愕することになった。(とんでもない小説だった)。

たった一冊だけど、この経験でぼくは勇気百倍になった。「可能なんだ」と知るのは、自信につながる。自信ができれば、コンプレックスが消滅し、前に進むことができる。そのあとからぼくは、自分の専門分野なら、英語の論文を読むことができるようになった。もちろん、大人向けの小説は読めないし、専門から遠い分野の論文も読めないままだけど、専門分野の論文だけはほとんど辞書なしで読めるようになったんだ。なぜなら、専門分野の専門用語は自然に英語で覚えているから、多少知らない英単語があっても大意はつかめるからなのだ。

 宇沢先生は、自分に英語能力がなかったことを悪るびれもせずに語ったあと、ぼくにこんなことを教えてくれた。「小島くん、森嶋の法則、というのがあってね。それは、英語能力と経済学の能力は反比例するというものなんだ」。これを聞いてぼくはめっちゃ楽しい気持ちなった。ここで言う森嶋とは、森嶋道夫先生のことで、LSEの著名な経済学者のことだった。

 『ホビットの冒険』を英語では断念したぼくだったが、とても気になっていたので、『ホビットの冒険』を日本語で読んだあと、同じトールキンの『指輪物語も日本語で読んでみたんだ。これはあまりにすばらしい物語だった。

トールキンは、この物語を自分の言語理論の実践として描いたそうだけど、現在のアドベンチャーゲーム異世界ものの原点となったほど画期的で、孤高の小説だった。それだけではない。普通の凡庸な冒険小説が、「鬼退治」に行ったり、「天下をとり」に行ったり、「魔女を倒しに」行ったり、「お姫さまを救いに」行ったりするのに対し、この物語は「権力の指輪を捨て」に行く、というとてつもない物語なんだよね。並の人間や妖精は、「権力の誘惑に負けて、指輪に操られてしまう」んだけど、何のとりえもないように見えるホビット族だけが「権力の誘惑」に打ち勝てる、という存在なんだね。こんなすごい物語をどうやって思いついたのか、と心底感心する。

たしか宇沢先生から聞いた話だったと思うんだけど、アメリカの反戦運動(たしかベトナム反戦運動だったと記憶しているんだけど)には、学生たちは『ホビットの冒険』を胸ポケットに入れてデモをしたという。(嘘だったら許せ)。

 『指輪物語(ロード・オブ・ザ・リング)』で感動したぼくは、大学への数学という受験雑誌に「ロード・オブ・ザ・リング(環物語)」という小説を寄稿した。これは、代数学の環(Ring)の魔力にとらわれた受験生がどんどん地獄に落ちていくパロディ小説である。興味ある人は、『大学への数学』のバックナンバーで是非読んでくれたまえ。

 

 

酔いどれ日記4

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  今日は赤ワインを飲んでる。シャトーヌフ・ドュ・パプを3杯目ぐらい。ぼくが論文を書いている分野にシャトーヌフ先生という大家がおられるので、この名前のワインはいつも拝みながら飲む。

 今日は、ヨルシカのブルーレイ『前世』を観ながら、エアロバイクをこいだ。ヨルシカのこのライブは、水族館で収録したもので、顔をさらさない彼らのライブとしてはとても良いアイデアだと思う。青く幻想的な世界の中での演奏を楽しむことができる。すべての曲がいいけど、とりわけ『言って。』のオープニングには痺れた。suisさんが「言って」と歌いだすまで、この曲だと気づかなかった。みごとなアレンジ。

 エアロバイクをこぐときは、ライブ映像をかけるんだけど、どれも何十回も観たものなので、音だけ聴いて本を読むことが多い。ここ数ヶ月ずっと代数幾何学の専門書ばかり読んできたので、ふと小説が読みたくなって、ここ二回は村上春樹『女のいない男たち』文藝春秋を一編ずつ読んだ。

一編目は『ドライブ・マイ・カー』、二編目は『イエスタディ』。どちらも面白い短編だったけど、『イエスタディ』のほうが好きかな。

『ドライブ・マイ・カー』は、三枚目俳優の主人公が、死んだ妻の不倫について、劇場までの送迎の運転手を務める女性ドライバーに話す物語。非常に細部を緻密に構成した物語だった。酔いどれ日記2に書いた通り、文学は(全部ではないかもしれないけど)非常に緻密な構成で書かれているものだ。この小説もその例に漏れず、お手本のような緻密な物語だった。

主人公が俳優であることが重要な役割を持っているし、その運転手の女性がなぜ運転が上手なのかもみごとに説明される。ただ、ぼくにとって少し残念だったのは、死んだ妻の不倫の理由がなんとなく予想出来てしまったことだった。別に伏線がはられていたわけじゃなく、長く生きてきたから、そんな感じだろうと、感づいてしまったんだね。

他方、『イエスタディ』のほうは手放しで楽しめた。大学生の主人公がバイト先で浪人生の男と友達になる。その浪人生は、東京育ちなのに関西に「語学留学」をしてまで完璧な関西弁を身につけた、というだけでもう爆笑で、その男がビートルズの「イエスタディ」を関西弁の歌詞で歌うオープニングなんか、もう絶妙である。

その関西弁男には、めちゃめちゃ綺麗な大学生の恋人がいる。幼なじみでずっと一緒にきたのに、大学入学のときに別々になってしまったのだ。その男女の恋の顛末に主人公が巻き込まれていくことになる。物語の展開は、村上春樹の常套手段という感じだけど、もともと村上文学のそういうティストが好きなので、十分に堪能できてしまった。

 村上春樹の小説を初めて読んだのは、大学生のときだった。当時の麻雀仲間だった友人の部屋で、ある女の子と一緒になった。その子はたぶん、友人のガールフレンドだったのだろうと思う。ガールフレンドの一人、と言ったほうが正確かもしれない。彼にはそういう子が数人いたらしいから。そのとき友人はなぜか外出しており、ぼくはなんだか、その女の子と彼を待っているはめになった。

沈黙に耐えられなくなったのか、彼女が唐突に「村上春樹の最新の小説を読みました?」とぼくに尋ねた。ぼくは、最近デビューした作家で、村上春樹という人が話題であることは知ってたけど、注目はしてなかった。「いや、読んでないけど、なんで?」とぼくは正直に答えた。そしたら彼女が「そう。わたし、読んで一晩中泣いてしまったんだ」とつぶやいた。

「一晩中泣いた」ということから安易に想像できるのは、「難病もの」のお涙ちょうだいの物語だった。でも、ぼくはなんかそういうたぐいじゃない予感がした。それはその女の子の持っている独特の雰囲気からの「予感」のようなものだった。

家に帰ってから調べると羊をめぐる冒険のことだった。記憶ではまだ単行本化されておらず。彼女は文芸誌『群像』に掲載されたのを読んだのだったと思う。ぼくは決意して村上春樹の小説を読みはじめた。まず、デビュー作『風の歌を聴けを読み、次に当然、続編1973年のピンボールを読み、そして満を持して羊をめぐる冒険を読んだ。

「打ちのめされる」とはこのことだった。こんなにすごい小説を書く若い作家が現れたなんてあまりに衝撃だった。当時はぼくはまだ小説家を目指していたから(鼻で笑いなさんな)、絶望的な気分になった。『羊をめぐる冒険』を読んだときは、一晩中とは言わないけど、感動の涙を流したのは女の子と同じであった。

それ以来、ぼくはできるだけ村上春樹の小説は読むようにしてきた。全部ではないけど、相当読んだ。そして、今も読んでいる。

 映画『風の歌を聴けも観た。この映画にはいろいろな意見があるとは思うが、ぼくはそれなりに評価している。なにより、真行寺君枝さんのフォルムがこの小説に出てくる女の子にぴったりだった。真行寺さんはぼくの好きなタイプの女優だった。「鼠」を演じた巻上公一さんは、ちょっときばりすぎだったと思うけど、こともあろうに「鼠」を演じるんだからしょうがない。巻上さんがリーダーのテクノバンド「ヒカシュー」も、多少聴いていたから、親近感が持てた。

最後に販促をさせてほしい。このブログはそのために書いているから。ぼくの村上春樹文学への批評(というよりはラブレターに近い)は、『数学的思考の技術』ベスト新書にしたためられている。

村上春樹トポロジー

1Q84」はどんな位相空間

暗闇の幾何学

の3章だ。興味がわいたら、是非、手にしてほしい。

 

 

 

 

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